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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

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鬼平犯科帳   鬼平まかり通る  孫よ…2 1月



数日後、小出政義の姿は日本橋片与力町にある樫原茂左衛門の屋敷にあった。
敷台に出迎える若党へ
「身共鉄炮(つつ)組与力小出政義、樫原茂左衛門殿にお目もじつかまりたく罷(まか)り越した、お取次願いたし」
広い屋敷内を伺うように口上を述べる。
「ははっ!暫くお待ちを願います」
そう言い残し、足早に奥へ報告に上がった。
暫くして複数の足音が聞こえ、出迎えたのは樫原茂左衛門
「おお、これは小出殿。早速のお越し心待ちにいたしておりましたぞ」
笑顔満面の相で奥へと導き入れる。
当て(座布団)に座し
「政義!お許しが出たのだな」
早く結論を知りたそうな素振りに
「まぁまぁ待て待て!そう急くな。無論何事もなく速やかにお許しも出た、御老中も少々はあんじて下されて居られ、殊の外お喜び下さった」
「そうか!そいつぁ何よりだ、では早速儂(わし)の方は明日にでも北町へ罷り越そう」
そこへ
「失礼を致します」
外より声がかかり、襖が開かれ、若い女性が改まって見えた。
「ご多忙の所をようこそおいで下さりました」
両手を軽くつき、小出政義を見た。
「倅の嫁じゃ、これおりく此度昭五郎を受けて頂くこととなった小出政義殿だ。まぁ儂とは幼き頃より竹馬の友で、共に悪さもしたものさ。以後見知りおくようにな」
「はい、十分心得ております、粗茶に存じますが──。それとも酒々の方がおよろしゅうござりましょうか?」
「然様だなぁ、この慶び事だ、酒のほうが良いが、貴公はまだ酒には飲まれる年でもあるまいなぁ」
「何と言う事を!貴様こそ飲まれる口ではなかったか?」
「あっ、そいつを言われるとのぅ─」
「幾度儂が貴様の尻拭いをさせられたものか」
「やれやれ、とんだ藪蛇じゃったわぃ。酒だ、酒を用意してくれ」
上機嫌の二人を残し奥へ去っていった。
「ところで茂よ、もう一人のそれ─」
「昭五郎のおふくろ様かえ?」
「それだ──」
「離れにずっと居る、表に出向くことはほとんどあるまい」
「うむ、まぁ大概はそうであろう。まだ同じ屋根の下に暮らせるだけ幸せというものだ。
で、我が家が貰い受けるという昭五郎は何処におわしますかな」
少々ふざけて茂左衛門を見た。
「呼ぶか?」
「ああ、できれば一度この目で確かめておきたい」
政義の本音でもあったろう。
いくら知古の友とは言え、人ひとり貰い受けるのである、犬猫の子を引き取るのとは訳が違う。
「それもそうだな!」
茂左衛門両手を打ち合わせ
「誰かおるかな!」
表へ声をかける。
すぐさま外に控える物音がし、
「これに!」
と、声がかかった。
「おお、すまぬが離れに居ろう昭五郎を呼んできてはくれぬか」
「承知仕りました」
声はそのまま立ち上がったようで、すぐに奥へ消えていった。
暫くして廊下より
「昭五郎様おいでになられました」
廊下から声がかかる。
「おお、参ったか!これへ」
襖が開かれ、凛々(りり)しい顔の若駒が両手をつき
「ようこそおいでなされました」
低頭し挨拶する。
「いやこれは又!ご挨拶恐れ入ったわい」
政義目を細め、この利発そうな童を見た。
「こちらへ入れ」
茂左衛門の言葉にこっくり頷き、政義のすぐ横に座した。
「良い子だ!」
政義、すっかり魅せられている。
(これならば我が家にとって恥ずかしくはない。真、良い子に巡り会えたものだ)内心、ほっとした政義
「名は何と申すかのぅ」
と問いかける。
「はい、私は樫原昭五郎と申します。以後何卒お見知りおきのほどよろしくお願い申し上げます」
「いやぁこいつは魂消(たまげ)たものだ、流石奉行所与力のお家柄ではある。我らが武骨者と違ぅてしっかりしておるのぅ」
目を細め、まぶしげにこの昭五郎を見つめた。
翌日、早速北町奉行依田和泉守政次に面会を申し出る。
敷台で待つこと暫(しば)し
「お奉行がお会いくださりますので、ご案内を致します」
用人に導かれ、奉行の自室へ通された。
「茂左衛門久しいのぅ、達者のようじゃが、本日はまた何用だ?倅は違いなくお勤めを果たしておるぞ」
「ははっ!和泉守様におかれましてはご健勝にて、この樫原茂左衛門真に祝着至極に存じまする」
「おいおい茂左衛門、そのようなことを態々(わざわざ)言うために罷り越したのではあるまい!用はなんだ?」
依田和泉守、穏やかな口元で茂左衛門を見下ろした。
「ははっ─。実は倅与左衛門が嫡男昭五郎を先手鉄炮(つつ)組十六番の与力小出政義殿との養子縁組に御老中松平和泉守様よりお許しを頂きました。
つきましてはお奉行様に媒(なかだち)をお願い致したく、樫原茂左衛門罷り越しましたる次第にて」
茂左衛門、低頭したまま言葉を繋いだ。
「やっ!それは目出度い、だが茂左衛門、嫡男を出すのか?」
依田和泉守、不思議そうに茂左衛門の応えを待った。
「ははっ─実は五年前無事次男が生まれました。これは長らく出来ませなんだ内嫁の嗣子(しし)、従いまして─」
「外腹(そとばら)の子と言う理由だな?」
「真に──」
「うむ、それもよかろう。やはり本筋が跡目を継ぐが道理だからのう。だがどうだ 出すには惜しいものであろう?これまで可愛がっておったであろうからのう」
「はい、それはやむを得ません。いずれはどちらかに家督を継がさねばなりませぬ故、何時決断するかにござります。
早すぎても遅すぎてもいずれ悶着(もんちゃく)が生じるやも知れませぬ故、頃合いかと。それに手前も隠居暮らしが馴染みましたものでござりますので」
「あい判った、その話引き受けようぞ。追って与左衛門に話を致す故安心いたせ」
「ははっ、真にあり難きお言葉、樫原茂左衛門心より御礼申し上げたてまつりまする」
こうして引き下がった茂左衛門、早速片与力町の屋敷に戻った。
その夕刻屋敷に立ち戻った与左衛門、着替えを済ませるのもそこそこに父茂左衛門の部屋の前に座した。
「父上!与左衛門只今戻りました」
と、外から声をかける。
「与左か!構わぬ入れ!」
中から父樫原茂左衛門の落ち着いた声が聞こえる。
「はい、ではご無礼を仕ります」
与左衛門、襖を開き、いざりながら中へ入る。
横手に襖を閉めつつ床前に座す父茂左衛門の顔を確かめる。
「お引き受け下されたのでござりますな?」
与左衛門、父の口元が緩んでいるのを見てそう言葉をついた。
「おお!和泉守様は心よぅお引き受け下された。日取りについてはそなたに改めてお申し越しがあろう」
「それはそれは─。真かたじけのうござりました。で?このことは何時とくに申し付けますので」
与左衛門、昭五郎の生母とく)へ、この一件を切り出す事をたずねたのである。
(おれの口から言うのはあまりにも辛いものがある、何しろ先に生まれた昭五郎を養子に出すという話だ、あの気丈なとくが速やかに受け入れるとは思えぬ)
そんな腹の中はとっくにお見通しかのごとく茂左衛門
「与左、そのことだが、明日にでもこの儂から申し渡そう。そちが引導を渡すのは流石につらかろう故になぁ」
腕組みをしたまま茂左衛門、与左衛門を見やる。
「真に恐れ入ります。手前の口からは中々言いにくうござります故、此度の一件、父上のお言葉に甘えさせていただきとう存じます」
「うむ、それで良い──」
茂左衛門目を閉じ、この先のことをどうするか思いを馳せる。
翌日与左衛門が出仕に及んだ後、送り出した与左衛門の妻女おりくを残し茂左衛門、離れ座敷へとやって来た。
そこには与左衛門の側妻とくが、長男昭五郎と遊んでいる。
茂左衛門それを認め
「これ、とく)、そなたに少々話があるのじゃが─」
「はい!どのようなお話でございましょうか大旦那様」
普段と左程変わらぬ茂左衛門の物言いように、昭五郎を横に控えさせ茂左衛門の顔を見上げた。
「うむ、そなたも存じておるように、彦四郎も五歳となり、どうにか恙(つつが)なく過ごせておる。そこでじゃが、どうであろうのぅ、昭五郎を養子に出そうと想うておる」
一瞬その意味が飲み込めなかったのかとく、口を半ば開いたまま応えが止まった後
「大旦那様それはまたどんな事になるのでございます。旦那様はご存知なので?」
この者、元は東仲町の水茶屋で働いていた頃、与左衛門は町廻りをしており、その頃懇(ねんご)ろとなり、一子をもうけた、それがこの十歳になる昭五郎であった。
したがい、言葉の使い方もあまり良くは心得ておらず、下町の喋り方しか出来なかった。
「おお、その事なれば案ずるではない。すべて承知じゃ」
「何と言われました!この子を他所へ出すと言われましたので」

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 12

孫よ



時をしばらく前に戻さなければなるまい。                        この事件が起こったのは二十年ほど前の、明和三年、長谷川平蔵宣以(のぶため)の父長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、まだ先手弓七番頭であったころである。                                 稀代の盗賊改長谷川平蔵宣以、幼名銕三郎(てつさぶろう)が、後に密偵となるおまさの父親鶴(たずがね)の忠助のところなどをねぐらに、相模の彦十らとつるんで遊び回っていた頃である。  日本橋七軒町と岡嵜(おかざき)町に挟まれた片与力町の一角、冠木門を入ると小砂利の敷き詰められた二百坪の屋敷は、北町与力樫原茂左衛門邸。                                   「大旦那様おめでとう存じます、男の子にございます」慌ただしく廊下を駆ける音がしたのにはそのようなわけがあったのである。                                   「何と!男か!」                                        声が弾んでいるところを見ると、その期待がわかろうというもので                             「はい、見事に丸々とした男子にございます」                                襖の前で低頭したまま声をかけたのは同心楠山清三郎。                              さっと襖が開けられ、満面笑みの樫原茂左衛門姿があった。                      「で、奥は無事か!?」                                      「はい、御医師の申すには、少々ご高齢でもあり、身体には無理があったようではございますが、まずまずは安産かと」                                 「然様か──。じゃがこれで我が家も嗣子(しし)が出来た訳だなぁ。ようでかした!のぅ楠山」      茂左衛門、控える与力大月源吾を見た。                                 「ははっ、真によろしゅうござりました。まずは万々歳にございますから」                      「うむ、早速与左衛門にも戻り次第知らせてやらねば、うむ─。わはははは」                  一方離れでは、内縁の妻とくが、幼子の相手をして居た。                             この女とく。樫原与左衛門が町廻りで浅草界隈を廻っていた頃、東仲町の茶屋で働いていたところで懇(ねんごろ)となり、間に生まれた子は昭五郎と名付けられ、今ここに引き取られ、すでに五歳を迎えていた。                                             これには少々理由(わけ)もあった。                                            元々与左衛門の妻女おりくは、どうしたわけか医師の見立てでも石女(うまずめ)と言うわけでもないのだが、嫁いですでに三年、子を成していなかった。                                それを悩んだりくは                                                  「このままではお家の跡取りが出来ぬままとなりましょうほどに、どうぞ妾女でも─」                      と、切り出したのが元でのことではあった。                                      この夕刻、家督をついで樫原家の総領となっていた与左衛門、奉行所より戻り、敷板に出迎えた父茂左衛門の顔を見るなり                                            「生まれましたか!」                                             居合わせる家内の者の顔を確かめる。                                  「おお!!でかしたぞよ!」                                               「では男子で!」                                                  「そうじゃ男じゃ、丈夫そうな子だぞ」                                                  「で、おりくの方は?」                                    「御医師の言いつけでな、今は産後の肥立(ひだ)ちもあろう故、養生いたしておるが、案ずることはない」                                                      「然様で!一番気になっておりましたからなぁ」                                       「奥座敷には妻女りくの褥(しとね)が敷かれ、その横に小さな命が息づいていた。                    「おりくでかした!!。それでこそ樫原家の奥だ。身体はきつくはないか?」                         いたわりの言葉におりく、目元に涙を浮かべ顔を横に向ける。その先にはすやすやと安んでいる嬰児(みどりご)がある。                                                     「父上、早速ではございますが先より定めておりました名を届けねばなりませんなぁ」                    「うむ、男なら彦四郎と決めておった故、早速届けるがよかろう」                            こうして樫原家の次男として届け出されたのであった。                                 それから五年の歳月が過ぎ、昭五郎は十歳、彦四郎も五歳に成長していた。                   「与左衛門、先のことじゃがな、この家の跡取りを決めねばならぬ」                           茂左衛門、床を背に硬い表情で前にかしこまる与左衛門を見下ろす。                         「はっ?樫原家の相続は昭五郎と─」                                           「そこじゃ、昭五郎は外腹の子─。彦四郎もこれまで恙(つつが)無く育ちおり、先を案ずることもあるまい。                                                       そこでだが、どうだな?昭五郎を出そうと思うのだが」                                「暫く!暫くお待ちくださりませ、父上。それでは昭五郎が不憫(ふびん)ではござりませぬか?」「うむ、儂もそれは思わぬではない。だが考えても見よ、妾腹(めかけばら)を跡取りに据え、嗣子(しし)を他家(よそ)にやるのは妙な話ではないか?おりくの里にも顔が立たぬ。そうは思わぬか?」「で、父上のお考えは一体どのようにと─」                          この時代、上下の力関係は絶対であった。                                      「儂の幼馴染だが、先手持鉄炮組(さきてもちつつぐみ)に同じ与力で小出と言う者が居るが、未だ跡継ぎの無く、先行き不安と言ぅておった。そこへ話を薦めて見ようと思うがどうだ!」                     「ははっ─。父上が其処まで申されますものを、私が反するなぞ出来ましょうか、何卒その話しお進め願いとうございます」                                                 「おおそうかそうか!任せるか!ならば早速明日にでも尋ねてみよう」                              翌日夕刻、四ツ谷大木戸の田安家下屋敷裏自證院門前の御先手鉄炮(つつ)組屋敷に小出政義を尋ねた。                                                         酒商安井屋三左衛門が店先に風呂を据え並べ、玉川上水の工事人夫たちに無料で開放した。                     それが始まりでこの横丁は湯や横丁と呼ばれるようになった。                                 塩町二丁目からこの横丁へ入り、寺社の間を抜けて暗闇坂とぶつかる所が御先手鉄炮(つつ)組十六番屋敷である。                                                    「これは又お珍しい」                                 奥座敷に愛想よく出迎えたのは、少々恰幅もよく赤ら顔は相変わらずではあったが、いつもと変わらない竹馬の友の笑顔であった。                                           「だが、珍しいのぉ、貴様がこの屋敷まで出向いてくれるとは、何ぞ変わったことでも起きたか?もしやこれでも出来たか」                                             と、小指を立ててみせる。                                                       「まさかとは想うがなぁ、だが貴様のことだ、この道ばかりは判らぬものだからな、あははははは」                                                     「はっ、顔を観ろ顔を!これが浮いた話をする顔か?」                                  「許せ許せ、貴様の顔を見ると普段の愚痴をこぼしそうでな、で?」                           「おおそいつよ、のぅ小出!見受けたところ跡継ぎはまだであろうのぅ」                            「ややっ、そいつが事よ、何しろこのご時世、中々良い相手に巡り会わぬ。それが如何致した、まさか貴様が福の神……いやぁそのようなことはあるまい。                               何しろそちらは跡取りを二人もこさえたと聞き及ぶからなぁ」                               「ささっ!その事だ。のぅ政義!どうだ、我が孫を一人受けてはくれぬか?」                          「何と!出すというのか?」                                              「然様─先の孫は与左が外腹に産ませたもの。其処へどういうわけか五年も経ってまた孫が出来た」                                                      「ほぅ、そいつは目出度いではないか。羨ましき限りだぜ、俺にとってわな」                       「この処、下の方もすくすくと育ち、まぁこれで安泰と想うたものの、問題が生まれた」                       「何だそいつは?」                                                    「儂は早ぅから倅に家督を譲り、まぁ好きな事をさせてもろうておる。元々宮仕えは苦手であったからなぁ」                                                     「おお、そう言えば貴様は子供の頃から絵草紙を読むのが好きであったなぁ」                           「それよそれ!お陰で諸国のいろいろなことも知ることも出来る。問題はその先だ。                     いつまでも儂が家に陣取っておっては倅も中々に独り立ちも出来ぬ。そこで儂は旅に出たいと想うておる。                                                      無論、まだ倅どもには内証だがな。で昨日倅とも話をいたし、家督を継がせる話をいたした」                              「ふむ、まぁ解らんでもないがなぁ。でどうするつもりだ─」                             「ははぁ、それで一人を受けろと!」                                            「流石政義!その通りだ、どうであろう、孫を一人そなたの家に引き受けてはくれまいか?」「──で?どっちの方だ。まさか長子ではあるまいな」                                    「まさに──そこだ!表向き嫡男ではあるものの、与左には奥が居る。その子を継がせるが血筋から言ぅても当然と思わぬか?」                                               「うむ─まさに…」                                                     「どうだ?我が家も与力、貴様も与力。釣鐘に提灯とは想うまい?」                               「当たり前だ、ましてや貴様の孫ともなれば、今まで以上に我等の繋がりも深まろう、それは良い。それは良いとしてなぁ茂!その子は十歳に相成るな」                                  「おおまさに─。聞き分けもよく、なかなかに利発な孫だ」                                 「そうか!よし判った、貴様が其処まで言うのだ、俺は承知した!で、日取りはどうする」                                    「お奉行にでもご相談致すまでよ。ところでそうときまったら─持参金はどう扱う」                       「俺と違ぅて貴様は町奉行所。ほれ俗に言うではないか(与力の付け届け三千両)っとな!」「まさか貴様この俺が」                                                「まぁまぁそう息巻くな!貴様の事だ、然様なことはないと十分承知」                         「やれやれ良い年をして、この俺をからこうて何が面白いというのだ」                         「まぁ許せ許せ、貴様と俺の仲ではないか。後の付き合いという事もあろう故、ぱぁっとお披露目なぞしてそれでどうだ?」                                              跡目相続が見つかりほっとしたのか饒舌になってきた。                                  「おお!そうだなぁ、それで良いならこの俺も気が安らぐ。早速戻ってお奉行様にお願いいたしてみよう。その前に貴様の方から御老中に養子跡目相続願いを出して貰わねばなるまい」                        「おお、無論のことだ。(親類・遠類に跡目相続を引き受ける者見当たらず)と添えてお届けすれば然程のことはない。いやぁその日が待ち遠しい」                                    このような経緯(いきさつ)があった後、樫原茂左衛門、戻るや当主与左衛門に事の顛末を告げた。            「では父上、昭五郎を出すと言うことに御座いますな」                                「然様、それが当然であろう、それとも何か?含むところでもあるとか─。あるならば申してみよ」                                                  毅然とした父の態度に、反論など出来ようはずもなく                                  「で、その事は何時話しますので」                                            「それだ、明日お奉行に会ぅて、媒酌を受けて頂ければ、日取りは自ずと定まってこよう。まずは小出の返事待ちじゃ」




 


 

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 11 建言書戦老中奉書



建言書戦 老中奉書
本所菊川町の火附盗賊改方長谷川平蔵役宅に下野国壬生藩主老中鳥居丹波守忠意より呼び出しがかかった。
(はて、いつもなら気軽にお招きあるものを、此度はまたどのようなおつもりなのか、思い当たる事と言えば、これまで幾度も差し出すものゝ、全くなしのつぶてとなっておる人足寄場の建議書……なればよいのだが、ご老中直々ということならば、さてさて……)
翌日指定された西之丸下の鳥居丹波守役宅を訪れた。
接見の間に祗候(しこう)すると長谷川平蔵、そこにはすでに鳥居丹波守忠意の姿があった。
平蔵低頭し言葉を待つ。
この鳥居丹波守忠意とは平蔵が水谷(みずのや)伊勢守勝久によって西之丸書院番四組に取り立てられた頃より昵懇の間柄であり、伊勢守とともに平蔵の後ろ盾となっている人物である。
「長谷川平蔵、此度老中への人足寄場建議に付、少々尋ねたき議これあり、返答いたせ。そこ元はいかなる所存にて此度人足寄場を建議致した」
低頭して控える長谷川平蔵の心底を確かめる如く丹波守、柔和な面持ちの中にも眼光は鋭さを持って臨んでいた。
「ははっ!」
平蔵低頭し、
「されば…人はこの世に生まれしおりより悪事を為す者はござりませぬ。なれど生きてゆく上においてやむなく悪事に手を染めることもござりましょう」
「うむ 確かにのぉ」
「さすれば、罪を憎みしも、人までその憎しみで計るのは御政道の致すことにあらずと存じまする。
まずは罪を犯させぬよう致すことこそが寛容かと、そのために初犯に至らぬ者においてはこれをまっとうなる道に戻す方策も必要と存じまする」
丹波守忠意、このきっぱりと持論を述べる長谷川平蔵をよく解っていた。
(なるほど確かに一理ある、なれど一介の旗本が政に口出すことは罷りならぬ事、それを此奴は想ぅても居らぬ風)
「黙れ長谷川平蔵!そこ元は御公儀の政を批判致すつもりか!」
「ははっ!もとより然様なことは微塵も想ぅてはおりませぬ、が……」
「が、如何致した」
「はい、たとえ強請(ゆす)り集(たか)りであろうと、ただの物乞いであろうと、これもまた物乞いに変わりはござりませぬが、為すことは大いに違いまする。
御法は人を守るためのものでなければなりませぬ。これを政で賄えるものであるならばそれを致すことも大事の一つと心得まする」
丹波守、政事を預かる身としては公儀批判とも受け取られかねないこの言葉は聞き捨てならない。
「そこ元は政事も手落ちがあると申すか!」
「滅相もござりませぬ。なれど、何事も用い方一つではなきかと存じまする。
悪事をひと所に纏めたとて、それで罪が消えるわけでもなくば、再び悪に走ることを止める手立てにもならぬかと存じます。
更に申せば、これで終わるわけでもござりませぬし、益々これらは増えるばかりのご時世、虞犯者(ぐはんしゃ・法に触れてはいないが法を犯す恐れのあるもの)なども何がしかの方策を持ってこれに当たらねば、やがては罪を犯す事になりかねませぬ。これでは江戸の庶民は安心して暮らすこともままなりませぬ」
(丹波守様が此処で剛力下されば、この建議お聞き届けいただけるかも知れぬ、ならば儂にとって百万の味方を得たのも同然)
平蔵、丹波守の心底が視えてきたのでふと口元が緩んだ。
「うむ、それが授産の方策と申すのだな?」
丹波守、平蔵の口元の緩みを逃さず認め、にやりと口元に笑みを浮かべる。
「はい、真然様に存じまする」
(儂の生涯をかけた賽は振られた、あとは御沙汰を待つのみ)
「ふむ、そちの申すこといちいちもっとも……あい判った!しばし待て、追っての沙汰を待つが良い」
丹波守、長谷川平蔵の熱い思いを確かめたことへの安堵の思いがその顔に出ている。
「ははあっ!」
平蔵低頭する間に丹波守退座した。
(ふぅ~さて、此度こそお許しをいただけるやも知れぬ)平蔵の心のなかに爽やかな一迅(じん)の風が吹き抜けた思いであった。
長谷川平蔵が建議した人足寄場の内容は、紙すき・鍛冶職・大工・左官・篭制作・屋根ふき・竹笠作成・彫刻や元結、炭作りや 蛤(はまぐり)の貝殻を焼き砕いて胡粉も作らせ、はたまた草履から縄細工まで生活指導など二十三種の職業訓練を与え、自立支援と更生を図った内容である。
特技を持つものはそれを生かさせ、持たないものには手内職や土木作業を与え、これら労働に対して手当を支給し、売上の二割は道具代などの経費に当て、残り八割の一部三分の1を蓄えさせ、残りは十日毎に与えた。
三年後に出所した折これを再起の元手とさせ、農民には田畑を与え、商売を志すものには人足寄場が保証人となって土地や店を与え、そのほか石門心学(神道・仏教・儒教を混合した教え)、仁義忠孝・因果応報などを教えた。
今日も刑務所で受け継がれている更生プログラムであった。
こうして翌寛政二年二月十九日、千代田城躑躅の間に登城した長谷川平蔵に鳥居丹波守忠意よりお呼び出しあり、平蔵、老中謁見(えっけん)の間に祗候することしばし、
襖が音もなく左右に開かれ、正装の鳥居丹波守忠意の出座があった。
低頭するそれへ
「またせたな」
「ははっ!」
「長谷川平蔵!此度老中よりのお沙汰を申し渡す、心して承れ!」
「はっ!」
「昨年そこもとより差し出されたる人足寄場建議の件、さし許すとの筆頭老中松平越中守様よりのお言葉である、謹んで受け賜れ!」
丹波守、老中奉書を広げ、読み下し、これを正面に持ち替えて長谷川平蔵に指し示した。
「はっははっ!ありがたきお言葉、長谷川平蔵慎みてこれをお受けいたし奉りまする」
平蔵、幾度も建議書を差し出し、やっとその思いが報れたことに心より安堵した様子であった。
それを見て鳥居丹波守忠意
「長谷川平蔵…建議書及びそれに連なるそこ元の思い、中々のものと身共も感じ入り、老中に言上致した。
これには越中(松平定信)殿も剛力下さり、実現の運びと相成った。心に留め置くように」
「ははっ!真恐悦至極に存じまする」
こうして寛政二年二月十九日長谷川平蔵「加役方人足寄場取扱」を正式に拝命。
ここに長谷川平蔵、火付盗賊改役と人足寄場二足のわらじが始まったのである。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 10月


それから七日の日が瞬く間に流れた。


本所二ツ目……。言わずと知れた軍鶏しゃも鍋なべや五鉄の二階


今日ばかりは、亭主の三次郎も上機嫌で、女房のおさい、、、も、いそいそと二階座敷に料理を運び込む。


「お前ぇ達にも此度はいらぬ苦労をかけた。心配をかけまこと済まぬ。だがお陰で、こうして又お前ぇ達と軍鶏鍋が食える。こいつぁ何よりだよなぁ五郎蔵、おまさ、粂!お前ぇや伊三次にも厄介をかけたことゝ想うぜ。


佐嶋より聞いておる。お前ぇ達が日本橋難波屋を張りこんでくれておったことをなぁ。彦!お前ぇの体だ、夜は辛かったろうなぁ、ありがとうよ」


「長谷川様……」


「おいおい湿っぽくなっちまったではないか。さぁ俺の快気祝いだぜぇ、しっかり食って飲んで祝ぅてくれ!儂も飲むぞ!わは、ははははは」


平蔵の高笑いが久しぶりに五鉄の二階に響き渡った。


障子を開けた平蔵


「雪か……。道理で冷える」


平蔵の思いは、この数日を過ごした今川町の桔梗屋を懐かしんでいるようであった。


 


後に平蔵が佐嶋忠介に言った言葉だが


「人はそれぞれに居場所というものがある。身の置き所と心の居所、構えずとも良い居場所も必要だと、此度儂は思ぅた。


それは儂の我が儘なのかも知れぬ。だが、今の儂はそれを捨てることは出来ぬ。


人にはそれぞれ分がある。わきまえる必要はあろう。越えられぬ立場というか、そのようなもので、互いを支えおぅて居るように想うのだがなぁ……。こいつだけは、さすがの儂にも裁き切れぬよ」


平蔵の脳裏には、背に温もりを覚えた安らかな時の流れが、夢の中の出来事のように深く静かに沈んでいった。


こうして麟太郎は黒田家に養子として迎えられることとなり、その後見人に長谷川平蔵が名乗りを上げた。


早速南町奉行池田筑後守に黒田家与力見習い復権の届けが出され、筑後守からこの度の盗賊捕縛の手柄の添え書きもあり、黒田家の与力相続の復権許可が大目付より下されたことは言うまでもあるまい。


ただ一つ、平蔵の脳裏にこびりついている物があった。


それは捕縛された垈ぬた塚づかの九衛門の所持していた匕首に朱の馬が彫ってあったと云う付け書きであった。


まさか……。平蔵の脳裏に過ぐる日の京での思い出が重なっていた。


 


赤い馬


 


垈ぬた塚づかの九衛門の捕縛から一月あまり。平蔵も日常の勤めに戻れるまで回復していた。


あれから十八年という歳月が流れるも、平蔵の心の中はあの時で止まったままであった。


一日として平蔵の脳裏から消えることのない、人生においては刹那の時かも知れないが、今も鮮明に平蔵の胸奥深く刻み込まれている。


あの時抱き上げたかすみ、、、の髪から抜き取った珊瑚玉の簪かんざしは


「もし儂が死ぬようなことあらば、この簪かんざしも共に葬ってくれ」


そう平蔵は元中間で、今は板橋で古着屋を商っている久きゅう助すけに託していた。


ひと月の後桔梗屋に顔を見せた平蔵 


「染どの、一つだけ教えてはくれぬか」


平蔵、染千代が用意する座布団に座りながら、酒肴しゅこうの膳を置くのを待った。


「はい、どのようなことでございましょうか?」


淡い紫の袷あわせに、腰から裾にかけて雪兎の跳ね回る図柄がしっとりと描かれ、その上に羽織る羽織は黒一色。色目と言えば兎の赤い目のみ。


その裾からこぼれる緋色の蹴出しが鮮やかに平蔵の目を捉える。


「実は、過日儂わしがここに麟太郎を担いで参ったときのことだが」


「はい、それはもう酷い有様で、今思っても胸が痛みます。それが何か?」


「儂が気付いた折、染殿に抱え起こされた……」


「あっ─はい………」


染、長襦袢一枚であったことを思い出し、その時の羞恥と戸惑いを思い出し、思わず双眸りょうめを伏せてしまった。


「やっすまぬ!まだあの折は儂わしも虚ろであった。ただひとつ気がかりなことが……」


「気がかり?─でございますの?」


やっと目線を戻し染、平蔵の顔を見やった。


「うむ、抱え起こされた折、そなたの姿が重なって視えた」


平蔵、染に抱き起こされた折、一瞬かすみ、、、の姿が重なった。その時、染の襟元が緩み、透き通るように真っ白な染の胸元の膨らみが平蔵の眸ひとみに飛び込んで来、ふくよかな胸の谷間に小さな双子黒子を幻の中に視たと思っていた。


「あのようなところに双子黒子がまさか?」


染の応えを覗き込むように平蔵確かめる。


「あれっ!恥ずかしい─。ご覧になられてしまいましたか……」


染、赤面し、袖で顔を覆い、耳朶みみたぶや頬までも朱に染め、羞恥の表情を見せ


「幼き頃縁日で生き別れた姉にも、これと同じ双子黒子がございましたの。双子でございましたし、顔立ちも似通っておりましたので、人様にもよく間違われていたと父上から聞かされておりました……うふふふ」


そう言うと染は、更に耳朶みみたぶを染めうつむいた。


窓辺の障子から柔らかな陽が差し込み、その逆光を背にした染に、幻の女を視たように平蔵は感じていた。


「なるほど──。然様であったか……」


「それが何か?」


怪訝そうな顔の染に、ふっと遠い思い出をまさぐるような目で平蔵、過ぐる日の京での思い出をかいつまんで語り聞かせた。


「もしかして──」


染、胸の前に手をやり、平蔵の思い巡らしているふうな顔を見る。


「うむ、儂わしも染どのに抱き起こされた折、その姿が重なって視え、これは夢なのかとな。只今その双子黒子の話を聞いてやはりそうではないかと……」


平蔵遠くを見つめる風に目を閉じ、瞼の裏に在りし日のかすみ、、、の面影を重ねている。


あの頃の面影の匂い立つ薫りが、ふっとそこに蘇る幻を見た。


(うむ──あの頃のままだ……)


平蔵の穏やかな表情を読み解くかのように染


「で、そのおかたを長谷川様は……」


少し濡れた双眸りょうめを伏せ気味に、顔を障子の方へ向ける。


「うむ─、初めて愛おしいと思ぅたおなごだ……」


平蔵、両手を膝の上に揃え、目を閉じたままぽつりとつぶやくように応える。


「まぁ──」


染、目を伏せたまま膝においた指先を見つめた。


「焼くかえ?」


「ええ…


それも狂おしいほど──」


「──」


平蔵には時が此処で止まったように想えていた。


ただ静けさだけがゆったりと過ぎてゆくそれへ身を任せ、時を呼び戻している風ですらあった。


 


数日後、再び平蔵の姿がこの桔梗屋に見られた。


「染どの、これを持っていてはくれぬか」


平蔵、一寸玉の血けっ赤せき珊瑚さんご簪かんざしを染に差し出した。


京より戻って以来、長らく中間の久助に預けておいた、亡きかすみ、、、の髪を飾っていたものである。


「これは──?もしかして……」

平蔵、目を閉じ小さく頷く。


「挿して下さいませ……」


染、身体をよじり、右手を平蔵の揃えた左の脚に置き、顔を左にひねる。


ふっと軽い鬢付け油の薫りが流れ、艶やかな濡れ羽色の染の髪がそこにあった。


(こうしてやることすらもなかった……)まだ浅い初夏、京の百花苑二階での思い出が、走馬灯のように平蔵の脳裏を駆け巡る。


「うち、かいらしおすか?」


恥じらいを秘めたかすみ、、、の幻を平蔵、そこに視ていた。


挿された簪にそっと手をやり、指先に何かを探るように


「似合いますでしょうか──」


「──あの頃が戻ったような思いが致す」


「うれしい……」


両手を膝に戻し染、目を閉じたその双眸りょうめから、はらはら、、、、と涙が頬を伝い、置かれた膝の手に幾筋も伝ってこぼれ落ちた。



外は寒空に身をすくめたふくら、、、雀、の啼なく声が、僅かに聞こえてくる昼下がりであった。

 京都六角堂 へそ石


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鬼平犯科帳   鬼平まかり通る 9月



「佐嶋、心配をかけたのう。真にすまぬ。だがもう安心いたせ、まだまだ儂(わし)のお勤めは終わらぬとみえ、再びこの世の地獄に舞い戻ってきたぜ」
やつれた顔に平蔵笑顔を浮かべ、大きく息を吐いた。
「ところで染どの、儂の連れて参った子供だが、いかが致しておる?」
平蔵、やっとこの数日の闇(くらがり)の中から抜け出せた安堵感からか、こう尋ねた。
「あのお子なら菊弥姐さんが面倒みてくれておりまして、長谷川様のお陰で大事に至らず、元気を取り戻してございます」
少し平蔵から身を離してのち、染は答えた。
「佐嶋、すまぬがその子を此処に呼んではくれぬか」
平蔵は気がかりであった子供の話を聞きたがる。寝床に横たわったまま、平蔵、染の差し出す重粥を口にすすりつつ、失われた記憶を呼び戻している。
やがて佐嶋に伴われて前髪姿の若者が平蔵の前に両手をつき、衣前を正し
「お陰様を持ちまして一命を取り留めました。真にありがとうございました」
低頭したまま礼を述べる。
「おおよかった!ところでな、そなたの事を話してはくれぬか。何故あのような場所におったのかどうも気がかりでなぁ」
平蔵、身の上話のもとどりを差し向けた。
「真に失礼を致しました。私は元豊前小倉新田家家臣、黒田宗近が嫡男麟太郎と申し、十四歳にあいなります」
ハキハキと応え、平蔵や佐嶋を驚かせた。
「で、何故そこ元一人の旅を致した?」
平蔵は確信を突いた。
「父上は新田家改易により禄を離れました。そのため、父上母上共々、江戸の南町御役所にお勤めなされておられる縁者を頼り、江戸に参る途中、長旅と日頃の疲れから父上が流行病(はやりやまい)で身罷(もまか)り、備前を出たところで、看病の疲れから母上を失いました」
「何と!」
平蔵も佐嶋も言葉を失ってしまった。
染は年端もゆかない子の身の上に起きた、この痛々しい出来事に目蓋(まぶた)を押さえるしかなかった。
「で、そこ元一人旅を続けてきたと言うわけだな?」
「はい。ですが、上方に着いたところで路銀も使い果たし、江戸行きの弁才船に潜り込みましたが、見つかってしまいました。これまでのことをお話いたしましたら、親方が私の願いを聞き届けてくださり、やっと江戸に入ることも出来、南町御役所に近い稲荷橋に降ろしてくださいました。
ですが持ち合わせもなく、お供えを盗んで腹を満たしました所……」
「おお、それで腹を壊したか」
「はい、罰が当たったのでございます」
麟太郎と名乗る若者は頭を掻いた。
「ところで長谷川様は火付盗賊のお頭様とお聞き致しましたが、まことでございますか?」
瞳を開き、まっすぐに平蔵の顔を見上げた。
「真も真!盗人には鬼より怖いお頭様だぞ、お前もお供えを盗むとは真に恐れ多い仕業じゃ。盗人はお定めで死罪と決まっておる。覚悟はよかろうな」
笑いながらそばから佐嶋が口を挟む。
少年は首を縮めて平蔵の顔を……
「安ずるな、此奴の冗談だよ」
目で佐嶋忠介を見やる。
「捕わるかと驚きました」
少年は首をすくめ
「ところで、その夜何人かの足音がしましたので、私は奥に潜みました。
すると(今度は十六日、押し込み先は日本橋難波屋)と言う話し声が聞こえてきました」
「何っ!!」
平蔵と佐嶋、思わず同時に声を発した。
「おい佐嶋、本日は何日だ!」
「はい十二日でございます、まさかお頭!」
「そのまさかだぜ佐嶋」
平蔵が興奮してきたのを見て染
「長谷川様どうかお気をお沈めくださいませ」
と、なだめ、平蔵を再び寝床に押し込むように寝かせた。
「済まぬ済まぬ。どうもこう話を聞くと血が騒いでならぬ。因果な性質(たち)よのう」
苦笑いの平蔵
「ところで儂がそこ元と出会ぅたのが七日前……。のう佐嶋!その日にどこぞの店(たな)が盗賊に襲われたか、急ぎ探索致せ。もし被害が出ておるならばこの話、間違いのない所。早速日本橋の難波屋を探してまいれ」
寝床から佐嶋忠介を見上げ指図を与えた。
「ところで麟太郎とか申したのう、凡そのことは判ったが、その縁者と申す南町御役所ゆかりの者の話を、もそっと詳しく聞かせてはくれぬか?」
この利発な少年の輝きに満ちた眼を平蔵は見上げた。
「はい、父上の叔父上様が江戸南町御役所にお勤めと聞き及んでおりましたので、僅かなつながりを頼りに豊前を出る決心を致しました」
「あい判った、ところでその縁者のお方のお名は何と申す」
「はい、黒田左内様と伺ぅております」
「何となっ!!」
平蔵の驚きと染の驚き様に、麟太郎のほうがさらに驚いて飛び上がった。
平蔵と染、互いに目を見張り、あまりの偶然に言葉が見つからない様子が見て取れる。
「なるほど、偶然などこの世にはない、何れも必然である物があたかも偶然のようにその必要(いる)時に合わせて現れるものと聞いてはおったが……まさになぁ」
 平蔵、その言葉を噛みしめるように身の回りの出来事を改めて振り返る面持ちであった。
きょとんとしている麟太郎に平蔵
「のう麟太郎、そこ元が探し求めておる南町与力の黒田左内、その娘子がこの染どのじゃ」
横に座し、微笑(えみ)をたたえている染を見やった。
「ええっ!──。まことで……。それは真にございますか?」
麟太郎の目元が見る見る潤み、涙が溢れこぼれてきた。
その日の夕刻、平蔵の元へ佐嶋忠介が報告に来た。
「お頭、間違いございません。南町御役所への届けによると、六日夜半、南八丁堀の太物問屋岡崎屋が襲われ、主夫婦と番頭、丁稚(でっち)、女中など、合わせて九名を惨殺し、金子五百両あまりが盗まれたとの報告がございました。
それと、日本橋本石町三丁目に両替商難波屋がございました」
「やはりまことであったか!よし早速日本橋の難波屋に話を持ち込め。あまり刻がないゆえ急がねばならぬ。佐嶋、お前が指図を致し、盗人共をひっ捕らえよ、頼むぞ」
平蔵、この身の動けない思いを佐嶋忠介に託した。
翌日平蔵は佐嶋忠介が役宅より差し向けた乗物に身を納め、ゆるりと本所菊川町の役宅に戻った。
染の手によって、伸び放題の月代(さかやき)や髭も当たり、髷も結い直し、さっぱりとしたいで立ちであった。
見送る板前の秀次に
「秀次世話をかけたなぁ、早うお前ぇの仕込みが食えるようになるぜ。女将まこと世話をかけもうした、かたじけない」
菊弥に深く頭を下げ、その後ろに控えている染に無言で頭を下げ、
「麟太郎が事よろしくお願い申す」
と、念を押し、静かに乗物の戸が閉められた。
上之橋に向かって進む乗物を、じっと見つめる染の双眸(りょうめ)は、いつ果てるとも無い涙があふれていた。
菊川町の役宅では、いつ御頭の籠が到着するかと、門内には与力・同心が集まり、平蔵の乗物が見えるのを今か今かと待ちわびていた。
乗物が北ノ橋西を曲がり、伊豫橋を越えて役宅に向かったのを認めたのは偵察に出ていた木村忠吾同心
「御頭がお戻りになられましたぁ!!」
大声で叫びながら役宅に駆け込んできた。
「取り乱すでない!」
が、そう叫ぶ佐嶋忠介の声は、言葉と裏腹に上ずって聞こえる。
妻女の久栄は、平蔵の常座する奥座敷に衣前を正し、控えている。
玄関のほうで騒がしい物音がし、平蔵の無事の帰宅を案じていた与力や同心が次々と平蔵の無事の帰還を祝っているのが遠くからこの座敷奥まで聞こえてくる。しかしそこには密偵たちの姿は見ることが出来なかった。
これは(我らは密偵、決して日の当たる場所に出てはならない)と言う強い思いを持った大滝の五郎蔵の配慮であった。
佐嶋忠介と筆頭同心酒井祐介に両脇を抱えられ、平蔵が久栄の待つ奥座敷に入ってきた。
「殿様、ご苦労様でござりました」
低頭したその久栄の両の掌(てのひら)の上に、涙があふれているのを平蔵、痛々しい思いで見た。
「久栄!此度はまこと心配をかけた、すまぬ許せよ」
労りの声をかける。
久栄は、ただじっと頭を下げたまま微動だにしない。
それは、この数日間をじっと耐え凌ぐしか出来なかった思いの重さゆえであることを平蔵は判っていた。
だからこそ、この平蔵を支えきれるのであろう。
明けて三日後夜半、日本橋本石町両替商難波屋に兇賊の押しこみが入った。
戸口が金物でこじ開けられ、バラバラと賊が入ってきたのを見届けて、あちこちかに火種(ほだね)から移された龕(がん)灯(どう)が明々と灯され、照らしだされた盗賊団は驚きたじろいた。
「火付盗賊改方である、神妙にいたせ!」
佐嶋忠介の声を合図に、潜んでいた与力や同心が賊共に飛びかかった。
「くそぉ!かまうこたぁねぇ殺っちめぇ!」
怒号と悲鳴が響き渡り、ガタガタと戸を蹴破って表に逃げ延びようとする賊を、陰に潜んでいた同心が、目潰しや袖搦(そでがら)みで取り囲み、一人も残(あま)すことなく捕縛した。
その攻防に半刻は要さなかった。
この江戸市中を恐怖のどん底に陥れた凶賊垈(ぬた)塚(づか)の九衛門一味は、明らかな罪状のため、そのまま大番屋に同心達が周りを固めて護送され、翌日には取り調べることなく南町御役所へと連行された。
報告を床の中で聞いた平蔵
「皆ようやってくれた。これでわしは筑後守様との約定が無事果たせた、礼を言う、これこのとおりだ」
そこに集まった捕り手の与力・同心の者にねぎらいの言葉をかけた。
「お頭!」
その場に居合わせた者は皆目に涙を浮かべている。
思い返せば、この僅か数日間ではあったにせよ、平蔵の姿のないことがどれほど心をいためたか、皆の思いは同じであったろう。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 8月



男が転がるように飛び込んで来
「長谷川様が昨夜お倒れになられまして」
大声で再び叫んだのを聞きつけた泊まり番の沢田小平次、同心部屋から飛んできた。
「御頭がお倒れになったと言うは真のことか!」
まさかと言う顔で秀次の胸ぐらをつかみ詰問する。
「ここっ!これに詳しく書いてありやす」
懐から染千代に託された言伝をつかみ出し差し出すそれをむしり取るように受け取り、沢田小平次、慌ただしく奥へ駆け込んでいった。
大役を無事果たした秀次、安心したのか、へなへなとその場に倒れ込んでしまったものだ。
沢田小平次、足元がもつれるのではないかと想われるほどの勢いで奥座敷へ駆け込み
「奥方様!御頭の使いの者と申す者が、かような書面を届けてまいりました」
妻女の久栄の居室の前に片膝ついたまま報告。中から奥女中が襖を開けるそれへ手渡した。
「何でしょうねぇ殿様の使いとは、昨夜はお戻りになられるはずなのに、それもなく、託(ことづけ)もないまま今朝になって……」
女文字の筆跡に訝りつつも、読み始めた久栄の手がわなわなと震えるのを、沢田小平次は観て取り
「奥方さま!御頭に何か!」
不安な様子に声をかけた。
久栄は言伝を握りしめたままその場に崩れ折れた。
「殿様が……殿様が……」
沢田小平次、久栄の手から言伝をもぎ取るように読み下すそれには、昨日の事の顛末(てんまつ)が染千代の手によって認(したた)められていた。
(長谷川平蔵様儀につき、取り急ぎお知らせ参らせ候。
昨夜五ツ過ぎ、氷雨の後に病の童(こ)を背負い、深川今川町桔梗屋にお越しなされましたよし。
幸いにも童(こ)は長谷川様のお陰にて、お医師の話しでは峠を越した模様。されど長谷川様は殊の外重く、お医師のお見立てでは、日頃の過労に昨夜の氷雨と、夜の冷え込みが重なり、心の臓が弱り切り、衰弱激しく、暫くの間動かすこと叶わぬと申されましたるよし。
今のところ意識朦朧(もうろう)にして昏睡と発熱も激しくあり、一刻の油断も禁物なれど、必死の看護を致しておりますゆえ、何卒ご安堵召されまするよう。元南町奉行所本所廻与力黒田左内。内、染)
しかし、文字の乱れや行間に読み取れる不安は拭い去ることの出来ないものであった。
「何と!これは一大事!佐嶋殿はまだお見えになられませぬのか!」
沢田小平次にすがる眸(ひとみ)に、筆頭与力佐嶋忠介の出所を確かめた。
「まだ佐嶋さまはご出所なさっては居られませぬ」
取次の同心が報告を上げてきた。
「ええい!表に出て佐嶋さまのお姿を探し、急ぎおいでなさるよう申し上げろ!」
沢田小平次、落ち着こうにも、どうにもならない己の心情をぶつけるしかなかった。
それから四半刻、慌ただしく佐嶋忠介が飛び込んできたのへ、沢田小平次、事の次第を報告した。
「とにかくこのことは皆の者には伏せておけ!」
厳しい緘口令(かんこうれい)が佐嶋から出され、この事は沢田小平次と佐嶋忠介、それに妻女の久栄だけが知るのみとなった。
「佐嶋どの、兎にも角にも私は殿様のところへ参ります」
久栄、奥女中に目で支度を促しつつ、佐嶋に告げた。
しかし、佐嶋忠介
「奥方さまが直々にお迎えに参られますのはお控えなされた方がよろしいかと存じます」
毅然とした言葉で対応し、思いを留まらせようと試みる。
「何故私が出向いてはなりませぬのじゃ」
筆頭与力ともあろう者の冷ややかな戒めに久栄、納得の行く返事ではなかった。
「奥方さま、ここは何卒この佐嶋におまかせくださりますよう、今、奥方さまが向かわれましたと致しましても、御頭は意識も戻っておりませず、医者の申す通り、御頭のお体を動かすのは真に危険(あぶ)なき事と存じます。
御頭の意識がはっきり致しますまで、暫くのご辛抱を願わしゅうございます」
その言葉に久栄は、キッと宙を睨み
「理解(わか)りました。そのように致しましょう」
両手を固く握りしめた拳が震えているのを佐嶋忠介は痛々しく見るしかなかった。
佐嶋忠介、早速御典医井上立泉に繋ぎを取り、
「御頭が急の病にてお倒れになられたよし、急ぎ深川今川町仙臺堀の料理屋桔梗屋に出向いて頂きたく候」
と託(ことず)けた。
佐嶋忠介、平蔵の妻女久栄から平蔵の着替えを託されたそれを抱え、桔梗屋に向かった。
慌ただしく飛び込んできた乗馬姿の侍の恰好をひと目見た秀次
「長谷川様はお二階に!」
手綱を預かりながら店の奥へ視線を送る。
二階へ駆け上がった佐嶋忠介、襖の前に座し
「御頭!佐嶋忠介にござります」
ゆっくりと落ち着いて声をかけた。
すぐさま中から襖が開けられ、若い女性(にょしょう)と少し年増の女の姿が見て取れ、その向こうに、臥せって意識朦朧(もうろう)とした風の御頭、長谷川平蔵のやつれた姿が目に飛び込んできた。
「御頭のご様態は?」
佐嶋忠介、長谷川平蔵の額の手ぬぐいを取り替えている若い女に尋ねた。
女は膝を向き変え、佐嶋の目を受けるように
「今朝ほどまでは激しく暑がったり急に寒がったりの繰り返しでございます。お医者様のお見立てでも、暫くは動かせないとの事。当分はこの繰り返しが続くと申されました。ただ、今出来ることはこうして寝汗を取り除き、身体を冷えさせぬこと」
双眸(りょうめ)を伏せ勝ちに、手ぬぐいを絞るその指先の震えているのを、佐嶋忠介も、つなぐ言葉もなく、ただ見つめるしかなかった。
(やはり奥方様にお目にかけなんでよかった……。そう佐嶋は心の中につぶやいた。
それほど平蔵の衰弱はひどい様相であったのだ。
別に誰もが手をこまねいていたわけではないが、それほど平蔵の身体は日頃の激務が限界に来ていたと言えよう。
朝五ツ御典医の井上立泉が駆けつけて診察を試みるも、やはり玄庵と見立ては何一つ変わらなかった。
滋養の処方箋を与え、後は本人の回復をまつのみということであった。
この間も染千代は秀次に指図し、粥を煮詰めトロトロにしたそれへ、卵の黄身を溶き入れ、少しだけ塩を入れ、こぼれにくくした物を作らせたこれを平蔵の唇を指で開き、木匙(さじ)で掬って流し込み、引き裂いた晒を手水桶に入れた清水に浸し、これを平蔵の口に絞って雫を飲ませ、吹き出す汗を拭い取っての繰り返しで毎日が流れていった。
この日も、暮になると平蔵は再び高熱を出し、寒気に震えるという事を繰り返し、そのたびに染千代、平蔵の体を温め、吹き出す汗を拭い、身体を冷やさぬよう気を配り、ほとんど不眠不休で当たった。
始終取り替えるために、着替えの肌着は乾く暇がなく、晒を折りたたんで平蔵の胸元や背中を包み、吸汗させ放熱を避けた。
この間、平蔵が口にしたものと言えば適度の水と、秀次が炊き上げる緩く溶いた重湯だけである。
こうして染千代は七日目の朝を迎えた。
平蔵、意識のゆらめきの中、微(かす)かに誰かの温もりを背中に感じ
「ううんっ!」
意識の彼岸から目覚めた。
平蔵の漏れるような小さい声に染は気づき、ぼんやりと眼を覚ました。
「長谷川様!」
染千代、平蔵の意識が戻ったことにやっと胸をなでおろし、平蔵を抱きかかえるように引き起こす。
朧(おぼろ)気な輪郭の中、平蔵はまだ夢の中にいるような面持ちに
「かすみ……どのか?……」
「えっ!?──。長谷川様お気が付かれましたか!」
驚きつつも染、平蔵の顔を横に覗きこんで確かめた。
「ううんっ?」
再び平蔵の声が……。しかし今度はしっかりとした様子で聞こえた。
「……染どのではないか?どうして此処に……。おう!そういえば……」
と、身体を起こそうとしたが、まだ腰が定まらず、よろりと染の腕の中にもたれこんだ。
「嗚呼(ああ)よかったよかった………よかった」
染、止めどもなく流れ落ちる涙を拭おうともせず、涙で潤み、ぼやけたままの平蔵の顔を胸に抱き締める。
かかえられた膝の上で平蔵
「染どのすまぬ」
ひとこと言葉を添えて平蔵が見上げた染の双眸(りょうめ)から大粒の涙があふれ、急いで羽織った夜着の胸乳の辺りに吸い込まれるのを見つめるだけであった。
平蔵、この安らかな時の流れが、現実と夢の狭間で揺れ動いている幻を見ているように想われた。
すっかりやつれ、痛々しいほどの染の頬に手をやり、
「なぜ泣く染どの、お陰で儂(はこうして戻ってきたではないか」
平蔵、染のこぼす涙を指先で拭いながら語りかけた。
(真綿の上にいるような力の抜けた安堵感……。幸せとはどのようなことであろうか?何を持って人は幸せと想うのであろう……。今のこのひと時を、儂の探しておったものなのであろうか。言葉もなく何もない、ただここにおる。この穏やかさや安らぎは、何と言えばよいのであろう。
儂は今まで生まれてきた意味と生きてゆく理由を想うたこともなかったが、今初めてそれを知ったように思う)
染の腕に支えられ、障子越しに差し込んでくる真冬日の明るさを、まばゆい思いで平蔵は眺めていた。
階下(した)から
「佐嶋様がお見えになられました」
菊弥の声がし、人が階段を静かに上がる音が聞こえ
「よろしゅうございますか?」
筆頭与力佐嶋忠介の声がかかった。
「長谷川様の意識が先ほどお戻りになられました」
中から女の声がしたので、佐嶋、急いで襖を開ける。
そこには染千代に支えられて半身を起こし、綿入れを背にかけた平蔵の顔があった。
「御頭!!」
佐嶋忠介、それ以上言葉が続かなかった。

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鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 7月



この日長谷川平蔵は南町奉行池田筑後守長恵(ながしげ)よりの招きがあり、夕刻になって数寄屋橋御門まえの南町御役所にある筑後守の役宅に出かけていった。
筑後守配下の御用聞き仙臺堀の政七や鉄炮町の文治郎は時折平蔵の役宅に訪れ、奉行所の取り扱っている情報などを知らせてくれる、まぁ身内のような間柄である。
その筑後守からの招きである、平蔵何かを想うところもあるのか、歓んで出かけていった。
外は真冬日の空、雲は重く薄墨色に垂れ込んで鈍く、陽は滲んでいる。
風が時折吹けば、冷えた空気が地を這って流れてゆくようであった。
「うむ今夜は冷え込むな……」
袷(あわせ)の羽織に袖を通しながら妻女の久栄につぶやいた。
「殿様お気をつけてお出掛けなされませ」
妻女久栄も雲行きを案じながら送り出した。
平蔵南町御役所表門をくぐり、敷台に出迎えた用人に
「筑後守様よりのお召によりまかりこしましたる、身共は火付盗賊改方長谷川平蔵にござる、筑後守様にお取次ぎをお願い申す」
平蔵は大刀を鞘ごと抜き、右手に提げた。
「お腰の物をお預かり申します」
用人、平蔵の刀を受け取り、先に立って筑後守の待つ居室に案内した。
役事を終え、くつろいだ姿の筑後守の姿がそこには待っていた。
「筑後守様、長のご無沙汰をお詫び申し上げます」
平蔵、深々と低頭した。
「おお!これは長谷川殿。いやいやこちらこそ御用繁多でご無礼つかまつっておる。ささ!まずはこれに召されよ」
すでに整えられている酒肴の席に平蔵を導いた。
「これは痛み入ります」
平蔵、遠慮無く筑後守の傍に寄った。
町奉行は旗本三千石、平蔵は同じ旗本でも初めは四百石、盗賊改になって千五百石の立場であり、又奉行職は後に大目付に昇進する地位でもあった。
大岡越前守忠相(ただすけ)は、最終的には一万石の大名格になったのだからその権勢は大きかったといえる。
平蔵も
「何れは町奉行に」
と思った頃もあったという。まぁそれほどの立場に違いがあった。
池田筑後守は平蔵の没した年に大目付に昇進、その五年後この筑後守長恵(ながしげ)も死去している。
年も平蔵より一歳上という親近感もあり、またその豪胆な性格は平蔵と似通って居、良い関係が保たれていた。
「ところで筑後守様、この度のお召は又いかような?」
平蔵、招きの内容が気がかりであっただけに、早速切り出した。
「長谷川殿、まぁ然様に急がずとも、まずはゆっくりなされよ。ご貴殿もすでに存じよりとは想うが、この所市中を騒がしておる盗賊のことにござる」
筑後守静かに酒盃を空けつつ平蔵を見た。
「はい、その事なれば身共も日夜心を痛めておりまする。何しろ手がかりを何一つ残さず、すでに数件の大店(おおだな)が襲われ、被害も甚だしく、又市井の者も恐れをなし、真に悩ましき存在にございます」
「ふむ、それがことでござる。当方の隠密廻にても全くその所在も掴めぬまま時ばかりが過ぎ、御老中よりも厳しきお沙汰がござってのう」
「あっ、これはまた。真にもって!ですが筑後守様、何れは当方にもその風は吹いてまいろうかと」
「わははは、然様でござるなぁ、お互いに辛い役目。あは、あははは」
筑後守も思わず同病相憐れむの例えと笑うしかない風である。
「何としても江戸市中を日々休まる町にしたいもの、のぅ長谷川殿」
筑後守、平蔵に盃を勧めながら、これまでの調書を平蔵に託し
「何卒の助力を願いたい」
と言葉を選んで述べた。
町奉行は町方の事件を取り扱う部署、いうなれば現在の警察と言う所だが、押し込みや殺人となると警察であれば担当は殺人課や捜査一課と言う感じである。
町奉行の基本的な組織は文官がその大半で、盗賊改は武官と思えば解りやすい。
「喜んで拝借つかまつります」
平蔵も筑後守の胸中を察し、調書を懐に収め、それからまた昔話に花を咲かせ、一刻後に屋敷を出た。
外はいっそうの冷え込みを想わせ、漆黒に近い空にすっぽりと包まれている鍛冶屋橋御門を渡り、弾正橋を渡った頃から急な雨足で、氷雨が叩きつけるように激しく降り始めた。
(こいつはいかぬ、どこかで雨やどりなぞせねばなるまい)
平蔵は本八丁堀を東にとって進み、稲荷橋が見え始めたので、急いで橋そばの鉄砲洲稲荷社に駆け込んだ時は、すでに暮れ六ツを回っていた。
奉行所より借り受けた提灯は濡れ、すでに役に立たず、暗闇の中に覚えのある稲荷社を目指したのはこの後の平蔵に新たな展開を見せる前兆とは、当の平蔵もまだ知る由もなかった。
ガタガタと木戸を押し開けると
「だっ誰だ!」
低いが若い声がした。
「おっ!先客がござったか!真にすまぬがこの突然の難儀でござる、同室をお許し願いたい」
平蔵は言葉を尽くして堂内に入った。漆黒の中に人の気配がする
借り受けた提燈の底を持ち上げ、蝋燭の部分を取り出す。
(火打ち石がどこかに……。確かこの辺りにあったと想ぅたが)平蔵、手探りの中にも覚えのある燭台の立てかけてある場所を探り当て、指先に触れた火打ち石をカチカチと切り火し、火種箱に移して着火させ、それを着け木に点け、蝋燭に火を導いた。
軽い油の匂いとともに、ゆるやかに立ち昇る紫煙の明かりに照らされ、少しずつ部屋の様子が平蔵の眼に映り込んできた。
「やっこれは又先客はお若ぅござるな」
そう言いながら平蔵、観るとはなしにその若者を観た。
柱にぐったりと体を預けて身動きもできない様子に平蔵、
「これ、そこ元はもしや……。もしや病にでも掛かっておるのか?見れば長旅の末のようにもあるが」
言葉をかけつつ若者の傍に寄る。
若者は無言で身体を丸めている苦しそうな気配に
「熱はないのかえ?」
平蔵、若者の額に手をやって
「おっこれはいかん、かなりの熱さじゃ、かと申してもこの雨の中動くに動けぬ、ふむ困った」
何か身に纏わさねば、と言って我が身は氷雨に濡れ鼠の状態では、寒さに歯をガチガチ鳴らしながら震えている若者に手を出すこともならず、雨の止むのを待つしかなく、せめて背中をこすってやるくらいしか出来ず。為す術もないといった状態で、時だけが無情に過ぎていった。
それから一刻ほど過ぎた、夜五ツの鐘が聞こえる頃雨足が遠のき、静けさが徐々に戻って来た。
(深川仙臺堀今川町の桔梗屋まで十五町ほど。なんとかたどり着けぬ距離でもない)平蔵は意を決し、若者を背負い、稲荷社を出た。
夜の冷え込みはまた格段に冷たく、吐く息が闇夜にも伺えるほどである。
稲荷橋を渡り、東湊町から白銀町、四日市塩町、大川端と進んで豊海橋へ差し掛かった。
船番所をすぎれば、すぐ目の前は上野寛永寺の根本中堂建立の余材を使った長さ百十間の永代橋に出る。大川に架かる橋では四番目に架けられた物だ。
深川中ノ橋を渡れば佐賀町、その角を曲がれば今川町の仙臺堀桔梗屋がある。
平蔵は氷雨に冷え込んだ自身の体を鞭打つように、熱にうなされる若者を背負って歩いた。氷雨にじっとりと湿り気を帯びた衣服は、さらに冷え込み、歩くのもやっという状態であるものの、なんとか助けたいという思いが気を奮い立たせていたのであった。
桔梗屋もすでに戸締まりを終え、辺りは暗闇の景色に変わりはなかった。
その店前にたどり着き、門口を叩き叫んだ。
「女将わしだ、長谷川平蔵だ!すまぬがここを開けてくれぬか!」
平蔵、若者を背負ったまま幾度も大声を張り上げ、片手拳で戸口を幾度も叩いた。
やがて奥に明かりが灯り
「どなた様でございましょう?すでに火も落とし、店も閉めてございます」
板前の声が聞こえた。
「おい!秀次わしだ、長谷川平蔵だ!」
平蔵、聞き覚えのある板前の声に安堵しながら叫んだ。
「あっこれは長谷川様少々お待ちを!」
言って秀次、急ぎ戸口の閂が外された。
濡れネズミの平蔵が人を背負っていたのを見て
「どうなさいましたので!」
秀次は平蔵から若者を引き受け、店の中に運び込んだ。
騒ぎを聞きつけて女将の菊弥が夜着に上掛けをはおりながら走り出てきた。
「長谷川様又何となさいましてこのような時刻に」
言いつつ平蔵のただならぬ様子に気付き
「秀さん急いで部屋を用意してそれから長谷川様とお連れの方に何か着替えを見繕っておくれ、それから湯を沸かして───」
「任せておくんなさい女将さん!万事心得てございますよ」
秀次は若者をその場に横たえ支度に掛かった。
竈(へっつい)に薪を梵(く)べながら、自分の着替えを持ってきて若者に着替えさせる。
「ところで女将さんあっしのものではどうにも長谷川様には寸法が足りやせん、どうしやしょう?」
「このままでは長谷川様が大変なことになるよ秀さん、こんな場合は長谷川様に目をつむって頂いて、あたしのものでも羽織っていただくしか無いねぇ」
菊弥、袷(あわせ)のものを箪笥から引っ張りだし、平蔵に着替えるよう促した。
平蔵も苦笑いしながら乾いた手ぬぐいで体を拭き、袖を通す。
そうしている内に湯も湧き、まずは足を温めねばと、たらいに湯を張って若者の手足を浸し、吹き出す冷汗を拭い取った。
平蔵の印籠から薬を出して飲ませ、一刻(いっとき)ほどで若者の様子も落ち着いてきた。
「やれやれ!やっとあの方の様子も落ち着いてまいりましたよ長谷川様」
菊弥が平蔵にそう報告に上がってきたが、返事がない
「長谷川様!」
声をかけて襖を開けたその目の前に信じられない光景に菊弥、瞠目(どうもく)した。
平蔵は夜具に埋もれるように丸まったまま、蒼白な顔を天井に向け、眼は虚ろになっている。
「長谷川様!!」
菊弥、叫びながら平蔵の額に手をやってみる
「あっ!大変!秀さん大変だよ!長谷川様がお倒れになられたよ!どうしよう!」
蒼白に沈んでいる平蔵の顔を凝視したまま放心状態の菊弥
「女将さん落ち着いてくださいよ、とにかくあっしはこのことを染千代さんに知らせやす。着替えも要るでござんしょうし、お父つぁんの物なら間に合うでござんしょう?、それと熱冷ましの薬を早く!」
言い残して秀次、暗闇の中へ飛び出していった。
小半時して染千代が提灯を提げ飛び込んできた。
真っ青な顔色で染千代、二階へ駆け上がりつつ
「姐さん長谷川様がお倒れになすったって本当なの!」
叫びながら襖を開けた。平蔵の唇はすでに紫色に変わり、体力の消耗の激しいことが見て取れる。
染千代が手をおいた平蔵の額は火のように熱く、濡らした手ぬぐいはあっという間に湿り気を失ってしまう。
「秀さん手伝っておくれな!」
染千代、階下の秀次を大声で呼び寄せ、平蔵の衣服を剥ぎ取り、持参した父左内の着物に手早く着替えさせる。
「夜具をもう一組……それから湯たんぽを急いで作って頂戴」。
さすがに武家の娘だけあって、最低必要な手当は心得ているようである。
だが平蔵は体温の低下によって意識を失いかけており、体中が小刻みに震え、眼も焦点が定まらない様子である。
菊弥が湯たんぽを抱えて上がってきた。
「それを足元に、足先は身体全部の冷えを取りますから」
言いつつ染、着物を脱ぎ始めた。
「何するんだい染ちゃん、お前さん気でも違ったのかい!」
染千代の行動に驚いた菊弥の言葉を尻目に、染は肌襦袢一枚になって平蔵の横たわる褥(しとね)に潜り込んだ。
「姉さん!こうして人の体の温もりで温めるのが一番と、父上から教わったから、私はそうするだけ」
躊躇することもなく染、布団に潜り込み、背中から平蔵を抱きしめた。
「そんなことしたら、あんたが死んじまうじゃないか!」
菊弥がおろおろするのを、
「姐さん、あたしは長谷川様に助けていただいたこの命、この御方のためならばおしくはござんせん」
染千代、そうきっぱりと言い切った。
「染ちゃんあんたっていう人は……」
菊弥は火を移した七輪を部屋に運び込ませ、部屋も温める。
しゅんしゅんと湯気を上げて小鍋が湧くのをたらい桶に取り、手ぬぐいを絞って染に渡す。
それで平蔵の身体を拭いて吹き出す冷汗を幾度も幾度も拭い取る。
悪寒と痛みに顔を歪ませ、さらに呼吸も乱れ、苦痛に引きつるその顔を染、ただ抱きしめるしかなかった。
階下(した)では秀次が若者の看病を続けているが、こちらはもう峠は越えたようで、熱も下がり始めていた。
この戦いは翌朝まで続き、やっと外が白み始めた頃、秀次が医者のもとに駆けつけた。
秀次に引きずられるように医者が駕籠でやってき、まず階下(した)の若者を診(み)、手当を済ませ、投薬を与えた後、
「もうこちらは大丈夫、さてお次は」
と、二階に上がってきた。
染千代は身支度を整え、平蔵の手を握りしめながら手ぬぐいを取り替えていた。
医師玄庵は、平蔵の額に手をやり、胸をはだけ、耳を押し当て、心臓の音を探り、ひと通り調べ終えたが
「ひどく身体が弱り切っており、やがて咳も出てこようゆえ、暫くは動かさないほうがよろしいかと」
意味ありげに後の言葉を濁した。
「先生!助かるのでございましょうね!」
染千代の必死の眼差しに、玄庵、言葉をつまらせる。
「うむ、ともかくも水気を与えることを怠らぬよう、寒さが引けば今度は暑がるであろうが、それとともに熱を冷まさせ過ぎぬこと。これが大事じゃ、良いな!熱を取り過ぎるとかえって長引く。
これを間違わぬこと、おそらく酒を飲んだ上で急に身体を冷やしたのが基であろうと想われる。出来るだけ重湯なぞを与え、力をつけさせることじゃ」
そう注意を与え帰っていった。
その間に染千代、何やら認(したた)めて秀次に
「これを菊川町の長谷川様のお屋敷に届けておくれでないか」
きっぱりとした面持ちで書付を託した。
「へい!ひとっ走り行ってきやす」
秀次、どてらをきこみ、薄っすらと地面の光るみぞれ混じりの空の中、走り出ていった。
菊川町の火付盗賊改方役宅はまだ門も閉じられ、ひっそりと静まっている。
「お願いでございます!長谷川平蔵様がお倒れになられました!ご開門をお願い申します!!」
激しく叩かれる音と、声に驚いた門番が横の潜戸(くぐりど)を開ける。

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鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 6月 ゆうれい坂始末記




長谷川平蔵がこよなく愛した粟田口国綱とともに愛用した 井上真改 いのうえしんかい


この数日、平蔵は後を追う微行のかすかな匂いを引きずりながら市中見回りに出かけている。
目白の私邸に預けた崎森小四郎のその後を気遣い訪れた後、ゆるりゆるりと蓮光寺を抜け、ゆっくりと駒塚橋に向かって、うっそうと生い茂る本多丹下家と山名鏘之助家の森に挟まれた幽霊坂を下リ始めた。
黒田五左エ門屋敷から少し曲がりを見せ始めた時屋敷の塀脇の草叢から一気に殺気が背にかぶさるように降りかかった。
両脇を同時に責められ平蔵、たまらずよろけた拍子に鼻緒がぷっつり切れた。
思わずのめりそうになったことが幸いして、初太刀をかろうじてかわすことが出来た。
いくら一刀流免許皆伝の平蔵とて一度に両脇を貫かれては避けようもない。
流れた二人が太刀筋を整える間に、更に二人が背後から太刀風を浴びせてきたからもうどうにもこらえきれず平蔵一転して、太刀筋道を避け、起き上がりざま抜き胴を払った。
げっ!と重い声がして脚を切り裂かれた男がその場に倒れこんだ。
一瞬のたじろぎを見せた隙に平蔵、体制を整えて
「貴様らこのおれが長谷川平蔵と知っての狼藉だな!」
と一喝した。
相手の浪人者共は無言のまま更に間合いを詰めてくる。
「むぅ やむをえん手心は加えぬぞ!」
そう叫ぶと同時にもう片方の雪駄を脱ぎ捨てると見せかけて、いきなり正面の男目指して蹴り上げた。
土埃とともに砂が顔にかかり、思わずたじろいたところを懐に飛び込んで、正眼から真一文字に抜き払った。
胴を払われて脇腹から一気に血が吹き出した。
「まだやるかえ!」
平蔵の気迫に恐れたのか、仲間を気遣ったのか、ほうほうの体で幽霊坂を転がるように逃げてゆく。
平蔵は泰然とした面持ちで懐の手ぬぐいを取り出し、これを引き裂いて鼻緒をすげ替えた。
(一体何者であろうか?役宅からこの数日付かず離れずつきまとうこの一団の正体が見えないだけに、平蔵の心中も穏やかではすまされない。
それから十日あまりの後、平蔵の姿は深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅に見えた。
「あっ 長谷川様」
中からたすき姿のお染が出迎えた。
「お染どのはあいも変わらず美しいのう」
出迎える染を眩しそうに平蔵
「親父殿、本日はうの字のつく日によってこいつを持参いたした。
暑気払いもあり、また精がつくと申す故、のうお染どの・・・・・」
「長谷川様いつもありがとうございます、まぁこれはうなぎではございませぬか 父上!」
「これは又お気遣いをかたじけない」
「いや何、ちょいと冷めちまったので申し訳ござらぬが、なぁに少しばかり浸け焼き致さばあたたまるそうで、ホレこの通りタレも都合致して参ったあはははは」
平蔵は屈託なく笑い声を上げた。
なんとここは気配りをしなくても良い心の安らぎをしみじみと感じる居場所だと平蔵はおもう。
「この ウナギはな、上方では腹開きにいたすが、江戸では腹切りともうして意味嫌ぅて背開きに致すそうな」
「なるほどなぁ 左様な経緯もござるか」
左内は平蔵の見識の深さを改めて思っている。
「お染めどの、これはな、食べよいように串を打ち、蒸銅壺(むしどうご)に並べて蒸し上げ
脂を抜いて柔らかくしたものを今度はタレをつけて焼き上げる、いや中々に手の込んだもので、その分これ又酒が旨い!のう親父殿」
「あら またそのほうにお話が・・・・・・」
おっとっと こいつは禁句でござったなぁわははははは」
「まっ! 存じません!」
「ほれほれ又怒らせてしもぅた、やれやれ何とかと小人はムニャムニャと申しますからのう」
「おなごで悪ぅございましたね!」
「やっ いかん!火に油を注いだようで、おおっ!染どのウナギがウナギが火事でござる」
「あれっ これは大変せっかくのウナギでございますもの、そうは問屋がおろしませぬ」
染、素早く鰻を外し無事炙り直しができた。
その間にも、平蔵
「ついでにな、しじみの砂出しした物を分けてもろうた。しじみは何と申しても近江の琵琶湖産のセタシジミが旨い、だが中々手に入らぬ、ついでヤマトシジミこいつは海と川のまじりおうたところが一番、薄塩にて一時ほど吐かせた後、水からこうして昆布の出し汁の中で煮立てるとよいそうな。
アクをすくい取りながら煮立てば味見をし、白味噌を加えながらほどの加減を探さばよろしかろう・・・・・うんうん!この程度が上でござろう。
仕上げは小葱をトントントンと小刻みに刻み、椀に注ぎ、それに三つ葉か山椒の実を砕きたものか葉を細く切り椀に飾れば・・・・・・
おう出来たではござらぬか!やぁこれは又美味そうでござるよ親父殿
何しろ染どの手造りでござるからのう」
平蔵は渋扇をゆらゆら揺らせながら、左内が紅潮した顔でしじみ汁をすすりこむのを嬉しそうに眺めている」
「うっ旨い!」左内は顔をほころばせて更に汁をすすった。
「この鰻も中々でござるよ!酒々もすすんで元気が出ますぞ!」
「所で染どの、その後の桔梗屋はどのような具合かのう?」
と小声で尋ねた。
少し耳が遠くなった左内にはこの話は聞こえてはいない風で、酒を飲み、箸を膳に預けてはジジミ汁に舌鼓をうっている。
「何でも木曾やが裏で動いているらしく、お上の手ではらちがあかないために無頼の者を雇って何かを目論んでいるような話が寄り合衆の話の端々に・・・・・・」
「やはりそうであったか」
平蔵は先日の目白の幽霊坂で刺客に襲われたのは、もしやと感が働いていた。
「まぁ恐ろしい!もし長谷川様に何かあらば私は・・・・・・」
「案ずるな染どの、過日は予期せぬ襲撃に後れを取ったが、相手が判明致さばこちらも用心ができようというもの、案ずるには及ばぬ、案ずるには・・・・・」
こうして十日ほどが過ぎた。
(そろそろ傷も治っていよう、動き出すなら今からであろう)平蔵、このことを読んで菊川の役宅から出かけるときは表門から塗笠を下げて一人で出かける。
やはりわずかに歩いたばかりで塀の影からじっとりと粘りのある気配が付いてくる。
そのわずか後ろをこれ又小野派一刀流の使い手、
「わしとてまともにやりおうたら勝ち目がないかも知れぬ」
とまで言わしめる沢田小平次が微行ている。
九段坂を越え、田安御門を横切り三番町を抜け、市ヶ谷御門へと歩を進める。
伝馬町を通り、大木戸、中町、を過ぎ上町の重宝院の追分を左に折れた、ここは高札場がありその先は千駄ヶ谷へと続く道である。
平蔵は立ち止まって塗笠を上げ廻りを見渡した。
すぐ左が土手になり見通しもよくここならば手頃な場所と踏んで仕掛けて待つことにした。
空は青碧と晴れ渡り真っ白な雲が浮いている(寝て待つか)平蔵は土手に寝そべって誘いを仕掛ける。
傘を顔にかぶせれば、強い日差しは防げるし、眼を養うことも出来る、しかも土手に響く足音もよく聞こえることを平蔵は知って仕掛けているのだ。
とととととっ と小走りに複数の足音が近づくのを聴きとめて横においた和泉守國貞をひっつかんですっくと立ち上がった。
愛刀粟田口国綱よりわずかに大振りなこの剣を選んだのはこの広さでは気にすることなく振れるからであった。
さすがに選ばれただけのことはあって対峙しただけで殺気が動きを阻む。
「ひいふうみい・・・・・五つか・・・・・」
草履をゆっくりと脱ぎ捨てながら鬼献上をきっちりと締めた中に大刀を手挟みしつつ相手の動きを目で読む。
「だぁ!」
一人が待ちきれず大上段から真正面に振りかぶったまま一気に振り下ろした。
それを間髪左に捻って肩先に外しながら抜き胴で流れる体を真一文字に払った。
ぐへっ!その刺客が血反吐を吐いて土手下に転がっていった。
その時敵の後ろから微行いてきた沢田小平治が打ちかかった。
思いもかけない伏兵に敵の足は乱れて陣形が崩れてしまった。
「御頭!」
沢田は叫びながら平蔵との背を一間ほど空けて正眼に構えた。
「おう 待ってたぜ!今日の奴らは過日の輩とは違ぅて中々の手練のもの、決して油断はするでないぞ」
「心得てございます」
沢田はすでにたすきを掛けて袖さばきも巧みにしていた。
「おい 死にてぇやつからかかってきな、火付盗賊改方斬り捨て御免故容赦はせぬぞ」
平蔵の言葉が終わらぬうちに前の二人がそれぞれ八双と上段から打ちかかってきた。
平蔵は刃がまだ届く前に飛び込みざま胴払いで一人を切り上げた。
胸から顎を断ち割られてぎゃっと叫んでその場に転倒した。
返す二太刀めはもう一人の右肩先から袈裟懸けに和泉守國貞が肩口に食い込んでいた。
ぐえっ!!!刺客はブルブルと腕を震わせながら平蔵めがけて振り下ろそうとあがいている。
平蔵は返す三の太刀でそのまま敵の胸を貫き通した。
びゅっと血潮が吹き出して、刺客はひゅぅひゅぅと声にならない声を発しうつ伏せに倒れこんだ。
振り向くと残りの刺客はすでに戦意喪失の状態で固まってしまっている。
「それほど死に急ぐことはあるまい、帰って主に申せ、この長谷川平蔵いつでも相手になってやるとな、命が惜しくば江戸から去ることだな、つまらねぇ意地を通して居座れば、必ずや捕まえて冥土の土産を持たしてやろうほどに、こころしてかかってこいと申し伝えよ!」
と言い放った。
ゆるりゆるりと後ずさりした残りの二人は後も見ずに脱兎のごとく逃げ去った。
「沢田ご苦労であった!」
平蔵はこの長き一日を共にした沢田小平次にねぎらいの言葉を掛けた。
「御頭 商人の金の力は計り知れませぬなぁ、武士が商人に金で操られる世は何とも虚しゅ存じます」
土手の向こう十二社権現の方を陽が真っ赤に空を焦がしながら落ちてゆく。
「長かったのう・・・・・」
ポツリと平蔵がこぼした。
その深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅・・・・・
「長谷川様 木曾やは江戸を引き払ったそうでございますね」
と平蔵に問いかけた。
「うむ もう江戸では商いは成り立たたぬであろう、これ以上無謀なことは出来まい自滅が待っておるだけだからなぁ」
「ではこの深川も少しは暮らしよい町になるのでございますね。嬉しい!」
平蔵の横顔を熱い思いで見つめる染の顔がそこにあった。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 5月


粟田口近江守国綱の末裔一竿子


天明四年三月二十四日、田沼主殿頭((とのものかみ)意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知(おきとも)は、江戸城内において旗本佐野政言(まさこと)により粟田口国綱の末裔一竿子(いっかんし)忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代               
(家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉(いなり)を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠(おきのぶ)の嫡男、田沼能登守意致(おきむね)のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致(おきむね)小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主殿頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
池の底
「さてさて、かつて陸奥へ追いやった越中は使える、此奴を使って相良を追い出さねば儂の思い描く世が訪れぬ。まずは越中を老中格に据えてからの話だ」
こうして一橋治済(はるさだ)、徳川御三家、中でも筆頭格尾張大納言徳川宗睦(むねちか)は年上とあって、まずここを落とさねばならないと的を絞り、千代田城大廊下上之席に座している尾張大納言宗睦の座した上手に廻り、膝を詰めるようににじり寄り
「如何でございましょか尾張様、今、まだ上様は稚(おさの)うございます、そのためには上様お側近くにて補佐する者も必要(いろう)かと。そこで白河松平越中殿を老中に推挙致したいのでござりますが……白河殿は八代様お孫様に当たられるゆえ、御家門は妥当かと存じまする」
治済、そっと耳打ちするように尾張大納言宗睦に膝を進める。
(ふん、我ら御家門を蔑(ないがし)ろに、裏でこそこそと十代様に仕掛けておきながら、今になって我らを都合よぅ使うつもりか若造めが)宗睦、顔を背けつゝ、じろりとその細く顰(ひそ)めた目を流す、その先に一橋治済の蛇のように冷やゝかな策士の目が待ち構えていた。尾張大納言宗ね)睦、思わず顔に緊張が走ったものゝそこは流石に古狸、さっさと視線を戻し、横に座す水戸中納言治(はる)保(もり)へ無言の言葉を投げかけた。
それを見据えたまゝ治済、
「紀州殿はご承知くださりましょうな」
己より年下の、この若き当主をみやったその言葉には、有無を言わさぬという圧力がこもっている。
 「そ……それはそのぅ」
 言葉を濁しその場に居合わせる水戸・尾張両当主の顔色を窺う。
 (何処までも姑息な……)
そうは思うものゝ、この現状で詰め寄られては応えぬわけにもゆかず、尾張大納言宗睦
 「我等とて、上様をお支え致す立場なれば異存なぞあろうはずもございますまい、のう水戸殿」
水戸中納言治保(はるもり)を一瞥、小さく頷くそれを見届け、紀州大納言治寶(はるとみ)を見下すようにじろりと眺める。いくら石高が百万石を越え、尾張を凌ぐと言えど、年の開きは序列に如実に現れてくる。
 「大納言殿、我らに異存はござらぬ、越中殿の事、承知にござる」
忌々しげな口調に尾張大納言宗(むね)睦(ちか)、ボソリとつぶやき、もうその話、よろしかろうと言わんばかりに目を閉じた。
この大一手は、かつて自分が画策し、久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗(むね)武(たけ)の七男松平越中守定信(幼名賢(よし)丸(まる))を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼主殿頭意次一派包囲網の策謀が完成を見たのであった。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る  4月

「そこだ(おき)(もと)、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男(まさ)(まる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるさだ)、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様とまさまる)様のお二人。お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものゝ、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折にはまさまる様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に(はる)(さだ)立ち上がる。
 
外濠
 
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた(てい)(かん)の間がある。
一橋(はる)(さだ)、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋(はる)(さだ)様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦(さだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐(いきの)(かみ)様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、(ため)(ずめ)祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男まさまる)様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿(はる)(さだ)
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿(はる)(さだ)の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安徳川(まさまるとの養子縁組を上奏したのである。
 
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川まさまるの養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守(おき)(もと)、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察(はるさと)薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居たまさまる)は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の判断で、一度決定されたものを反古(ほご)にすることは認められないと却下。田安徳川(よし)(まる)は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(まさまる)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣(のぶため)、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒(との)殿頭(ものかみ)様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)へ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが(したた)められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
 
 
青い果実
 
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋(はる)(さだ)は、一橋家家老田沼能登守意致(おきむね)
「どうであろうか、ご老中(との)殿頭(ものかみ)様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍(いえ)(なり))を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致(おきむね)
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川(よし)(まる)を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守(おき)(のぶ)より聞かされていた田沼能登守意致(おきむね)
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼(おじ)()()様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致(おきむね)
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済(はるさだ)からの申請を受け、田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)、早速登城し、()せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済(はるさだ)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川(いえ)(なり))を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致(おきむね)は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼(との)殿頭(ものかみ)意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川(いえ)(なり)近衛寔子(このえただこ)は一橋家へ引き取られ(いえ)(なり)と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済(はるさだ)、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様は(との)殿頭(ものかみ)殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼(との)殿頭(ものかみ)(おき)(つぐ)は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 3

置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗(むね)武(たけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう)(抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免(ひめん)。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、誠にありがたきお言葉、この田沼意誠、謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平伏したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭(意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭)意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未(いま)だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意(おき)誠(もと)、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 2月号




青い果実

安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)


念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田沼能登守意致に「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を実父田沼能登守意誠より聞かされていた田沼能登守意致(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。そう踏んだ田沼能登守意致「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉))を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基様は主)殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代    (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 1月号


置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武(むねたけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹(むねただ)を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、真にありがたきお言葉、この田沼意誠謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平服したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹(むねただ)薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠(おきのぶ)、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済(はるさだ)様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉が誕生している。
「のう意誠、十代様には未だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。
「そこだ意誠、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝(てい)鑑(かん)の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(ためずめ)(祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治(はる)斉(さだ)
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安田安徳川賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの判断で、一度決定されたものを反古ほごにすることは認められないと却下。田安徳川賢丸は陸奥白河に封じ込められ
る状態に置かれたのである。後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの屋敷を訪れた。奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣のぶため、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主との殿頭ものかみ様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐへ進物を上納したのである。その中には閣僚への推挙願いが認したためられていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主との殿頭ものかみ意おき次つぐの暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。

 

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鬼平犯科帳 鬼平まかり通る  12月

粟田口国綱

この数年後十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様はご老中の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか、お聞き及びではござりませぬか?」
と告げた。
十八歳の若さで突然奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
と激昂し、疑心暗鬼に陥ったまま、懐刀であった田沼意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明4年3月24日、田沼意次嫡男にして老中であった田沼意知(おきとも)は江戸城内において佐野政言により粟田口国綱(長谷川平蔵愛刀)の末裔一竿子忠綱の大脇差で殺害されている。
天明6年(1786)8月25日第10代将軍徳川家治が五十歳で没し、一橋徳川豊千代(家斉・いえなり)が晴れて第十一代将軍の座についたのである。
我が子一橋家斉(いえなり)を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永3年以来13年に亘って費やして以後、残るは田沼意次の実弟、家老田沼意誠(おきのぶ)である。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった田沼意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼意次一人に押し付ける工作が始まったのである。
その大一手が罪滅ぼしのつもりもあってか、かつて自分が画策して久松松平家陸奥国白河郡白河松平家二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武の七男松平定信(幼名賢丸・まさまる)を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼意次一派の包囲網が完成を見たのであった。
白河の水も恋しや
こうして白河松平家松平定信は、若干十五歳で第十一大将軍に就いた一橋徳川家斉(いえなり・豊千代)の後見役となり老中の席に就き、この自分を田安家におかず辺境の白河藩に追いやった田沼意次や弟意誠(おきのぶ)、甥の意致(おきとも)が家老を務めていた一橋治済(はるなり)と田沼一派、それに組みした政権に関わる者達に対し憎悪を燃やし、これを機に田沼一派の排除が本格化していった。
天明6年(1786)8月27日田沼意次は老中を解かれ雁の間詰に降格され、10月5日2万石を没収。
大阪の蔵屋敷の財産も没収。江戸屋敷の明け渡しも行われ、蟄居(ちっきょ)の後再び減封を命じられ、居城であった相良城は微塵の痕跡もないほどに打ち壊された。
老中首座についた松平定信が定めた寛政の改革(1787~1793)には、賄賂を禁じる項があり、盆暮れのお礼など、本来支払うべきこれらのものまでも差し出さなくなったため、寛政4年(1792)皮肉な事に付届けを義務付ける御触出しを出さざるを得なくなったのである。
田沼時代に幕府財政の収入が増えていたものを、定信が掲げた改革によって逆に百万両(1兆円)もの借財が出来てしまった。
{田や沼や よごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水}と落首にのぼったものの、太田南畝により
{白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき}と狂歌に詠まれる始末となり、わずか6年で老中首座を失脚したのである。
この若き老中首座の松平定信も、したたかな一橋治済にかかっては手持ちの駒でしかなかったようで、定信が主導した寛政の改革は財政の立て直しのために厳格すぎ、将軍家斉や他の幕臣から批判が上るようになった。
長谷川平蔵亡き後の寛政5年(1793)7月、第十一代将軍徳川家斉と、その実父一橋治済の目論見に嵌められ、此処に松平定信は老中首座を罷免されるのである。
鬼平誕生
天明3年(1783)浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明7年(1787)江戸・大阪を中心に地方30箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺・北町奉行曲渕甲斐守景漸だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、筒組(つつ・鉄砲隊)7・6・19・17・2・9弓組2・6弓組。
弓二組頭であった長谷川平蔵は与力75騎・同心300名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
この時、老中牧野越中守忠精は
「手に余れば切り捨ててよし」
と下知を下した。
天明6年(1786)老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒(賂受付係)であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明7年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役を加役される。まさに絶妙の好機であった。
すなわち、天明7年(1787)5月20日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
5月15日過ぎより両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために18日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら) 北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげゆき)火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、20日夕刻赤坂の米屋2~30軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発、これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも商人は賂を贈って武家屋敷に米を隠匿した。そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
5月23日これを鎮圧するために、御先手組に出動命令が出たのである。
24日芝・田町を最後に、翌25日さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋500軒あまり、その内の400軒は米屋、米搗き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総国佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉に問い正されたものの、田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田準松は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平定信、将軍補佐という役柄から、家斉に
「御心得之箇条」より、
「60余州は禁廷より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。後にこの考えが存在した為、黒船来航以後その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に徳川慶喜によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌8年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。
老中奉書
本所菊川町の火附盗賊改方長谷川平蔵役宅に下野国壬生老中鳥居丹波守忠意(ただおき)より呼び出しがかかった。
(はていつもなら気軽にお招きあるものを、此度はまたどのようなおつもりなのか、思い当たる事と言えば、これまで幾度も差し出すものの全くなしのつぶてとなっておる加役方人足寄場の建議書……なればよいのだが。ご老中直々ということならば、さてさて)
翌日指定された西之丸下の鳥居丹波守役宅を訪れた。
接見の間に祗候(しこう)すると長谷川平蔵、そこにはすでに鳥居丹波守忠意の姿があった。
平蔵低頭し言葉を待つ。
この鳥居丹波守忠意とは平蔵が水谷伊勢守勝久によって西之丸書院番4組に取り立てられた頃より昵懇(じっこん)の間柄であり、水谷伊勢守勝久とともに平蔵の後ろ盾となっている人物である。
「長谷川平蔵、此度辰ノ口評定所(和田倉門内)への人足寄場建議に付、少々尋ねたき議これあり返答いたせ。そこ元はいかなる所存にて此度人足寄場を建議致した」
低頭して控える長谷川平蔵の心底を確かめる如く丹波守、柔和な面持ちの中にも眼光は鋭さを持って臨んでいた。
「ははっ!!」
平蔵低頭し、
「されば…人はこの世に生まれしおりより悪事を為す者はござりませぬ。なれど生きてゆく上においてやむなく悪事に手を染めることもござりましょう」
「うむ 確かにのぉ」
「さすれば、罪を憎みしも、人までその憎しみで計るのは御政道の致すことにあらずと存じまする。
まずは罪を犯させぬよう致すことこそが寛容かと、そのために初犯に至らぬ者においてはこれをまっとうなる道に戻す方策も必要と存じまする」
丹波守忠意、このきっぱりと持論を述べる長谷川平蔵をよく解っていた。
(なるほど確かに一理ある、なれど一介の旗本が政に口出すことは罷りならぬ事、それを此奴は想ぅても居らぬ風)
「黙れ長谷川平蔵!そこ元はお上の政を批判致すつもりか!」
「ははっ!もとより然様なことは微塵も想うてはおりませぬ、が…」
「が、如何致した」
「はい、たとえ強請(ゆす)り集(たか)りであろうと、ただの物乞いであろうと、これもまた物乞いに変わりはござりませぬが、為すことはおおいに違いまする。
御法は人を守るためのものでなければなりませぬ。これを政で賄えるものであるならばそれを致すことも大事の一つと心得まする」
丹波守、政事を預かる身としては幕府批判とも受け取られかねないこの言葉は聞き捨てならない。
「そこ元は政事も手落ちがあると申すか」
「滅相もござりませぬ、なれど何事も用い方一つではなきかと存じまする。
悪事をひと所に纏めたとて、それで罪が消えるわけでもなくば、再び悪に走ることを止める手立てにもならぬかと存じます。
更に申せば、これで終わるわけでもござりませぬし、益々これらは増えるばかりのご時世、虞犯者(ぐはんしゃ・法に触れてはいないが法を犯す恐れのあるもの)なども何がしかの方策を持ってこれに当たらねば、やがては罪を犯す事になりかねませぬ。これでは江戸の庶民は安心して暮らすこともままなりませぬ」
(丹波守様が此処で剛力下されば、この建議お聞き届けいただけるかも知れぬ、ならば儂にとって百万の味方を得たのも同然)
平蔵、丹波守の心底が視えてきたのでふと口元が緩んだ。
「うむ、それが授産の方策と申すのだな?」
丹波守、平蔵の口元の緩みを逃さず認め、にやりと口元に笑みを浮かべる。
「はい 真然様に存じまする」
(儂の生涯をかけた賽は振られた、あとは御沙汰を待つのみ)
「ふむ、そちの申すこといちいちもっとも……あい判った!しばし待て、追っての沙汰を待つが良い」
丹波守、長谷川平蔵の熱い思いを確かめたことへの安堵の思いがその顔に出ている。
「ははあっ!!」
平蔵低頭する間に丹波守退座した。
(ふぅ~さて、此度こそお許しをいただけるやも知れぬ)平蔵の心のなかに爽やかな一迅(じん)の風が吹き抜けた思いであった。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 11月


オットセイ将軍と呼ばれた徳川家斉 確認できる範囲でも、本妻に16名の側妾を持ち、女27名、男26名を授かっている。中でも特筆すべき?は、当時精力剤として知られていた津軽名物オットセイの睾丸の燻製を飲んでいたとか……。


安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸(まさまる)の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠(おきもと)、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察(はるさと)薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる)は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。
しかし、時の老中松平越智守武元(たけちか)・板倉佐渡守勝清・田沼主殿頭意次((とのものかみおきつぐ)の判断で、一度決定されたものを反古(ほご)にすることは認められないと却下。
田安徳川賢丸(まさまる)は陸奥白河に封じ込められる状態に置かれたのである。
後、やむなく白河城主となっていた松平越中守定信(賢丸(まさまる)も、閣僚への未練を捨てきれず、閣僚推挙を画策し、田沼主殿頭意次の屋敷を訪れた。
奇しくも時の西之丸仮御進物番士は長谷川平蔵以宣(のぶため)、後の盗賊火付御改長谷川平蔵であった。
「何卒主殿頭様によしなに──」
陸奥白河城主松平越中守定信、老中田沼主殿頭意次へ進物を上納したのである。
その中には閣僚への推挙願いが認められていた。
だが、残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、千代田城内で老中田沼主殿頭意次の暗殺も二度に亘って企てるに至ったほどである。
この時の無念さは、この時仮御進物番士であった長谷川平蔵へも向けられ、その執念もただならぬ物があったと言えよう。
それは通年ならば二~三年で町奉行などへ栄転する盗賊火付御改を八年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、長谷川平蔵五十歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。
青い果実
安永八年二月二十一日、十八歳になった徳川家基(いえもと)は新井宿での鷹狩の帰り、品川の東海寺で体調不良を訴えた。
この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲むも、症状は変わらず、田沼殿頭守意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出されるもこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。
その三日後、十八歳で薨去(こうきょ)(急死)
念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。
世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の四男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家の何れかから立てることになっている。
天明元年閏(うるう)五月、三十歳になった御三卿の一人一橋治斉(はるさだ)は、一橋家家老田沼能登守意致(おきむね)に
「どうであろうか、ご老中主殿頭様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家斉(いえなり))を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」
と切り出した。
それに応えて田沼能登守意致(おきむね)
「次番の田安家は明屋敷ゆえ跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じます」
そう答えるしかなかった。
今にして思えば八年前、田安徳川賢丸を田安家から排除する相談があった事を、実父田沼能登守意誠(おきのぶ)より聞かされていた田沼能登守意致(おきむね)
(何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの田沼意次様も此処までは読まれなかったやも知れぬ)
しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰。
そう踏んだ田沼能登守意致
「では早速にご老中に進言為されますよう」
と奨めたのであった。
一橋徳川中納言治済からの申請を受け、田沼主殿頭意次、早速登城し、臥(ふ)せっていた十代将軍家治を説得し、一橋家当主徳川治済の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川家斉を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。
時は天明元年のことである。
同時に田沼能登守意致は西之丸御側御用取次見習いへ移動、これは田沼主殿頭意次の意向であった。
それと同時に一橋徳川家斉と近衛寔子(寧姫・篤姫・このえただこ・あつひめ)は一橋家へ引き取られ家斉と一緒に育てられる。
この五年後、十代将軍家治が危篤状態と聞きつけた一橋治済、病気見舞いと称し登城、臥せっている将軍家治の耳元へ
「十代様、窃(ひそ)かなる噂にござりますが、家基(いえもと)様は主殿頭殿の薦めた御医師の御薬湯をお含みになられた後、急にお倒れになられたとか──。お聞き及びではござりませぬか?」
傍に控えている用人に聞こえないよう用心しつゝ家治の耳元に吹き込む。
突然十八歳の若さで奪われた我が子を思い、悲嘆に暮れていた家治には、すでに物事を冷静に判断する力も気力もなかったのであろう、
「それはまことか!それが真ならばゆいしき事!」
こう激昂、疑心暗鬼に陥ったまゝ、懐刀であった田沼主殿頭意次を疎(うと)んずるようになってしまったのである。
この諜略で十代将軍家治の勘気を受けた田沼主殿頭意次は面会謝絶となり、政務から遠ざけられてしまった。
天明四年三月二十四日、田沼主殿頭意次嫡男にして老中であった田沼山城守意知は、江戸城内において旗本佐野政言により粟田口国綱の末裔一竿子(いっかんし)忠綱の大脇差で殺害されている。
天明六年八月二十五日第十代将軍徳川家治が五十歳で薨御(こうぎょ)し、一橋徳川豊千代        (家斉)が晴れて第十一代将軍の座に就いたのである。
我が子家斉を将軍職につけるために、妨げとなるものを全て排除する企てを安永二年以来十三年に亘って費やして以後、残るは田沼能登守意誠の嫡男、田沼能登守意致のみとなり、これも翌天明七年五月二十八日、天明の打ちこわしを機に、田沼能登守意致、小姓組番頭格西之丸御用御取次見習を罷免される。
ここに、十代将軍徳川家治死去に伴うこれを好機と捉え、目の上の瘤となった老中田沼主殿頭意次や意次派の幕閣を退けるため、これまでの企てを総て田沼主殿頭意次一人に押し付ける工作が一橋治済によって始まったのである。
池の底
「さてさて、かつて陸奥へ追いやった越中は使える、此奴を使って相良を追い出さねば儂の思い描く世が訪れぬ。まずは越中を老中格に据えてからの話だ」
こうして一橋治済、徳川御三家、中でも筆頭格尾張大納言徳川宗睦(むねちか)は年上とあって、まずここを落とさねばならないと的を絞り、千代田城大廊下上之席に座している尾張大納言宗睦の座した上手に廻り、膝を詰めるようににじり寄り
「如何でございましょか尾張様、今、まだ上様は稚(おさの)うございます、そのためには上様お側近くにて補佐する者も必要(いろう)かと。そこで白河松平越中殿を老中に推挙致したいのでござりますが……白河殿は八代様お孫様に当たられるゆえ、御家門は妥当かと存じまする」
治済、そっと耳打ちするように尾張大納言宗睦に膝を進める。
(ふん、我ら御家門を蔑(ないがし)ろに、裏でこそこそと十代様に仕掛けておきながら、今になって我らを都合よぅ使うつもりか若造めが)宗睦、顔を背けつゝ、じろりとその細く顰(ひそ)めた目を流す、その先に一橋治済の蛇のように冷やゝかな策士の目が待ち構えていた。
尾張大納言宗睦、思わず顔に緊張が走ったものゝそこは流石に古狸、さっさと視線を戻し、横に座す水戸中納言治保(はるもり)へ無言の言葉を投げかけた。
それを見据えたまゝ治済、
「紀州殿はご承知くださりましょうな」
己より年下の、この若き当主をみやったその言葉には、有無を言わさぬという圧力がこもっている。
 「そ……それはそのぅ」
言葉を濁しその場に居合わせる水戸・尾張両当主の顔色を窺う。
 (何処までも姑息な……)
そうは思うものゝ、この現状で詰め寄られては応えぬわけにもゆかず、尾張大納言宗睦
「我等とて、上様をお支え致す立場なれば異存なぞあろうはずもございますまい、のう水戸殿」
水戸中納言治保(はるもり)を一瞥、小さく頷くそれを見届け、紀州大納言治寶(はるとみ)を見下すようにじろりと眺める。
いくら石高が百万石を越え、尾張を凌ぐと言えど、年の開きは序列に如実に現れてくる。
「大納言殿、我らに異存はござらぬ、越中殿の事、承知にござる」
忌々しげな口調に尾張大納言宗睦、ボソリとつぶやき、もうその話、よろしかろうと言わんばかりに目を閉じた。
この大一手は、かつて自分が画策し、久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平定邦に押し付けた田安徳川家松平宗武(むねたけ)の七男松平越中守定信(幼名賢丸(まさまる))を紀伊・尾張・水戸の御三家を動かし、老中に擁立し、此処に田沼主殿頭意次一派包囲網の策謀が完成を見たのであった。

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鬼平犯科帳  鬼平まかり通る 10月


一橋治済

置き土産
御公儀では東照神君徳川家康公代々の家臣を譜代と呼んだ、その中でも紀伊・尾張・水戸は、松平姓を名乗ることが出来た御家門とは別の扱いで、徳川将軍の次席の地位を有しており、それを御三家と呼んだ。
これに対し、八代将軍紀伊大納言徳川吉宗は自分の四人の中の長男家重を九代将軍に任命。
この身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗(むね)武(たけ)は、父吉宗に諫奏(かんそう)(抗議文)を送った。これに怒った吉宗は次男宗武を三年の登城停止とし、これを推した老中松平和泉守乗邑(のりさと)も罷免(ひめん)。
次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、三男は死没の為四男宗尹(むねただ)を一橋徳川家に就かせた。
その後、長男家重の次男にも新たに清水家を創設し、これに就かせ。これを御三卿と呼んだ。
こうして将軍家に世継ぎがない折は、この御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのである。
田沼のあけぼの
寶暦九年一橋徳川中納言宗尹(むねただ)の附切(つきき)、田沼意意誠(おきのぶ)は一橋家家老伊丹直賢(なおたか)に呼び出された。
「田沼意誠、そちを附切から家老にと中納言様の御沙汰である、謹んで承れ」
附切とは側に附きっきりと言う意味で、御側御用である。
「ははっ、誠にありがたきお言葉、この田沼意誠謹しみてお受けいたし奉ります」
意誠平服したまま沙汰を聞く。
「意誠、そなたを家老に推したは、我が孫の主であり、又、そちの兄、田沼意次殿は上様側御用取次の立場に居られる。ゆえに、今後共この一橋家をなおいっそう盛り立てるために力を貸してもらいたい。それが儂のたっての願いでもある」
こうして田沼家と一橋家の繋がりが生まれたのである。
明和元年、一橋徳川中納言宗尹(むねただ)薨去(こうきょ)に伴い、一橋徳川中納言宗尹の四男治済(はるさだ)が弱冠十三歳で一橋家当主に治まった。
田沼能登守意誠、一橋家筆頭家老伊丹直賢(なおたか)に呼ばれ控えた。
「意誠殿、中納言様御逝去あそばされ、御世継の治済様はまだ十三歳と稚(おさな)く、我ら家臣がお護りいたさねばならぬ。従いそちにも力を貸してもらいたい。
そこでそなたに相談なのだが、どうであろう、主殿頭(とのものかみ)殿に力添えを頼めぬであろうか」
そう切り出して来た。
「義父上様の御存念、この意誠しかと受け賜わりましてござります」
こうした経緯(いきさつ)があって、田沼意誠、このまま将軍家世継ぎが無くば、御三卿の世継ぎ争いの火種とももなりかねない旨、田沼主殿頭意次に進言した。
この頃田沼意誠の実兄田沼主殿頭意次は十代将軍徳川家治の側用人であり、次第にその権力を増していた時期である。
当時将軍徳川家治は正室に世継が恵まれず、これを案じた田沼主殿頭意次、
「上様、今だ御台(みだい)様におかれましてお世継のなきは、真に一大事ともなりましょう。御近臣皆々様方の御案じなさるゝ事、尤も至極に存じまする。このまゝお過しなされますは、上様の御威光にも関わりますゆえ、何卒御世継の事、御再考御願い奉ります」
「意次、御台の事、諦めよと申したいのか」
「上様、乍恐(おそれながら)御姫様御二方共御他界あそばされ、今だ和子様に恵まれてはおりませぬ。そこの所を何卒何卒御勘案下さりますよう、意次伏して御願い申しあげます」
「……意次、確かにそなたの申す事一理ある。ではこの儂に如何せよと申したいのじゃ、存念のあらば申して見よ」
「ははっ、さらばに御座りまする。上様に於かれましては御側室お知保の御方様がおられますれば……」
「相理解(わか)った。ならば是非もあるまい」
こうして翌寶暦十二年十月二十五日徳川家基(いえもと)が生誕したのであった。
謀(はかりごと)
この十一年後、安永二年、一橋治済の嫡男一橋家斉(いえなり)が誕生している。
「のう意誠、十代様には未(いま)だもってお世継が居られぬ、このまゝなれば次の将軍職は田安となろう」
一橋家では主殿頭意次の弟、田沼能登守意誠が家老を務めていた。
こう意誠に問いかけたのは一橋家当主徳川民部卿治斉であった。
「それは順序からしてそうなりましょう」
(さてさて殿は次が田安家と思ぅて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもり)か)
「うむ、面白ぅないのぅ──」
脇息(きょうそく)に肱(ひじ)をつき、両掌に顎を乗せ、不満そうに治斉
「と申されましても……」
(やはりそこであったか)と内心思いつゝも、少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠、素早く顔を庭の方に治済の眼をかわす。
「そこだ意誠、どうだ、田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる)(後の老中松平定信)であろう。これを取り除けば田安には十一代様に成る者がおらぬようになろう」
大名武鑑をめくりながら一橋治済、狡猾な眼を横目に移し、後ろに控える家老へ言葉をなげた。
「確かに、仰せの通りに御座います。が、まずもって然様なことは──」
「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸様のお二人。お世継ぎは治察様と言う事となるものゝ、万が一治察様になんぞ異変が生じました折には賢丸様が跡目相続という事になりまする。
それを摘み取ることは間違いなく時期将軍職はこの一橋と言うことにはなりましょう」
「そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬな」
大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉立ち上がる。
外濠
千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下となっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合わせをしていた帝(てい)鑑(かん)の間がある。
一橋治斉、この前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥白河郡白河二代城主松平越中守定邦(さだくに)に
「越中殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、しばしお耳拝借願えましょうか」
と切り出したのはこの年のことであった。
「これはまた民部卿様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで一言も交した覚えのない一橋治斉様が、一体どの様な話しがあると云うのか?)
訝る松平越中守定邦に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと耳打ちしたのである。
「如何でございましょう越中殿、同じ久松松平隠岐守(いきかみ)様も田安家から定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(ためずめ)(祗候席(しこうせき)と言い、将軍拝謁の順を待つ大名が詰める最上席)に昇格しておられることはご承知でございましょう。                 もしも越中殿が、同じ田安家七男賢丸様をご養子にお迎えなされば、越中殿の溜詰も夢ではござりませんのでは?何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからねぇ。
そのようなお話にでもなろう折は、及ばずながらこの一橋、お力添えをさせていただきましょう」
意味ありげな顔で一橋民部卿治斉
「一橋様、それはまことにござりましょうか」
徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)白川郡の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋民部卿治斉の甘言はまことに心地よい響きを持っていたのである。
「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵なぞござりません」
松平越中守定邦、そう持ちかけられ、まんまとこの策略に乗り、田安徳川賢丸との養子縁組を上奏したのである。
安永三年三月十五日、公儀より命が下り、松平越中守定邦と田安徳川賢丸の養子縁組が決まった。
この相談を受けた田沼能登守意誠、ふた月前に一橋家家老のまま卒している。
ところがこの安永三年九月、田安家の嫡男治察薨去(こうきょ)に伴い、田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸 は、この度の養子縁組解消を公儀に願い出る。

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鬼平犯科帳 鬼平まかり通る 9月


松平越中守定信  筆頭老中着任時 29歳であった。

鬼平誕生
天明三年浅間山の大噴火が起こり、その被害は甚大なもので、後に天明の飢饉と呼ばれ、これにより田畑を失ったり禄を離れた浪人などが江戸に大挙して流れ込み、これらにより天明七年江戸・大阪を中心に地方三十箇所あまりでも打ち壊しや暴動、盗賊事件が頻発。
時の老中田沼主(との)殿頭(ものかみ)意次の政策であった囲米も放出を余儀なくされた。
これを鎮圧するには南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)・北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)だけでは手が足りず、このため先手弓組一番の盗賊火付御改(火付盗賊改方)堀帯刀秀隆(ひでたか)も打つ手なしという体たらくに、実戦部隊である御先手弓組十組に鎮圧の命が下った。
この時加わったのは西之丸先手筒組奥村忠太郎を組頭に以下、鉄炮(つつ)組(鉄炮隊)七・六・十九・十七・二・九。弓の二・六弓組。
弓の二組頭であった長谷川平蔵は与力七十五騎・同心三百名を率い出動した。
その働きぶりには目をみはるものがあったとある。
当時、老中牧野越中守忠精(ただきよ)は
「手に余れば切り捨てゝよし」
と下知を下した。
これが後に盗賊改の伝家の宝刀となる始まりでもあった。
町御役所はその大半が文官であるが、盗賊改は実戦部隊の武官であった。
今で言えば奉行所は東大。盗賊改は防衛大と言う感じだろう。
盗賊改は捕り方はおらず、その全てが同心である。
出張るおりは、与力が騎馬で出張り、長官(おかしら)は出張ることはなかった。
天明六年、老中首座に就いた松平定信は、田沼政権下での西之丸仮進物徒であった田沼意次一派の一人、長谷川平蔵も忘却しておらず。これにも憎しみは向けられ、翌天明七年、御先手(おさきて)弓組二組頭である長谷川平蔵は老中の命により、火付盗賊改方助役(すけやく)を加役される。まさに絶妙の好機であった。
この御先手弓の二組は長谷川平蔵が着任する一年半ほど以前、当時火付盗賊改として名を馳せた横田源太郎松房であり、その前は豪腕贄(にえ)越前守正寿が当たっていた。
すなわち、天明七年五月二十日夕刻より始まった天明の打ちこわし事件が勃発したのである。
五月十五日過ぎより、両国橋・永代橋・新大橋から大川へ身を投げるものが続出し、渡し船からさえも身を投げる者が出た。このために十八日以降は渡し船の運行を禁じた。
時の奉行は南町奉行山村信濃守良旺(たかあきら)。北町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)。火付盗賊改方堀帯刀秀隆(ひでたか)であった。
だが堀帯刀は役職にあまり乗り気でなく、鎮圧に消極的であった。暴徒と化した者の中には無宿人も見受けられ、これらに扇動されて更に油を注ぐ事となり、二十日夕刻赤坂の米屋二~三十軒を皮切りに、夜には深川でも打ちこわしが勃発。
鐘や太鼓、半鐘、拍子木など、音の出るものは何でも抱え、打ち鳴らしを合図に乱入。
こうなると群集心理の凄まじさで、あらゆるもので押し入り、家財から調度品まで破壊し、米、味噌、醤油、酒とありとあらゆるものを路上や川にぶち撒いた。
だが、これも鳴り物で合図されると一旦取りやめ、休息を取るなどかなり組織化されていたことが伺える。
こうして次第に押し買い(買い手が値段を決める)が頻発。これを拒否する場合はそこを打ち壊した。
この最中にも、商人は賂(まいない)を贈って武家屋敷に米を隠匿した。
そんな中で火付盗賊改方堀帯刀の屋敷へも運び込まれた。
五月二十三日、これを鎮圧するために御先手組に出動命令が出たのである。
二十四日、芝・田町を最後に、翌二十五日、さしもの打ち壊しも、やっと終止符を打ったのであった。
江戸の打ち壊しにあった家屋五百軒あまり、その内の四百軒は米屋、米搗(ひ)き屋、酒屋など飲食関係であった。
中では大阪城代下総(しもうさ)佐倉堀田相模守御用の米蔵が警護の厚いさなか打ち壊され、油問屋の丸屋又兵衛も打ち壊されてしまった。
老中よりのご注進にも関わらず、その実情を将軍徳川家斉(いえなり)に問い正された田沼意次の懐刀御用御取次横田準松(のりとし)
「市井(しせい)はこれ平穏無事にござります」
と答えた。
だが、これは隠密の調べで膨大な被害があったことと判明しており、この事件で横田筑後守準松(のりとし)は罷免。田沼意次の屋台骨が一気に崩れた事件でもあった。
これを機に御三家を後ろ盾に擁立して松平定信が老中に躍り出たのである。
この時松平越中守定信、将軍補佐という役柄から、将軍家斉(いえなり)に
「御心得之箇条」より、
「六十余州は禁廷(きんてい)より御預りいたしたものの故に、これを統治することこそ武家の棟梁(とうりょう)の本分であり、それがひいては朝廷に対する最大の崇敬でござります。
故に、たとえ朝廷とあれども将軍の政(まつりごと)に口を挟むことは許されるものではござりません」
と断じた。
しかし当時この「大勢委任論」は、幕府が認めたものではなかった。
後にこの考えが存在した為、黒船来航以後、その責任を幕府が負わされることとなり、結果的に一橋徳川慶喜(よしのぶ)によって大政の奉還に発展したのである。
これを機に翌八年、田沼政権の残党老中が一掃され、松平越中守定信の老中首座の地位が堅固となり、時を同じくして長谷川平蔵へ火付盗賊改方本役が下知されたのであった。

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鬼平まかり通る  8月号


田沼主殿守意次 たぬまとのものかみおくつぐ

平蔵見参


京より戻った平蔵、老中板倉佐渡守勝清より小普請支配長田越中守元鋪組配下の 沙汰がある。                                     小普請組は小普請金を納めさえすれば何もすることはなく、千代田城や寺社など の修繕が担当の非常勤であった。                         京での思慕の情に耐えきれず、これを忘却しようと思ったのか大通(だいつう)と呼ばれる洒落た格好で郭(くるわ)に通いつめるも、それは虚しさを増すばか    りで、いに父宣雄が蓄えまでも使い果たしていた                                  これを嘆いた西之丸書院番頭であった水谷(みずのや)伊勢守勝久、老中筆頭 松平武元に、自分の先祖が平蔵の父宣雄と同じ備前岡山藩藩主であったところ        から、長谷川平蔵宣以を西之丸書院番士に推薦したのである。                          もとよりこの長谷川平蔵宣以の父長谷川平蔵宣雄は自身が抜擢して盗賊改に加役 し、京都西町奉行に任命した経緯もあり、この嫡男平蔵宣以も見知り置きの者で     あっため、これを快諾したのである。                                         長谷川平蔵に西之丸書院番頭水谷伊勢守勝久より呼び出しがあり、西之丸御用部 屋に祗候する平蔵へ                                      「平蔵!そなたの祖母は、我が曾祖父備中松山藩馬廻り役藩士三原七郎兵衛の娘御であるが、藩改易の折三原殿は浪々の身となられた。                   西之丸御小姓組であったそなたの祖父長谷川権十郎宣尹(のぶただ)殿は病弱の 由、その手伝いに上がっていた折見初められ、やがてそなたの父宣雄殿が生まれたそうな。                                    儂の曾祖父は備中松山藩藩主であった故、まぁそなたとは同郷のよしみとでも申すかのぅ。                                    松山藩改易の折、城明け渡しを受取に参ったのが赤穂藩家老大石内蔵助良雄殿、当時水谷家家老は鶴見内蔵助であったと言う事で、話し合いもこじれることなく    無血開城に終わったのだと親爺殿によぅ聞かされたものだ」                            平蔵初めて父宣雄の出生をここに知ったのであった。                             こうして長谷川平蔵は父長谷川宣雄と同じ西ノ丸御書院番番士から新たな一歩を 進む事になった。西ノ丸御書院4組水谷組番士となった平蔵、同年に水谷勝久より田沼意次を紹介され、これを機に長谷川平蔵の通常ならば2年ほどで栄転・昇 進するお役の盗賊火付御改(火付盗賊改方)長官の重責を8年も続けるという苦難 が始まったのである。                                                     江戸幕府は御三家と呼ばれる紀伊・尾張・水戸であったが、八代将軍吉宗は自分の四人の子の長男家重を九代将軍に任命 。                                   身体に障害を持つ病弱の兄を九代将軍に就けた事に不満を思った次男宗武は、父吉宗に諫奏(かんそう・抗議文)を送り、これに怒った吉宗は次男宗武を3年の    登城停止とし、これを推した老中松平乗邑(のりさと)も罷免。                次男宗武(むねたけ)と4男宗尹(むねただ)を、これまでは慣例でもあった養子に出すことをせず、新たに田安徳川家として宗武を据え、一橋徳川家も三男    は死没の為四男宗尹(むねただ)を就かせた。                           その後長男家重の次男にも新たに清水家を創設しこれに就かせ、これを御三卿と呼んだ。                                                こうして将軍家に世継ぎがない折はこの御三卿から出すことが出来、宗家徳川の血脈が希薄になっているのを恐れ、自己の後の血脈を絶やさぬよう図ったのであ る。         宝暦10年(1760)徳川吉宗長男九代将軍家重の嫡男家治(いえはる)は十代将軍の座につき田沼意次を側用人として起用、後、老中に任命した。           こうして田沼 意次の権勢が確立したの


 機転


長谷川平蔵は田沼意次の忠節・孝行・身分の上下にかかわらず(遺訓7箇条の  内3箇条)などの気配りや、倹約令のさなかにありながら{息抜きも必要であ        ろう}と遊芸を認めたこと、これまで無税であった商家からの納税や海外との貿     易による増収に主眼を置く重商主義にも傾倒していた。                                      田沼意次は、御対客日や御逢日は公式日程を明けの6ツ(午前6時)から朝4ツ(午前10時)の登城前までの間と定めたために、田沼邸の前には身分の差別を       してはならないという田沼家の家訓のため、身分の低い者などの陳情者もつめか    け列をなしたという。                                     時は安永3年(1774)火事と喧嘩は江戸の花と言われるように、紙と木でできた   町家はよく火事が起こった。いや起こしたと言ったほうが良い。                    この頃神田橋御門内の田沼邸近くで火事騒ぎがあった。                     これをいち早く知った長谷川平蔵は江戸城西の丸への登城を取りやめ、そのまま     馬で田沼邸に走り、下屋敷に移るよう奨め引率、その半刻後(1時間)には田沼    邸下屋敷に餅菓子が届くように手配、夕刻には食事までも届くという気配りが田     沼意次の意に沿い、翌、安永4年長谷川平蔵は西の丸仮御進物番(田沼意次への    届け物)に取り立てられたのである。                             何時の世も同じだが、この時代も盆・暮れやお世話になったり、何かを頼む時は     お礼をするのは普通のたしなみで、ごく当たり前の事である。


 謀(はかりごと)


宝暦11年(1761)春


「のう意誠(おきもと)、十代様には未だもってお子が居られぬ、このままなれば次の将軍は田安家となろう」                                     一橋家では田沼意次の弟田沼意誠(おきもと)それと甥の田沼意致(おきともが家老を務めていた。こう意誠(おきのぶ)に問いかけたのは一橋家当主徳川治斉(はるなり)であった。                             「それは順序からしてそうなりましょう」                        (さてさて殿は次が田安家と思うて、何ぞ謀り事でも巡らせるお心算(つもりか)       「うむ、面白うないのぅ……」                             脇息(きょうそく)に肱をつき、両掌に顎を乗せ不満そうに治斉(はるなり)            「と申されましても……」                                (やはりそこであったか)と内心思いつつも少々うんざりした顔を悟らせまいと意誠(おきもと)素早く顔を庭の方に眼をかわす。                             「そこじゃぁ、のう意誠(おきのぶ)、どうであろう田安家で唯一の厄介は宗武の七男賢丸(まさまる・後の老中松平定信)であろう、これを取り除けば十 一代将軍に成る者がおらぬようになろう」                                        大名武鑑をめくりながら一橋治済(はるなり)横目に移し、後ろに控える次家老へ言葉をなげた。                                「確かに、仰せの通りに御座いますが、まずもって然様なことは……」           と次家老で田沼意次の甥田沼意致(おきとも)を見る。                 「まこと田安家はすでに治察(はるさと)様と賢丸(まさまる)様のお二人、お世継ぎは治察(はるさと)様と言う事となるものの、万が一治察(はるさと)様になんぞ異変が生じました折には賢丸(まさまる)様が跡目相続という事になります  る。                                                                                      それを摘み取ることは間違いなく時期将軍はこの一橋と言うことにはなりましょう」と田沼意致(おきとも)ちらっと意誠(おきのぶ)の方に視線を投げ、反応を伺う。             そうであろう!とするならばそれも考えておかねばならぬの」               大名武鑑をパタリと閉じ、意を決した風に治斉(はるなり)立ち上がる。            千代田城本丸表屋敷、白書院下段の間の東、中庭を挟んで右向かいは松の廊下と     なっている所に、かつて吉良上野介が松の廊下で襲撃される直前、老中と打ち合    わせをしていた帝鑑(ていかん)の間がある。                                    一橋治斉(はるなり)はこの前の大廊下を通りかかった久松松平家陸奥国白河郡     白河藩二代藩主松平定邦(さだくに)に                                「白河殿、少々お耳に入れたき儀これそうらえども、ご同道願えますかな」         と切り出したのは安永3年(1774)のことであった。                   「これはまた一橋様、この私めに如何様なるお話にござりましょう?」(これまで    一言も交した覚えのない一橋治斉(はるなり)様が一体どの様な話しがあると云     うのか?訝る松平定邦くさだくに)に扇子を広げ、周りに眼を配りながらそっと 耳打ちしたのである。                                    のう松平殿、同じ久松松平家伊豫松平藩も田安家から御実兄定国様を御養子にお迎えになられ、溜詰(たまりずめ・祗候席・しこうせきと言い将軍拝謁の順を待    つ大名が詰める部屋)に昇格しておられるので、もしご貴殿が同じ田安家の七男     賢丸(まさまる)様を養子にお迎えなされば御貴殿の溜詰も夢ではござりますまい、何しろ八代様(吉宗)の御孫さまでございますからなぁ。                                         その折には及ばずながらこの一橋もお力添えを致しましょうぞ               意味深な顔で一橋治斉(はるなり)                            「一橋様、それはまことにござりましょうや!」                     徳川家康を祖としながらも陸奥(みちのく)の一大名に身を置いている定邦に取って、この一橋治斉(はるなり)の甘言はまことに心地よい響きを持っていた    のである。                                   「御助成仕ると申したからには、武士に腹蔵などござらぬ」                        と持ちかけられた松平定邦、まんまとこの策略に乗り田安徳川賢丸(まさまる)との養子縁組を上奏したのである。                                   安永3年(1774)3月15日幕府より命が下り、松平定邦と田安徳川賢丸(まさ まる)の養子縁組が決まった。                                     想いかえせば、一橋治斉(はるなり)が、この策略を自家の2家老田沼意次の弟田沼意誠(おきのぶ)と田沼意次の甥の田沼意致(おきとも)と談義したのは13年も前のことである。                                  久松松平家は徳川家康の異父弟の松平康元・勝俊・定勝に与えられた家柄。         この3男定勝には6名の男子が有り、嫡男は早世。次男定行がこれを継ぎ、伊豫松山藩15万石の礎を築いた。                                      この定勝の3男が陸奥国白河郡白河藩二代藩主松平定邦であった。              16歳になっていた賢丸(まさまる・後の定信)もこのまま田安家の冷や飯食いで終わるのも考えものと渋々承知。                                   ところがこの安永3年(1774)9月田安家の嫡男治察(はるさと)急の死去に伴 い田安家の席が空いたため、まだ田安家江戸屋敷に居た賢丸(まさまる・定信)はこの度の養子縁組解消を幕府に願い出る。                                     しかし、時の老中松平越智守武元・板倉勝清・田沼意次の判断で、一度決定されたものを反古にすることは認められないと却下。賢丸(まさまる・定信)は白河    藩に封じ込められた状態に置かれたのである。                                  後、やむなく白河藩藩主となっていた松平定信も幕閣への未練を捨てきれず、幕閣推挙を画策し、田沼意次の屋敷を訪れた。                             時の西の丸仮御進物番士は長谷川平蔵であった。                    「何卒田沼様によしなに……」                             白河藩藩主松平定信、進物を上納したのである。その中には幕閣への推挙願いが認められていた。                                         だが残念なことにこの企ては実ることもなく、後、定信はこの日のことを遺恨に思い、田沼意次の暗殺も企てるに至ったほどである。                          奇しくもこの時の御進物番士(受付係)が長谷川平蔵であったため、この男への執念もただならぬ物があったと言えよう。                               それは通年ならば2~3年で町奉行などへ栄転する火付盗賊改方を8年にも及ぶ長きにわたって勤め上げねばならなくなり、50歳で病気のため、お役御免を受理された際、その蓄えは底をついていたからである。


 青い果実


十代将軍家治は、跡取りに恵まれず、田沼意次の推挙により側室となるお知保の     方との間に生まれた世継ぎ家基(いえもと)を授かった。時に宝暦12年(1762)   十月25日のことである。                              安永8年(177922118歳になった徳川家基は新井宿での鷹狩の帰り、品川の   東海寺で体調不良を訴えた。この時は奥医師池原雲伯良誠の調合した薬湯を飲む    も症状は変わらず、田沼意次の薦めた町医師若林敬順・日向陶庵が召し出される     もこれまた手に負えず、奥医師大八木伝庵盛昭に交代。                  その3日後、十八歳(満16)で薨去(こうきょ・急死)             念願の世継ぎを失った十代将軍家治は病の床に伏せるようになった。           世継ぎの居ない家治が死去した場合、八代将軍吉宗の意向により、十一代将軍は     徳川吉宗の次男田安家・徳川吉宗の4男一橋家・徳川九代将軍家重の次男清水家      の何れかから立てることになっている。                        天明元年(1781)閏(うるう年)5月、御三卿の一人一橋治斉は、一橋家家老田      沼意誠(おきのぶ)と田沼意致(おきとも)に                   「どうであろうかのぉ、ご老中田沼様に、この一橋の豊千代(後の十一代将軍家  斉・いえなり)を上様ご養子縁組に推挙戴けぬものであろうか」           と切り出した。                               それに応えて田沼意致(おきとも)                        「次番の田安家に跡目相続がござりませぬゆえ、それは何も問題は無きかと存じ     ます」                                    そう答えるしかなかった。                          今にして思えば20年前、この一橋家当主一橋治済(はるなり)に田安家徳川         賢丸(まさまる)を田安家から排除する相談があったことすら、当の治済は忘れ    去っているほどに長い時の流れである。                       何と恐ろしい読みをなされるお方だ、さすがの兄上(田沼意次)も此処までは     読まれなかったやも知れぬ)                           田沼意致(おきとも)と眼を見合わせた出来事であった。            しかし、この一橋から次期将軍が出るとなれば、我ら田沼一族も安泰……そう踏     んだ田沼意致(おきとも)                           「では早速にご老中に進言為されますよう」                  と奨めたのであった。                            一橋治済からの申請を受け、田沼意次早速登城し、臥せっていた十代将軍家治を     説得し、一橋家当主の徳川治済(はるなり)の嫡男豊千代(後の十一代将軍徳川    家斉・いえなり)を養子に迎えるよう進言し、これは実行に移された。


時は天明元年(1781)のことである。

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鬼平まかり通る


教授先から戻り、黙したまま今日も夕餉を済ませ、茶を入れるかすみに銕三郎
「本日烏丸(からすま)に行って参りました。専純殿に、心に石を置かず在るがままにある事を教わりました。かすみどの、何一つおそれる物はない、全て私が受止めます」
かすみに向い銕三郎そう説き話した。
その言葉を聞いたかすみ、あふれ来るものを押えきれず、見る見る大粒の涙が堰を切って双眸(りょうめ)を伝い、かすみの手を取った銕三郎の掌にあふれ落ちた。
「銕三郎さま──'かすみは、かすみは銕三郎さまを裏切りました」
「何と、この私を、どうして─」
かすみの言葉の真意が汲めず、戸惑いをかくせない銕三郎を。赤く腫らした眸(ひとみ)で瞶(みつめ){わあぁっ──}と、その腕に慟哭(どうこく)した。
「お泣きなさい、心ゆくまでお泣きなさい。その涙、総べて私が受け止めますから、涙が果てたらいつものかすみどのに戻って下さい」
銕三郎、激しく嗚咽(おえつ)をもらせ、肩を震わせ泣き続けるかすみを両手一杯に抱きかかえる。
堪えていた物を吐き出すかの様に泣き乱れたかすみ、しゃくり上げながらやっと銕三郎の顔を見た。
「銕三郎はん、うちを拾ぅてくれはったんは地下人の進藤様やけど、ずっと後知ったんやけどな、こん人は赤兎馬言うお人の配下で、うちを理由あって祇園の狛のに入れはったんえ。
「赤兎馬??なんですそれは?これまで一度も聞いたこともありません。その理由とは」
「お茶屋はんはいろんなお人が出入りされはりますやろ?そんな中で話されることに耳を傍立てますんや。それからつなぎのお人に大事なことはお知らせするそれがうちに与えられた仕事どす」
「何と──魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界ですね」
銕三郎、江戸でも探索方には様々なやり方があると知ってはいたものの、ここまで根深いものは初めて聞いた。
「うちが十八になったおり、壬生のご隠居はんに見初められ、襟替(が)えしてもろうて、ご隠居はんの後見でここに店を設けさせて頂き、ご隠居はんの密命を帯びて六角堂のお師匠はんに引き合わされたんどす」
「では専純殿は壬生のご隠居の──」
「へぇそうどす、お師匠はんはお公家衆の方々に立華をご教授されはりますのんや、そこで出入りのおり、うちもお供で参ります。そこいらでいろいろな話耳に挟んでいましたんや」
「では一体かすみどのはどちらのお味方を──」
銕三郎このかすみの謎めいた返答に戸惑っていた。
「はじめは壬生のご隠居はんのお指図で動いておりました。けどある時地下人の進藤はんが現れ、そこで初めてうちが赤兎馬いうお人の肝いりで 駒のに預けられたこと知りました。
うちにとって命の恩人どす。どちらもうちには恩人どすえ」
「確かに─、しかし…」
「はじめは両方から言われるままに動いておったんやけど、そのうち赤兎馬と云うお人は赤入道言われたゆかりのお人とか、おまけにその後ろには吉野のお館様と呼ばれる小倉宮はんがおいやすのんや。
赤兎馬のお頭はんらは、今の御門(みかど)はんを引きずり降ろし、自分らが御門はんになる為に裏で地下官人を操ってますんや。
そのからくりが先の西町奉行隠密同心に知られ、地下侍に殺されはったんや、その隠密同心の後を──」
「私が引き継いだ──」
「そうどす、それがまさか銕三郎はんと思いもせなんだんや。そん上粟田口でおかしな出遭いがおましたやろ。
けど、うち銕三郎はんにおあいする度、指図の事忘れてしもたんえ。
銕三郎はんと一緒におる事が倖せで、毎日が夢んようどした。
尾州屋はんの事知らせた後、何や虚しゅうなって、そん後あないな事になってしもぅて……。うち銕三郎はんの事だまって隠しておりましたんや。
うち!うち!銕三郎はんを失くしとぅおへんのどす!」
泣き腫らして訴えるかすみの一途さに銕三郎、ただただその細い身体を見つめて抱き締めるしかなかった。
 
翌朝かすみは、久しぶりに銕三郎の温もりに埋れた歓びを躰一杯に溢れさせ、溌溂とした面持ちで台所に立っていた。
下りて来た銕三郎を見返り
「あっ銕三郎はん、お早ようさんどす」
零(こぼ)れんばかりの笑顔で迎える。
「おっこれは又かすみどの、一段と─」
「へぇ一段と何どすえ?」
かすみの意味深な含み笑顔が眩しい。
「あっいや何!一段と耀いて観えます」
「うふっ銕三郎はんのいけず、そない見詰められたらうち恥しゅうてあきまへん」
その応える姿は初々しい中にもをんなの匂いが溢れている。
 
朝五ッ半、ちよが背篭に花や野菜をつめて下りて来た。
出迎えたかすみを一目観るなり
「いやぁどないかされたんどすかお師匠はん!もん無茶美しゅうおすぇ」
瞳を輝かせて見入る。
「うふふ……何んかええ事おしたんどすなぁ」
「何んあほな事云うとるのどすえ、お子たちんくせに」
かすみ、急に頬を朱らめ、きっとちよをにらむ。
「ほらやっぱり当りや当りや─ええなぁ」
意味ありげに銕三郎の方をちらり…。
銕三郎親指を立て、メッと眼で叱る。
「鉄はんおおきに」
ちよは大きな瞳を瞬かせて笑っている銕三郎を見つめた。
 
夕刻ちよが里に戻って行った後しばらくして、表戸を半ば閉め、後片付をしているところに入って来た男の姿を視て、かすみの眸が驚きと恐れに固まった。
「やはりここに居ったか」
「ちゃいます!このお人はちゃいます」
観ればかすみ、蒼ざめた顔を強張らせ小刻みに震えている。
「違う?何が─」
男はゆっくりと二人の間に割って入る様に身構える。
「このお人はお客はんどす、間違えんといておくれやす」
かすみ、ゆっくりと銕三郎から離れ二階へ上がる階段の方へと移動する。(銕三郎はんの刀を取りに上がらなければ……)と言う思いがとっさに働いたのであろう。
「ほぅ、では鉄とか云う者はいずこに居る」
「今使いに行ってはります」
刺客を挟んでかすみと銕三郎が対峙する恰好で、眼で合図を送れる状態に持ち込めた。
「でたらめを申すな!すでにちよから聞いておる」
刺客は背後に気を飛ばしながら、かすみの眼の動きを読もうとかすみの正面に向いた。
「何んでやて!」
かすみの凍りつく双眸(りょうめ)を確信したように
「お前の動きが怪しいと睨まれ、お頭がちよに指図され、ちよはこの男が密かに役所に入るのを見届けておる」
「まままさか──」
あれ程気を配り、用心しつつ向った所を……。銕三郎この相手が尋常でない事を初めて思い知ったのである。
「左様、スズメ蜂の巣を見つけるには、そいつに蜜を舐めさせておき、その間に尻尾に赤い糸を結んでおけば、あとはそいつの後を尾行(つけ)るだけ─。尾州屋を襲ってこいつの尻尾にちよと云う糸を付けた。それでこいつの身元も割れた」
せせら笑う唇のねじれた男を見据えたまま、何か獲物をと見渡すが、それらしき物はない。
花を整理するための大きな台の上に藤刀が転がっているのを認めた銕三郎
「かすみ逃げろ!」
銕三郎そう叫びざま右に飛び、藤刀を掴んだ。
銕三郎の叫びを聞き、かすみは反射的に二階へ駈け上ろうとするそれへ男が抜刀し、追いかけようと足をふみ出す。それへ銕三郎の放った藤刀が右の太ももに突き刺さった。
ぐわっ!!と低く声を漏らし、前のめりによろめき、左に刀を持ち、かろうじて倒れるのをこらえ(うっ!むっむっ!──)と右手で藤刀を引き抜き銕三郎の方へ振り返る。
「きっさまぁ!」
刺客はその藤刀を近くまで掛けよっていた銕三郎めがけ投げ返す。銕三郎かろうじてこれを躱し、それは背後の戸板へドッと鈍い音を立て突き刺さる。
その時二階から駆け降りて来たかすみ
「銕はん!」
と叫び、銕三郎の刀を宙に投じた。
その声に振り向きざま、刺客が左下段から斜め上段に逆袈裟斬りに切り上げた。
かすみの身体は右脚から左の胸元へ切り抜かれ、薄紅色の袋帯が真二つに裂けてばらりと捌(さば)け、白群(びゃくぐん)の地に小菊が染め抜かれた着物の伊達締めも切り抜かれて大きくはだけ、雪の様に真っ白な肌と、こぼれた胸乳(むなじ)からおびただしい血が噴き出し、かすみ(ぎやぁ)と大きな悲鳴と共にまっ逆様に刺客の肩ロへ覆い被さる様に崩れ落ちた。
「うをっ!己がぁ!!!」
飛んで来た刀をつかみ銕三郎、飛び込みざま抜き打ちに胴払いを放つ。
 (ぐへっ!)足元に絡(から)むかすみの躰を躱(かわ)しきれず、左背後から食い込んだ刃は、背骨を打ち砕き、右脇へと抜ける一閃を喰らって、二つに折れた躯がドウッ!と蹴込へ転がった。
「かすみどの!」
銕三郎かけより、鮮血に染まったかすみの身体をだきかかえ顔を起こす。
「てつさぶ…さま……さぶい…抱いて……」
「かすみ!すまぬ!」
「嬉しい……」
うっすらと開いたかすみの双眸(りょうめ)から涙が茜色の夕映えに染まり、つっ!と血の気を失った頬を伝い、銕三郎の指先にとどまり、あふれて行く。
このわずかの時を過ごしたかすみは双眸(りょうめ)を見開いたまま、ふっと呼吸(いき)を引き込む。
これを銕三郎まぶたを押さえ閉じさせ、かすみのおだやかな顔をただ抱きしめる。それが救い切れなかった無念の思いと共に、銕三郎が初めて心から愛しいと思った女との今生の別離
 
銕三郎、かすみの珊瑚玉の簪(かんざし)を抜き、懐紙に包み懐の奥へ納め、かすみの亡骸を作業台に載せ、着衣を脱がせ、傷口を清水で洗い清め、傷口をしっかりと晒しで巻き止めて清拭した後、二階へと運び上げ、衣服を着がえさせた。
それは
「夏になったら祇園さんへ山鉾いっしょに観に行きましょな!そん時銕三郎はんとこれ着るんや」
と、嬉しそうにあつらえた、おそろいの小千谷(おぢや)の浴衣である。
 
刻はいつの間にか初々しい夏の陽ざしがゆっくりと東から昇りはじめ、まだ思い出の温もりも残っている部屋を何事もなかったかのように包んでいた。
戸締まりを終えたその日から銕三郎の姿がこの界隈からぷつりと切れた。
 
銕三郎の姿を見かけたのは三日程過ぎていた。
あの時以来、身の危険を覚え何処に身を潜めていたのでろうか。
その夕刻、六角堂に酷い格好の浮浪者が訪れ、小坊主が仰天した。
煤(すす)けたその顔から
「長谷川銕三郎だ!すまぬが専純殿に至急取次を頼む」
と言われ、よくよく見ればあの長谷川さま
「ちびっとお待ちを!」
小僧、慌てて奥へ取次に駆け込んだ。
奥の院より専順が慌てた様子で駆けつけて来、銕三郎の異常な様子に気づき
「なんかおましたんやな!」
と転げるように座するのも待たず問いただした。
銕三郎事の次第を事細かに専純に告げたのであった。
哀しみにくれる専純のその眸(ひとみ)を背に感じつつ銕三郎、西町役所に戻って行った。
「かすみはんはこれでよろしかったんや、一生懸命添い遂げはったんや、長谷川はんに出遭ぅて、生まれて来た理由と、生きて行く意味があったんと想います」
淡々と告げる専純の言葉は沈み切った銕三郎の心を拭いはらってくれる。
 
役所に辿りついた銕三郎、常に探索に関する事は結び文を介して時折報告していたが、この十日程はそれもなく、身を案ずる妻女久栄の訴えかける眸(ひとみ)をじっと受け止めつつ、事の経緯(いきさつ)を話し、即刻役人を伴い現場にかけつけたが、かすみの亡骸も刺客の死体も、そこには何らの痕跡も残されていなかった。
ただ銕三郎の放った藤刀が突き刺さった表の戸板に喰い込んだ刃の痕跡に、血を吸い尽くして黒々と染まった土間が夢幻(ゆめまぼろし)ではなかった事を語っている。
「まこと恐しい敵だ」
銕三郎この視えざる敵の計り知れない正体に、初めて戦慄というものを知った想いであった。
銕三郎の報告を聞いた宣雄
「銕三郎!それは真に無念であったろう。だが今は江戸表よりご老中のお指図を待つのみ。儂もそなたもそれまで気を抜いてはならぬぞ」
宣雄、この事件発覚以来も激務に苛(さいな)まれた身体に鞭打つ如く、このひと
月あまりを過ごしていた。
その二日後の六月十二日、突如長谷川平蔵宣雄は身罷った。享年五十五歳の初夏の事であった。
葬儀は京都千本通り出水「華光寺。戒名{泰雲院殿夏山晴大居士}
いかにも宣雄らしい戒名である。
現在では長谷川平蔵宣雄の墓所である京都市上京区の華光寺には久しい時の流れの中、無縁墓群に埋もれ、長谷川宣雄の墓を見つけることはかなわない。
 
これがきっかけで、長谷川平蔵宣雄の卒した翌・安永三年(一七七四)奉行兼務の御所向御取扱掛が設けられる事となる。
 
銕三郎は末期願いの手続きを相役である東町奉行酒井丹波守忠高に願い出、目付酒井丹州が判元を見届け。
所司代土井大炊頭利里へ届け、これが受理された。
銕三郎、江戸表の老中へ報告後、早々に身の回りの後片付けを済ませ、妻子共々急ぎ江戸に戻った。
西町御役所の責務は宣雄が西町奉行を拝命したのであるから、卒し後は、なんの関わりも持たない。
従って宣雄の後任者山村十郎右衛門良旺が着任する迄待つ事もなく、諸事は残留する与力達に任せればよかった。
 
急ぎ江戸に戻った銕三郎、旅支度を解く間もなく千代田城西之丸に、上洛の準備を整え、出立目前の山村十郎右衛門良旺を訪ね、これまでの探索経過の中で御開帳に御戸張の寄進を拒否したために一家が惨殺された尾州屋の話を報告した。
「想われますには、今後禁裏・口向けより騒擾(騒動)が持ち上がるかと、その前に所司代様より先に山村様係にてこれらをお取り調べなされる方がよろしいかと存じます」
と進言した。
「流石備中殿の嗣子(しし)、万事抜かりがござらぬな」
山村良旺(たかあきら)驚きをもって銕三郎を見やった。
こうして西町奉行山村十郎右衛門良旺(たかあきら)、時を逃さず七月十八日、上洛するや、口向役田村肥後守らを呼び出し、即刻吟味が開始されたのである。
その翌年一年余り吟味の経過した八月二十七日、田村肥後守・他、津田能登守・飯室左衛門大尉は死罪。西池主鈴、吟味中に卒。
仙洞御所取次の高屋遠江守康昆・藤木修理・山本左兵衛・山口日向守・関目貢の五名は中追放(遠島)。
渡邊右近・本庄角之丞・世続右衛門・久保田利兵衛・佐藤友之進・小野内匠其の外、洛中洛外江戸構余多(追放)。京都代官小堀邦直は謹慎。
侍身分の者六十六名遠島、それ以下の役員八十八名も処罰された。
京都代官小堀邦直は謹慎処分となり、関係者八百名余りが処分された。ここに安永の御所騒動は結末を迎えたのである。

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鬼平まかり通る 五月


過日銕三郎の寝床に寒いと、寝夜衣のまましのび込んで来た時と又別の恥じらいがをんなの美しさを増して観え、銕三郎
「まぶしい程に美しゅうございます」
と、見とれながら皿を置いた。
「ほんまどすか?銕三郎はん、そないなてんご云ぅて、うちをいじめんといておくれやす」
云い乍らかすみ、耳朶(みみたぶ)にふれる仕草が初々しい色香を添える。
「何で、どうして私がかすみどのを虐(いじ)めておりますので」
「銕三郎はんのいけず!うちもう知らしまへん」
かすみ、銕三郎にもたれかかる様に身体をあずけて来た。
「うちな、こうしてる時、何んも忘れていれますねんぇ、そらあかん事どすやろか、女が男を好きになるんはあかんのどすか?うちわ銕三郎はんに命かける値打ちある思うとりますねん、運命(さだめ)以上の繋がりがあるんと違いますやろか」
銕三郎、よりかかった腕に過日の夜触れたかすみの柔らかな胸の温もりを思い出していた。
(自分もこうして誕生(うまれ)たのだろうか──)
その二日後、呉服太物商尾州屋に押込が乱入、主人夫婦・奉公人など、合せて十名を惨殺。銀二十貫(三千四百万円)を強奪と云う事件が発覚。
これを糸口に長谷川平蔵宣雄、勘定奉行に詰問し、明和の末頃より御取替の辻褄が御料のみにては間に合わず、苦肉の策として補填の名目で賂(まいない)を求める事が日常となっていた事が判明したのである。
あまりの事の奥深さに宣雄、急ぎ江戸表へ報告の早飛脚を立てたのである。
この事は二人で出掛けた先の狛ので女将の登勢から聞かされた。
「かすみ(はん、えらい事おすえ、屋州屋はんが押込に入られはって、お店の奉公人まで皆んな殺されはったやて、 ほんまにあないお人柄の出来はったお方やのになぁ」
登勢は眉を潜めそっと小声で囁いた。
その言葉を聞いたかすみは、顔から見る見る血の気の引いてゆくのが判った。
それを視た女将の
登勢
「かすみはんどないしたんえ?まっ青な顔して、なんぞあったんかいな鉄はん?」
後ろで聞いていた銕三郎へ登勢は救いを求めるような眼差しを送ってきた。
じっと考え込んでいた銕三郎、登勢の言葉にこまった顔つきで首を横に振る。
「そないでっしゃろなぁ─。うちもお役人はんに聞かれても、よう応えられまへんかったわぁ」
蒼ざめたかすみの顔をうかがう銕三郎の眼差しを打消すように
「お女将(かぁ)はん、又なんぞあったら教ておくれやす」
かすみ、銕三郎をうながし
「鉄はん、そんなら戻りまひょ」
先に立って店を出る。
この日の店回りを終え、建仁町通りの百花苑に戻った銕三郎
「かすみどの一体何が─、何かご存知の事でも、お心当りもなくばあそこ迄…」
すでに銕三郎は密偵の顔に戻っていた。
「かんにん、銕三郎はん、かんにんどすえ、うち何んも知りまへんし、理解(わか)りまへんよってかんにんぇ」
かすみは心の動揺をどう取り繕ってよいのやら、なかば放心した風にとり乱している。
それはかすみにとってこれまでこの様な心の痛みを感じた事がなかったからである。
そこへちよが使いから戻って来、
「お師匠はんえらい顔してどないしはりましたん?」
怪訝な顔を銕三郎の方に向け
「鉄はん!お師匠はんに何やしたのどすか?」
と、諌める顔つきに、銕三郎慌てて両手を振った。
「おちよ!違うんどす、鉄はんには何も関係あらしまへんのどすぇ」
「それやったら何んで──。うち心配やわ、鉄はん何んとかしておくれやすなぁ」
ちよも心配顔をかくせないでいる。
そんな事件のあった二日後、小用で出掛たかすみの後をつかず離れず付いて来る事を見とめたかすみ、泉式部屋敷に入り、その後を一人の男が入って来るのを待った。
「あのお方からだ」
そう云って赤い馬の印が押された結び文を手渡した。
「一つ教ぇてもらえまへんか」
「何をだ」
「尾洲屋はんどす」
「尾州屋がどうしたと云うのだ」
「どないして尾州屋はんは殺されなあかんかったんどす」
「それはあのお方の下された事、我らに判るものではない。
だがお指図では云う事をきかなかったからだとか、其のくらいしか知らぬ、我らは所詮駒だ、指図通り動けばよい。他に迷いがあれば西尾の様になる。
お前もあの方の怖ろしさは充分存じておろう」
そう云うと誓願寺の庫裡の方へ立去って行く。
かすみは赤い馬の印が押されている結文を開く。
そこには西町奉行裏同心を更に深くさぐる様指図があった。
それを読んだかすみの指は慄(おのの)き震えている。
何処からどうやって戻って来たのか判らない程かすみの心は乱れていた。
「お師匠はんどないしはりましたんぇ」
店番をしていたちよ)が、蒼白な顔で入って来たかすみを観、飛び出て来た。
「何んでんあらしまへん」
かすみはちよの手をふり切るように奥へ
「おかしぅどす、ここんとこずっとお師匠はんおかしわ!」
くい下るちよの眼をさけるようにかすみは二階へ駆け上ってしまった。
半刻ほどして銕三郎が戻って来たのをつかまえてちよ
「鉄はん!お師匠はんがお師匠はんがおかしおす、どないかしておくれやす」
なにかに追い詰められたような必死の眸(ひとみ)で見上げた。
銕三郎あわてて二階へ駈け上るそこには泣き崩れるかすみの姿があった。
その姿を認めたかすみ、ぶつかる様に銕三郎の胸に飛び込んで来る。とめどもなく溢れるかすみの涙を指先でぬぐい乍ら銕三郎、抱きしめるしか術はない。
だがその理由(わけ)は、後でいくら問い正しても、かすみの口からもれる事はなかったのであった。
頃はすでに六月に入り、まさに野山は夏草の繁る盛りを感じさせる頃となってきた。
花々はその綺羅(きら)びやかさや質素なものなど、万華鏡を覗くように目を楽しませてくれ、遅い京の盆地にも、ときめきを想わせるようになってきた。
呼び出しを受けたかすみの姿が和泉式部屋敷にあった。
「忘れておるのか、それとも隠し立てしておるのか!」
それは香山左門であった。
「忘れていてしまへん、せやけどあの同心の後釜は居りはらしまへん」
「真だな」
「へぇそうどす。東町にも移ってこっち別におかしな動きもおへん」
「で、お前の所に居る男だが、何者だ」
「あぁ鉄はんどすな、うちの仕事が力仕事もあって大事やろ云わはって、烏丸のお師匠はんがお弟子はん付けてくれはりましたんや、それがどないかしたのどすぇ、何んなら六角はんに聞いてみはったらどないだす」
と突っぱねた。
「よし、では引続き様子を探れ、あのお方には然様伝へておく。よいな!呉々もお頭の御恩を忘れるでないぞ」
そう言い残し、寺の向うへと消えて行った。
このところいつものかすみではない事に銕三郎
「かすみどの、何が安ずる事あらば話して下さいませんか」
銕三郎二階に上ろうとするかすみの手を取ったが、力なくするりと躱し上って行く。
翌日銕三郎は一人六角堂へ足を向けた。
「さて─かすみはんがなぁ……。なぁ長谷川はん、輪廻(りんね)云うもんをご存知でっしゃろか、この輪廻と云う六道は天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道から成ります物を申しますのんや。
これは心の道を説いたもんでおますのや。
たとえ天道に身を置いても、煩悩から解き放たれず、そこに御佛(みほとけ)はなく、解脱も叶いまへん。天人が死を迎えるおり、天人五衰と云いますのんやけどな、体に垢が塗(まみ)れて悪い臭いがします。
腋汗に己の居場所を嫌い、頭上の華が萎縮(ちじむ)そうにございますのや」
「はぁ──。私にはさっぱり……」
「そらそうや。なぁ長谷川はん、聖徳太子はんがどないしてこの寺を六角に造らはったと想います?六角はな、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つから生じる欲に囚われず、円満になるという願いがこめられておますのや」
「眼・耳・鼻・舌・身・意の六つから生じる欲にございますか」
「そうどす、拙僧はな、六道に身を置くよりも大師はんの願わはった我欲を捨て、それに因われない心を願うておりますのんや」
「我欲で──」
「そうや、ああなりたい、こうしたい、そんなもん皆捨てて鑑(かんが)(反省する)みる事や、長谷川はんは真(ま)経津(ふつの)鏡(かがみ)をご存知どすか?」
「否、恥し乍ら─」
「そうどっしゃろなぁ、八百万の神はんが天(あめ)の安河(やすかわ)に集まりはって、川上の堅(かた)石(しは)を金敷に造らはったもんどす。この鏡に我を映し、そん姿から我(が)を抜きますのや、(かがみ)から、が(、)を抜けば、何が残りますやろな」
「か・み──、神にございますね、なる程然様な事がこめられておりましたか」
「野に咲く花を見てみよし、誰かの為に咲こうと思ぅて咲いておへん。与えられた場所(ところ)で精一杯咲いておます。花はそこに似合ぅて咲きますのんや、決して百合は牡丹になろうと思ぅておりまへん」
「あるがまま………にございますか」
「そや、拙僧が長谷川はんに教えて差し上げられるんはそんなとこどすな」
「理解(わか)りました。ご教示まことにかたじけのうございました」
銕三郎深々と頭を垂れその場を辞した。
銕三郎を見送る専純の眼差しが、心なし哀しさをたたえていたことを知る由もなかった。
誘われた先の道場に専純の姿があった。
「おお長谷川はん─、おめずらしゅうおすな。今日はお一人でお越しやすか?」
かすみの同伴でない事に何かを察したようで
「もう京はすっかり馴れはりましたか?」
さりげない言葉をかける眸(ひとみ)は、別の物を読み取ろうとしていた。
銕三郎、このところのかすみの行動に腑に落ちないものがあり、その理由(わけ)を専純が知ってはないか──、と想ったのである。

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鬼平まかり通る  新年号


「ちびっと出て来ます」
云い残して出掛たかすの姿は、京極通三条小橋下、誓願寺横和泉式部屋敷にあった。
「お頭への言伝だな」
薄闇に物影から声がした。
「へぇ、そうどす」
「で相手は判ったのか」
「へぇ、呉服太物商尾州屋どす」
「よし、お伝へしておく、もう戻ってもよいぞ」
かすみが振り返った時、その声も足音も砂に水の引くごとく闇の中に浸み込んで行った。
「お戻りなさい」
銕三郎は少し沈んだ面持ちのかすみを迎え入れる。
「銕三郎はん──」
「どうされましたかすみどの、何か気になる事でもありましたか?いつものかすみどのらしからぬ─」
「おちよは?」
気を取り直しかすみ、小女の姿を追う。
「遅くなるので戻しました。夕餉を支度してくれましたよ。今夜は少し冷え込むゆえ風呂吹き大根のようで、大根を程々の厚さに切り、面取りして煮崩れを防ぐそうで、その片面にかくし包丁を入れると良いとか。いやなかなか面白うて、その後米のとぎ汁で下茹でし、大根が透き通ったら鰹の出汁に酒、味淋に塩で煮込み、味噌と味醂を合せ、これに鰹節を入れ火にかけて溶き、わさび少々をすりおろしこれを混ぜ、熱々の大根に載せて頂くようにとおちよが申しておりました。
いやそれにしてもおちよ、仲々手際もよく良き嫁になりますよ」
「なら銕三郎はんお嫁にしはったらよろしゅうおす」
かすみ、銕三郎の感心する事に焼いたのかツンと横を向いた。
「やっこれはしたり、おちよはこれを見て、私をからかいましたよ」
と睦揃えの湯飲をとった。
「銕三郎はんはどないな風に思いはったんどすか?」
「それは嬉しいに決っております」
「ほんまどすか?」
「無論ですよ、かすみどのの気持、まこと嬉しぅございます」
「ほんまどすな!嘘やおへんやろな」
「嘘ではありませんよ」
「ならよろしゅうおす、ほな早速いただきまひょ」
かすみ、機嫌直して皿に大根を取り味噌あんをかけ、箸を添えて銕三郎に差し出す。
「うん、これは旨い、大根の甘み、それに出汁味噌に山葵(わさび)の香りが何とも、それに……」
「それに……?」
かすみ、銕三郎が一旦言葉を止めたことに何やら思ったのか促がす。
「あっいやっ─、その何です」
「何ですのぇ?」
「美しいかすみどのと戴けるのが何とも─」
「へぇ何ともどないやのでございますのんえ?」
銕三郎、かすみに問い詰められ、持った箸を皿に戻ししどろもどろ。
「嬉しゅうおすか?」
「はい」
銕三郎照れながら鬢を掻く。
「うちも嬉しゅうおすえ、銕三郎はんとこうして二人だけでまんま戴けるのん、ほんまに幸せどす」
少し恥じらいを見せながらかすみ、つっと上眼づかいに銕三郎を視る。
「うち小さい時から二親とも居てへんよって、──こないなん倖せ云うんかいなぁ……」
「かすみどのもそのような」
「いやぁ銕三郎はんもそないな事おましたのんぇ?」
「はい、私は妾腹の子として生まれました。でもどちらも大事にしてくれました。ですが……」
「ですが何どすのん?」
「私の育ちましたところは大川の向う、ゆえ気ままな者も多く、随い荒くれ者や無頼の者も多々、その様な中、伸び伸びと育ててくれました。
本所の銕と呼ばれ、悪さのし放題、それを親父殿はじっと視てくれておりました。
親父殿も同じ外腹の子であったゆえ、私の気持ちが理解(わかっ)ていたのでしょう」
「へえぇ、そうどすのんか。うちは捨て子らしゅうて、辻堂で泣いてたのんを進藤様に拾われ、十の折に狛やに奉公に上り、歌舞音曲を仕込まれましてんぇ。そん頃壬生のご隠居はんが襟替えしてくれはり、ここに店かまえてくれはったんどす。
うちも銕三郎はんも、ほんによう似ておますねんなぁ。うちな!銕三郎はんがお傍においやるだけで、もんむちゃ倖せどすえ」
かすみは目元をうっすら朱(あけ)に染めた眸(ひとみ)をまっすぐ銕三郎に向けた。

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鬼平まかり通る  11月号



翌日の朝早く


「人が死んどるぅ」


遠くからバタバ夕駈けまわる音がせわしく往き来している。


おしま(、、、)はん!あんたはん家ん人が死んでますえ!」


向いの()が表戸をけやぶる勢いで駆け込んで来た。


昨夜は悶々として一睡も出来なかったのであろうおしま(、、、)は、まるで兎のようなまっ赤な(ひとみ)を腫れ上らせ、座したまま出口を見た。


早朝のぼんやりとかすむ陽光を背に、はぁはぁ息をせわしげに(、たき)が戸を掴んで立っていた。


「?……」


おしま(、、、)はん!あんたん旦那はんえ」


「へっ?─」                             


「さっきからお役人はんが調べてはるえ」


おしま(、、、)その言葉を背にからめる様に素足のまま駆けだして行った。


孫橋の向う、鴨川側には黒山の人だかりがあり、戸板に乗せられ番太が前後で提げ、三条大橋に向き歩き出しているそれへ


「待っとおくれやす!」


素足で髪を振り乱し、血相変えて駆けつけ、九十郎の骸にすがるおしま(、、、)のただならない風体を視る。


「見知りおきの者か?」


役人が訝しそうに観る。


「あっ──


()え……」


「ならば邪魔立ていたすでない、皆早々に立ち去れ」


役人は群がる人垣を棒六尺で払い除け、去って行くそれを見送るしま(、、)双眸(りょうめ)に、もはや涙はなかった。


 


()()の話し以来銕三郎、前にも増して探索は多方面に拡げざるを得なくなっていた。だが、その甲斐も日々徒労に終る始末である。


何しろ言葉を話せば他国のものと判ってしまう、勢い視聴覚に頼らざるをえないのが現実であったからだ。


 


時季(とき)はすでに月を越し五月に入っていった。


かすみ(、、、)の奔走によって、安永元年(一七七二)新造営になった仙洞御所へ、後桜町天皇が御移りになった。その慶賀の際、諸大名からの慶賀の授受なども当然あった。


このどさくさに紛れ不正が横行したのではないか、と言う話が噂されているという事であった。


このことに関し、銕三郎の詰問にもかすみ(、、、)はその出処を口にしない。


その理由は、いくら間い正しても堅く口を閉ざし語ろうとしなかった。


(一体どうしたというのだ()すみ(、、)どのは?これまではなんでも話してくれたのに妙すぎる)


銕三郎意を決し、翌日この事を父宣雄に報告すべく、かすみ(、、、)ちよ(、、)を残し、市井(しせい)の者にまぎれ、西町御役所に向った。


父信雄に、これまでの経緯(いきさつ)を全て話し、


「家族の身に危険が及ぶ恐れあり、御役所には近づかなかったものの、此度の事は書面のみにては伝へる事叶わずと危険を冒し参上致しました」


と銕三郎。


この報告を聞いた宣雄


「銕!御苦労であったな!どうにも踏み込めぬ暗所の扉が開いた思持ちがする」


信雄、少しやつれた顔を悦びであふれさせる。


 


「ちびっと出て来ます」

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鬼平まかり通る 10


木屋町を流れる高瀬川

木屋町の旅人宿すずや(、、、)の女中おしま(、、、)、このところ気重なのか、いつもと違い


おしま(、、、)はんどないしたんぇ、こんとこ達者におへんなぁ」


女将の安ずるのも無理はない。


この月に入って青白い顔のままやって来るようになっていたからである。


「お女将はん、もしかしておしま(、、、)はん、 やや(、、)()出来はったんやおへんか?」


「そないな事云うても─、あっ…けどなぁ、そやろか」


(これはこまった事になる。この働き手が使えなくなると、たちまちそのとばっちりが自分の方にふりかかる、それだけはかんべんして欲しい)そんな顔つきで


おしま(、、、)はん、あんたもしかして、やや(、、)()出来はったんとちがいますのんか」


探る眼つきに女将繁s義解とおしま(、、、)の腹を眺めやる。。


「そないな事──」


と云ったものの、身に覚えのあること。ため息ももれようものだ。


おしま(、、、)はん、無理せんかてええんどすえ、少し休んでいよし」


女将はしま(、、)の顔をのぞき込み、不安げなしま(、、)の背をたたく。


夜五つ(午後七時)三条大橋を越えた仁王門通りにある若竹町の長屋に戻ったしま(、、)、中に九十郎の姿がないのを認め


「どこ行かはったんやろ」


小声でボソボソ云い乍ら表通りまで出てみた。


孫橋を戻り、大橋に向った所で九十郎が孫橋に向って歩いて来るのが見えた。


「九十郎はん─」


おしま(、、、)は小走りに駆け寄り九十郎の後ろに従った。


「何だおしま(、、、)気重な顔は」


少し気になったのかおしま(、、、)の方へ振り向き足を止めた。


「うち出来たみたい─」


「?……何?」


「やや子が─」


「……」


「嬉しせゃあらへんね」


「……」


「うち授かりもんどすさかい、産もう思うてますのんや」


不安を打消す様にしま(、、)


 「俺が親父になぁ─」


九十郎何かを含む様に口角を歪める。


「あんたはんに迷惑かける気ぃあらしまへんよってに」


愛しそうに帯の上から撫ぜるおしま(、、、)の姿を一瞥して九十郎、つ と立つ。


「あれ、今からどこへおいやすのん」


おしま(、、、)の声を背に聞きつつ九十郎戸口を開け出て行った。


 


その半刻後、戸が勢いよく開かれた。


観れば刀の柄に手を掛けた浪人態の者。部屋の中を伺い


「女!九十郎は何処だ」


周りに気を配りつつ眼で目的の者を捜している。


「どなたはんどすあんたはん」


おしま(、、、)は気丈に間い返した。


目的の者がいないと見た男、踵を返し闇に消えて行った。


(何んやの!あんおかしな人は、それにしても九十郎はん一体何所行かはったんやろ)うつ向きかげんにため息。


入れ違いに九十郎戻って来、青ざめた顔を行灯の灯がゆらりと揺れて戸口に影を映す。


「たった今あんたはん捜してお侍はんが来ましたえ、どなたはんどすねん。えらい血相してはったわ」


おしま(、、、)は刀に手をかけた様子におびえた眸で訴えた。


「何!侍だ!………。とうとうここも嗅ぎつけられたか・・・」


「何どす?」


蒼ざめるおしま(、、、)の前に坐り


おしま(、、、)、俺も元は地下人西尾九十郎、だが無役のゆえに世をすね、いつの間にか人殺しの片棒を業としてしまった。


あるお方の指図で先に御役所の役人を切った。だが二人目をしくじり、このような体になってしまった─」


「御役所?まさか西町御役所?」


「うむ、確かそう聞いた──」


そう言った九十郎、いきなりおしま(、、、)に突き放された。


「嘘や嘘や嘘やぁ───」


「おいおしま(、、、)、いかが致した──」


左腕しか動かせず、その場に倒れた九十郎、やっと体勢を戻しつつおしま(、、、)の急の変り身に戸惑いをかくせずに面喰っている。


「確かに西町御役所と…」


「おお言った」


「それはうちのお父はんや!」


「何だと!──」


「そんなんそんなん嫌やぁ」


おしま(、、、)はとり乱し、戸を引き開き、暗い表へ駈け出して行った。


「おしま─、どこへ行く──。まさかまさかお前の(てて)ごとは何たる事」


九十郎その場に膝をついて動く事も出来ず、おしま(、、、)の駈け去った闇を凝視するのみ。


 


さわやかな夜風が、通りにそって鴨川から吹き上って来る。


九十郎、おしま(、、、)を案じ孫橋近くまで出たものの、心の乱れを抑え切れないまま淡い月明りの下、つっ立っていた。


「西尾九十郎だな」


ふいに九十郎の後で人の気配がし、低く押し殺した声がした。


「誰だ俺の名を知っておるとは」


九十郎、薄明かりの中の声を確かめつつゆっくりと左手を刀の柄に懸けつつ振り返った。


「俺だ香山左門だよ。探したぜ、しくじったあと姿を眩ますとはのぉ…。あのお方の眼がある事を忘れるわけもあるまいに」


低く重たく押しかぶせる様な声が一歩前に踏み出る。


「左門!お前か─。俺はてっきり─」


「てっきり誰だと想った。ふん!多分な、そいつは外れてはおらぬよ」


「判っておる、だが今は待ってくれ!必ず次は仕留めるから、あのお方にそうお伝へしてはくれぬか」


九十郎、柄にかけた片手を前に懇願する様に小首を(うな)()れる。


「助けてはやれぬ、あのお方の命だ!」


九十郎、あわてて刀を抜こうにも、その腕は鞘半ばで伸び切っていた。


その胸には左門の繰り出す刀が深々と突き刺さっていたからである。


(ぶはっ!!)口から一気に血を吹き出し九十郎、堪らずその抜きかけた刀の柄を離し、己の胸に打込まれた剣を掴み(こら)える。


「しくじりは許されぬ、それはよく承知いたしておろう」


左門、そのまま欄干に九十郎の体を押しつけ、その腹に左足をかける。


「待ってくれ!俺には子が出来た、だからもう少しだけ待ってくれとあのお方に」


突き刺さった刃を左手に掴み、ドクドクと噴き出す血潮が下帯まで伝わり、脚元に流れる激痛を堪えながら九十郎、顔を歪めて懇願するも、


「そのような話しなら地獄(むこう)で致せ」


背を貫いている刃をえぐる様に右にひねりながら胸から刃が引き抜かれ、一気に鮮血が吹き出し、九十郎はその場に崩れ落ちる。風は止めどもなく溢れ出る九十郎の血を舐めて生臭く辺りに漂う。


香山佐門、九十郎にとどめを刺し、それを確め{ビユッ}と刀に血振りをくれて鞘に納め、足音も立てず闇に消えた。


あれから一刻(二時間)を過ぎたであろうか──、ふらふらと幽霊のような足どりもおぼつかないおしま(、、、)の姿が三条大橋から左に折れ、孫橋に進み、よろよろよろめきつつ仁王門前通りから若竹町の長屋にたどりついた。


家には明りもなく、ただ漆黒の冷えびえとした空気だけが待っていた。



 

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鬼平まかり通る  9月号



店に戻ったかすみ
「銕三郎はん、うちのこん恰好どないだす?かいらしどすやろ」
双眸(りょうめ)をきらきら輝せ、両長袖をすくってくるりと一回り、ちょんと腰を落してしなをつくる。
「う~ん一晩で崩すのは少々もったいないなぁ」
銕三郎いたずらっぽい目でかすみを視る。
「あん!銕三郎はんのいけず!どないな理由(わけ)どすねん」
すねて魅せるかすみの初々しさを銕三郎眩く眺めた。
翌朝、店を手伝いのちよに預け、烏丸六角堂に専純を訪ねた。
専純は太子堂前に腰掛け二人を迎える。
「これはまたお揃いでようおこしやす。長谷川はんもお忙しいようでよろしゅうおますな」
専純、銕三郎がかすみをよく助け、都の中を駆け回っていることをよく承知している。
それが何を意味するかは専純と銕三郎・かすみ以外だれも知らないことである。
「なんやかすみはんすっかり落ち着いたようやなぁ、何かええことでもあったんとちゃいますかいな、なぁ長谷川はん?」
柔和な笑顔で二人を代わる代わる見比べる。
辺りは門弟たちも居らず、参拝者の声も届いてこず、ただ静けさだけがそこに横たわり、傍耳を立ている。
人の気配に気を配る銕三郎に、
「誰も居てしまへんよって心配御無用どす、それより何かあったんどすな!?」
専純、先程の好々爺の顔はすで其処にはなく、研ぎ澄まされた剣を視る面持ちであった。
「お師匠はん、ゆんべ狛やのお女将(かあ)はんとこに尾州屋の旦那さんがおいやって、うち上げてもらいましたんえ。旦那さんお戻りになりはる時、口向役の手先が、〔お薬師はんの御開帳に御戸張を寄進せよ〕て、云わはったついでに、納書も添えろ云われはって、えらい腹立ててはったわ、なぁ銕三郎はん」
かすみ、銕三郎に同意を促す。
「何んやて!平等寺はんの御戸張やて──。それを口向衆が……」
専純きっとかすみの眸(ひとみ)を射抜く眼差しで視、銕三郎が肯(うなず)くのを確め
「ご苦労はんやったなあ、よぉ聞いて来てくれはって、おおきにどす」
専純深くため息をもらす。
「専純様、これは一体どの様な事なので御座いましょうか」
銕三郎、この専純の動揺した瞬間を視逃してはいなかった。
「やはり長谷川はんやなぁ、ようお気づきにならはりましたなぁ。
平等寺はんの御開帳なら手前で身繕うものどすやろ、それを口向役から御用商人に寄進させるはずおへん」
厳しい専純の語気に銕三郎(これは!)と感じ、かすみの顔を見る。
「銕三郎はんの探しとられたもんと違いますのん」
と眸を輝せた。
「長谷川はん、こん事は御役所へは云うたらあかんのどすえ」
専純するどい眼差しで銕三郎を制する。
「それは又何故でございましょうか?」
銕三郎それを調べるのが役所の仕事のはずと思ったからである。
「お奉行はんは大丈夫でおますけども、囲りんお方は地下侍どす。こん事が囲りに万一漏れたら大事どす。今から早速壬生の隠居はんに御報告しますよって後ん事はおまかせしておくれやす」
専純そう云い残し、慌ただしく奥の坊へ戻って行く。
店に戻ったかすみ、
「銕三郎はんうちにご褒美おくれやす」
銕三郎の袖を掴みかすみ、瞳を閉じ、頤(おとがい)を上に向けた。ほのかに鬢付け油の薫りと誰が袖の甘い薫りが、銕三郎の五感を誘う。
その翌日から銕三郎は専純の戒めを守り、口向役人の出入りする仙洞御所や女院御所・禁裏を中心に地下官人の動きをさらに探る日々が続いたのである。
五月もようよう半ばとなり、比叡降ろしに冷え切った京の都にも華やいだ季節が訪れて来る様になった。
この日、銕三郎とかすみは四条烏丸仏光寺通り仏光寺に花木を届けた後、建仁町通りの百花苑に戻りかけていた。
松原橋を渡った処で商人風の男とすれ違った。
それはただすれ違った、それだけの事で、銕三郎も何か!を感じるものもない。
店に戻り、手押車を納めた銕三郎が戻って来た。
「えらかったやろ、今茶(ぶぶ)でも入れますよって」
かすみは七輪の上でシュンシュンと白い湯気を立ている土瓶に袖をからめ急須に注ぐ。
銕三郎、手拭いでパタパタと着物を叩き入って来、
「おちよは?」
と声をかけた。
「おちよなら最前まで表におったんやけどなぁ……おかしな娘(こ)や」
少々訝る感じに上って来
「ぶぶどす」
銕三郎の手元に湯飲みを差し出し、かすみはふっと小さなため息をこぼした。
「おっ!かすみどのにも然様なものが」
銕三郎湯飲みを受取りつつ、冷やかし半分、にやにやとかすみの顔を覗き込む。
「何んにもあらしまへん」
気を悟られまいとかすみ、横に向き直り、もう一つの湯飲みに茶をそそぐ。
その時表の方で物音がする。
「戻ったんや─」
かすみは表へ出て行つた。
(ふむ……) 銕三郎、何か胸に小骨の刺さった風である。
「鉄はん、ちょい出掛て来ます」
そう奥に声をかけ、
「ほなおちよ、後ん事たのんだぇ」
「へぇほなお師匠はん気ぃつけてお早ようお戻りやす」
ちよは奥座敷にやって来、かすみの湯飲みを下げつつ
「あれぇお揃いやわぁ、お師匠はん、いつの間にこんなん─、なぁ鉄はん!うちちいとも知らへんかったわぁ」
銕三郎の飲んでいる湯飲と同じ模様の少し小振りな湯飲を取り上げ、銕三郎の顔をまじまじと眺める。
「それにしてもどないしはったんやろなぁ今のお師匠はん、ちびっとけもじいわ(変)」と小首を傾げた。
むろんちよは鉄はんが言葉が云えると想ってもいないものだから、ニコニコと意味あり気に大人びた顔になり、銕三郎の顔の変りようを愉しんでいる風である。

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鬼平まかり通る  8月



しまは九十郎の肩に身を預けたままねっとりと纏わりつくような眸で見上げる。
九十郎、ほのかに昨夜の名残の香りを包んだ寝夜衣の、しまの華奢な肉体を引き寄せ、左手に持った盃を置いたその手を身八ツ口から差し込み、ふくよかなしまの胸乳に触れた。
しまはそれが普通のように九十郎の指先の遊ぶに任せ、目蓋を閉じ、身を委ねている。
「お前はいい女だ──」
「うふふふ……。九十郎はんだって─ねぇ」
しまは胸乳に置かれた九十郎の手を、着衣の上から包むように手を重ね、ねっとりと流し目を送る。
室咲きの桜の一件で六角堂住職池坊専純をたずねて五日後、狛やに呉服太物商尾州屋から奥座敷を用意するよう云われたと、女将より知らせを受けたかすみと銕三郎、呉服商尾州屋の話しを聞こうと、
「お女将はん、壬生のご隠居はんのお指図どすによって、うちもそのお座敷に上げておくれやす」
と切り出した。
「そらかすみはんは壬生の御隠居はんが襟替えさせはった元々芸妓、尾州屋はんから春駒はんの御名指しなんやけど、小染はんならお馴染みやさかい、うちからそないお断りしまひょ」
軽く胸の前を叩き、心安く引受けてくれる。
当日かすみは髷を鳥田に結い上げ、久し振りに振袖を引き出し、
「ねえねえ銕三郎はん、うちどれが似合うと思はります」
銕三郎の反応を試すようにしっとりとした眸を流した。
その瞳はをんなのそれであった。
狛やの控座敷には地方(じかた)も入り、もう一人の立方染丸も先に来ていた。
「こんばんわぁ、姐はんよろしゅうおたのみします」
裾を捌き、舞扇を前に指をそえ深々と挨拶する。
「へぇよろしゅうに──小染はん、戻りはったんかいな」
「ちゃいますのえ、尾州屋の旦那はんにお目にかかりとぅて」
「なんや、そやったんかいな、小染はんの器量やし、そら尾州屋の旦那さんも喜びはるやろな」
そんな話しをしていると、
「おたのします」
外から中居の声が掛った。
半刻(一時間)して、酒宴もひとしきり終い、
「ちぃと席空けてくれまへんやろか」
尾州屋は地方の姐さんに耳打ちした。
「へぇ、なら又お声かけておくれやす」
周りに目配りし、皆そろって部屋を出た。
それから小半刻過した後、口向役はぞんざいな態度で戻って行った。
「屋州屋の旦那はん、よろしぅおすか?」
かすみは宴席の隣の部屋から声をかける。
しばらくして
「ああ小染はんかいな、お入り─」
弱々しい尾収屋の声が漏れた。
「へぇほんなら──」
かすみは静かに襖を開け部屋の中を一瞥、そこにはじっと座したまま考え込んでいる尾州屋の姿があった。
「あれあれ、あんまり進んでへぇへんに、えげつないお姿どすなぁ」
かすみ、尾州屋の手にした盃を外し、後へ回り、乱れた羽織を掛け直す。
「あかんお酒や、ちいとも飲んでへんに酔うてしもた」
尾州屋は吐き捨てるふうにつぶやく。
「旦那さんをこないな目に遭わすお人、どんお人やろ、ほんまいけずやわぁ」
かいがいしく尾州屋の身繕いに手を添えつつつぶやく様にかすみ。
「口向役の手先や!お薬師はんの御開帳に御戸張を寄進せよ、ついでに納書も添えろやて──」
「そんなんあほくさ」
「せやろ、品もんはよこせ、納書も添えろ、それだけや、お銭払うつもりなっとへん。どんだけ懐肥さはるおつもりやろか……。見てみなはれ小染はん、ほんまあの金魚(きんとと)や、いかい魚にはいかい糞(ばば)がつくもんや、なんぼ綺麗にしたかて、すぐ水汚れますんや」
尾州屋、いかにも腹に据え兼ねる風に、優雅に泳ぐ金魚に目をやる。
「なんや金魚(きんとと)のばば(、、)かいなぁ、それもぎようさんおりますねんなぁ」
そこへ女将が入って来
「お上りはんも手ぇ貸して、うちの店の以外(ほか)かてや、あちこち呼びつけて、ほんま貉(むじな)と狸の化かし合いや」
「そうどすなぁ──旦那さん、ちぃと待っとおくれやすえ、今駕篭寄せてますさかい」
かすみは一旦賄いに行き、銕三郎を座敷外まで呼び込み、尾州屋をかかえる様に
「鉄はんお頼み申します」
と銕三郎を招き入れ、
「ほな旦那さん!はばかりさんどした、気ぃつけてお戻りやす」
居ずまいを正し、顔は尾州屋を見たまま腰を折った。
「へぇおおきに、ごっそぉはんどした」
尾州屋、銕三郎に脇をかかえら、れゆっくりと玄関口へ進み、待っていた町駕篭に乗った。
「お女将(かあ)はんおおきに、おかげはんでご隠居はんにええ話し出来ます、なあ鉄はん」
何であれ一つ前に進むものが掴めたのである。

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