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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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孫よ
時をしばらく前に戻さなければなるまい。 この事件が起こったのは二十年ほど前の、明和三年、長谷川平蔵宣以(のぶため)の父長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、まだ先手弓七番頭であったころである。 稀代の盗賊改長谷川平蔵宣以、幼名銕三郎(てつさぶろう)が、後に密偵となるおまさの父親鶴(たずがね)の忠助のところなどをねぐらに、相模の彦十らとつるんで遊び回っていた頃である。 日本橋七軒町と岡嵜(おかざき)町に挟まれた片与力町の一角、冠木門を入ると小砂利の敷き詰められた二百坪の屋敷は、北町与力樫原茂左衛門邸。 「大旦那様おめでとう存じます、男の子にございます」慌ただしく廊下を駆ける音がしたのにはそのようなわけがあったのである。 「何と!男か!」 声が弾んでいるところを見ると、その期待がわかろうというもので 「はい、見事に丸々とした男子にございます」 襖の前で低頭したまま声をかけたのは同心楠山清三郎。 さっと襖が開けられ、満面笑みの樫原茂左衛門姿があった。 「で、奥は無事か!?」 「はい、御医師の申すには、少々ご高齢でもあり、身体には無理があったようではございますが、まずまずは安産かと」 「然様か──。じゃがこれで我が家も嗣子(しし)が出来た訳だなぁ。ようでかした!のぅ楠山」 茂左衛門、控える与力大月源吾を見た。 「ははっ、真によろしゅうござりました。まずは万々歳にございますから」 「うむ、早速与左衛門にも戻り次第知らせてやらねば、うむ─。わはははは」 一方離れでは、内縁の妻とくが、幼子の相手をして居た。 この女とく。樫原与左衛門が町廻りで浅草界隈を廻っていた頃、東仲町の茶屋で働いていたところで懇(ねんごろ)となり、間に生まれた子は昭五郎と名付けられ、今ここに引き取られ、すでに五歳を迎えていた。 これには少々理由(わけ)もあった。 元々与左衛門の妻女おりくは、どうしたわけか医師の見立てでも石女(うまずめ)と言うわけでもないのだが、嫁いですでに三年、子を成していなかった。 それを悩んだりくは 「このままではお家の跡取りが出来ぬままとなりましょうほどに、どうぞ妾女でも─」 と、切り出したのが元でのことではあった。 この夕刻、家督をついで樫原家の総領となっていた与左衛門、奉行所より戻り、敷板に出迎えた父茂左衛門の顔を見るなり 「生まれましたか!」 居合わせる家内の者の顔を確かめる。 「おお!!でかしたぞよ!」 「では男子で!」 「そうじゃ男じゃ、丈夫そうな子だぞ」 「で、おりくの方は?」 「御医師の言いつけでな、今は産後の肥立(ひだ)ちもあろう故、養生いたしておるが、案ずることはない」 「然様で!一番気になっておりましたからなぁ」 「奥座敷には妻女りくの褥(しとね)が敷かれ、その横に小さな命が息づいていた。 「おりくでかした!!。それでこそ樫原家の奥だ。身体はきつくはないか?」 いたわりの言葉におりく、目元に涙を浮かべ顔を横に向ける。その先にはすやすやと安んでいる嬰児(みどりご)がある。 「父上、早速ではございますが先より定めておりました名を届けねばなりませんなぁ」 「うむ、男なら彦四郎と決めておった故、早速届けるがよかろう」 こうして樫原家の次男として届け出されたのであった。 それから五年の歳月が過ぎ、昭五郎は十歳、彦四郎も五歳に成長していた。 「与左衛門、先のことじゃがな、この家の跡取りを決めねばならぬ」 茂左衛門、床を背に硬い表情で前にかしこまる与左衛門を見下ろす。 「はっ?樫原家の相続は昭五郎と─」 「そこじゃ、昭五郎は外腹の子─。彦四郎もこれまで恙(つつが)無く育ちおり、先を案ずることもあるまい。 そこでだが、どうだな?昭五郎を出そうと思うのだが」 「暫く!暫くお待ちくださりませ、父上。それでは昭五郎が不憫(ふびん)ではござりませぬか?」「うむ、儂もそれは思わぬではない。だが考えても見よ、妾腹(めかけばら)を跡取りに据え、嗣子(しし)を他家(よそ)にやるのは妙な話ではないか?おりくの里にも顔が立たぬ。そうは思わぬか?」「で、父上のお考えは一体どのようにと─」 この時代、上下の力関係は絶対であった。 「儂の幼馴染だが、先手持鉄炮組(さきてもちつつぐみ)に同じ与力で小出と言う者が居るが、未だ跡継ぎの無く、先行き不安と言ぅておった。そこへ話を薦めて見ようと思うがどうだ!」 「ははっ─。父上が其処まで申されますものを、私が反するなぞ出来ましょうか、何卒その話しお進め願いとうございます」 「おおそうかそうか!任せるか!ならば早速明日にでも尋ねてみよう」 翌日夕刻、四ツ谷大木戸の田安家下屋敷裏自證院門前の御先手鉄炮(つつ)組屋敷に小出政義を尋ねた。 酒商安井屋三左衛門が店先に風呂を据え並べ、玉川上水の工事人夫たちに無料で開放した。 それが始まりでこの横丁は湯や横丁と呼ばれるようになった。 塩町二丁目からこの横丁へ入り、寺社の間を抜けて暗闇坂とぶつかる所が御先手鉄炮(つつ)組十六番屋敷である。 「これは又お珍しい」 奥座敷に愛想よく出迎えたのは、少々恰幅もよく赤ら顔は相変わらずではあったが、いつもと変わらない竹馬の友の笑顔であった。 「だが、珍しいのぉ、貴様がこの屋敷まで出向いてくれるとは、何ぞ変わったことでも起きたか?もしやこれでも出来たか」 と、小指を立ててみせる。 「まさかとは想うがなぁ、だが貴様のことだ、この道ばかりは判らぬものだからな、あははははは」 「はっ、顔を観ろ顔を!これが浮いた話をする顔か?」 「許せ許せ、貴様の顔を見ると普段の愚痴をこぼしそうでな、で?」 「おおそいつよ、のぅ小出!見受けたところ跡継ぎはまだであろうのぅ」 「ややっ、そいつが事よ、何しろこのご時世、中々良い相手に巡り会わぬ。それが如何致した、まさか貴様が福の神……いやぁそのようなことはあるまい。 何しろそちらは跡取りを二人もこさえたと聞き及ぶからなぁ」 「ささっ!その事だ。のぅ政義!どうだ、我が孫を一人受けてはくれぬか?」 「何と!出すというのか?」 「然様─先の孫は与左が外腹に産ませたもの。其処へどういうわけか五年も経ってまた孫が出来た」 「ほぅ、そいつは目出度いではないか。羨ましき限りだぜ、俺にとってわな」 「この処、下の方もすくすくと育ち、まぁこれで安泰と想うたものの、問題が生まれた」 「何だそいつは?」 「儂は早ぅから倅に家督を譲り、まぁ好きな事をさせてもろうておる。元々宮仕えは苦手であったからなぁ」 「おお、そう言えば貴様は子供の頃から絵草紙を読むのが好きであったなぁ」 「それよそれ!お陰で諸国のいろいろなことも知ることも出来る。問題はその先だ。 いつまでも儂が家に陣取っておっては倅も中々に独り立ちも出来ぬ。そこで儂は旅に出たいと想うておる。 無論、まだ倅どもには内証だがな。で昨日倅とも話をいたし、家督を継がせる話をいたした」 「ふむ、まぁ解らんでもないがなぁ。でどうするつもりだ─」 「ははぁ、それで一人を受けろと!」 「流石政義!その通りだ、どうであろう、孫を一人そなたの家に引き受けてはくれまいか?」「──で?どっちの方だ。まさか長子ではあるまいな」 「まさに──そこだ!表向き嫡男ではあるものの、与左には奥が居る。その子を継がせるが血筋から言ぅても当然と思わぬか?」 「うむ─まさに…」 「どうだ?我が家も与力、貴様も与力。釣鐘に提灯とは想うまい?」 「当たり前だ、ましてや貴様の孫ともなれば、今まで以上に我等の繋がりも深まろう、それは良い。それは良いとしてなぁ茂!その子は十歳に相成るな」 「おおまさに─。聞き分けもよく、なかなかに利発な孫だ」 「そうか!よし判った、貴様が其処まで言うのだ、俺は承知した!で、日取りはどうする」 「お奉行にでもご相談致すまでよ。ところでそうときまったら─持参金はどう扱う」 「俺と違ぅて貴様は町奉行所。ほれ俗に言うではないか(与力の付け届け三千両)っとな!」「まさか貴様この俺が」 「まぁまぁそう息巻くな!貴様の事だ、然様なことはないと十分承知」 「やれやれ良い年をして、この俺をからこうて何が面白いというのだ」 「まぁ許せ許せ、貴様と俺の仲ではないか。後の付き合いという事もあろう故、ぱぁっとお披露目なぞしてそれでどうだ?」 跡目相続が見つかりほっとしたのか饒舌になってきた。 「おお!そうだなぁ、それで良いならこの俺も気が安らぐ。早速戻ってお奉行様にお願いいたしてみよう。その前に貴様の方から御老中に養子跡目相続願いを出して貰わねばなるまい」 「おお、無論のことだ。(親類・遠類に跡目相続を引き受ける者見当たらず)と添えてお届けすれば然程のことはない。いやぁその日が待ち遠しい」 このような経緯(いきさつ)があった後、樫原茂左衛門、戻るや当主与左衛門に事の顛末を告げた。 「では父上、昭五郎を出すと言うことに御座いますな」 「然様、それが当然であろう、それとも何か?含むところでもあるとか─。あるならば申してみよ」 毅然とした父の態度に、反論など出来ようはずもなく 「で、その事は何時話しますので」 「それだ、明日お奉行に会ぅて、媒酌を受けて頂ければ、日取りは自ずと定まってこよう。まずは小出の返事待ちじゃ」
それから七日の日が瞬く間に流れた。
本所二ツ目……。言わずと知れた軍鶏しゃも鍋なべや五鉄の二階
今日ばかりは、亭主の三次郎も上機嫌で、女房のおさい、、、も、いそいそと二階座敷に料理を運び込む。
「お前ぇ達にも此度はいらぬ苦労をかけた。心配をかけまこと済まぬ。だがお陰で、こうして又お前ぇ達と軍鶏鍋が食える。こいつぁ何よりだよなぁ五郎蔵、おまさ、粂!お前ぇや伊三次にも厄介をかけたことゝ想うぜ。
佐嶋より聞いておる。お前ぇ達が日本橋難波屋を張りこんでくれておったことをなぁ。彦!お前ぇの体だ、夜は辛かったろうなぁ、ありがとうよ」
「長谷川様……」
「おいおい湿っぽくなっちまったではないか。さぁ俺の快気祝いだぜぇ、しっかり食って飲んで祝ぅてくれ!儂も飲むぞ!わは、ははははは」
平蔵の高笑いが久しぶりに五鉄の二階に響き渡った。
障子を開けた平蔵
「雪か……。道理で冷える」
平蔵の思いは、この数日を過ごした今川町の桔梗屋を懐かしんでいるようであった。
後に平蔵が佐嶋忠介に言った言葉だが
「人はそれぞれに居場所というものがある。身の置き所と心の居所、構えずとも良い居場所も必要だと、此度儂は思ぅた。
それは儂の我が儘なのかも知れぬ。だが、今の儂はそれを捨てることは出来ぬ。
人にはそれぞれ分がある。わきまえる必要はあろう。越えられぬ立場というか、そのようなもので、互いを支えおぅて居るように想うのだがなぁ……。こいつだけは、さすがの儂にも裁き切れぬよ」
平蔵の脳裏には、背に温もりを覚えた安らかな時の流れが、夢の中の出来事のように深く静かに沈んでいった。
こうして麟太郎は黒田家に養子として迎えられることとなり、その後見人に長谷川平蔵が名乗りを上げた。
早速南町奉行池田筑後守に黒田家与力見習い復権の届けが出され、筑後守からこの度の盗賊捕縛の手柄の添え書きもあり、黒田家の与力相続の復権許可が大目付より下されたことは言うまでもあるまい。
ただ一つ、平蔵の脳裏にこびりついている物があった。
それは捕縛された垈ぬた塚づかの九衛門の所持していた匕首に朱の馬が彫ってあったと云う付け書きであった。
まさか……。平蔵の脳裏に過ぐる日の京での思い出が重なっていた。
赤い馬
垈ぬた塚づかの九衛門の捕縛から一月あまり。平蔵も日常の勤めに戻れるまで回復していた。
あれから十八年という歳月が流れるも、平蔵の心の中はあの時で止まったままであった。
一日として平蔵の脳裏から消えることのない、人生においては刹那の時かも知れないが、今も鮮明に平蔵の胸奥深く刻み込まれている。
あの時抱き上げたかすみ、、、の髪から抜き取った珊瑚玉の簪かんざしは
「もし儂が死ぬようなことあらば、この簪かんざしも共に葬ってくれ」
そう平蔵は元中間で、今は板橋で古着屋を商っている久きゅう助すけに託していた。
ひと月の後桔梗屋に顔を見せた平蔵
「染どの、一つだけ教えてはくれぬか」
平蔵、染千代が用意する座布団に座りながら、酒肴しゅこうの膳を置くのを待った。
「はい、どのようなことでございましょうか?」
淡い紫の袷あわせに、腰から裾にかけて雪兎の跳ね回る図柄がしっとりと描かれ、その上に羽織る羽織は黒一色。色目と言えば兎の赤い目のみ。
その裾からこぼれる緋色の蹴出しが鮮やかに平蔵の目を捉える。
「実は、過日儂わしがここに麟太郎を担いで参ったときのことだが」
「はい、それはもう酷い有様で、今思っても胸が痛みます。それが何か?」
「儂が気付いた折、染殿に抱え起こされた……」
「あっ─はい………」
染、長襦袢一枚であったことを思い出し、その時の羞恥と戸惑いを思い出し、思わず双眸りょうめを伏せてしまった。
「やっすまぬ!まだあの折は儂わしも虚ろであった。ただひとつ気がかりなことが……」
「気がかり?─でございますの?」
やっと目線を戻し染、平蔵の顔を見やった。
「うむ、抱え起こされた折、そなたの姿が重なって視えた」
平蔵、染に抱き起こされた折、一瞬かすみ、、、の姿が重なった。その時、染の襟元が緩み、透き通るように真っ白な染の胸元の膨らみが平蔵の眸ひとみに飛び込んで来、ふくよかな胸の谷間に小さな双子黒子を幻の中に視たと思っていた。
「あのようなところに双子黒子がまさか?」
染の応えを覗き込むように平蔵確かめる。
「あれっ!恥ずかしい─。ご覧になられてしまいましたか……」
染、赤面し、袖で顔を覆い、耳朶みみたぶや頬までも朱に染め、羞恥の表情を見せ
「幼き頃縁日で生き別れた姉にも、これと同じ双子黒子がございましたの。双子でございましたし、顔立ちも似通っておりましたので、人様にもよく間違われていたと父上から聞かされておりました……うふふふ」
そう言うと染は、更に耳朶みみたぶを染めうつむいた。
窓辺の障子から柔らかな陽が差し込み、その逆光を背にした染に、幻の女を視たように平蔵は感じていた。
「なるほど──。然様であったか……」
「それが何か?」
怪訝そうな顔の染に、ふっと遠い思い出をまさぐるような目で平蔵、過ぐる日の京での思い出をかいつまんで語り聞かせた。
「もしかして──」
染、胸の前に手をやり、平蔵の思い巡らしているふうな顔を見る。
「うむ、儂わしも染どのに抱き起こされた折、その姿が重なって視え、これは夢なのかとな。只今その双子黒子の話を聞いてやはりそうではないかと……」
平蔵遠くを見つめる風に目を閉じ、瞼の裏に在りし日のかすみ、、、の面影を重ねている。
あの頃の面影の匂い立つ薫りが、ふっとそこに蘇る幻を見た。
(うむ──あの頃のままだ……)
平蔵の穏やかな表情を読み解くかのように染
「で、そのおかたを長谷川様は……」
少し濡れた双眸りょうめを伏せ気味に、顔を障子の方へ向ける。
「うむ─、初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」
平蔵、両手を膝の上に揃え、目を閉じたままぽつりとつぶやくように応える。
「まぁ──」
染、目を伏せたまま膝においた指先を見つめた。
「焼くかえ?」
「ええ…
それも狂おしいほど──」
「──」
平蔵には時が此処で止まったように想えていた。
ただ静けさだけがゆったりと過ぎてゆくそれへ身を任せ、時を呼び戻している風ですらあった。
数日後、再び平蔵の姿がこの桔梗屋に見られた。
「染どの、これを持っていてはくれぬか」
平蔵、一寸玉の血けっ赤せき珊瑚さんご簪かんざしを染に差し出した。
京より戻って以来、長らく中間の久助に預けておいた、亡きかすみ、、、の髪を飾っていたものである。
「これは──?もしかして……」
平蔵、目を閉じ小さく頷く。
「挿して下さいませ……」
染、身体をよじり、右手を平蔵の揃えた左の脚に置き、顔を左にひねる。
ふっと軽い鬢付け油の薫りが流れ、艶やかな濡れ羽色の染の髪がそこにあった。
(こうしてやることすらもなかった……)まだ浅い初夏、京の百花苑二階での思い出が、走馬灯のように平蔵の脳裏を駆け巡る。
「うち、かいらしおすか?」
恥じらいを秘めたかすみ、、、の幻を平蔵、そこに視ていた。
挿された簪にそっと手をやり、指先に何かを探るように
「似合いますでしょうか──」
「──あの頃が戻ったような思いが致す」
「うれしい……」
両手を膝に戻し染、目を閉じたその双眸りょうめから、はらはら、、、、と涙が頬を伝い、置かれた膝の手に幾筋も伝ってこぼれ落ちた。
外は寒空に身をすくめたふくら、、、雀、の啼なく声が、僅かに聞こえてくる昼下がりであった。
青い果実
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田沼能登守意致に「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守意誠より聞かされていた田沼能登守意致(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉))を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基様は主)殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代 (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
京より戻った平蔵、老中板倉佐渡守勝清より小普請支配長田越中守元鋪組配下の 沙汰がある。 小普請組は小普請金を納めさえすれば何もすることはなく、千代田城や寺社など の修繕が担当の非常勤であった。 京での思慕の情に耐えきれず、これを忘却しようと思ったのか大通(だいつう)と呼ばれる洒落た格好で郭(くるわ)に通いつめるも、それは虚しさを増すばか りで、いに父宣雄が蓄えまでも使い果たしていた これを嘆いた西之丸書院番頭であった水谷(みずのや)伊勢守勝久、老中筆頭 松平武元に、自分の先祖が平蔵の父宣雄と同じ備前岡山藩藩主であったところ から、長谷川平蔵宣以を西之丸書院番士に推薦したのである。 もとよりこの長谷川平蔵宣以の父長谷川平蔵宣雄は自身が抜擢して盗賊改に加役 し、京都西町奉行に任命した経緯もあり、この嫡男平蔵宣以も見知り置きの者で あっため、これを快諾したのである。 長谷川平蔵に西之丸書院番頭水谷伊勢守勝久より呼び出しがあり、西之丸御用部 屋に祗候する平蔵へ 「平蔵!そなたの祖母は、我が曾祖父備中松山藩馬廻り役藩士三原七郎兵衛の娘御であるが、藩改易の折三原殿は浪々の身となられた。 西之丸御小姓組であったそなたの祖父長谷川権十郎宣尹(のぶただ)殿は病弱の 由、その手伝いに上がっていた折見初められ、やがてそなたの父宣雄殿が生まれたそうな。 儂の曾祖父は備中松山藩藩主であった故、まぁそなたとは同郷のよしみとでも申すかのぅ。 松山藩改易の折、城明け渡しを受取に参ったのが赤穂藩家老大石内蔵助良雄殿、当時水谷家家老は鶴見内蔵助であったと言う事で、話し合いもこじれることなく 無血開城に終わったのだと親爺殿によぅ聞かされたものだ」 平蔵初めて父宣雄の出生をここに知ったのであった。 こうして長谷川平蔵は父長谷川宣雄と同じ西ノ丸御書院番番士から新たな一歩を 進む事になった。西ノ丸御書院4組水谷組番士となった平蔵、同年に水谷勝久より田沼意次を紹介され、これを機に長谷川平蔵の通常ならば2年ほどで栄転・昇 進するお役の盗賊火付御改(火付盗賊改方)長官の重責を8年も続けるという苦難 が始まったのである。
長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず(遺訓7箇条の 内3箇条)などの気配りや、倹約令のさなかにありながら{息抜きも必要であ ろう}と遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や海外との貿 易による増収に主眼を置く重商主義にも傾倒していた。 田沼意次は、御対客日や御逢日は公式日程を明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)の登城前までの間と定めたために、田沼邸の前には身分の差別を してはならないという田沼家の家訓のため、身分の低い者などの陳情者もつめか け列をなしたという。
宝暦11年(1761)春
「のう意誠(おきもと)、十代様には未だもってお子が居られぬ、このままなれば次の将軍は田安家となろう」 一橋家では田沼意次の弟田沼意誠(おきもと)それと甥の田沼意致(おきともが家老を務めていた。こう意誠(おきのぶ)に問いかけたのは一橋家当主徳川治斉(はるなり)であった。 「それは順序からしてそうなりましょう」 (さてさて殿は次が田安家と思うて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもりか) 「うむ、面白うないのぅ……」 脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ不満そうに治斉(はるなり) 「と申されましても……」 (やはりそこであったか)と内心思いつつも少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠(おきもと)素早く顔を庭の方に眼をかわす。 「そこじゃぁ、のう意誠(おきのぶ)、どうであろう田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる・後の老中松平定信)であろう、これを取り除けば十 一代将軍に成る者がおらぬようになろう」 大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるなり)横目に移し、後ろに控える次家老へ言葉をなげた。 「確かに、仰せの通りに御座いますが、まずもって然様なことは……」 と次家老で田沼意次の甥田沼意致(おきとも)を見る。 「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸(まさまる)様のお二人、お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものの、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折には賢丸(まさまる)様が跡目相続という事になります る。 それを摘み取ることは間違いなく時期将軍はこの一橋と言うことにはなりましょう」と田沼意致(おきとも)ちらっと意誠(おきのぶ)の方に視線を投げ、反応を伺う。 そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬの」 大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉(はるなり)立ち上がる。 千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下と なっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合 わせをしていた帝鑑(ていかん)の間がある。 一橋治斉(はるなり)はこの前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥国白河郡 白河藩二代藩主松平定邦(さだくに)に 「白河殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、ご同道願えますかな」 と切り出したのは安永3年(1774)のことであった。 「これはまた一橋様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで 一言も交した覚えのない一橋治斉(はるなり)様が一体どの様な話しがあると云 うのか?訝る松平定邦くさだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと 耳打ちしたのである。 のう松平殿、同じ久松松平家伊豫松平藩も田安家から御実兄定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(たまりずめ・祗候席・しこうせきと言い将軍拝謁の順を待 つ大名が詰める部屋)に昇格しておられるので、もしご貴殿が同じ田安家の七男 賢丸(まさまる)様を養子にお迎えなされば御貴殿の溜詰も夢ではござりますまい、何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからなぁ。 その折には及ばずながらこの一橋もお力添えを致しましょうぞ 意味深な顔で一橋治斉(はるなり) 「一橋様、それはまことにござりましょうや!」 徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋治斉(はるなり)の甘言はまことに心地よい響きを持っていた のである。 「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵などござらぬ」 と持ちかけられた松平定邦、まんまとこの策略に乗り田安徳川賢丸(まさまる)との養子縁組を上奏したのである。
十代将軍家治は、跡取りに恵まれず、田沼意次の推挙により側室となるお知保の 方との間に生まれた世継ぎ家基(いえもと)を授かった。時に宝暦12年(1762) 十月25日のことである。 安永8年(1779)2月21日18歳になった徳川家基は新井宿での鷹狩の帰り、品川の 東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲む も症状は変わらず、田沼意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出される もこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。 その3日後、十八歳(満16)で薨去(こうきょ・急死) 念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。 世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は 徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の4男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家 の何れかから立てることになっている。 天明元年(1781)閏(うるう年)5月、御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田 沼意誠(おきのぶ)と田沼意致(おきとも)に 「どうであろうかのぉ、ご老中田沼様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家 斉・いえなり)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」 と切り出した。 それに応えて田沼意致(おきとも) 「次番の田安家に跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じ ます」 そう答えるしかなかった。 今にして思えば20年前、この一橋家当主一橋治済(はるなり)に田安家徳川 賢丸(まさまる)を田安家から排除する相談があったことすら、当の治済は忘れ 去っているほどに長い時の流れである。 (何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの兄上(田沼意次)も此処までは 読まれなかったやも知れぬ) と田沼意致(おきとも)と眼を見合わせた出来事であった。 しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰……そう踏 んだ田沼意致(おきとも) 「では早速にご老中に進言為されますよう」 と奨めたのであった。 一橋治済からの申請を受け、田沼意次早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を 説得し、一橋家当主の徳川治済(はるなり)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川 家斉・いえなり)を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年(1781)のことである。
「人が死んどるぅ」
遠くからバタバ夕駈けまわる音がせわしく往き来している。
「おしまはん!あんたはん家ん人が死んでますえ!」
向いの滝が表戸をけやぶる勢いで駆け込んで来た。
昨夜は悶々として一睡も出来なかったのであろうおしまは、まるで兎のようなまっ赤な眸を腫れ上らせ、座したまま出口を見た。
早朝のぼんやりとかすむ陽光を背に、はぁはぁ息をせわしげに滝が戸を掴んで立っていた。
「?……」
「おしまはん!あんたん旦那はんえ」
「へっ?─」
「さっきからお役人はんが調べてはるえ」
おしまその言葉を背にからめる様に素足のまま駆けだして行った。
孫橋の向う、鴨川側には黒山の人だかりがあり、戸板に乗せられ番太が前後で提げ、三条大橋に向き歩き出しているそれへ
「待っとおくれやす!」
素足で髪を振り乱し、血相変えて駆けつけ、九十郎の骸にすがるおしまのただならない風体を視る。
「見知りおきの者か?」
役人が訝しそうに観る。
「あっ──
否え……」
「ならば邪魔立ていたすでない、皆早々に立ち去れ」
役人は群がる人垣を棒六尺で払い除け、去って行くそれを見送るしまの双眸に、もはや涙はなかった。
狛のの話し以来銕三郎、前にも増して探索は多方面に拡げざるを得なくなっていた。だが、その甲斐も日々徒労に終る始末である。
何しろ言葉を話せば他国のものと判ってしまう、勢い視聴覚に頼らざるをえないのが現実であったからだ。
時季はすでに月を越し五月に入っていった。
かすみの奔走によって、安永元年(一七七二)新造営になった仙洞御所へ、後桜町天皇が御移りになった。その慶賀の際、諸大名からの慶賀の授受なども当然あった。
このどさくさに紛れ不正が横行したのではないか、と言う話が噂されているという事であった。
このことに関し、銕三郎の詰問にもかすみはその出処を口にしない。
その理由は、いくら間い正しても堅く口を閉ざし語ろうとしなかった。
(一体どうしたというのだかすみどのは?これまではなんでも話してくれたのに妙すぎる)
銕三郎意を決し、翌日この事を父宣雄に報告すべく、かすみとちよを残し、市井の者にまぎれ、西町御役所に向った。
父信雄に、これまでの経緯を全て話し、
「家族の身に危険が及ぶ恐れあり、御役所には近づかなかったものの、此度の事は書面のみにては伝へる事叶わずと危険を冒し参上致しました」
と銕三郎。
この報告を聞いた宣雄
「銕!御苦労であったな!どうにも踏み込めぬ暗所の扉が開いた思持ちがする」
信雄、少しやつれた顔を悦びであふれさせる。
「ちびっと出て来ます」
木屋町を流れる高瀬川
木屋町の旅人宿すずやの女中おしま、このところ気重なのか、いつもと違い
「おしまはんどないしたんぇ、こんとこ達者におへんなぁ」
女将の安ずるのも無理はない。
この月に入って青白い顔のままやって来るようになっていたからである。
「お女将はん、もしかしておしまはん、 やや子出来はったんやおへんか?」
「そないな事云うても─、あっ…けどなぁ、そやろか」
(これはこまった事になる。この働き手が使えなくなると、たちまちそのとばっちりが自分の方にふりかかる、それだけはかんべんして欲しい)そんな顔つきで
「おしまはん、あんたもしかして、やや子出来はったんとちがいますのんか」
探る眼つきに女将繁s義解とおしまの腹を眺めやる。。
「そないな事──」
と云ったものの、身に覚えのあること。ため息ももれようものだ。
「おしまはん、無理せんかてええんどすえ、少し休んでいよし」
女将はしまの顔をのぞき込み、不安げなしまの背をたたく。
夜五つ(午後七時)三条大橋を越えた仁王門通りにある若竹町の長屋に戻ったしま、中に九十郎の姿がないのを認め
「どこ行かはったんやろ」
小声でボソボソ云い乍ら表通りまで出てみた。
孫橋を戻り、大橋に向った所で九十郎が孫橋に向って歩いて来るのが見えた。
「九十郎はん─」
おしまは小走りに駆け寄り九十郎の後ろに従った。
「何だおしま気重な顔は」
少し気になったのかおしまの方へ振り向き足を止めた。
「うち出来たみたい─」
「?……何?」
「やや子が─」
「……」
「嬉しせゃあらへんね」
「……」
「うち授かりもんどすさかい、産もう思うてますのんや」
不安を打消す様にしま
「俺が親父になぁ─」
九十郎何かを含む様に口角を歪める。
「あんたはんに迷惑かける気ぃあらしまへんよってに」
愛しそうに帯の上から撫ぜるおしまの姿を一瞥して九十郎、つ と立つ。
「あれ、今からどこへおいやすのん」
おしまの声を背に聞きつつ九十郎戸口を開け出て行った。
その半刻後、戸が勢いよく開かれた。
観れば刀の柄に手を掛けた浪人態の者。部屋の中を伺い
「女!九十郎は何処だ」
周りに気を配りつつ眼で目的の者を捜している。
「どなたはんどすあんたはん」
おしまは気丈に間い返した。
目的の者がいないと見た男、踵を返し闇に消えて行った。
(何んやの!あんおかしな人は、それにしても九十郎はん一体何所行かはったんやろ)うつ向きかげんにため息。
入れ違いに九十郎戻って来、青ざめた顔を行灯の灯がゆらりと揺れて戸口に影を映す。
「たった今あんたはん捜してお侍はんが来ましたえ、どなたはんどすねん。えらい血相してはったわ」
おしまは刀に手をかけた様子におびえた眸で訴えた。
「何!侍だ!………。とうとうここも嗅ぎつけられたか・・・」
「何どす?」
蒼ざめるおしまの前に坐り
「おしま、俺も元は地下人西尾九十郎、だが無役のゆえに世をすね、いつの間にか人殺しの片棒を業としてしまった。
あるお方の指図で先に御役所の役人を切った。だが二人目をしくじり、このような体になってしまった─」
「御役所?まさか西町御役所?」
「うむ、確かそう聞いた──」
そう言った九十郎、いきなりおしまに突き放された。
「嘘や嘘や嘘やぁ───」
「おいおしま、いかが致した──」
左腕しか動かせず、その場に倒れた九十郎、やっと体勢を戻しつつおしまの急の変り身に戸惑いをかくせずに面喰っている。
「確かに西町御役所と…」
「おお言った」
「それはうちのお父はんや!」
「何だと!──」
「そんなんそんなん嫌やぁ」
おしまはとり乱し、戸を引き開き、暗い表へ駈け出して行った。
「おしま─、どこへ行く──。まさかまさかお前の父ごとは何たる事」
九十郎その場に膝をついて動く事も出来ず、おしまの駈け去った闇を凝視するのみ。
さわやかな夜風が、通りにそって鴨川から吹き上って来る。
九十郎、おしまを案じ孫橋近くまで出たものの、心の乱れを抑え切れないまま淡い月明りの下、つっ立っていた。
「西尾九十郎だな」
ふいに九十郎の後で人の気配がし、低く押し殺した声がした。
「誰だ俺の名を知っておるとは」
九十郎、薄明かりの中の声を確かめつつゆっくりと左手を刀の柄に懸けつつ振り返った。
「俺だ香山左門だよ。探したぜ、しくじったあと姿を眩ますとはのぉ…。あのお方の眼がある事を忘れるわけもあるまいに」
低く重たく押しかぶせる様な声が一歩前に踏み出る。
「左門!お前か─。俺はてっきり─」
「てっきり誰だと想った。ふん!多分な、そいつは外れてはおらぬよ」
「判っておる、だが今は待ってくれ!必ず次は仕留めるから、あのお方にそうお伝へしてはくれぬか」
九十郎、柄にかけた片手を前に懇願する様に小首を項垂れる。
「助けてはやれぬ、あのお方の命だ!」
九十郎、あわてて刀を抜こうにも、その腕は鞘半ばで伸び切っていた。
その胸には左門の繰り出す刀が深々と突き刺さっていたからである。
(ぶはっ!!)口から一気に血を吹き出し九十郎、堪らずその抜きかけた刀の柄を離し、己の胸に打込まれた剣を掴み堪える。
「しくじりは許されぬ、それはよく承知いたしておろう」
左門、そのまま欄干に九十郎の体を押しつけ、その腹に左足をかける。
「待ってくれ!俺には子が出来た、だからもう少しだけ待ってくれとあのお方に」
突き刺さった刃を左手に掴み、ドクドクと噴き出す血潮が下帯まで伝わり、脚元に流れる激痛を堪えながら九十郎、顔を歪めて懇願するも、
「そのような話しなら地獄で致せ」
背を貫いている刃をえぐる様に右にひねりながら胸から刃が引き抜かれ、一気に鮮血が吹き出し、九十郎はその場に崩れ落ちる。風は止めどもなく溢れ出る九十郎の血を舐めて生臭く辺りに漂う。
香山佐門、九十郎にとどめを刺し、それを確め{ビユッ}と刀に血振りをくれて鞘に納め、足音も立てず闇に消えた。
あれから一刻(二時間)を過ぎたであろうか──、ふらふらと幽霊のような足どりもおぼつかないおしまの姿が三条大橋から左に折れ、孫橋に進み、よろよろよろめきつつ仁王門前通りから若竹町の長屋にたどりついた。
家には明りもなく、ただ漆黒の冷えびえとした空気だけが待っていた。