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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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その日平蔵は本所菊川町の役宅から昼前に出かけた。
「ちょいと所用を思い出した」
と妻女の久栄に用意をさせて、供もなくゆらと出かけた。
西に足を取り伊予橋を渡ったところで、
長桂寺前を歩いてくる二人連れの一人が駆け出してきたのが目についた。
「長谷川様ぁ」
息せき切ってやってきたのは黒田麟太郎
「おお!麟太郎ではないか!」
平蔵はこの若者黒田麟太郎とはひょんなことから知り合った。
当時江戸市中を震え上がらせていた残虐非道の盗賊
垈塚の九衛門(ぬたずかのきゅうえもん)一味の押し込み先を
漏れ聞いたことが元で黒田左内の養子となり、黒田家を引き継いだ若者である。
平蔵がこの若者と本八丁堀の稲荷社で出くわせ、
それが元で平蔵は窮地に陥るが黒田左内の娘、
染の献身的看護で一命を取り留めたという事件があった。
「長谷川様、本日は遅いお出かけで・・・・」
と笑顔が冬の風のなかではつらつと輝く。
「うむ ちょいと用を思い出してな、ところで今日は御役目かな?」
と、足早によってくる同心姿の男を認めた。
「はい 南町奉行所本所深川周り同心小村芳太郎さまと
見習いのお供でございます」
「おおそいつはご苦労だなぁ、お父上はお変りないか?」
「はい、父上は少し風邪気味なれどお元気でございます、
それと姉上もお忙しくなさっておいででございます」と告げた。
「おお染どのもお変わりはないか!」平蔵はこの一言で安堵した。
そこへ小村芳太郎がやってきて「長谷川様、
ご苦労様でございます」とねぎらいの言葉をかけてきた。
「うむ 筑前守様はあれからどうなされた?」
と盗賊垈塚の九衛門の事後を尋ねた。
「はい 評定所にて首領の九衛門と3名が獄門、
残りの6名は遠島と定まり、それぞれ処されました」
「おお では筑前守様も肩の荷が下りたことでござろう、
いやめでたいことじゃ」と平蔵五間堀の川面のゆらめきに目をやった。
「おおそうじゃ、わしは今から弥勒寺によるが、如何かな?団子でも共に・・・・・」
と小村芳太郎を見た。
「ああ 左様で御座いますなぁ、ちょうど昼時、のう麟太郎」と供の麟太郎を見た。
「あっ はい!まことに・・・・・」と麟太郎は二人の顔を見上げた。
「よし!そうと決まれば善は急げだ、あはははは」
平蔵は先に立って弥勒寺に足先を向けた。
弥勒寺門前の茶店笹屋の奥につかつかと入リながら平
「蔵「お熊はおるか!」と声をかけた。
奥の方からシワ枯れた声が威勢よく飛び出してきた。
「誰でぃ気やすくおらの名を呼び捨てにするなぁ、
そこらのゴロツキでもおらにはちったぁ気ぃ使ってさんずけで呼ぶのによぉ」
とぶつぶつ言いながら、にしめたような色の前掛けで手を拭きながら出てきたが、
平蔵を一目見るなり飛び上がらんばかりに細い眼をシワクチャにして叫んだ
「銕っつあんじゃぁねぇけ!
嬉しいねぇこのおクマのことを忘れてなんかいねぇんだねぇ」
と首っ玉にかじりつきそうに擦り寄ってくる。
「おい おクマお客さんだぜ」平蔵はヘキヘキした顔でおクマをいさめる。
「あれぇお客さんかえ、おらには見えなんだもンでよぉ」としゃぁしゃぁとしている。
「で 銕っつあんこの若ぇのは又誰だい?中々の男前で、
うひひひおらの好みじゃァねぇか」
熊の目線を浴びて麟太郎は少々引いている。
「おいおい 麟太郎、このお熊はな、
口は悪いが中身は見かけほどのものではない、
安心いたせ」と、笑いながら緊張しきっている麟太郎の顔を愉快そうに眺めた。
「そうだよぉ 何も取って食おうってんじゃぁねぇよう、
銕っつあんの知り合ぇならそりゃぁもう・・・・・へへへへ」
と歯抜けのシャワクチャな顔を更にシワクチャにして麟太郎を見た。
「おい おクマ、そんなことはどうでも良い、
早く団子を持ってきてくれ」と平蔵が助け舟を出す。
「このおクマはな、わしがまだ入江町で無頼の暮らしを
していた頃からの知り合いよ、時にゃぁこの奥に居候したこともある、
まぁそんなことから今もちょくちょくネタを仕込んでくれるし、
この妖怪のような婆婆も色々と都合が良いのじゃ。
おまけにこの笹屋の団子、こいつが又中々イケる、まずは食ってみろ」
平蔵は皿を麟太郎に渡しながら
「小村殿も如何かな?あやつの顔ほど毒気はござらんあははははは」
と笑いながら皿を薦めた。
「ははっ! 頂戴つかまつります」小村芳太郎はおクマの
毒気にあたって少々顔が引きつって見える。
「美味しい!」
まず麟太郎が大声で叫んだ、小村も続いて
「まさに!」と口を揃えた。
奥から茶を出しながら
「当たり前ぇでぇこのお熊の笹だんごは将軍様でも旨ぇとおっしゃるはずでぃ」
と喩えは大きい。
「おいおいおクマ!将軍様はここだけの話にしとくんだぜぇ」
と平蔵がニヤニヤ笑いながら茶をすする。
「しかし長谷川様、驚きました、このようなところであのような・・・・」と
、眼をまんまるに見開く麟太郎。
「うむ お前ぇにゃぁまだ会わせてはおらぬが、
本所二ツ目橋の五鉄ってぇ軍鶏鍋屋の所におる
相模の彦十ってっぇのがおってのう、
こいつとこのおクマが揃った日にゃぁお前ぇ軍鶏の喧嘩みたいなんだぜぇ」
平蔵は思い出し笑いをこらえながら小声で麟太郎に耳打ちした。
すると奥からお熊が
「銕っつあん何か言ったけぇ、軍鶏がどうとか聞こえたけんじょよぉ」
と言いながら小芋の煮っころがしを皿に乗せて持ってきた。
「おクマ、お前ぇ耳だけは達者だのう!」
平蔵がわざと大声で言うと「だけはよけいだけんじょよ、
おいら近頃とんと耳が遠くなっちまってよぉ、
いけねぇいけねぇいよいよ聞こえねぇよぉ銕っつあんどうしようよ、ねぇ」
「はぁ口の減らない婆ぁさんだ、地獄耳とはよく言うがな、
都合の良い時だけ聞こえるってぇのは便利なものよのう麟太郎」
とふられて麟太郎、小芋の煮付けを口に運んだままこっくりうなずく。
「わぁっはっはぁ!お前ぇは正直者だなぁ」
平蔵は腹の底から笑い転げた。
ゆっくりと団子と小芋の煮付けで腹ごしらえして立ち上がる平蔵に
「銕っつあん又寄っとくれよぉ、おらいつでも待ってっからよぉ、うへへへへへ」
と流し目をくれた。
「ったくお前ぇの毒はいつになったら消えるものやら、おおくわばらくわばら」
と平蔵切って返し麟太郎に目配せして
「ところでおクマ酒粕はねぇかい?」
「アレぇ銕っつあん又何をしようってぇんだい?
粕ならすぐそこにあるけんじょ、おらがもらってきてやるよぉ、
ちょいと待ってな」
と気安く出かけ平蔵たちが茶を飲んでいる間に戻ってきた。
「おうすまねぇ手間をかけたなお熊、こいつで足りるかえ?」
と二朱をおクマに握らせて店を出た。
「銕っつあんいつも済まないねぇ」
平蔵の渡した二朱を懐に入れながら歯の抜けた顔でニタニタと笑いながら
「お前さんもいつだって寄って行きな!銕っつあんの口利きだぁ、
この界隈のことぁこのお熊に任せておきなってことよ」
と麟太郎の袖を掴んだ。
「あっ !はい!よろしくお願いいたします」
と麟太郎、どう返事をして良いものやらしどろもどろで応えた。
おクマ婆ぁは
「かわいいねぇまっこと可愛いいじァないかねぇ」
と舐めるように麟太郎を見やったもんだ。
この老婆の毒気に当たったようによろめきながら
麟太郎は小村芳太郎の後に続いた。
「小村様、驚きましたねぇあのお熊という老婆には・・・・・」
「うん だがなぁ麟太郎、あのような連中の中で今の長谷川様は
御役目を全うなさっておられるのだよ、
我らにはどうにも届かぬ眼の奥でつながりを持たれ、
それらを目鼻のように操られて市中を守っておられるのだ、
俺なんかとてもとても長谷川様の足元にも及び付かないそのように想う」
と小村芳太郎は平蔵の去っていった方角を見つめていた。
平蔵はといえば、おクマの持ってきた酒粕をぶらぶらさせながら、
弥勒寺橋に戻り、これを渡ってまっすぐに南下、
南森下町を通り太田備中守下屋敷を左に見ながら高橋を越えた。
左手には寛永元年霊巌上人の開山で日本橋に創建されたものだが
、明暦の大火で消失し、万治元年にこの深川に移転した霊巌寺があり、
境内には江戸六地蔵の五番目が安置されているということで、
訪れる人も絶えない状況である。
番屋を過ぎたところから正覚寺橋を越え、
道なりに万年町、平野町に相対して居並ぶ寺の家並みの白壁をゆるりと南に下った。
海福寺門前で棒手振りが冷水で洗いたての練馬大根を売っていた。
「うむ こいつぁ美味そうじゃぁ一括りくれぬか」
平蔵何やら胸に想うたものがあるらしく口元が緩んでいる。
そのまま道なりに進むと冨岡橋が見えてきた。
油堀に架かる奥川橋を越えて蛤丁の門を曲がれば
万徳院円速寺の大屋根が覗く北川町に出る。
この中程に平蔵が目指す黒田左内の居宅がある。
油堀を挟んで真田信濃守の広大な中屋敷の白壁が
美しくその姿を油堀に写し、
春ともなれば庭の桜が見事にその風情を見て取ることが出来る。
木戸をくぐり
「居られるかな?」と奥に声をかける。
その声を聞きつけて中から
「長谷川様でございますか」と華やいだ声が出迎えた。
「おう 染どのもご在宅か、先ほど弥勒寺そばで麟太郎と出会いもうした、
聞けば親父どのが少々風邪気味と伺いまかりこしたが、如何でござろう?」
と応えた。
「よくまぁお運びで、父上もさぞやお喜びになられる事でございましょう」
と染がにこやかに出迎えた。
平蔵は奥の部屋に向かって
「親父どのご無沙汰いたし申し訳ござらぬ」と声をかけた。
大判縞の丹前に包まれて左内が襖の向こうから首をのぞかせ
「いやお恥ずかしき限り、これこの通りまるで痩せ達磨じゃぁあはははは」
と、久しぶりに見る平蔵を喜びいっぱいの顔で迎えた。
「染どの、こいつで親父殿の風邪を吹き飛ばそうと提げて参った」
平蔵は染に大根と酒粕を手渡した。
「まぁ真っ白に、ほんにきれいな清白(すずしろ)と・・・・・・」言いかけたものへ
「いやぁ 染どのには叶いませぬわいのう親父どの」
と、平蔵褒めたつもり・・だが・・・
「まぁ長谷川様、私はこれほど太ぅはござりませぬ!」
とむくれた染の言葉に平蔵と左内、顔を見合わせ??????
一瞬の間を置いて左内が
「わぁはははははっ!これはしたり平蔵殿!
染はおそらく己の脚と踏んだようにござりますぞ」
と可笑しくてたまらぬように腹を抱えて笑う。
「なななっ 何と・・・・・・」
平蔵も左内の言葉にやっと気づいたようで
「やっ これはしたり、わしはそのような意味で申したのではござらぬよ、
のぅ親父どの」と左内に救いを促すが、・・・・・
「まぁ ではどのようなおつもりで申されたのか
お聞かせ願わしゅうございます」
と唇を真一文字に結んで染は平蔵と左内を見据えた。
「これ染!平蔵殿はそなたの脚を例えたのではない、のぅ平蔵殿」
と苦笑いをしつつ平蔵を見た。
「全く全く、わしにはそのような腹蔵はござらぬ、
染どのの色が白いを褒めたつもりでござるに、いやはや・・・・・
これは困った、染どのに臍を曲げられてはこれは叶わぬ、
許されよのぅ染どの、これこの通りじゃぁ」平蔵半分べそを?きながら染をみる。
「おほほほほほ、はじめから承知致してございます、
でもちょっと長谷川様の困ったお顔が見とぅて、うふふふふふ」
と染がイタズラっぽい眼で平蔵の顔を盗み見るように見返した。
染の笑顔に白い歯が浮かんで、
このすきまほどの時間の楽しさを味わっているようであった。
「やれやれ わしは冷や汗をかいてしもぅた」
平蔵鬢を掻きながら染を見る、そのやりとりに
「久しぶりに笑ぅて風邪がどこかに飛んでゆきそうじゃ」
と左内も火鉢を平蔵に勧めながら炭を足した。
「親父どの、麟太郎は見習いのお勤めをちゃんとこなしておるようで、
身共も安心いたしましたぞ、
先ほど弥勒寺傍で同心の小村芳太郎殿と連れ立っておる所に出くわしたおり、
中々しっかりとした出で立ちに安堵いたした。
暫くは大変ではござろうが、何卒よしなにお願い申す」と軽く頭を下げた。
「いやいや長谷川殿、ご貴殿のなかだちにて麟太郎を
この黒田家の後継ぎとすることもご老中よりお許しが出て、
身共はこの上なき幸せ者と想うてござります、
ご覧のとおり今では染は嫁ぐ気なぞ全くなく、
このままでは黒田家は我が身代でおしまいかと想うておりましただけに、
この度の麟太郎の養子縁組に長谷川殿が後見人を買うて出て下さり、
お奉行様もならば良かろうと私の持ち場であった
深川見回りの小村芳太郎殿に見習いとして従けてくださりました
、まことにかたじけのうござります」と深々と頭を下げた。
「あっ! こりゃぁいかん、染どの忘れるところであった、先ほどの大根じゃが・・・・」
と左内の気持ちを軽くしようと返事をはぐらかせて
「こんにゃくはござるかの?それとニンジンに油揚げなぞあらば申し分なし」
「それならば今朝ほど棒手振り商いから求めたばかりでございますが、
いったい何が出来るのでございます?」と興味はすでにそっちのほうに移っている。
「うむ こっくり汁と申してな、まぁ出来てみればなるほどとうなうく味」
「まぁそれでこっくり汁?」
と染は平蔵の傍に寄り添って平蔵の講釈を聞きながら支度に掛かった。
「先ずは大根と人参、それにコンニャクを拍子切りに揃え油揚げも刻んでおき、
昆布で出し汁を取って酒を入れ、大根ニンジン油揚げを入れてしばらく煮込む。
煮立ったならばそこにコンニャクを滑りこませ、龍野の薄口醤油、
下総の行徳塩、隠し味に岡崎の八丁味噌・・・・・・・
ここいら辺りでちょいと味見を、ここが先ずは第一の関門・・・・・ふむふむ・・・・・
も少し味噌を加えて、どれどれ」
「まぁっ 長谷川様お一人で味見とはずるぅございますよ、染にも一口・・・・・
平蔵と鍋の間に割って入って・・・
まぁこれはまた美味しゅうございますねぇ、やわらかな味が味噌の薫りに包まれて」
と平蔵の顔を見上げる。
染のひとときの満ち足りた顔を眺めながら
「身共だけが蚊帳の外でござるなぁ」とすねてみせる左内であった。
「まぁ親父どのには仕上げの味元を残しておりますぞ、
のう染どの、あっはあっは、では酒粕をゆっくり溶かしながら入れてくだされ、
最後の一振りに胡椒を少々、これが最も肝要でござるよ」
平蔵はふうふう言いながら小皿に取った粕汁をすすってみせる。
「あっ!ずる~い!お一人だけとは許せませぬ」と染はその小皿を取り上げ・・・・・・・
「ほんに これならば父上のお風邪もどこかに飛んでゆきますわ」とご満悦である。
「青ネギをたっぷり、こいつが更に旨味を引き出し申す」と平蔵が講釈を締めくくる。
「まこと 長谷川様はなんでもよくご存知でございますねぇ、
さぞや小料理屋への出入りも・・・・・」
と意味深な染の目つきに平蔵大慌てで
「いやっ これは身共の配下にて料理にかけては中々の者から
聞いたものでござるよ染どの」
と脛に傷持つ平蔵としてはここで墓穴を掘ってははならじと応戦する。
「まぁ何処へお出かけになられましょうともよろしゅうございますがねぇ父上」
と今度は左内に下駄を預ける。
「やれやれ、いやまるで猫のじゃれ合いを見ておるようで、
あははははは、まことに温もりとは、かようなものを申すのでござろうか」
左内は運ばれた粕汁にたっぷり懸けられた青ネギの薫りに目をつむり、
ゆっくりと大きな吐息をもらした。
「のう平蔵殿、人は何を持って幸せと想うものでござろう・・・・・・
身共はこのひとときを愛しいとおもいまする、
生きておらばこそとこの生命永らえられるならその時までを
このままであってくれたらと想いまする」
真冬日の寒さの中に左内は、温もりに包まれて少し障子を開けた庭に咲く
寒椿の紅色に重ねていた。
ゆっくりとした時を過ごした後、平蔵は左内の家を辞し
永代橋を渡り、船番屋を通り過ぎ、豊海橋を渡って南新堀から二ノ橋に向かった。
白銀町を北に上がって長崎町を左に折れ
圓覚寺橋木稲荷の前を通って東湊町を左折南下して高橋を越えた。
南側には鉄砲洲浪よけ稲荷がこんもりとした丘の上に見える。
過日平蔵が麟太郎と出会った件の稲荷社である。
南八丁堀を西に真福寺橋たもとを左に折れて新庄美作守下屋敷を
木挽町の紀伊國橋を渡って左に三十間堀四丁目を右折して
数寄屋橋御門をくぐって南町奉行所へと出た。
ちょうど池田筑前守は執務中で、少し待たされた後
「遅くなり申し訳なし」と平蔵の待つ控えにやってきた。
「筑前守様ご多忙の中突然まかり越しましたる儀何卒お許し願わしゅう存じます」
と頭を下げた。
「いやいや長谷川殿こちらこそ、此度の事件お見事なる解決にて、
わしも肩の荷を下ろし申した、礼を言いますぞ」と労ってくれ、
「先の南町奉行所深川見回り与力黒田左内の養子の件、
長谷川殿の後見ということもあり、老中も即刻黒田家の与力復権をお認めくだされた。
わしにとっても左内はかけがえのなき者にて
お役御免を申し出て参った折にはいささか困惑いたした。
何としても惜しい者であったからのう」
とこの度の事を心より喜んでいる様子に平蔵ほっと胸なでおろす心地であった。
「で、何か外に気がかりなことでもござるかな?」とにこやかに平蔵の顔を見た。
「あっ いえこの度は筑前守様のお骨折りにより肥前より出て参った
黒田麟太郎の養子縁組をご快諾頂き、
おかげ様にてあの少年の行く末が黒田左内殿に取りましても
良き結果に結びつき、その件につきご尽力賜りました筑前守様に
御礼を申し上げねばと長谷川平蔵本日はまかりこしましたる次第、
まことにかたじけのうござりました、
つきましては麟太郎に元服いたさせたき存念にて、
願わくば筑前守様にそのお許しを頂きたくこうして改めてお願いに」
平蔵は深々と低頭したが、
「何を申される長谷川殿、身共もそこもとの父上には京で真世話に相成り申した、
相身互いじゃ、お気にめさるな、あはははは」
と平蔵の気持ちを和らげようと明るく笑い声を上げた。
こうして平蔵はこの度の麟太郎元服の許しを得、
我が身の中で一つの区切りがついた思いで安堵した。
菊川町役宅に戻る途中を、平蔵は再び黒田左内の長屋に訪れた。
「染どのは・・・・・」
平蔵が染の顔を目で追うのを左内は見て取り
「先程桔梗屋に参りました」と残念そうに伝えた。
その時表から
「父上只今戻りました」と麟太郎がお勤めから戻ってきた様子
「おお ご苦労であった!」その声を聞いた麟太郎ガ
「長谷川様本日はまことに思いもかけない人にご紹介にあずかりました、
麟太郎少々驚きましたが、気持ちのよいお婆婆さまでございました」
と礼を述べるのを受けて平蔵
「まさに妖怪であったろう?どうじゃな?」と少しいたずらっぽい目で麟太郎を見た。
「ああっ いえそれほどのことではござりませんでした、
初めはちょっと驚きましたが口の悪い割には優しい方と思いました」
「ふ~ん あいつにぁ食われるでないぞ、あぁ見えても山姥の如き婆婆じゃからなぁ
わははははは」と麟太郎の顔をまじまじと見つめた。
「さっ 左様でございますか?」
平蔵の脅しにちょっと腰を引きかけた麟太郎を見て左内が
「その婆婆様は如何なお人であった?」
と興味津々の言葉に
「いやぁ昔身共が世話になり申した弥勒寺界隈では
知らぬものも居らぬ名物婆婆でござって、
ちょうど昼前にその弥勒寺近くでこの麟太郎と
同心の小村芳太郎殿に出会ぅたので、ちょっと紹介をいたしたまで、のぅ麟太郎。
ところで親父どの、先ほど南町奉行所に出かけ、
筑前守様より麟太郎元服のお許しを頂いて参った」
平蔵嬉しそうに事の次第を左内に話した。
「まことでございますか!」
左内も麟太郎も飛び上がらんばかりに喜んだ。
「うむ そこでじゃが、初冠(ういこうぶり)を致さねばならぬ、
総角(みずら)を改めて冠下の髷(かんむりしたのもとどり)を結い、
烏帽子親によって前髪を剃り月代にし、
それまでの幼名を廃して元服名の諱(いみな)を新たにつけねばならぬが、
親父どの、さてさていかが致しましょうや」
平蔵もこのワクワク感は嫡男辰蔵で、体験は久しぶりである。
「これはもう烏帽子親は長谷川様以外ございますまい、のう麟太郎」と左内。
「はい 私も左様に思います、何卒この麟太郎の烏帽子親にお願い致します」
と手放しである。
「あい判った、では身共の蔵を取り、
親父殿からも一字頂戴いたして黒田蔵人宣内は如何でござろう?」と述べた。
「黒田蔵人宣内でござりますか!
これに最早意義の申す者なぞおりましょうや!のう麟太郎!」
左内と麟太郎は小躍りして歓びを表した。
後、この黒田麟太郎改め御家人黒田蔵人宣内は長谷川平蔵の嫡男辰蔵、
(後の先手弓頭宣義)の懐刀として活躍する事になる。
「あっ 長谷川様 いらっしゃいませ」
店先に打ち水をしていたおときが平蔵を見て愛想の良い笑顔で迎えた。
「おう おとき、毎日ご苦労だのう」
平蔵はこの女中の笑顔がこの五鉄の看板だといつも思うのであった。
「長谷川様がお越しですよ」
おときは弾んだ声で平蔵の来店を奥につないだ
「これは長谷川様、あっ 丁度良い所に・・・・・・」
「っってぇと何か変わったものが入ぇったってぇことだな?」
平蔵すでにこの五鉄の亭主三次郎の顔から読み取って足取りも軽く
二階へ上がっていった。
相模の彦十が酒肴膳を抱えて上がってきた。
「おい 彦 今日は又変わった物が入ぇったようだなぁ」
窓の障子を開けながら敷居に腰を据えた。
「さすが銕っつあん 耳が早ぇや、実はね信濃は松本の
一閑曲がりネギが手に入ぇたんでさぁ、
いつもなら下仁田か深谷、千住ってぇところでござんすがね」
彦十も五鉄に居候を決め込んで少しは学んだのかその博識ぶりをひけらかす。
「ほうほう 彦 お前ぇも少しは店を手伝っておるようだのう」
「銕っつあん そいつぁひでぇや、こう見えたって相模の彦十
腕には覚えもござんすよってなもんでへへへへへっ」
と腕をまくって平蔵にみせた。
「おいおい彦十その干物のようなものは頼むから引っ込めてはくれぬか、
今そいつを見せられちゃぁこの後のねぎがまずくなってしょうがねぇやぁな」
「あっ 違えぇねぇや」
彦十笑いながら恥腕(やさうで)を袖に帰す。
平蔵に酒を注ぎながら、さっさと自分の懐盃を出しておこぼれ頂戴。
「で ネギがどうした?」
酒を口に運びながら話の先を催促する平蔵。
そこへ亭主の三次郎が鍋の支度を抱えて上がってきた。
「長谷川様、もう父っつぁんにお聞きになられたと思いますが、
曲がりネギが手に入りまして、上野国は松本の特産、
これぁぜひ長谷川様に食べていただかなくてはとお知らせいたしました次第で、
下仁田のネギは丈も短く太く生では辛味が強うございますが、
火を通しますと柔らかく甘くなります。
別名を殿様ネギと言いますが、これはぶつ切りにして炙りますと、
甘くとろりとした甘い口当たりがよろしゅうございます。
千住ネギは土寄せして根を白く工夫したものでございますが、
葉肉は固めでいつでも手にはいり、鍋物には欠かせません、
旬となると11月からでございましょうか。
下仁田葱
埼玉の深谷はきめ細かく柔らかく、糖度が高く甘うございます。
この甘さはミカンと同じくらいとか、
このために鍋には砂糖の代わりになるというのでよく使います。
「ふ~む それほどの違いがあるとはなぁ、
でその一閑曲がりネギはまたどのようなものだえ?」
平蔵の好奇心がむくむくと頭をもたげていた。
「はい それがまたこだわりでございまして、
一旦植えたものを夏の間に引き抜いて植え替え致します」
「おいおい わざわざ植え替えるのかえ?」
「はい それが又甘さを引き出すコツだそうで、
なんでも土地の者の話では信州は土地が痩せておりまして、
中々根を深く張らせるのが厄介なんだそうで、
そこで一旦伸びたものを抜いてこれをあぜに斜めに立てかけて、
根元を再び土で覆って伸ばすそうで、
ふた冬越してやっと食べられるようになるそうでございます、
その分甘さが行き渡り煮ても焼いても美味しいそうでございます」
「ホォそいつぁまた、彦十とは大違いだなぁ
聞けば聞くほど早く食ってみてぇもんだなぁ彦十」
「銕っつあん!そのあっしと大違いってぇのがちょいと引っかかりやすが」
と平蔵を見る。
「おお こいつぁ気が付かなんだ、なぁに気にすることぁねぇぜ
お前ぇは煮ても焼いても食えねぇってだけのことよわはははは」
「あっ そりゃぁあんまりじゃぁござんせんかねぇ」
と三次郎を振り返る。
当の三次郎あっさりと
「さすが長谷川様の目は誤魔化せんぇよ父っつあん」
とにやにや
「へっ!お前ぇにまでそう言われちゃぁこの相模の彦十もお終ぇだぜ」
とぼやきが入るのを
「おい彦!冗談だよぉさぁ温っけぇところで食おうぜ」
「おっと!そうこなくっちゃぁいけませんやぁ、」
と彦十さっさと鍋に箸を・・・・・
「父っつあん!」
三次郎がこの無礼をたしなめるが
「まぁいいってことよ、どれ俺にもよそおってくれぬか」
と酌をするおときに椀を出す。
下仁田ネギ
「で、本日の出し物は何だえ?」
「はい いつもならば軍鶏でよろしいかと思いますが、
本日は鶏を用いました、少しおとなしいかと存じますが、
この方が曲がりネギの甘みがよく出せると思いまして」と三次郎
「昆布を半時ほど浸して出汁を取ります。
これに鶏のもも肉をそぎ切りに、ネギの青いところを入れて
火にかけ中火で沸騰させ、火を落としてアクをすくいます。
その間に曲がりネギの白いところをそぎ切りにして焦げ目がつくように炙ります。
ここが旨味を出す秘訣、焼き上がりましたものを汁の中に入れ薄アゲ、
キノコを入れ、煮立ったところでみりんを入れて味を見ながら砂糖、
蜂蜜これが肉を更に柔らかく致します、
それに酒を加えて味を整え豆腐を落として予熱で煮ます、
煮過ぎると豆腐が硬くなりいただけません」
「おうおう 講釈を聞いているだけでも美味そうで、
こりゃぁまずい話になってきたぜ えっ!
寒いときやぁこいつでなく行かぬ・・・・・なぞとなぁ、どれどれ・・・・・・」
「お好みで柚子胡椒など振りますといっそうの・・・・・・」
「おいおいちょいと待ってはくれぬか!これ以上旨くなるというのかぁ、
そりゃぁたまらんぜ」
「銕っつあん!まだその上があるんでござんすよ!へへへへへ」
「おい 彦それ以上は申すな そりゃぁ河豚の毒でもあるまいし聞いただけで・・・・・・
いや いかぬ!毒を食らわば皿までと申すからなぁ 何でぃそいつぁ?」
「それがね 味の煮詰まった頃合いを見て、
この残り汁に蕎麦を入れて三次郎が申しやした柚子胡椒をパラパラと・・・・・
こいつがたまりませんやぁ」
「苦しゅうない、蕎麦を持てぇってかぁ!よぉし持ってこい其奴を」
「とおもいまして、もう温めて有りますよ長谷川様」
とおときが追い打ちの蕎麦を運んできた。
「蕎麦はやっぱり真田蕎麦であろうな、信州木曽の大桑・・・・・
こいつが一番、二番がねぇと言うやつよ、
上がったばかりのやつをこの残った出汁の中に入れて、
うむさぞかし濃厚であろうなぁ。
どれどれ・・・・・・・ううううっ 旨ぇ こいつはいやはやどうにも、
このネギと言い、蕎麦と言い身体の中からこう温まるなんざぁ中々のものよのう、
有り難ぇなぁむふふふふ」平蔵満腹のご様子であった。
こうして平蔵その足で菊川町役宅に戻りかけた。
程よく酒も回りそれ以上に曲がりネギの鍋が身体をいつまでも温かくしていた。
師走ともなれば昼でもそれ相当に冷える。
羽織から懐に腕を引っ込めてゆらりゆらりと足早に往来する人々の気配を
楽しんでいるかのようであった。
二ノ橋を渡り(ついでに弥勒寺のお熊のところへ寄って婆さんの顔でも
拝んで帰るか)平蔵は林町をまっすぐ弥勒寺の方へ下がった。
数日前の12月も押し迫った二十五日、
神田三川町一丁目両替商の大店鳴海屋に押し込みが入り
千両箱に入っていた小判や丁銀、小玉銀合わせて七百(しっぴゃく)両あまりが
強奪された。
賊は店のものを一箇所に集め猿轡をかませて後に刺殺し
素早く逃走を測った手口であった。
届け出は隣家の店の者が朝の戸口が開かないことに不信を持ち、
番屋に届け、番屋から町奉行所に届け出されて町奉行の同心が駆けつけ
表戸を打ち壊して入り発覚したもの。
強盗殺人ということで、南町奉行所吟味方与力から通達が届き
火付盗賊改方が担当となった。
「極悪非道なる仕業にて、係る事件は盗賊改めが出張らねばなるまいのう」
平蔵は手焙りに手をかざしながら筆頭与力の佐嶋忠介にボソリとつぶやいた。
「まことに左様で御座いますな・・・・・・」
佐嶋は平蔵の言葉の真意を汲み取ってそう答えた。
(俺は罪が憎い、それを犯させる奴が更に憎いそして罪を犯す者をなくしてぇ、
そこに俺たちは立たされているんだぜ)
以前佐嶋に平蔵が吐露した重い言葉が脳裏に浮かんだからである。
「お頭 両替商で師走ということからも、
この奪われた金子は額が少のぅございますなぁ」
「お前ぇもそう思うか?俺もそいつが気に食わねぇ、
おそらく粗奴らは金蔵は始めっから狙ってはおらぬと見た」
ゆっくりと平蔵妻女の久栄が運んできた湯飲みに手を添え
ゆらゆらと昇る茶の温もりを見つめている。
「確かに、手順から見まするに、素早く仕事を終えておるところからも少人数、
しかし後に証拠を残さぬための殺害は用心深いと申さねばなりますまい」
さすがに平蔵の懐刀と呼ばれる佐嶋忠介通達一つからここまで見通している。
「うむ お前ぇの言うとおりだろうよ、とするとこのままでは
済まぬような気がする、あと五日ほどの間にどこぞが狙われるやも知れぬ、
かと申して手がかり一つなしではいくら何でものぅ・・・・・」
手が打てないということである。
「江戸は広い・・・・・・・」
平蔵のこの言葉は江?御府内に南北両奉行所を合わせても与力四十六騎、
同心二百四十名 火付盗賊改方は与力五騎に同心三十名合わせても
与力五十一名同心二百七十名これで人口百万を抱える
江?四里四方を見回るのだから楽ではない。
おまけに町奉行と火付盗賊改方は同じ区域を廻ることでもあり
見回りの区域は広かったといえる。盗賊改めでは、
これに差口奉公(密偵)を各自が養っていた。
町奉行も同心与力の雇った小者・御用聞きと呼ばれるもの五百名や
その配下の下っ引三千名を使ってはいたが、
いずれもスリなど軽犯罪の見回りや聞きこみが主で、逮捕権は有せず、
又それぞれ糊口をしのぐ為に家族や本人自身が仕事を持っていた。
実際事件が起きたら御用聞きは奉行所からの要請で
奉行所に十手を頂きに上がってから事件の聞きこみに出かける、
これでは時間も掛かり効率的ではなかった。
ここは本所常盤町の海産物問屋能島や
「毎度ごひいきに預かりありがとうございます、富山の森田屋でございます。
反魂丹(後の六神丸)という幟を持って男が暖簾をくぐった。
「お前さんいつもの方と違うようだが?」
「へぇ 相済みません、いつもの友助さんがあの年でございますから、
ちょいと腹ァ冷やしちまってその代わりにあっしが、どうも面目ない話で」
と苦笑いしながら頭を下げた。
「そりゃぁそうだ、置き薬屋が腹を壊したんじゃお話にもなりませんからね」
主は帳簿をめくりながら返した。
奥からこの店の孫娘が出てきたのを見かけて
「お孫さんでございますか?はい!これお土産だよ」
と箱のなかから紙風船を取り出してぷっと膨らませて娘に渡す。
「ありがとう!」
娘は嬉しそうにその風船を両手で抱えて主人の膝に座った。
「いつも気配りを欠かさないのは、さすがに富山の商い上手、
私達も見習わなきゃぁ」と主人は笑顔で娘を抱き上げた。
「とんでも無いことでございます、こうして私どもが商いを続けられますのも
お客様あってのことでございますよ」
と言いつつ薬種を確認し、懸場帳に書き込んでいる。
「この度は一両と二百文でございますねぇ、
この年お江戸は夏風邪が流行ったとかで、こちらさまも葛根湯が無くなる寸前、
これは補充させていただきました。
「ああそうなんだよ、私らを始め丁稚なども季節の変わり目が
うまく乗りきれなくってねぇ、でもこうしておかげさまで
皆丈夫に師走を迎えることが出来ましたよ」
と、主は茶を勧めながら手文庫から金子を出して渡し、
懸場帳に支払い済みの書き込みをする男の手元を確認する。
「来年もよろしくお願いを申します」
と男が店ののれんを分けて外に出て、振り返り店に向かって一礼をして振り返った、
ちょうどそこへ平蔵がさしかかりあわやぶつか理想になった。
「あっ!」と両者が飛び退いて衝突は免れた
「これは飛んだご無礼を致しました、お許しを」
と男は小腰をかがめて何事もなかったように一ノ橋の方へと立ち去った。
?????っ あの身のこなしは、どうも只者ではないと見えたが、
俺の思い過ごしであろうか、
この師走に掛取りの置き薬代金を受け取るんだからなぁ、
さぞ急いでおったのやも知れぬ。
平蔵はさほど気を残さず背を向けた。
弥勒寺前の茶店笹やの床几に腰を落とし笠は取って横においた。
奥から人の気配がして・・・・・
「ありゃぁ銕っつあんでねぇか、こいつぁぶったまげたぁ、
この年の瀬にまぁよぉ来ておくれだねぇうひゃひゃひゃ」
歯の抜けたシワクチャ顔を増々しわ寄せて愛嬌をふりまく。
「おい お熊!お前ぇは相変わらずだのう」
手ぬぐいを首から下げて平蔵の前に屈みこむお熊の顔を見た。
「当たり前ぇだぁね、おらちっとも変わっちゃぁいねぇぜ、
ここんとこ銕っつあんが見えねえんんでよぉ、
おらちょいと心配ぇしたけんじょよ、こうして顔見せてくれて
ひとまず安心だぁなぁ」
「そうさのう お前ぇの顔を拝んでおかずば年も越せめぇよ」
「ありゃぁ んだば おらは観音様みてぇじゃぁねぇかよぉ銕っつあん」
お熊は開いているのか閉じているのかわからないほどの眼をさらに細めて
盆を胸にあてがい顔をほころばす。
「おなごが失くしちゃぁなんねぇもんが二ツある、そいつぁ女心と乙女心だぁね」
このお熊から想像することすらできかねる言葉が飛び出したから、
「この婆、八十過ぎても色気だけは忘れぬところがすごい」
と、さすがの忠吾も兜を脱ぐだけのことはある。
「なぁお熊、すまぬが笹だんごを適当にみつくろって包んでくれぬか」
「ありゃ奥方さまに土産ちゅう事ぁ、
なにか魂胆でもあるか後ろ暗ぇことでもしでかしたんじゃぁあんめぇなぁ」
と疑わしそうに平蔵の顔を見る。
「おい お熊!そいつぁねぇがな、お前ぇの笹だんごは天下一品!
奥方が大の好物でな、寄った時ぐれぇ下げて帰ぇってやるのも悪かぁねぜ、
これでよいかな」平蔵は一分を盆の上に置いて立ち上がった。
「こりゃぁ多すぎだけんじょも、ありがたく頂いておこうかねぇ、えへへへへへ」
お熊は懐にしまいながら
「銕っつあん又来ておくれよねぇ、待っているからさぁ」
と名残惜しそうに平蔵の後ろ姿を見送った、そのまぶたには
二十年前の平蔵の姿を見ているようであった。
「殿様お帰りなされませ」妻女の久栄が着替えの支度を捧げて居間に入ってきた。
「おう 久栄土産だ、何だと思う?」
「まぁお土産だなんて・・・・・・何でございましょう?」
と受け取る久栄に
「笹やの笹だんごだよ」と言葉をつなぎながら着替えの袖を通す。
「まぁ・・・・・・」
さほど嬉しそうな返事ではない、この久栄は平蔵が無頼時代の話を好まない、
と言うわけで、笹屋は特に好んではいないことを平蔵もよく承知している。
「こいつぁな 猫どのも折り紙付きの旨ぇ団子だとよ、
こう 笹の薫りが胃の賦に毒消しになるそうなあはははは」
「まぁさようでござりますか、では早速お茶を・・・・・」と出て行った。
「佐嶋はおるか!」平蔵は奥に声をかけた。
「お頭お帰りなされませ」筆頭与力の佐嶋忠介が障子を開けた。
「何ぞ変わったことはなかったか?」
「お頭がお出かけになられました後、一時ほど致しまして
奉行所当番方より知らせが参りまして、
一昨日八丁堀三拾間堀の酒問屋灘政左衛門宅に族が押し入り、
家人六名を猿轡をかませた後これを刺殺、四(し)百両あまりが
強奪されたとのことでございます」
「何だとぉ!灘政が襲われたと申すか」
「ははっ 左様にしたためられておりました」
「手口から見て、先の凶賊と同じと見てよかろう・・・・・・」
「年の瀬を控え、何処も支払い受け取りなどの為に大金が動きます、
それを狙っての押込みかと」
「で、町方の動きは相成っておる」
平蔵は町奉行の判断を推し量っているようであった。
「はい 立ち入り検分は済ませてようにございますが、
何しろ全員が口封じのために殺害され、
何一つ証拠が掴めず苦慮いたしておる様子にございます」
「うむ さもあろう・・・・・・」
平蔵じっと宙を見つめもつれた糸を頭の中で捌こうとしている。
7「のう佐嶋、六名が悲鳴を上げる事無く縛られる、
こいつぁ普通の出来事であろうか?」
「とおっしゃいますと」
「うむ 家人はそれぞれ別の部屋に就寝しておるのが普通、とするならばだ、
物音や何かで目を覚まさぬものかのう」
十名ほどの者が徒党を組みて行動致さば夜陰といえども目につく、
そうなるとわしなら出来るだけ人目を避ける事を頭に入れておく、
お前ならどうする」
「まことお頭の申されます通り、私が盗賊であるならば
できるだけ道のりを短くと考えます。
年の瀬は火事などの警戒も怠りませぬゆえ、
見回りの者も普段よりは回数を増やそうかと存じます」
「うむ おらくその辺りも予測しておかねばなるまい」
そのような話しを交わすうちにも大晦日がやってきた。
町の者は前夜宵越しの疲労も忘れて初日の出を拝もうと深川洲崎弁財天、
芝高輪、築地等の海岸や、駿河台、お茶の水、日本橋辺に集まって
初日の出を拝んだ。
やがて神田囃子が賑々しく、獅子舞や神楽を始め四条流の包丁式と
江戸っ子の正月がこうして開けて行った。
平蔵も元旦の将軍への拝賀の礼に始まり、三箇日は年始回りで明け暮れ、
やっと一息と本所菊川町役宅に戻ってきた。
そこには平蔵の組のものが待ち構えており、次々と来客が待っており
「やれやれいつもながらいやはやくたびれる」
とはいうもののこれも正月の行事笑顔で迎えていた。
そこへ仙臺堀の政七がすっ飛んできた。
「何!政七が急ぎとな!」
平蔵は挨拶を済ませる前に用というこの政七に異変を感じ
「よしすぐに裏へ回せ!」
と取り次いだ同心の沢田小平次に言い残して居間に回った。
「長谷川様!」
息せき切って入ってきた政七を見て
「政七いかが致した正月早々」
と言葉をかけたが、政七はよほど急いだのか肩で息をしている。
「おい政七そんなに急いでどうした!」
「それが!晦日に二件押込みがあったようで!」急ぎ お知らせにと思いやして。
「何だと!」
正月明けにのっけから政七のこの知らせは、
やっと腰を落ち着けたばかりの平蔵の正月気分を吹き飛ばすのには十分すぎた。
「手すきのものを全員集めよ!」
平蔵のこの下知は屠蘇気分の与力同心達も現実をつきつけられたようであった。
「お頭!私をはじめ酒井、小林、沢田ほか六名が揃いました」
と佐嶋忠介が報告した。
「まだ皆正月気分も抜けまいが、密偵たちにも繋ぎを取り急ぎ召集いたせ」
「さて佐嶋 政七の知らせによれば、晦日に押込みとは何れも急ぎ働きと見た。
早速被害の出た店の特定を急がねばならぬ、正月早々このような事件が起これば、
市中の治安を預かるこの火付盗賊の立場がない、
何としても早急に解決せねばならぬ・・・・・」
平蔵年明け早々という事が気にかかっている様子である。
平蔵のその思いを裏腹に、案の定この事件が解決を見るには
更に時が必要なこととなった。
絵図面を前に筆頭与力佐嶋忠介、筆頭同心酒井祐助が頭を揃えて見入っている。
「牛込の関口駒井町仏壇屋唐木屋・・・・・赤坂田町米問屋阿賀野や・・・・・・
同じ頃合いに襲うには距離がありすぎますなぁ」佐嶋がつぶやいた。
「いや船だ!船ならばさほどの時刻はかからぬ、
先程からどうも腑に落ちねぇところがあったんだが、
どうだ佐嶋!此度の押込み、何れも川筋から離れておらぬ、
しかも狙ったところはそれぞれ違う商いだ、何処ともつながりが見えておらぬ」
「ということは、狙いが川筋・・・・・・」
政七の話と奉行所の調書からもそう読むのが妥当と俺は想うがなぁ」
「なるほど、そういたしますと事件につながるものを見定めねばなりませぬな」
江?四方に散った密偵からもそれらしい手がかりは何一つ報告が上がってこない。
与力や同心も市中見廻りの中、昼夜を問わず懸命に走り回っていたが
焦れば焦るほど糸筋は途切れたまますでに半年が容赦もなくやってきた。
本所深川割下水を通りかかった時後ろから
「長谷川様!」と声がかかった。
平蔵が振り向くと仙臺堀の政七が勢い込んで駆けつけてきた。
「おお 政七このようなところでお前ぇに出会うとはのう」と平蔵。
「たった今長谷川様にお知らせをとお役宅をお尋ねの途中でございやす」
「おおそうか、では良い所で出会ぅたと言うわけだなぁ、
で何だぇその知らせってぇのは」
「それが昨夜遅く本所常盤町の海産物問屋能島やが襲われました」
「何だと!能島やだぁ・・・・・」
平蔵は年の瀬を迎えた二十五日、五鉄からの帰り道弥勒寺に向かった平蔵が
この海産物問屋能島やから出てきた富山の薬売りと思わずぶつかりそうになった
事を思い出した。
「おお あそこかぁ、本所といえば政七、お前ぇの縄張りだったなぁ」
「へぇ それだけにこの事件は暮の事件とも関わりがあるのではと
お奉行様がご心配なさっておいでのご様子で」
「筑後守様が・・・・・・さようか」
平蔵はこの度の事件は兇賊と言うことでもあり、
事件の取扱い一切が火付盗賊改方に回ってきていた。
その足で平蔵は菊川町役宅に戻り、待機中の佐嶋忠介に知らせた。
「で、その手口はまさか」
「そのまさかだよ佐嶋、火付盗賊も甘く見られたものよのう、
何一ついとぐちの見えぬまま半年が過ぎ、
大目付ではこの平蔵の無能ぶりを攻めるものも多く出てきたそうな。
京極備前守さまが矢面に立たされており、
まことにわしも心中穏やかならざる塩梅じゃ」
この度の一件もやはり川筋・・・・・・とするならば、後はいとぐち」
(んんっ!まてよ)平蔵は晦日のことが再びよぎっていた。
「おい 佐嶋!商いの掛取りはいつか知らぬか?」
「掛取り・・・・・でございますか?
「うむ たいていのところが商いは掛売、それを集金するのは何時頃であろうか?」
「お待ちくださいませ、まかない方に問いただしてみまする」
そう言って佐嶋は部屋を出て行った。
「お頭、普通ならば掛取りは盆と晦日だそうで、
大概のところが盆暮れの集金で済ませるようにございます」
佐嶋忠介が帰ってきて報告した。
「やはりなぁ わしはあの時どうもこう虫がうごめいてな」
平蔵腕組みしながら目をつむる
「何でございましょう?」
「うむ 晦日の事だがな、此度の能島やの表で、
わしは富山の薬売りとあわやぶつかりそうになった、
そのおり、わしも相手も飛び下がってお互ぇに避けたんだがなぁ、
その時のやつの一瞬だが目の光と動きが気になっておった。
これは俺の感の虫の居所が悪かったのかと思うたが、
そうではないやも知れぬ、粂八を呼んでくれぬか」
平蔵何やら思うことが生じたのかそう同心部屋に声をかけた。
暫くして粂八がやってきた。
「長谷川様及びと聞いて飛んで参ぇりやした」
と粂八が裏木戸を開けて入ってきた。
「おお 粂!すまねぇ、実はなぁ先ほど入ぇった話では、
本所常盤町の海産物問屋能島やに昨夜押込みが入ぇったそうな、
で お前ぇに頼みてぇこととは、その周りで富山の薬売りが
出入りしておるお店がねぇかどうか調べてみてくれぬか」
「富山の薬売りでございますか?あの置き薬の・・・・・・」
「そうよ そいつよ、出来るだけ詳しく判る方が良い」
「では早速!」と粂八が出て行った。
一時ほどして粂八が戻ってきた。
「長谷川様!ただいま戻って参ぇりやした」
「おお で如何であった?何かつかめたようだなぁその顔は、あはははは」
平蔵はすでに粂八が何かを掴んだことを見抜いてそういった。
「恐れいりやす、長谷川様の仰るとおりでございやした、
あの辺りを当たっておりやしたら札差しの大戸屋に先日富山の薬売りが
半年ぶりにやってきたそうで」
「で?」と平蔵先が知りたいと急ぐ顔に
「へぃ それがどうも妙な話で、今まではこの数十年変わらず通っていた
担ぎ屋が昨年病気だとか何とかで、若い者が代わりにやってきたそうで、
そんな時ぁたいがい引き継ぎってぇものを持ってくるのが普通でございやす、
ところがこの度はそれもなく、ですが、聞けば急な病とかで、
まぁそんなこともあろうかと別に疑いもなく済んだそうでございやす、
その時ちょいと妙だなぁとは思ったことがあったそうでございやす」
「何だいそいつは」
先を話せと平蔵の言葉尻がせいていたのを感じて粂八
「そいつが妙に店の中を見回しながら、
こんな大店は奉公人もさぞや寝泊まりも多いでしょうねぇとか、
戸締まりなんかはご注意なさっておられるのでしょうねぇとか、
妙に内情を探るような物言いに、妙な感じを受けたと言っておりやした、
それとこいつぁ大きな手がかりになると思いやすが、
そいつの鼻の左に大きなホクロがあって、時折りそれを掻いていたそうで」
「よくやったぜ粂八、おそらくそいつが一味のものであろうよ、
よし!早速密偵共に其奴の人相を伝えて探索いたせ!
わしも手すきの者と共に早速其奴を探すとしよう、おい誰か、誰か居らぬか!」
と大声を上げた。
こうして新しい展開がやっと始まったのである。
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「そのまさかだよ佐嶋、火付盗賊も甘く見られたものよのう、何一ついとぐちの見えぬまま半年が過ぎ、大目付ではこの平蔵の無能ぶりを攻めるものも多く出てきたそうな。
京極備前守さまが矢面に立たされており、まことにわしも心中穏やかならざる塩梅じゃ」
この度の一件もやはり川筋・・・・・・とするならば、後はいとぐち」
(んんっ!まてよ)平蔵は晦日のことが再びよぎっていた。
「おい 佐嶋!商いの掛取りはいつか知らぬか?」
「掛取り・・・・・でございますか?」
「うむ たいていのところが商いは掛売、それを集金するのは何時頃であろうか?」
「お待ちくださいませ、まかない方に問いただしてみまする」そう言って佐嶋は部屋を出て行った。
「お頭、普通ならば掛取りは盆と晦日だそうで、大概のところが盆暮れの集金で済ませるようにございます」佐嶋忠介が帰ってきて報告した。
「やはりなぁ わしはあの時どうもこう虫がうごめいてな」平蔵腕組みしながら目をつむる
「何でございましょう?」
「うむ 晦日の事だがな、此度の能島やの表で、わしは富山の薬売りとあわやぶつかりそうになった、そのおり、わしも相手も飛び下がってお互ぇに避けたんだがなぁ、その時のやつの一瞬だが目の光と動きが気になっておった。
これは俺の感の虫の居所が悪かったのかと思うたが、そうではないやも知れぬ、粂八を呼んでくれぬか」平蔵何やら思うことが生じたのかそう同心部屋に声をかけた。
暫くして粂八がやってきた。
「長谷川様及びと聞いて飛んで参ぇりやした」と粂八が裏木戸を開けて入ってきた。
「おお 粂!すまねぇ、実はなぁ先ほど入ぇった話では、本所常盤町の海産物問屋能島やに昨夜押込みが入ぇったそうな、で お前ぇに頼みてぇこととは、その周りで富山の薬売りが出入りしておるお店がねぇかどうか調べてみてくれぬか」
「富山の薬売りでございますか?あの置き薬の・・・・・・」
「そうよ そいつよ、出来るだけ詳しく判る方が良い」
「では早速!」と粂八が出て行った。
一時ほどして粂八が戻ってきた。
「長谷川様!ただいま戻って参ぇりやした」
「おお で如何であった?何かつかめたようだなぁその顔は、あはははは」平蔵はすでに粂八が何かを掴んだことを見抜いてそういった。
「恐れいりやす、長谷川様の仰るとおりでございやした、あの辺りを当たっておりやしたら札差しの大戸屋に先日富山の薬売りが半年ぶりにやってきたそうで」
「で?」と平蔵先が知りたいと急ぐ顔に
「へぃ それがどうも妙な話で、今まではこの数十年変わらず通っていた担ぎ屋が昨年病気だとか何とかで、若い者が代わりにやってきたそうで、そんな時ぁたいがい引き継ぎってぇものを持ってくるのが普通でございやす、ところがこの度はそれもなく、ですが、聞けば急な病とかで、まぁそんなこともあろうかと別に疑いもなく済んだそうでございやす、その時ちょいと妙だなぁとは思ったことがあったそうでございやす」
「何だいそいつは」先を話せと平蔵の言葉尻がせいていたのを感じて粂八
「そいつが妙に店の中を見回しながら、こんな大店は奉公人もさぞや寝泊まりも多いでしょうねぇとか、戸締まりなんかはご注意なさっておられるのでしょうねぇとか、妙に内情を探るような物言いに、妙な感じを受けたと言っておりやした、それとこいつぁ大きな手がかりになると思いやすが、そいつの鼻の左に大きなホクロがあって、時折りそれを掻いていたそうで」
「よくやったぜ粂八、おそらくそいつが一味のものであろうよ、よし!早速密偵共に其奴の人相を伝えて探索いたせ!わしも手すきの者と共に早速其奴を探すとしよう、おい誰か、誰か居らぬか!」と大声を上げた。
こうして新しい展開がやっと始まったのである。
その夜本所二ツ目橋言わずと知れた五鉄の二階。
持ち寄った情報を整理することになった。
与力、同心の情報は佐嶋忠介が持ち込んできた。
軍鶏鍋を囲みながら小房の粂八、相模の彦十、大滝の五郎蔵とおまさ夫婦、朝熊の伊三次が揃っていた。
「「いや 皆ご苦労!まず腹ごしらえからだ、な 腹が減っては・・・・・・」「戦も出来ねぇと来らぁねぇ、そうでござんしょう長谷川様」と彦十が口を挟んだ。
それを見て、大滝の五郎蔵「とっつあん、お前ぇそのあたりだけは気が回るなぁ、あきれたもんだぜ」と苦笑い。
「いや全く彦十の申す通り、先ずは腹ごしらえからだ。
で、佐嶋の方はどのような具合だった」
「それが中で何件かの店で同じ風体のものと見受けられるところがございました」
「こちらもご同様で、どうやらこの江戶市中を何人かで持ち回りのように回っているようでございます」と大滝の五郎蔵が、「ちょうど薬を入れ替えに入った男を見つけまして、声をかけてみたのでございます。
お茶を飲みながらそれとなく聞いてみましたら、やはり申し送りをするようで、そうでなければお得意様が警戒なさるのでと申しておりました」
「ふむ やはりなぁ、でほかに何かわかったことは無ぇかぃ」
「はい 、いつも江戸に出てきた時、宿はどうするのか聞いてみましたら、昔ながらの定宿があり、富山の者は皆そこに泊まって周るそうでございます。
「で当たって見たのであろうがそこには居なかった」と平蔵
「あっ よくお判りで、そのとおりでございます、さり気なく(なんとか言ったねぇほらこの左の鼻の近くにほくろのある・・・・・)と水を向けましたが、そんなものは富山の仲間内にはいないと言う事でございました」
「皆ご苦労だが、もう少しのところまで追い詰めたと思うゆえ、もうひと踏ん張り頼むぜ、明日からはその鼻のそばに、ほくろのあるやつを徹底的に追いかけろ、与力、同心達にもそのように申し伝えよ」平蔵が箸を伸ばす鍋にも、長きに亙ったこの事件に目鼻がついた安堵感が見えていた。
そして二日目、とうとう目指す相手を発見したと伊三次から平蔵の元へ繋ぎが来た。
伊三次からの知らせで、浅草新鳥越町幸龍寺裏に長らく空いていた家に戻るのを見届けたということであった。
早速川を挟んで対岸の百姓屋に見張り所が設けられた。
平蔵の指図で、まずはじめに川筋をあたった忠吾が川の葦叢に隠してある川船を発見した。
「おそらくこいつで縦横に移動していたのであろうよ」平蔵は読みのあたっていたことに少々安堵した風でもあった。
夕方には盗賊改めの面々が集結し、村松忠之進手作りの牡蠣煮込みの結びを頬張り、腹ごしらえも整っていた。
その夜も更け深々と冷え込む中動きがあった。
川向うの空き家付近とみられる方にかすかな灯りが漏れたのを当番の小林金弥が見逃さなかった。
「お頭!動きが出たようにございます」
「うんっ」仮眠を取っていた平蔵がやおら身体を起こした。
「動いたか!」「はい そのようで・・・・・」
「よし皆の者船の用意をいたせ、今から彼奴ら共を一網打尽にする時が来た」平蔵は各自持ち場に散るよう指図し、自らが奥まった所に密かに隠しておいた川船に乗り込みガンドウを点けて、クルクルと三回まわし、それぞれ粂八の働きで集められた川船三杯に乗り込み、舳先を川下に向け平蔵の合図を機に行動は開始された。
その間に向かいでは隠してあった船二杯に分乗して動きを始めた。
かすかな灯りを点けて川面を照らしながらゆっくりと進んでいる。
賊の船が海禅寺に差し掛かる直前平蔵の乗った小舟からガンドウが左右に大きく振られた。
盗賊を載せた船が海禅寺に近づいたその時、突然川面に灯がともり川船が川面に進んできた。
「何だぁ・・・・・・・こいつぁ」と盗賊の頭目らしき男が舳先に立ち上がって思わず叫んだ。
そこへ後ろからもガンドウが照らしだされて「火付盗賊改方長谷川平蔵である、一味のもの観念いたせ」と大声で詰め寄った。
「くっそぉ これまでかぁ・・・・・皆殺っちまえ!」と叫んだが、すでに船は取り囲まれ川岸の方へと追い込まれている。
「陸に逃げろ!」再び声が飛んだが、それを待っていたように陸からもガンドウの灯が一斉に当てられて、高張提灯までも点いている。
こうなっては最早どうすることも出来ない、抗うものはその場で切り伏せられ、川を朱に染めた。川に飛び込んだ者も一人残らず捕り方によって捕らえられてしまった。
こうして捕縛されたまま再び幸龍寺まで戻り、小笠原帯刀屋敷の前にある番屋まで連行された。
屈強な面構えの者の中に、平蔵がぶつかりかけた時の御用商人の顔も見えた。
「やはりお前ぇは只者ではなかったんだなぁ」と平蔵がその顔を見て言った。
「何だと!?」その男は意味がわからず平蔵に問いなおした。
「昨年の晦日お前ぇは本所常盤町の海産物問屋能島やに立ち寄ったであろう、
その店を出る時危うくぶつかりそうになったのを覚えておらぬのか?」
「あっ !」
「ふっ どうやら思
い出したようだなぁ、あの時の相手がこの俺だったのよ」
「くっ!」男は歯ぎしりしながら平蔵の顔を睨みつけた。
「あの時のお前ぇの顔がどうもちらついてなぁ、
あの一瞬だが俺を見たお前ぇの目つきの冷ややかさが気になっておった。
どうだ 話をする気になったけぇ?」
だが一味の誰一人として口を割るものがいなかった。
「まぁよい、夜が明けたら役人どもが来るであろう、どうせお前達は大番屋送り、
きびしき詮議の後死罪となろう、押しこみ殺人は斬首の上試し切りと決まっておる、
遠島は無いと思えよ」平蔵は冷ややかにそう言い放った。
だが誰一人声を上げる者がなかった。
それから吟味方与力の厳しい詮議が行われた結果全員が刀を帯びて折り、
過去の余罪も判明した為に情状酌量の余地なしという結論がくだされ、
死罪と決まった。
吟味方の厳しい詮議の結果判明したことは越中を股にかけた
兇賊帳(とばり)の仙蔵一味であった。
富山の薬売り友助は所持していた懸場帳を高齢であったゆえ
積まれた大金に欲が出て売ったものだった。
族の一味が掛取りを装って店の内情を探り、
目星をつけた店へ夜半に乗じて船で乗り付け、それぞれその場で猿轡を懸け
「殺しはしない」と安心させて騒ぎ出さないように図り、
強奪した後これを殺害して証拠を消した。
盗んだ金子は袋に入れ直し船に積んでそのまま夜明けを待ち、
日が昇ると同時に何食わぬ顔で川を下って盗人宿まで逃げていたという。
夜半に川を移動するのは危険が伴うし、川番屋や盗賊改めの警備に
発見されることも考えて、最も安全な方法を取っていたことが
平蔵をして感心さしめた事件であった。
「忍び混んだ庭先から目的の部屋の、
鎧戸に油を撒きこれを抜けば容易に部屋に忍び込めよう、
それぞれ二組で当たれば脅しながら縄をかけることも出来よう。
さすれば押込みは十名は必要ではないか」
平蔵の睨んだ通り押込みの人数は九名であった。
その夜本所二ツ目橋言わずと知れた五鉄の二階。
持ち寄った情報を整理することになった。
与力、同心の情報は佐嶋忠介が持ち込んできた。
軍鶏鍋を囲みながら小房の粂八、相模の彦十、大滝の五郎蔵とおまさ夫婦、朝熊の伊三次が揃っていた。
「「いや 皆ご苦労!まず腹ごしらえからだ、な 腹が減っては・・・・・・」「戦も出来ねぇと来らぁねぇ、そうでござんしょう長谷川様」と彦十が口を挟んだ。
それを見て、大滝の五郎蔵「とっつあん、お前ぇそのあたりだけは気が回るなぁ、あきれたもんだぜ」と苦笑い。
「いや全く彦十の申す通り、先ずは腹ごしらえからだ。
で、佐嶋の方はどのような具合だった」
「それが中で何件かの店で同じ風体のものと見受けられるところがございました」
「こちらもご同様で、どうやらこの江戶市中を何人かで持ち回りのように回っているようでございます」と大滝の五郎蔵が、「ちょうど薬を入れ替えに入った男を見つけまして、声をかけてみたのでございます。
お茶を飲みながらそれとなく聞いてみましたら、やはり申し送りをするようで、そうでなければお得意様が警戒なさるのでと申しておりました」
「ふむ やはりなぁ、でほかに何かわかったことは無ぇかぃ」
「はい 、いつも江戸に出てきた時、宿はどうするのか聞いてみましたら、昔ながらの定宿があり、富山の者は皆そこに泊まって周るそうでございます。
「で当たって見たのであろうがそこには居なかった」と平蔵
「あっ よくお判りで、そのとおりでございます、さり気なく(なんとか言ったねぇほらこの左の鼻の近くにほくろのある・・・・・)と水を向けましたが、そんなものは富山の仲間内にはいないと言う事でございました」
「皆ご苦労だが、もう少しのところまで追い詰めたと思うゆえ、もうひと踏ん張り頼むぜ、明日からはその鼻のそばに、ほくろのあるやつを徹底的に追いかけろ、与力、同心達にもそのように申し伝えよ」平蔵が箸を伸ばす鍋にも、長きに亙ったこの事件に目鼻がついた安堵感が見えていた。
そして二日目、とうとう目指す相手を発見したと伊三次から平蔵の元へ繋ぎが来た。
伊三次からの知らせで、浅草新鳥越町幸龍寺裏に長らく空いていた家に戻るのを見届けたということであった。
早速川を挟んで対岸の百姓屋に見張り所が設けられた。
平蔵の指図で、まずはじめに川筋をあたった忠吾が川の葦叢に隠してある川船を発見した。
「おそらくこいつで縦横に移動していたのであろうよ」平蔵は読みのあたっていたことに少々安堵した風でもあった。
夕方には盗賊改めの面々が集結し、村松忠之進手作りの牡蠣煮込みの結びを頬張り、腹ごしらえも整っていた。
その夜も更け深々と冷え込む中動きがあった。
川向うの空き家付近とみられる方にかすかな灯りが漏れたのを当番の小林金弥が見逃さなかった。
「お頭!動きが出たようにございます」
「うんっ」仮眠を取っていた平蔵がやおら身体を起こした。
「動いたか!」「はい そのようで・・・・・」
「よし皆の者船の用意をいたせ、今から彼奴ら共を一網打尽にする時が来た」平蔵は各自持ち場に散るよう指図し、自らが奥まった所に密かに隠しておいた川船に乗り込みガンドウを点けて、クルクルと三回まわし、それぞれ粂八の働きで集められた川船三杯に乗り込み、舳先を川下に向け平蔵の合図を機に行動は開始された。
その間に向かいでは隠してあった船二杯に分乗して動きを始めた。
かすかな灯りを点けて川面を照らしながらゆっくりと進んでいる。
賊の船が海禅寺に差し掛かる直前平蔵の乗った小舟からガンドウが左右に大きく振られた。
盗賊を載せた船が海禅寺に近づいたその時、突然川面に灯がともり川船が川面に進んできた。
「何だぁ・・・・・・・こいつぁ」と盗賊の頭目らしき男が舳先に立ち上がって思わず叫んだ。
そこへ後ろからもガンドウが照らしだされて「火付盗賊改方長谷川平蔵である、一味のもの観念いたせ」と大声で詰め寄った。
「くっそぉ これまでかぁ・・・・・皆殺っちまえ!」と叫んだが、すでに船は取り囲まれ川岸の方へと追い込まれている。
「陸に逃げろ!」再び声が飛んだが、それを待っていたように陸からもガンドウの灯が一斉に当てられて、高張提灯までも点いている。
こうなっては最早どうすることも出来ない、抗うものはその場で切り伏せられ、川を朱に染めた。川に飛び込んだ者も一人残らず捕り方によって捕らえられてしまった。
こうして捕縛されたまま再び幸龍寺まで戻り、小笠原帯刀屋敷の前にある番屋まで連行された。
屈強な面構えの者の中に、平蔵がぶつかりかけた時の御用商人の顔も見えた。
「やはりお前ぇは只者ではなかったんだなぁ」と平蔵がその顔を見て言った。
「何だと!?」その男は意味がわからず平蔵に問いなおした。
「昨年の晦日お前ぇは本所常盤町の海産物問屋能島やに立ち寄ったであろう、
その店を出る時危うくぶつかりそうになったのを覚えておらぬのか?」
「あっ !」
「ふっ どうやら思
い出したようだなぁ、あの時の相手がこの俺だったのよ」
「くっ!」男は歯ぎしりしながら平蔵の顔を睨みつけた。
「あの時のお前ぇの顔がどうもちらついてなぁ、
あの一瞬だが俺を見たお前ぇの目つきの冷ややかさが気になっておった。
どうだ 話をする気になったけぇ?」
だが一味の誰一人として口を割るものがいなかった。
「まぁよい、夜が明けたら役人どもが来るであろう、どうせお前達は大番屋送り、
きびしき詮議の後死罪となろう、押しこみ殺人は斬首の上試し切りと決まっておる、
遠島は無いと思えよ」平蔵は冷ややかにそう言い放った。
だが誰一人声を上げる者がなかった。
それから吟味方与力の厳しい詮議が行われた結果全員が刀を帯びて折り、
過去の余罪も判明した為に情状酌量の余地なしという結論がくだされ、
死罪と決まった。
吟味方の厳しい詮議の結果判明したことは越中を股にかけた
兇賊帳(とばり)の仙蔵一味であった。
富山の薬売り友助は所持していた懸場帳を高齢であったゆえ
積まれた大金に欲が出て売ったものだった。
族の一味が掛取りを装って店の内情を探り、
目星をつけた店へ夜半に乗じて船で乗り付け、それぞれその場で猿轡を懸け
「殺しはしない」と安心させて騒ぎ出さないように図り、
強奪した後これを殺害して証拠を消した。
盗んだ金子は袋に入れ直し船に積んでそのまま夜明けを待ち、
日が昇ると同時に何食わぬ顔で川を下って盗人宿まで逃げていたという。
夜半に川を移動するのは危険が伴うし、川番屋や盗賊改めの警備に
発見されることも考えて、最も安全な方法を取っていたことが
平蔵をして感心さしめた事件であった。
「忍び混んだ庭先から目的の部屋の、
鎧戸に油を撒きこれを抜けば容易に部屋に忍び込めよう、
それぞれ二組で当たれば脅しながら縄をかけることも出来よう。
さすれば押込みは十名は必要ではないか」
平蔵の睨んだ通り押込みの人数は九名であった。
筆頭与力佐嶋忠介
平蔵 重苦しい殺気を感じ身構えつつすすむ、
突如藪がざわめく(来たな!)柄に手をかけ襲撃に備える。
だが出てきたのは野良犬であった、
(犬か!そう思った刹那背中に焼け火箸を押し付けられたような
激しい痛みが走った!)
「ぐっ!」
低い声でこらえつつ背後に振り向き抜き打ちざま横に薙ぎ払った
「ぎゃっ!」
と悲鳴が上がり平蔵の前を黒い影が横切った。
身構えるすきを与えず、犬が出てきた正面から鋭い殺気がほと走って短槍が突出された。
穂先はかすかに平蔵の脇腹をかすめ藪に戻った。
(これはいかぬ この場所を移動せねば)
考える余地もなく平蔵右に飛び退いて次の攻撃に備えようとした、
だが、そこには待っていたかのようにまたもや背後にすさまじい殺気が走った。
その殺気は平蔵の肩口に深々と食いこんだ、
さすがの平蔵もこらえきれずうめき声を発した
そこへ再び藪の中から短槍が繰り出されてきた。
それは平蔵の腹を貫き、完全に平蔵の動きを捉えてしまった。
むぅ・・・・・平蔵は膝をついて槍の柄を切り取ったが、
槍の根本からは血潮が見る見る吹き出した。
何故だぁ・・・・・・意識の遠のくのを覚えた・・・・・・
「殿様!!」
「?????!!」
「殿様!!」
(何!)突然意識が明瞭になって気がついた
「殿様如何がなされました、お顔の色が真っ青でございます」
と心配そうな妻女の久栄の顔が覗きこんでいた。
何と夢であったか、それにしても恐ろしき夢であった。
(わしの動きはすべて先読みされておる、
動きの癖、対応や反応の癖を見事なまでに知り尽くしておる、
かような事がまことあるのであろうか?・・・)
平蔵は身体中から吹き出した脂汗を拭いながら、
再びその恐怖がまざまざと思い返され、戦慄が走るのを止める手立てがなかった。
朝餉をすませ、役宅の机に向かって座り、傍に控える佐嶋忠介に昨夜の夢を話した。
お頭 それは夢のお話でございましょう?左様なことは現実には起こりようもございません」
ときっぱり平蔵の気持ちを打ち消した。
その翌日清水御門前の火付盗賊改方を出た平蔵の後を
遠くから猫でもなだめるような不可思議な気配がずっと後をつけていた。
その数日前、平蔵は気ままにぶらりと伝通院あたりを見回ろうかと赴いたのである。
しばらくすると平蔵の後をつける気配がするものの殺気がない
「まるで赤子の肌をなぞるような・・・それが優しいというのではない、
無関心というかそのつもりではないということだ」
佐嶋に向かってそう言ったほど静かなものであった。
小石川御門を渡って東へと道をとった。
その手前でその気配がふっつりと切れた(はて妙な?)
しかし、橋を渡りきって牛天神の方へと水戸上屋敷を右に曲がった当たりから
ねっとりとした気配が背にピタリと張り付いてきた。
(これは・・・・・)先ほどとは違った視線が背中に張り付いた感じである。
引きずるように重苦しい気配を背負ったまま桑名屋橋を小石川竜門寺に差し掛かった時、
背後から数名の者が平蔵を取り囲んだ。
「長谷川平蔵と知っての狼藉か!?」
だが相手は無言で平蔵を囲むように間合いを詰めてくる、
すでに抜刀しており問答無用と言うことのようである。
「やむを得ん!」
平蔵は草履を脱ぎ捨て腰を落とした。
(妙だな?さほどの殺気が感じられぬ・・・・)
ジリジリと包囲網は縮まるが、決して切り込んでこない。
(仕掛けを待っているのか・・ならば・・・・・)
平蔵が足を引いた、瞬間一人が無言で仕掛け来た。
太刀風は鋭いがまるで平蔵を泳がすように流してくる。
平蔵も刀を抜き正眼に構える。
じりっと詰めよればジワリと引く・・・
(なんだこれは)どうしても合点がゆかない。
と、同時に二人が切り込んできた、
体を開き、一人をかわし二人目を抜き放とうとはらったが、
チ~ンとしのぎがすれ違っただけでサラリと躱す、いやかわさされたのである。
始めから切る気など無い、手筋を読むための誘う手である。
この攻防が幾度か仕掛けられ、互いに手傷ひとつ負うわけでもなく時ばかりが流れていった。
ただ間合いを見切り合うだけの手合わせは、平蔵も初めて体験する妙な具合である。
(奴らの目的は一体何だ?)
平蔵の頭のなかでこの疑問がますます膨らんでよく。
後ろからすっっと突き出された一撃は平蔵の脇をかすめて止まった。
振り向きざま薙ぎ払ったがすでに相手は見切っており、平蔵の太刀筋は空を切った。
(ここまで気配を消すことができる奴はそうそうおるものではない、江戸は広い)
平蔵は面食らっていた。
突然背後で合図のような物音がした。
途端に霞をかけたように姿が消えていった。
(いずれも中々の手練のもの)
あ奴らが本気で俺を襲ったら、いかな俺でも防ぎ切れぬ、
だが一体何の仕掛けであろう)安藤坂をゆらゆら上り詰めて、伝通院に辿り着いた。
仲町の茶店で一服点けて、ゆっくりと周りを見渡したが、
あの奇妙な気配はもうどこにもなかった。
(一体あれは何だったのであろうか?明らかに俺を襲ってきたのには間違いない、
だが見切ってそれ以上は近づかぬという事がどうしても平蔵には飲み込めなかったのである)
広大な水戸屋敷を右手に見ながら水道橋まで下がり、
湯島横町を過ぎ越し昌平橋を渡れば通り慣れた神田川柳原である。
柳の若葉が、たおやかに風を含んでなびくそれは、
色めきだった小娘のようにハツラツとして眩しくさえ思った。
新シ橋の堤を下がったところにある小料理屋(しなの)に久しぶりに立ち寄ってみた。
この新シ橋界隈は柳橋も近いとあって洒落た店も多い。
店の奥座敷からは神田川を行き来する茶船に混じって猪牙が料理屋などへ客を運んでいる。
「向こうは家並みが古く風情があってここ眺めておるだけで気が休まる」
平蔵は緑色に染まった川風を心地よく頬に受けながら対岸の左衛門川岸当たりの
落ち着いた佇まいを女中に言った。
「それはそうでございますよお侍様、
女将さんの話じゃぁ百年ほど前に大火事があったそうで、
その時に小伝馬町牢奉行の石出帯刀と言う方が囚人を切り放ちにされたそうで、
ところが浅草御門の門番にその話が届いておらず、
門番は脱走者だと思い門を閉じてしまったそうです。
そのために川を泳いで渡ったり逃げ口を無くした人たちが2万人以上も
溺れ死んだり焼け死んだそうで、江戸は火の海になり町の大半が焼け野原になり
千代田のお城も天守は燃えて、未だそのままなのはこの火事が元だって、
代々言い伝えているそうです」
と話した。
「ほ~ そのような事があったのか、今まで気にもとめなんだが、
ただ千代田の天守が無いのは不思議だと思ったこともある」
「それでございますよ」
と女中が膝をのりだした。
その意気込みに平蔵、
「おお で それがどうかしたのか?」
と酒の肴に向けてみた。
「その時焼けてしまった千代田の天守を公方様が建て替えると申された時に、
保科の殿様が天守よりも大江戸の町を作るべきと公方様に申せられ、
今のお江戸が出来たそうでございます」
と力が入った説明に
「お前そのようなことをよく知っておりなぁ」
と笑いながら問いかけると、
「お侍様この店の屋号をご存知でございましょう?」
と聞き返してきた。
「おう 存じておるぞ(しなのや)であろう?」
女中は誇らしげな顔になり
「はい保科の殿様は信濃は高遠のお方でございます」
と胸を張った。
平蔵膝をポンとたたいて
「やっ これはしたり、そうかそうであったか、こいつぁ俺の勉強不足、
ところでそうとなれば、本日の料理は当然信濃の・・・・・」
「まぁ残念でごじますが、本日は(合い挽き鍋)を用意いたしております」
とあっさりと平蔵の思惑を躱してしまった。
「やれやれ そいつぁちと残念だが、その合い挽き鍋とやらも美味そうだのう」
平蔵は諦めきれない様子ではあったが、合い挽き鍋という言葉に興味がわいた。
しばらくして先ほどの女中が七輪を構えて持ってきた。
炭火が赤々と燃え、そこに鍋をかけて材料を手早く仕込む。
「そいつぁ何だい?」
興味津々で平蔵は鍋を覗く。
「今朝ほど上がったばかりの江戸前のイワシや白身の魚のすり身と鶏の挽き肉をあわせて、
椎茸のみじん切りに生姜の絞り汁に片栗粉を混ぜ込んで程の良いツミレを作ります。
野菜の白菜や春菊白ネギを入れて、煮立ちましたらこちらのつけ汁に取って
お召し上がりください」
と笑顔で奨める。
「ところで先ほどの肴だがな、あいつぁ青柳かえ?歯ごたえがあり胡麻の香りと
酢の塩梅がどうしてどうして、互いを引き立て、酒の相手にゃぁなかなか旨い、
それに合い挽き鍋これがまた橙酢のつけ汁、
普通はな、こいつの時はだし汁が定番ではないかえ?」
そう言った先から平蔵はあっという間に青柳のぬた和えを平らげてしまったものだ。
「はい お武家様はよくお判りで、アサリではなく青柳を使いました
ぬた和えでございますよ。
わけぎを湯がいてしっかり水切りいたしまして、胡麻と八丁味噌に砂糖、
酢を入れてよく練り上げ、ゆがき上がった青柳を軽く混ぜて
辛子を少し混ぜあわせそこにわけぎを入れて盛りつけたものでございますよ、
あれっ もうございませんねぇ」
うふふふふと楽しそうに笑った笑顔が清々しく、
先ほどの嫌な気配のことをすっかり忘れていた。
それからの数日、平蔵は清水御門前の火付盗賊改方役宅から市中見廻りに出かけている。
行く先は無差別ではあるが、戻る通り道は限られている。
この所小石川、牛込の方を主に廻っているので帰りは九段坂を上り下りせねばならない。
この日は目白の私邸に嫡男辰蔵の様子を伺いに行き、帰りがすっかり遅くなってしまった。
間もなく牛ヶ淵というご用地の竹林を進んでいた時であった、
いきなり空から平蔵めがけて先を鋭く切りそろえられた竹がバラバラと降ってきた、
左に避けるとそれを予知していたように次の仕掛けた竹が降り注ぐ、
後ろに飛び退きざまそれを交わすと、そこに予め待っていたかのようにまたも降る
平蔵の脳裏に過日の悪夢が蘇る。
すでに平蔵は腕や背に数カ所を鋭い竹の切り口で切り裂かれている。
抜刀した刀で降ってきた物をすくってみると竹に細紐が括られているのが見て取れた。
(仕掛けだな!)平蔵は用心しながら気配を八方に飛ばすが、
シンとした静寂のみが平蔵を包み込むばかりであった。
突然前方から鋭い殺気がほとばしり、吹き溜まりの竹の枯れ葉の中から槍が突き出された。
平蔵は思わず刀ではねのけた、が そこへ反対側の脇から槍が襲ってきた。
避ける間もなくわずかに体を躱したが脇腹がえぐられ、
槍先が脇差しをつっかけて弾き飛ばした。
鬱蒼とした竹やぶの中に白刃が光りながら平蔵の数歩前に落下した。
平蔵はその槍を抱え込んで右に回り込み刀を己の脇腹目指して突き通した。
平蔵の右の脇腹を切っ先がかすめて槍を繰り出した刺客の腹を貫いた。
「ゲッ!」低い悲鳴とともに平蔵の肩口に倒れこんだ。
その瞬間前方から平蔵の無防備な左脇めがけて再び槍が繰り出された。
よろけるように半歩後方に足を捌き返す刀を振り上げる間がなく、
そのまま左前方に突き出した。
槍と平行に平蔵の繰り出した刃先は泳いできたその刺客の腹の真ん中辺りに吸い込まれた。
平蔵は刀を抜こうとするが、血糊で手元は滑り、刀身は肉脂で包まれ抜くことも出来ない。
3人目の刺客がその男を背後から蹴り飛ばして平蔵の身体にまとわりつかせてものだから、
平蔵は全く動きを封じられてしまった。
平蔵の右の太腿から足元に血が激しく流れて、踏みとどまるのも困難な状況で、
(むぅっ!これはまずい、身動きが取れぬ)
さすがの平蔵もこの時は次の攻撃に対して打つ手を考える余裕もなかった。
これまで数々の敵と戦った来た平蔵であったが、ここまで傷を負ったのは
初めてのことであった。
平蔵の動きを封じたと見たのか数名の気配と共にバラバラと黒い影が平蔵を取り囲んだ。
「鬼平と恐れられていると聞いたが、大した奴ではねえなぁ、さすが軍師の磯島様だ、
これでお江戸もちったぁおつとめがやりやすくなろうってもんだぜ、
済まないねぇ鬼平さんよ、ここらで成仏してもらおうか!」
と主犯格の男が平蔵の正面に回って、槍を腰だめに構えた瞬間その男が
「ギャ~ッ」
と悲鳴を上げてエビ反りに反り、短鋒槍が天空の月を刺すようにキラリと光って倒れた。
刺客共が振り向く余裕を残さず、すでに二人が二太刀で地に沈んだ。
間髪をいれず残る一人が月を背に平蔵の前に立ちふさがって刀を構えたが、
その背後から鋭い突きが刺客の胸を貫いた、悲鳴を上げる間もなく
(ひゅ~っ)と短く呼吸音を残して前のめりに突っ伏したその男を乗り越えて
月明かりを背にした男が
「お頭!」
と叫んだ。
苦しい息の下で平蔵はその声の主が同心沢田小平次だと判った。
「沢田・・・か!」
「お頭!お気を確かに!」
こうして平蔵は九死に一生を得たのである。
平蔵がお役復帰を果たせたのはおおよそひと月の時の流れが必要であった。
「それにしても沢田!あの時よく俺の行く先が判ったものよのう」
「ははっ 実はお頭が妙な夢を見られたと聞かされました佐嶋様が
陰でお頭を張る様にと・・・」
「そうであったか、そこまでわしの事を・・・
いやお陰でこうして畳の上で生きておる、誠に皆に心配をかけた、礼を言わせてくれ」
平蔵は深々と頭を下げた。
「お頭!!我らはお頭あっての者ばかり何卒この度のような無茶はなされませぬよう・・・・」
「あいすまぬ!わしはまことに良い仲間を持たせてもろうた、
此度の一件わしのわがままから引き起こした事件であったが、げに恐ろしき相手であった。
これまで幾度か後をつけられ一度は奴らに襲われておるが、
いずれも殺気のないものであったのが妙に気になっておった、
それがわしの動きを見切る襲撃であったとは、さすがに軍師と呼ばれる奴のことはある。
なるほど敵を知り己を知れば百戦危うからず・・・孫子の兵法を忘れておったよ。
「その軍師と呼ばれる磯島とか言う輩の正体は判りましたので」
と沢田小平次。
「そいつのことよ、俺も気になってあたっては見たのだがな、さっぱり正体がつかめぬ。
ただ奴らが言っていた話から察するに、この度の襲撃には直接手を下してはいないようだな、
おそらく此度のような暗殺を請け負うやつなのかも知れぬ。
それにしても生身と言うもの瞬間の判断は習慣のようなものなのだな、
癖と言ってしまえばそうだが、それを読み取って襲撃方法を工夫するなんてなぁ、
誰ばりの出来るものじゃぁねぇなぁ
わしの行動を把握し、どこで仕掛ければよいか、その方法は更に綿密に知り尽くされており、
そこに最大の効果が出るように仕掛けて待つ。
空から竹矢来の雨が降って来た時は無意識に反応する、
その反射的な動きを見越して次の仕掛けをしておる、
わしの身体が吸い寄せているようでアレほどの恐怖を感じたことはなかった、
実に恐ろしい殺人集団であった」
人は輪廻転生同じことを繰り返すと言うこの世で解決せぬものは生まれ変わろうと、
それは再び繰り返されるそうじゃ、前世の業をこの世で夢に見ることもある、
それを予知夢とか申すそうじゃ、
だがなぁ結局それは現実には躱すことの出来ぬ物のようじゃ、
沢田がおらなんだらわしは今頃この世には居らぬ、
まこと人の運命は一寸先も読めぬもの、
ただ毎日を手さぐりしながら二道を選んでゆかねばならぬものなのだのう」
平蔵はまだ痛みの残る身体を起こして取り巻く部下たちの顔を見渡した、
その奥に静かな笑みを浮かべた妻女久栄の姿があった。
本所菊川町の平蔵が役宅で、
久しぶりにゆっくりとした一日もそろそろ終わりかけ、
平蔵の夕餉は猪鍋ということで、
すでに酒肴は運ばれて猪鍋の用意がなされていた。
当然用意したのは村松忠之進こと猫どの。
「お頭 お頭もご存知のようにこのイノシシ鍋は別名山鯨とも申します、
が本津はまことの獅子が手に入りましたるゆえ、
これはもうお頭に召し上がって頂き、
日頃のお疲れを払っていただかねばと・・・・・」
「おう で、猫どのが用意をいたしてくれたのか?
こいつぁ有り難ぇ、どれどれ・・」
「お頭 まだよく火が通ってござりませぬ、
猪鍋は初めの仕掛けが何よりも肝要、
土鍋に昆布を一晩水につけ置きまして煮立ちましたら昆布を取り除きます。
カツオを入れてよく出汁をなじませ、
イノシシの脂身を細切りにいたし手炊き合わせます。
その間に猪肉を薄切りに致し、山椒の粉をまぶしておきます。
煮立ちましたならば猪肉を先ず入れ煮込みます、
猪肉は煮こむほど柔らかくなりますので、
初めに入れておくとよろしゅうございます。
「おいおい猫どの、こう良い香りが立ち上っては、
何だ箸が黙っておらぬ、何とかならぬかえ?のう久栄」
「殿様、左様ではござりましょうが、
ここは村松様の申される通りに致されなければ、のう村松殿」
「あっ さすが奥方様、よう心得て居られまする。
白菜、大根、レンコン、小芋、ニンジン、
菊菜やシイタケ、ささがきゴボウに湯通しいたしましたる
こんにゃくなどを切りそろえ、割り下に醤油、砂糖、酒、
八丁味噌をしっかりと入れ濃い目の味に致します。
野菜などの厚物から先に入れ、味を染み込ませます。
菊菜が柔らこうなりましたら食べごろかと存じます。
「うんうん それは良いそれは良い!
何と申しても早く口に入れるが一番じゃぞ!、
もう待てぬ!おい 久栄早う卵を小鉢に入れてくれ、
わしはもうどうにもたまらぬ」
平蔵は箸を構えて猪鍋のグツグツ煮立つのを凝視している。
「まぁ殿様はまるで子供のようなおほほほほほ」
「そんな事ァどうでも良いのじゃぁ、
見よこのグツグツと小気味の良い音に重なって
香り立つ山椒の清々しさ、野菜のとろりととろけるような色白の中に
ひと刷毛引いたような若葉色、それに獅子の身が絡みついて、
おう!もう待ちきれぬわ!猫どの良いな!良いのじゃな!」
「あっ お頭!まずは大根からお召し上がりくださいませ」
「ななっ なんじゃぁ大根からとな!
俺は猪鍋が食いたいのじゃぞ」
平蔵腰を折られて箸が止まった。
「まずは私めの申す通りにお召し上がりくださいませ」
と松村忠之進は大根を平蔵の小鉢に取り入れた。
平蔵一気にこれを熱っ 熱っ!と言いながら口に運び・・・・・・
「猫どの・・ふむ いやぁ~こいつは旨ぇ、大根に獅子の脂が絡みついて、
いやぁうむこいつぁいかぬ!かように大根が旨ぇとは、
久栄お前も早う食べてみろ、中々こいつぁ止まらぬぞ、
さて次は獅子じゃな!・・・・・・ううん!この柔らかな歯ざわり、
噛めばじんわりと脂がにじみ出て・・・・・
嗚呼もう止まらぬぞ猫どの」
平蔵は満足の笑顔を満面に箸を休ませない。
酒もほどほどに回り腹もくち、
ふ~っと深い溜息、満ち足りた至福の時であった。
そこへ火付盗賊改方に時折顔をのぞかせる仙台堀の政七が
役宅に日暮れ時に立ち寄った。
「長谷川様、谷中天王寺南の新茶屋町蝋燭問屋で
首を括った心中者が出たと言うことでございやす。
いつもなら早々と店を開ける姿が見られるのに、
この2日ほど店は閉じられたままで、近所のものが
不審に思い番屋に届けたのが事の発端でございやす。
番屋の木戸番と町名主が出向いたんでございやすが、
外回りに不審なところもなく、思案の挙句町方に報告が上がり、
奉行所が出張って参ぇリやした。
表戸が閉められたままなもんで、
同心の松本様が蹴破って入ぇって見たら、
夫婦二人とも鴨居に細紐をかけ首を吊って死んでおりやした」
「で、お奉行様は何と仰せられたえ?」
平蔵は煙管に火をつけながら政七の顔を見た。
「へぇ いつもの通り出入りの戸は締めてあり、
心張り棒までくれてあったところを見ると首を括ったんじゃぁねぇかって事で・・・・・」
「ふむ、で 荒らされた形跡はなかったんだな?」
「へい 全く普段のままだったと町名主も証言したそうで」
「で、その蝋燭問屋 何と申したかのう」
「へい おかだ屋でございやす」
「おお そのおかだ屋はどの程度の商いであった」
「店構えは間口三間、大戸ではなく、
ばったり床几は内側からも落とし留めが掛かり、
雨戸が嵌めこまれて真ん中の戸が落し掛けの戸締まりと言うやつで、
まぁたいがいのところと似たようなもんで、
いつも夫婦二人の切り盛りだったそうでございやす。
何しろ周りはお寺がひしめいておりやすから、
商いには困るようなものじゃぁねえ、
ですからどうして首を括らなきゃぁいけねぇんだろうって、
そこんところにお奉行様はご不審を持たれてはおられるようでございやす」
「うむ 確かになぁ・・・・・・商いに行き詰まってではないとなると、
何故首を括らねばならなんだか、確かに妙な話しだな」
平蔵は腕組みをして目を閉じ、
頭の中でもつれた糸をほぐそうと試みているようであった。
この界隈の見まわり担当となっている木村忠が数日後
再び近所の聞き込みをすると、
奉行所の検分が終わったその夜遅くおかだ屋から棺
桶が運びだされているのを夜回りの親父が見ていたそうで、
話はこれで終わればあるいは問題にならなかったのかもしれない。
だが、似たような事件が立て続けに小間物問屋や古物商い、
茶道具屋など三件起こったことが平蔵の脳裏にしがみついてはなれない。
「妙だ・・・・・」
いつものカン働きがむくむくと首をもたげてきた。
盗賊改めの出張る幕じゃぁねぇが、どうもこう
気になっていかぬ、ちょいと出かけてみるか。
平蔵は仕掛けの名人八鹿(はじかみ)の治助を伴って
ゆらゆらと谷中に出かけた。
町名主に話を通し、事件のあったおかだ屋を覗いた。
確かに争った形跡もなく家財道具もそのままできれいなものであった。
「蝋燭問屋と申しても仏具一式も扱っており、
それ相応の稼ぎはあったであろうのぅ
それなのになにゆえ首を括らねばならなんだか」
平蔵はこのごく普通の疑問が頭からはなれない。
その時、戸口周りを調べていた八鹿(はじかみ)の治助が
「長谷川様ちょいとこいつを見ておくんなせぇ」
と平蔵を招いた。
「どれどれ・・・・」
平蔵はこの治助が何か仕掛けを見つけたと少し胸の中に兆しを感じた。
「普通戸締まりは先ず雨戸を閉め、
心張り棒をして内戸は開けたままにしやす、
ですから外から差金を突っ込んでも内戸と外壁の間に
心張り棒が挟まってびくともしません、
これが普通の戸締まりでございます、
ところがよく見ればこの心張り棒少々曲がっております」
と治助が差し出した心張り棒は刀のような反りが見受けられた。
「うむ だがなぁ次助このようなものは何処にでもあるものではないのかえ?」と
少し落胆したようにため息混じりに治助の答えを待った。
「ところが長谷川様、先ほど何度か試してみやしたが、
こいつぁ仕掛けでございやす」
と次助は自信を持って答えた。
「仕掛けだぁ?」
平蔵 この治助の自信ありげな返答にちょっと期待を込めて問い返した。
「へい この反り具合と心張り棒が噛み合う鎧戸のホゾ、
こいつが上手ぇ仕掛けになっておりやす。
普通は棒の細いほうが戸のホゾにはまりやす、
どうってぇことはねえんでございやすが
重い方が下に来るのが普通でございやすから、
ですがね こいつぁそれをうまく利用しておりやして、
鎧戸にもたせかけて置いて内戸を開けたままにしやすと、
戸袋と内戸の間で挟まれて外れねぇようになりやす、
そこでゆっくり外から鎧戸を閉めやすと」・・・・・
と言いつつ治助は外に出て鎧戸を閉めた。
コトンと小さな音がして、心張り棒が鎧戸のホゾに収まった。
これを外すには内戸を閉めて、心張り棒をはずさなければ
外から進入することは出来ない。
治助は再び中にはいって
「この外の出入口は皆落し掛けが施されておりやして、
開けられたあとが見えやせん、てぇことは・・・・・」
「次助 お前ぇこいつぁ自殺と決めつけるには早ェと言うんだな」
「へい 近頃の似た事件を見なおしても遅ぅはござりやせん」
と慎重な答え方をした。
「よし、早速他の事件もあたらせてみよう、助かったぜ次助、
お前ぇの前がこれほど俺をすけてくれるとはなぁ」
「長谷川様、どうかそのぉ昔のことは・・・・・」
「おお こいつぁ俺がうかつであった、すまぬすまぬ、
いやお前ぇの読みでずいぶんと緒(いとぐち)を見つけることが出来た、
ありがてえなぁ」
平蔵 口元が少し緩んできたのを覚えた。
役宅に戻った平蔵はこの数日内に起こった
似たような事件のお調書を改めて読み返してみた。
事件は三件とも首を括っての自殺と書かれてあり、
その何れもが主夫婦というところが共通している。
確かに臭う
「誰か!忠吾は居らぬか!」
「お頭!お呼びで」と木村忠吾が控えた。
「おお 忠吾すまぬが五鉄に参り彦十に
八鹿(はじかみ)の治助に繋ぎを取るよう行ってはくれぬか?」
平蔵はもう一度治助に確かめさせようという腹づもりでのことであった。
「えっ 私がでございますか?使い走りなら何も私めでなくとも・・・・・」
と、見回りの供をいたせ!
と言う言葉を期待していたものだからつい本音が出てしまった。
「忠吾!」
平蔵の語気に忠吾は思わずたじろいた。
「なぁうさぎ お役に重いも軽いもない、谷中はそちの見回り持ち場であろう、
さらばお前が動くのが当たり前、
己の代わりに人をやるほどお前ぇはいつからそこまで偉くなったのかえ?」
平蔵の言葉は忠吾の期待を見事に断ち切り、
逆に己の卑しさを見透かされてしまった。
「ははっ!誠にお恥ずかしく・・・・恐れいります」
と廊下に頭を擦り付けて引き下がった。
いっときほどして 忠吾と八鹿(はじかみ)の治助が戻ってきた。
「長谷川様、またのお呼び出しということは・・・・・」
「さすが八鹿(はじかみ)の治助、判っておったか、そのことよ、
早速ですまぬが忠吾と谷中周りの事件があったお店の戸締まりを
調べてみてはくれぬか」
「判りやした、早速に!」
と忠吾と連れ立って出かけていった。
その夜遅く二人が帰ってきた。
「おお ご苦労であった、早速ですまぬが様子は如何であった?」
平蔵は治助の言葉を心待ちにしていたのである。
「長谷川様のお見立て通り、やはり何処も同じ仕掛けのようにございやす」
と報告した。
「やはりなぁ どうにも解せなんだ、
残されたことは何故殺さねばならなかったのか?
盗みならば殺害して盗めば事足りる、
わざわざ首を引っ掛けることぁねえはずだ。
こいつが解けぬ、こいつにはなにか裏があるなぁ
何かを見落としておるのやも知れぬな、
次助遅くまで済まなかった、ゆっくり休め!
おお 五鉄によって軍鶏鍋でも食ってまいれ、
三次郎にわしがそう 申したと伝えてくれ」
平蔵は遅くまで動いた治助に気配りを欠かさなかった。
「長谷川様・・・・・それではお言葉に甘えさせていただきやす」
そいういって治助は本所二ツ目に帰っていった。
「お頭 それでは私めもこれにて・・」
と忠吾が腰を上げようとした。
「忠吾 お前ぇ本日一日何を検分いたした?」
と、突然の問い返しに
「はは~ 何と申されましても、
私はただ治助の後をついて事件のあったお店を廻り、
一度休みを取りました、あっ その時の茶代は私めが支払いました、ハイ」
その応えを聞いた平蔵
「この大馬鹿者め!何故わしが治助と共にお前を殺ったか判らなんだか、
次助は仕掛けの達人、そんじょそこらの盗人では見抜けぬものでも嗅ぎ取り、
仕掛けを見破ってしまう、
それなのにお前は、ただついて回って茶代を出しただと!この大たわけ!」
「ははっ!!!!申し訳ござりませぬ」
忠吾、もう居場所もなくなり、穴でも掘って隠れたい
「だからのう忠吾、お前のことを皆うさぎ饅頭と申すのだぞ」
この平蔵の言葉は、芝神明前の名物うさぎ饅頭に顔付きだけでなく、
甘味もほどほど、塩味もほどほど、いくつ食べても腹にたまらず、
何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても何の役にも 立たず,
ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)というところから
木村忠吾のことを兎忠と呼んで陰口をたたかれている。
「誠に・・・・・・」
「お前 情けないとは想わぬか!」
平蔵も半ば呆れながら・・・・・
しかしそれが又この忠吾の忠吾たる所以であり、
30表二人扶持のれっきとした御家人である。
「良いか忠吾!明日より谷中の事件現場付近を徹底的に洗い直せ、
ネズミの穴一つとて見逃すではないぞ」
平蔵に厳しく戒められ、ほうほうの体で長屋に戻った。
翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に
市中見回りに出かける旨の報告を入れて忠吾は早速谷中に向かった。
一軒一軒回っていたら小石川片町の小間物屋
内海やの前に佇む女性が目に止まった。
「おい お前!一体ここで何をしているんだ?」
忠吾は若い女に近づき懐の十手をちらっと見せた。
一瞬女の表情がこわばり
「いえ なんでも・・・・」
と立ち去ろうとしたのを
「おい待て、少々聞きたいことがある、
お前はこの家に何かゆかりでもあるのかそれとも・・・・・」そ
う言いかけた時その女が「
お役人様でございますか?」
と問い返してきた。
忠吾は十手を出して
「吾輩は火付盗賊改方のものである」
と告げた。
女は少し戸惑った様子を見せながらも
「あの この家のものはどこに葬られたのでございましょう?」
と忠吾に埋葬先を尋ねた。
「それはこちらも探しておるところだ、
近所の者に尋ねても通夜らしきものもなく、
役人の検分の後棺桶が運びだされたそうだ、
ところでお前は何者だ、縁のものか?」
まだ三十前と見受けるこの女に忠吾は引き止められてしまった。
聞けば三年ほど前に鐘ヶ淵の方に嫁ぎ、
二親が気にかかり時折こうして覗いているという。
半年前には店の方にも何ら命を絶たなければならないわけも見えなかったという。
忠吾はひとまずその女の所在を聞き留め、
何か判明した折には知らせると言って帰した。
その日忠吾は清水御門前の役宅に戻り、
「お頭、木村忠吾市中見廻りより只今戻りました」
と平蔵に報告を入れた。
「おお 忠吾ご苦労であった、で何か判明いたしたか?」
「それがお頭一人若いおなごに出会いました」
「何ぃ!おなごだと、で お前まさかその女を・・・・・」
「あっ お頭!その目つき、そのお言葉の響き・・・・・
大いに間違いにございます」
と慌てて平蔵のその先を制した。
「何 何んでもないとな そりゃぁまた・・・・・」
「又? 何でござりましょう、この木村忠吾痩せても枯れても
盗賊改め同心の端くれ出ござります、
おかしらの想われておるようなことは一切ござりませぬ」
と必至に弁解する。
「おいおい そのわしが想うておるようなとは一体何のことだえ忠吾」
平蔵は忠吾の慌てぶりがおかしくてからかったのであるが、
当の忠吾は防御線を張り巡らそうと必死である。
「まぁそれはさておき、何か掴んで参ったか?」
と水を向けた。
「はい その女は鐘ヶ淵に嫁いでおり、
時折二親を案じて訪ねてくるそうにございます。
半年前には何も変わりなく、
首を括らねばならぬほどのことは露ほどにも
感じなかったそうにござります、それともう一つ」
「おお それは何じゃ!」
やっと確信に辿り着いたので、平蔵書物の手を休め忠吾を見た。
不思議なことに三件とも役人の検分がすんだその夜
密かに棺桶が運び出されております」
「何だと!そいつぁ妙な話だな」平
蔵はやっと事件の核心に近づいたことを感じ取った。
「何れも夜半に棺桶を出している、こいつぁ骸(むくろ)以外の
何かを運びだしたに違ぇねぇ。
棺桶を運ぶにゃぁ荷馬車が必要であろう、
貸車屋を早速洗ってみよ、どこの貸車屋で誰に頼まれどこに運んだか、
そいつが判れば凡そのことが判明いたそう」
平蔵は忠吾に命じた。
だが、平蔵の思いはあっけなく期待倒れに終わってしまった。
この数日谷中界隈で棺桶を運んだ者も、
車を貸した者もいなかったのである。
「ウヌ!」
先の見えない路地に入ったような思いがじゅくじゅくと平蔵を囲んでくる。
この奇妙な事件は平蔵の頭の中でくすぶり続け、
打つ手とて無い状況に歯ぎしりするばかりであった。
だが、この事件も些細なところから緒(いとぐち)が見えてきた。
谷中の立善寺裏の百姓屋に
棺桶らしきものが運び込まれているのを夜中に厠に立った小坊主が見ていた。
だが小坊主は夜中に厠に立つのは昼間の節制が足りぬからだと
戒められるのを恐れて報告しなかったようであった。
小坊主も初めは気にも留めなかったけれど、
埋葬する様子もなく妙だと思い、和尚に報告したということであった。
そこで和尚が早速出向いて確かめた所確かに不要とみなした仏像に
小間物の細工物や銭箱、骨董物が散乱しており、
人の出入りもあった痕跡が認められたと番屋に届け出がなされ、
町奉行所に報告が上がり判明した。
町奉行の手で谷中の百姓屋の裏手に八名の亡骸が
埋められていたのが発見され、
それぞれ身元のわかるものの身内に連絡を取らせ、
引き取り手のないものは立善寺の無縁墓地に埋葬されたという。
その数日後谷中の新幡随院裏手の掘割土手に
荷馬車が放置されていたのが見つかった。
「お頭 この度の事件はどのようになっておりましたもので?
私には何が何やら見当もつきかねます」
と聞いてきた。
「うむ 殺した後首をつったのは自殺と見せかけて、
以後の探索が及ばないように図ったのであろうよ、
戸締まりのからくりも次助が見破らなんだら案外見過ごしたであろう事だがなぁ、
夜中の棺桶も故買かいの物を持ち出すために使ったのであろうよ、
恐らくは金もその時に持ちだしたと想われる、
お届けの翌日ならば奉行所のお調べで身内に知らされても十分時が稼げる、
大勢で急いで動けば嫌でも目につかぁな、そこんところをうまく考ぇやがったものだ。
最後の最後まで棺桶で始末をつけるなんざぁなめたものよのう。
恐らくは堀川伝いに川船で荷を運び出して、
大川辺りから荷揚げして消えちまったんだろうぜ。
こいつぁ次助の読んだ通り心張り棒のからくりをよく心得た奴の仕業であろうよ。
王手飛車まで掛かったと想うたに、いや無念じゃ」
平蔵はこの度の事件を解決できずに終わったことに
少々やりきれない思いが残った。
本所菊川町の平蔵が役宅で、
久しぶりにゆっくりとした一日もそろそろ終わりかけ、
平蔵の夕餉は猪鍋ということで、
すでに酒肴は運ばれて猪鍋の用意がなされていた。
当然用意したのは村松忠之進こと猫どの。
「お頭 お頭もご存知のようにこのイノシシ鍋は別名山鯨とも申します、
が本津はまことの獅子が手に入りましたるゆえ、
これはもうお頭に召し上がって頂き、
日頃のお疲れを払っていただかねばと・・・・・」
「おう で、猫どのが用意をいたしてくれたのか?
こいつぁ有り難ぇ、どれどれ・・」
「お頭 まだよく火が通ってござりませぬ、
猪鍋は初めの仕掛けが何よりも肝要、
土鍋に昆布を一晩水につけ置きまして煮立ちましたら昆布を取り除きます。
カツオを入れてよく出汁をなじませ、
イノシシの脂身を細切りにいたし手炊き合わせます。
その間に猪肉を薄切りに致し、山椒の粉をまぶしておきます。
煮立ちましたならば猪肉を先ず入れ煮込みます、
猪肉は煮こむほど柔らかくなりますので、
初めに入れておくとよろしゅうございます。
「おいおい猫どの、こう良い香りが立ち上っては、
何だ箸が黙っておらぬ、何とかならぬかえ?のう久栄」
「殿様、左様ではござりましょうが、
ここは村松様の申される通りに致されなければ、のう村松殿」
「あっ さすが奥方様、よう心得て居られまする。
白菜、大根、レンコン、小芋、ニンジン、
菊菜やシイタケ、ささがきゴボウに湯通しいたしましたる
こんにゃくなどを切りそろえ、割り下に醤油、砂糖、酒、
八丁味噌をしっかりと入れ濃い目の味に致します。
野菜などの厚物から先に入れ、味を染み込ませます。
菊菜が柔らこうなりましたら食べごろかと存じます。
「うんうん それは良いそれは良い!
何と申しても早く口に入れるが一番じゃぞ!、
もう待てぬ!おい 久栄早う卵を小鉢に入れてくれ、
わしはもうどうにもたまらぬ」
平蔵は箸を構えて猪鍋のグツグツ煮立つのを凝視している。
「まぁ殿様はまるで子供のようなおほほほほほ」
「そんな事ァどうでも良いのじゃぁ、
見よこのグツグツと小気味の良い音に重なって
香り立つ山椒の清々しさ、野菜のとろりととろけるような色白の中に
ひと刷毛引いたような若葉色、それに獅子の身が絡みついて、
おう!もう待ちきれぬわ!猫どの良いな!良いのじゃな!」
「あっ お頭!まずは大根からお召し上がりくださいませ」
「ななっ なんじゃぁ大根からとな!
俺は猪鍋が食いたいのじゃぞ」
平蔵腰を折られて箸が止まった。
「まずは私めの申す通りにお召し上がりくださいませ」
と松村忠之進は大根を平蔵の小鉢に取り入れた。
平蔵一気にこれを熱っ 熱っ!と言いながら口に運び・・・・・・
「猫どの・・ふむ いやぁ~こいつは旨ぇ、大根に獅子の脂が絡みついて、
いやぁうむこいつぁいかぬ!かように大根が旨ぇとは、
久栄お前も早う食べてみろ、中々こいつぁ止まらぬぞ、
さて次は獅子じゃな!・・・・・・ううん!この柔らかな歯ざわり、
噛めばじんわりと脂がにじみ出て・・・・・
嗚呼もう止まらぬぞ猫どの」
平蔵は満足の笑顔を満面に箸を休ませない。
酒もほどほどに回り腹もくち、
ふ~っと深い溜息、満ち足りた至福の時であった。
そこへ火付盗賊改方に時折顔をのぞかせる仙台堀の政七が
役宅に日暮れ時に立ち寄った。
「長谷川様、谷中天王寺南の新茶屋町蝋燭問屋で
首を括った心中者が出たと言うことでございやす。
いつもなら早々と店を開ける姿が見られるのに、
この2日ほど店は閉じられたままで、近所のものが
不審に思い番屋に届けたのが事の発端でございやす。
番屋の木戸番と町名主が出向いたんでございやすが、
外回りに不審なところもなく、思案の挙句町方に報告が上がり、
奉行所が出張って参ぇリやした。
表戸が閉められたままなもんで、
同心の松本様が蹴破って入ぇって見たら、
夫婦二人とも鴨居に細紐をかけ首を吊って死んでおりやした」
「で、お奉行様は何と仰せられたえ?」
平蔵は煙管に火をつけながら政七の顔を見た。
「へぇ いつもの通り出入りの戸は締めてあり、
心張り棒までくれてあったところを見ると首を括ったんじゃぁねぇかって事で・・・・・」
「ふむ、で 荒らされた形跡はなかったんだな?」
「へい 全く普段のままだったと町名主も証言したそうで」
「で、その蝋燭問屋 何と申したかのう」
「へい おかだ屋でございやす」
「おお そのおかだ屋はどの程度の商いであった」
「店構えは間口三間、大戸ではなく、
ばったり床几は内側からも落とし留めが掛かり、
雨戸が嵌めこまれて真ん中の戸が落し掛けの戸締まりと言うやつで、
まぁたいがいのところと似たようなもんで、
いつも夫婦二人の切り盛りだったそうでございやす。
何しろ周りはお寺がひしめいておりやすから、
商いには困るようなものじゃぁねえ、
ですからどうして首を括らなきゃぁいけねぇんだろうって、
そこんところにお奉行様はご不審を持たれてはおられるようでございやす」
「うむ 確かになぁ・・・・・・商いに行き詰まってではないとなると、
何故首を括らねばならなんだか、確かに妙な話しだな」
平蔵は腕組みをして目を閉じ、
頭の中でもつれた糸をほぐそうと試みているようであった。
この界隈の見まわり担当となっている木村忠が数日後
再び近所の聞き込みをすると、
奉行所の検分が終わったその夜遅くおかだ屋から棺
桶が運びだされているのを夜回りの親父が見ていたそうで、
話はこれで終わればあるいは問題にならなかったのかもしれない。
だが、似たような事件が立て続けに小間物問屋や古物商い、
茶道具屋など三件起こったことが平蔵の脳裏にしがみついてはなれない。
「妙だ・・・・・」
いつものカン働きがむくむくと首をもたげてきた。
盗賊改めの出張る幕じゃぁねぇが、どうもこう
気になっていかぬ、ちょいと出かけてみるか。
平蔵は仕掛けの名人八鹿(はじかみ)の治助を伴って
ゆらゆらと谷中に出かけた。
町名主に話を通し、事件のあったおかだ屋を覗いた。
確かに争った形跡もなく家財道具もそのままできれいなものであった。
「蝋燭問屋と申しても仏具一式も扱っており、
それ相応の稼ぎはあったであろうのぅ
それなのになにゆえ首を括らねばならなんだか」
平蔵はこのごく普通の疑問が頭からはなれない。
その時、戸口周りを調べていた八鹿(はじかみ)の治助が
「長谷川様ちょいとこいつを見ておくんなせぇ」
と平蔵を招いた。
「どれどれ・・・・」
平蔵はこの治助が何か仕掛けを見つけたと少し胸の中に兆しを感じた。
「普通戸締まりは先ず雨戸を閉め、
心張り棒をして内戸は開けたままにしやす、
ですから外から差金を突っ込んでも内戸と外壁の間に
心張り棒が挟まってびくともしません、
これが普通の戸締まりでございます、
ところがよく見ればこの心張り棒少々曲がっております」
と治助が差し出した心張り棒は刀のような反りが見受けられた。
「うむ だがなぁ次助このようなものは何処にでもあるものではないのかえ?」と
少し落胆したようにため息混じりに治助の答えを待った。
「ところが長谷川様、先ほど何度か試してみやしたが、
こいつぁ仕掛けでございやす」
と次助は自信を持って答えた。
「仕掛けだぁ?」
平蔵 この治助の自信ありげな返答にちょっと期待を込めて問い返した。
「へい この反り具合と心張り棒が噛み合う鎧戸のホゾ、
こいつが上手ぇ仕掛けになっておりやす。
普通は棒の細いほうが戸のホゾにはまりやす、
どうってぇことはねえんでございやすが
重い方が下に来るのが普通でございやすから、
ですがね こいつぁそれをうまく利用しておりやして、
鎧戸にもたせかけて置いて内戸を開けたままにしやすと、
戸袋と内戸の間で挟まれて外れねぇようになりやす、
そこでゆっくり外から鎧戸を閉めやすと」・・・・・
と言いつつ治助は外に出て鎧戸を閉めた。
コトンと小さな音がして、心張り棒が鎧戸のホゾに収まった。
これを外すには内戸を閉めて、心張り棒をはずさなければ
外から進入することは出来ない。
治助は再び中にはいって
「この外の出入口は皆落し掛けが施されておりやして、
開けられたあとが見えやせん、てぇことは・・・・・」
「次助 お前ぇこいつぁ自殺と決めつけるには早ェと言うんだな」
「へい 近頃の似た事件を見なおしても遅ぅはござりやせん」
と慎重な答え方をした。
「よし、早速他の事件もあたらせてみよう、助かったぜ次助、
お前ぇの前がこれほど俺をすけてくれるとはなぁ」
「長谷川様、どうかそのぉ昔のことは・・・・・」
「おお こいつぁ俺がうかつであった、すまぬすまぬ、
いやお前ぇの読みでずいぶんと緒(いとぐち)を見つけることが出来た、
ありがてえなぁ」
平蔵 口元が少し緩んできたのを覚えた。
役宅に戻った平蔵はこの数日内に起こった
似たような事件のお調書を改めて読み返してみた。
事件は三件とも首を括っての自殺と書かれてあり、
その何れもが主夫婦というところが共通している。
確かに臭う
「誰か!忠吾は居らぬか!」
「お頭!お呼びで」と木村忠吾が控えた。
「おお 忠吾すまぬが五鉄に参り彦十に
八鹿(はじかみ)の治助に繋ぎを取るよう行ってはくれぬか?」
平蔵はもう一度治助に確かめさせようという腹づもりでのことであった。
「えっ 私がでございますか?使い走りなら何も私めでなくとも・・・・・」
と、見回りの供をいたせ!
と言う言葉を期待していたものだからつい本音が出てしまった。
「忠吾!」
平蔵の語気に忠吾は思わずたじろいた。
「なぁうさぎ お役に重いも軽いもない、谷中はそちの見回り持ち場であろう、
さらばお前が動くのが当たり前、
己の代わりに人をやるほどお前ぇはいつからそこまで偉くなったのかえ?」
平蔵の言葉は忠吾の期待を見事に断ち切り、
逆に己の卑しさを見透かされてしまった。
「ははっ!誠にお恥ずかしく・・・・恐れいります」
と廊下に頭を擦り付けて引き下がった。
いっときほどして 忠吾と八鹿(はじかみ)の治助が戻ってきた。
「長谷川様、またのお呼び出しということは・・・・・」
「さすが八鹿(はじかみ)の治助、判っておったか、そのことよ、
早速ですまぬが忠吾と谷中周りの事件があったお店の戸締まりを
調べてみてはくれぬか」
「判りやした、早速に!」
と忠吾と連れ立って出かけていった。
その夜遅く二人が帰ってきた。
「おお ご苦労であった、早速ですまぬが様子は如何であった?」
平蔵は治助の言葉を心待ちにしていたのである。
「長谷川様のお見立て通り、やはり何処も同じ仕掛けのようにございやす」
と報告した。
「やはりなぁ どうにも解せなんだ、
残されたことは何故殺さねばならなかったのか?
盗みならば殺害して盗めば事足りる、
わざわざ首を引っ掛けることぁねえはずだ。
こいつが解けぬ、こいつにはなにか裏があるなぁ
何かを見落としておるのやも知れぬな、
次助遅くまで済まなかった、ゆっくり休め!
おお 五鉄によって軍鶏鍋でも食ってまいれ、
三次郎にわしがそう 申したと伝えてくれ」
平蔵は遅くまで動いた治助に気配りを欠かさなかった。
「長谷川様・・・・・それではお言葉に甘えさせていただきやす」
そいういって治助は本所二ツ目に帰っていった。
「お頭 それでは私めもこれにて・・」
と忠吾が腰を上げようとした。
「忠吾 お前ぇ本日一日何を検分いたした?」
と、突然の問い返しに
「はは~ 何と申されましても、
私はただ治助の後をついて事件のあったお店を廻り、
一度休みを取りました、あっ その時の茶代は私めが支払いました、ハイ」
その応えを聞いた平蔵
「この大馬鹿者め!何故わしが治助と共にお前を殺ったか判らなんだか、
次助は仕掛けの達人、そんじょそこらの盗人では見抜けぬものでも嗅ぎ取り、
仕掛けを見破ってしまう、
それなのにお前は、ただついて回って茶代を出しただと!この大たわけ!」
「ははっ!!!!申し訳ござりませぬ」
忠吾、もう居場所もなくなり、穴でも掘って隠れたい
「だからのう忠吾、お前のことを皆うさぎ饅頭と申すのだぞ」
この平蔵の言葉は、芝神明前の名物うさぎ饅頭に顔付きだけでなく、
甘味もほどほど、塩味もほどほど、いくつ食べても腹にたまらず、
何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても何の役にも 立たず,
ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)というところから
木村忠吾のことを兎忠と呼んで陰口をたたかれている。
「誠に・・・・・・」
「お前 情けないとは想わぬか!」
平蔵も半ば呆れながら・・・・・
しかしそれが又この忠吾の忠吾たる所以であり、
30表二人扶持のれっきとした御家人である。
「良いか忠吾!明日より谷中の事件現場付近を徹底的に洗い直せ、
ネズミの穴一つとて見逃すではないぞ」
平蔵に厳しく戒められ、ほうほうの体で長屋に戻った。
翌日清水御門前の火付盗賊改方役宅に
市中見回りに出かける旨の報告を入れて忠吾は早速谷中に向かった。
一軒一軒回っていたら小石川片町の小間物屋
内海やの前に佇む女性が目に止まった。
「おい お前!一体ここで何をしているんだ?」
忠吾は若い女に近づき懐の十手をちらっと見せた。
一瞬女の表情がこわばり
「いえ なんでも・・・・」
と立ち去ろうとしたのを
「おい待て、少々聞きたいことがある、
お前はこの家に何かゆかりでもあるのかそれとも・・・・・」そ
う言いかけた時その女が「
お役人様でございますか?」
と問い返してきた。
忠吾は十手を出して
「吾輩は火付盗賊改方のものである」
と告げた。
女は少し戸惑った様子を見せながらも
「あの この家のものはどこに葬られたのでございましょう?」
と忠吾に埋葬先を尋ねた。
「それはこちらも探しておるところだ、
近所の者に尋ねても通夜らしきものもなく、
役人の検分の後棺桶が運びだされたそうだ、
ところでお前は何者だ、縁のものか?」
まだ三十前と見受けるこの女に忠吾は引き止められてしまった。
聞けば三年ほど前に鐘ヶ淵の方に嫁ぎ、
二親が気にかかり時折こうして覗いているという。
半年前には店の方にも何ら命を絶たなければならないわけも見えなかったという。
忠吾はひとまずその女の所在を聞き留め、
何か判明した折には知らせると言って帰した。
その日忠吾は清水御門前の役宅に戻り、
「お頭、木村忠吾市中見廻りより只今戻りました」
と平蔵に報告を入れた。
「おお 忠吾ご苦労であった、で何か判明いたしたか?」
「それがお頭一人若いおなごに出会いました」
「何ぃ!おなごだと、で お前まさかその女を・・・・・」
「あっ お頭!その目つき、そのお言葉の響き・・・・・
大いに間違いにございます」
と慌てて平蔵のその先を制した。
「何 何んでもないとな そりゃぁまた・・・・・」
「又? 何でござりましょう、この木村忠吾痩せても枯れても
盗賊改め同心の端くれ出ござります、
おかしらの想われておるようなことは一切ござりませぬ」
と必至に弁解する。
「おいおい そのわしが想うておるようなとは一体何のことだえ忠吾」
平蔵は忠吾の慌てぶりがおかしくてからかったのであるが、
当の忠吾は防御線を張り巡らそうと必死である。
「まぁそれはさておき、何か掴んで参ったか?」
と水を向けた。
「はい その女は鐘ヶ淵に嫁いでおり、
時折二親を案じて訪ねてくるそうにございます。
半年前には何も変わりなく、
首を括らねばならぬほどのことは露ほどにも
感じなかったそうにござります、それともう一つ」
「おお それは何じゃ!」
やっと確信に辿り着いたので、平蔵書物の手を休め忠吾を見た。
不思議なことに三件とも役人の検分がすんだその夜
密かに棺桶が運び出されております」
「何だと!そいつぁ妙な話だな」平
蔵はやっと事件の核心に近づいたことを感じ取った。
「何れも夜半に棺桶を出している、こいつぁ骸(むくろ)以外の
何かを運びだしたに違ぇねぇ。
棺桶を運ぶにゃぁ荷馬車が必要であろう、
貸車屋を早速洗ってみよ、どこの貸車屋で誰に頼まれどこに運んだか、
そいつが判れば凡そのことが判明いたそう」
平蔵は忠吾に命じた。
だが、平蔵の思いはあっけなく期待倒れに終わってしまった。
この数日谷中界隈で棺桶を運んだ者も、
車を貸した者もいなかったのである。
「ウヌ!」
先の見えない路地に入ったような思いがじゅくじゅくと平蔵を囲んでくる。
この奇妙な事件は平蔵の頭の中でくすぶり続け、
打つ手とて無い状況に歯ぎしりするばかりであった。
だが、この事件も些細なところから緒(いとぐち)が見えてきた。
谷中の立善寺裏の百姓屋に
棺桶らしきものが運び込まれているのを夜中に厠に立った小坊主が見ていた。
だが小坊主は夜中に厠に立つのは昼間の節制が足りぬからだと
戒められるのを恐れて報告しなかったようであった。
小坊主も初めは気にも留めなかったけれど、
埋葬する様子もなく妙だと思い、和尚に報告したということであった。
そこで和尚が早速出向いて確かめた所確かに不要とみなした仏像に
小間物の細工物や銭箱、骨董物が散乱しており、
人の出入りもあった痕跡が認められたと番屋に届け出がなされ、
町奉行所に報告が上がり判明した。
町奉行の手で谷中の百姓屋の裏手に八名の亡骸が
埋められていたのが発見され、
それぞれ身元のわかるものの身内に連絡を取らせ、
引き取り手のないものは立善寺の無縁墓地に埋葬されたという。
その数日後谷中の新幡随院裏手の掘割土手に
荷馬車が放置されていたのが見つかった。
「お頭 この度の事件はどのようになっておりましたもので?
私には何が何やら見当もつきかねます」
と聞いてきた。
「うむ 殺した後首をつったのは自殺と見せかけて、
以後の探索が及ばないように図ったのであろうよ、
戸締まりのからくりも次助が見破らなんだら案外見過ごしたであろう事だがなぁ、
夜中の棺桶も故買かいの物を持ち出すために使ったのであろうよ、
恐らくは金もその時に持ちだしたと想われる、
お届けの翌日ならば奉行所のお調べで身内に知らされても十分時が稼げる、
大勢で急いで動けば嫌でも目につかぁな、そこんところをうまく考ぇやがったものだ。
最後の最後まで棺桶で始末をつけるなんざぁなめたものよのう。
恐らくは堀川伝いに川船で荷を運び出して、
大川辺りから荷揚げして消えちまったんだろうぜ。
こいつぁ次助の読んだ通り心張り棒のからくりをよく心得た奴の仕業であろうよ。
王手飛車まで掛かったと想うたに、いや無念じゃ」
平蔵はこの度の事件を解決できずに終わったことに
少々やりきれない思いが残った。
ここは上野池之端のけころ茶屋提灯店(みよしや)二階
伊三次がねぐら同然にしている茶屋で、贔屓(ひいき)はおよね、
本人同士は知る由もないが、子供の頃およねの母親に
一時一緒に育てられたこともあり、何故か馬が合い他人という間柄ではない。
そのことを平蔵が読み取り
「「お前ぇおよねに惚れてるな?何なら女房にしろ。
おれが世話を焼いてやってもいいぞ」
と言っておよねにやれと金子二両を紙に包んで伊三次に手渡した。
役宅を出た伊三次はにやりと笑いながら嬉しそうに歩き出す。
途中猫じゃらしを売っている店があったので立ち寄り一つ買い求める。
「十六文です」に
「釣りはいらねぇよ」
と片手に猫じゃらしをぶら下げて小走りに駆け出す。
「女房かぁ・・・・・およねをねぇ、そらぁ出来ねえ相談じゃねえが、
とても俺一人じゃ持ちきれねえやな」
と笑った、そんな間柄でもある。
「なんでぇお前ぇおたふくみてぇな面して、よくもまぁ客の前に出れたもんだぜ」
「でもねぇ伊三さん そのお客があん時にさぁ・・・・・」
「ばかやろう客に客の色話をするなんざぁ女郎(おんな)のするこっちゃぁねやぁ、
こっちにとっちゃぁ面白くもおかしくもねぇじゃァねぇか」。
「だってさぁ、左の腕に変なアザがあってさぁ、それをあたしが触ったら、
いきなりあたしをぶってさ、こんな顔になっちまったんだよぉ」
この日平蔵は本所菊川町の役宅から清水御門前の火付盗賊改方役宅に帰ろうとしていた。
一時ほど前に朝熊の伊三次がやってきて
「「長谷川様、およねのやつが見たっていうアザの話でござんすが・・・・・・」
「刺青ではないのかえ?」
「へぇ あっしもそう睨みやして聞いたみんでございやすよ、
するとあのバカ 良くは判らねぇようでしたが、どうもサの字のようで・・・・・・」
「フム サ・・・・か・・・・・
そいつぁ佐渡金山の仕置だと想われるがな、佐渡だと十年の水替え人足、
一昼夜勤務の隔日交代がお定めの刑罰。
島抜けは先ず考えられまい、一旦入ぇれば戻れねぇ島、
江戸に居るとなるとお勤めを終わった者かご赦免になった者、
だがこの所ご赦免はねぇ、で、年格好は判っておるのか?」
「それが初めての上がりとかであのバカ良く覚えてねぇようで、
ただ五十前位ぇのようでござんすが」
「うむ それだけではなんとも読めねぇが、
ちょいと歯には挟まったような気分だなぁ伊三次」
「へぇ 全くで」 刺青いろいろ
こうしてこの度の事件は始まったことをまだ平蔵も気づいてはいなかった。
清水御門前の火付盗賊改方に戻るその前に二ツ目の軍鶏鍋や五鉄に立ち寄ってみた。
「長谷川様いらっしゃいませ!」
いつも元気なお時の声に出迎えられいつものように二階へ上がってゆく、
そのあとを(待ってました)と相模の彦十が付いて上がる。
いつものようにおねだりするのを気遣って主の三次郎が
「とっつあん!」と制するが
「気にしえぇ気にしねぇ!」と、軽やかに上がってゆく。
「しょうがねぇとっつあんだ」と言う苦笑いを背に
「おとき 二~三本持ってきてくんな」
とすでに懐も準備万端というふうである。
「おう 彦!何か変わったことはねぇかい?」
と聞かれて彦十
「さいですねぇ・・・・・ここんとこ暇をもてあそんで、
ちょいと脂の匂いでもなぁんてね」
「おいおい お前ぇまだその元気があるのかえ?」
からかい半分に皺くちゃな彦十の顔を見る。
「やだなぁ銕っつあん!それにご無沙汰するようじゃぁもういけませんやぁ、
痩せても枯れても相模の彦十まだまだすてたもんじゃぁござんせん
(老武者は佐々木の勢いかりるなり)ってねぇ」
「ほ~ いもりの黒焼もお前ぇに掛かっちゃぁおしまいだなぁ、
どっちも干からびてらぁ、あっはっは」
「あ~っ そいつぁちょいと言い過ぎってぇもんでござんしょう」
彦十頭を一つ打って懐盃を差し出す。
この引き合いに出された佐々木は源義経の配下の勇猛果敢な武将佐々木信綱
「四つ目屋は得意の顔を知らぬなりけり」
と古川柳に引き合いを出された家紋が4ツ目結びの薬師問屋で、長命丸・女悦丸・
イモリの黒焼きが名物であり、店内を薄暗くし、客の顔を見えにくくする配慮が
あったことを伺わせる。 佐々木信綱
「なぁ彦!伊三次から入ぇった話だがな、佐渡から流れてきた奴の話は聞かねぇかい?」
「佐渡でござんすかい?あの・・・・・」
「そうよ佐渡金山から帰ぇって来た奴の話は耳にしていねぇかい?」
「さぁてねぇ・・・・・・そいつがどうかしやしたんで?」
「いや たちまちどうしたってぇんじゃァねえんだがな、
ちょいと耳に留めておいてくれねぇか」
「がってんしょうち!」
ともう一杯・・・
そこへお時が盆を運んできた。
「おっ 今日は何んだえ?」
平蔵の弾んだ声をすぐ階段から五鉄の主人三次郎の声が追いかけてきた。
「長谷川様、本日は青褐汁(あおかじる)でございます」
「ほ~青褐汁とは又何だえ?」
平蔵、もうこの言葉で喉が鳴り出しそうである。
三次郎は座りながら
「棒手振り(ぼてふり)の六助さんが持ち込みまして、
久しぶりに雉料理をと想っておりましたところへ長谷川様が・・・・」
とこれも又嬉しそうに。
「おいおい 雉料理とはこいつぁ朝から精が出そうではないか、なぁ彦!」
と彦十の顔を見る。
「へへへへ」もう彦十は腹の中に収めた気分で口を拭う。
「やれやれ・・・・・」三次郎はため息をつく。
「まぁ良いではないか、でそいつはどんな料理になるんだえ?」と興味津々
「へい キジの腸を清水で綺麗にしごき、叩いてすりつぶし、
味噌、酒を加えてから、きつね色になるまで炒ります。
これを青腸(青勝ち)と呼びます。
こいつを出汁にしまして小ブツ切りにしたキジ肉や、
ごぼうなど季節の野菜を入れて汁にします、
出来上がったものに刻みネギを入れて頂きます」
「おう こいつは又趣向が替わって、いやぁなかなか・・・・・
んっ!旨ぇ!!おい三次郎、こいつぁ又・・・・・・
嗚呼いかん!またしても五鉄の看板が増えて足止めになりそうだわははははは、
おい彦!こいつを白飯にぶっ掛けて食うと元気が出るぜぇ、
さっきの話じゃぁねぇが、お前ぇ白粉臭え脂女のもとへご出陣と・・・・・
行けるかも知れねぇぜぇ。わっはっは」
その夕方平蔵はいつもの様に両国橋を渡り、
神田川を右に見ながら柳原土手をゆらりと柳森稲荷に差し掛かった時、
稲荷社の鳥居の前で何やら揉みあっているような気配がした、
その後平蔵の方へ駆け出す足音が聞こえ、
土手を駆け上がった所で足音が止まったと思うと刃の打ち合う音がし、
ぎゃ~っ と 言う悲鳴とともにうめき声がした、平蔵急いで駆けつけつつ、
「火付盗賊改方である」と呼ばわった。
その言葉を聞いてバタバタと逃げ出した数名の侍と思しき人影。
「おい しっかり致せ!」
見ると胸を突かれ、胴の方もかなりの出血が認められる、
(こいつぁいかん)平蔵は男を抱え起し
「一体何があった!」
と叫んだが、ほとんど聞き取れない。
「何ぃ!」弱々しい声を耳元を近づけると「たぬき・・・・」と残して絶命した。
「おい しっかり致せ!」
平蔵、その先を望んだが、すでに息を引き取っていた。
通りかかりのものを呼び、大八車を持ってこさせ、遺体を乗せ近くの番屋まで運ばせた。
その様子を遠くから認めるいくつかの視線を平蔵は背に感じながら番屋の中に入った。
(たぬき・・・・)はて・・・・・
見れば身なりはひっつめの髪に質素な服装である。
(浪人と呼ぶにはすさんだものを感じない)うむ・・・・・・
番屋で本日の番太郎が茶を出してきた。
「おう すまぬ、手を煩わすなぁ」
そう言いつつ骸をゆっくりと検分していた。
たぬきとは、はて・・・・・一体何を意味しておるのであろう?
平蔵はその番太郎に
「わしは火付盗賊改方長谷川平蔵じゃ、
遅くにすまぬがひとっ走り清水御門前の火付盗賊改方役宅まで
知らせに走ってはくれまいか、それまでわしはここで待っておる、
そう伝えてくれれば良い」と小者を走らせた。
一時ほど後に与力の小林金弥・同心小柳安五郎・同心沢田小平次が駆けつけた。
「お頭!これはまた・・・・・」
「おお!遅くにご苦労、すまねぇがこいつを役宅まで運んでくれ、
そこに大八車を用意させてある」
そういって、共に清水御門前の火付盗賊改方役宅に運び込んだ。
当然影のように微行する気配を引き連れてである。
「お頭!」それに気づいて沢田小平次が平蔵に寄ってきた。
「うむ、判っておる、柳森稲荷境内からずっと糞のようにへばりついておる」
こうして夜を徹してこの亡骸を徹底的に調べ直した。
だが、何かを明かすようなものは何一つ発見されず、
無言の証人は町奉行の手に委ねることとなった。
だが、その昼過ぎ、柳森稲荷八ツ路ケ原の番屋が何者かに襲われ
番太郎が殺害されたと平蔵のもとにも知らせがあった。
「しまったぁ 奴らめ番太郎を襲ったかぁ、こいつぁぬかった!」
平蔵が番屋に骸を運び込んだのを見ていたことは判っていたが、
その時当番であった番太郎が狙われたのである。
「おそらくわしがあの骸を運び込んだ際、
あの親父も何かを聞いたと想われたに違ぇねぇ、不覚であった!」
平蔵は番をしていたばかりにとばっちりを受けた町衆の
酷い殺し方に胸が煮えたぎる思いであった。
「村松!その番太郎の居所と名前ぇを聞いて、香典を頼む」
そう言って懐紙を出し金子を包んで村松忠之進に手渡した。
「それにしても(たぬき)とは何の意味でございましょう」
佐嶋忠介が首を傾げる。
「うむ 今のところわしにも皆目見当がつかぬ・・・・さて困ったものよ」
その夕刻、神田川の船宿(きふね)の志留古保之(しるこぼし=小さめの屋形船)
の榜人(せんどう)和助が、船を出そうとして、
その竿先に死体が引っかかていたと届け出があった。
当番の南町奉行所で検死の結果(左腕にサの刺青を認む、
所持品無し、物取の仕業か、年齢五十前後身元不明)とのこと。
無論この事件は平蔵には届いていない。
その二日後、清水御門前の火付盗賊改方を出た平蔵の後を
密かに尾行する気配を感じつつ、もう一度現場に戻ってみようと柳原土手に向かった。
柳森神社の土手を下り、鳥居をくぐって柳森神社拝殿に差し掛かった時、
不意に殺気が散った。
(仕掛けてくるな!)平蔵油断なく網代笠の下から眼を左右に配る・・・・・
拝殿の角から無言で激しい太刀風が平蔵に襲いかかってきた。
それを見切って体を左に開き初太刀を躱した、
その一瞬背後から次の気配がかぶさるように襲いかかる。
飛び下がって塀を背に刀の鯉口を切る、
無言の重圧がひしひしと平蔵を追い詰めてくる。
平蔵ゆっくりと草履を脱ぎながら前方に一番鋭い気配に気を飛ばす。
「やっ!!」
強い気迫が平蔵に襲い掛かる。
一瞬その影が平蔵を包み込んだ、
その刹那平蔵の抜き放った一撃は相手の右腕を切り落としていた。
「ぎゃっ!」悲鳴が上がって平蔵の目の前に刀を掴んだままの右腕が転がった。
「まだやるか!」
平蔵が押し殺した声で残る三名の方に切っ先を向け直した。
「・・・・・・・引けい!」けが人を抱えるように逃げ去る後を、
(隠忍か・・・・)平蔵はそうつぶやきながら血を拭い鞘に収めた。
だが襲撃はこれで終わらなかった。
数日後いつものように清水御門前の火付盗賊改方を出て、
のんびりと久しぶりに本所の役宅に戻ろうと、通り道となっている柳原土手を進んでいた。
見上げる空はどこでも蒼く土手の柳は爽やかな翠に輝き、
来る季節を待ち焦がれたかのように涼やかにさえ想えた。
青々とした若葉の香りが風に乗って心地よく懐に潜り込む。
(うむ 良い季節だ)平蔵の気持ちも少しは和み本所までの道中を楽しもうと想った。
(・・・・・・おい またかぁ)平蔵の背後から冷たい視線が背に刺さってきた。
(ここはまずい、人通りがありすぎる)
平蔵は静かにその気配を誘いこむように柳土手を下がり始めた、
その動きを読んだか平蔵の背後から網代笠を一刀両断に切り下げてきた。
一瞬身を躱した平蔵の右肩をかすめて太刀風が前に泳いだ。
平蔵はゆっくりと刀を抜いた・・・・・・
「ほう 御留流(新陰流)とは・・・・・
過日の者とは違うようだのう、太刀筋に殺気が薄い、
わしを火付盗賊改方長谷川平蔵と知っての狼藉か!?」
と静かに片手で網代笠を外した。
「ううんっ!火付盗賊と!」
「左様火付盗賊改方長谷川平蔵!」
と再び名乗った。
「ご無礼を!」
と相手は刀を背に回し片膝ついた。
「身共は徒目付島崎正吾と申します」
と手をつき名乗った。
「なんと徒目付とな!で、その徒目付が一体わしに何のようじゃ、
なぜ襲いかかった、申してみよ」
と刀を収めながら油断なく刺客の顔を見た。
「されば・・過日長谷川様が柳原土手にて遭遇いたしし者は、
身共が配下の隠密廻にございます」
「なんと 地回り御用の・・・・・」
「はい左様でございます、ところで長谷川様にその者が何か言伝など・・・・・」
「うむ、そこ元が仕えし大目付はどなたでござろう」
平蔵疑ってかからねば事の重大性から見ても簡単に信じるわけにはいかなかった。
「身共が上司は大目付池田筑後守様にございます」
「あい判った!筑後守様は身共をよく存じておられる、
さればそのものが言い残せし言葉をお伝え申そう」
そう言って(たぬき)と言い残したことを伝えた.。
「たぬき・・・・・・たぬきでございますか?」
「わしにはよく判らぬが、そこもとなればお判りかも知れぬな」
「いえ、 私にも一向に心当たりがござりませぬ、
しかし、この寺本以蔵が探っておりましたるものは
金座総元締め後藤庄三郎でございます」
「何と金座の御用金匠後藤屋敷・・ほう こいつはまた、
で それをいかように読み解かれる?」
「おそらくこのたぬきが何かを明かす物の・・・・・・」
「はて・・・・・わしが柳原土手にて出会ぅたおり
稲荷の奥のほうで斬り合いがあり、土手にて出くわせ致した。
「えっ!実は過日神田川の船宿(きふね)の
志留古保之(しるこぼし=小型の屋形船)の榜人(せんどう)和助が、
船を出そうとして、その竿先に死体が引っかかっていたと届け出がござりました、
その男を手前どもで調べましたる所、元は日本橋金吹町の錺職人定八、
博打が元で殺傷事件を起こし十年前に佐渡送りとなっておりました。
定八は水替人足として送られましたが元は錺職人、
それを見て取った後藤配下の者が佐渡金山後藤役所内にて極印打ちをさせておりました。
その後年季明けで江戸に舞い戻っておりましたところを
後藤屋敷に拉致された模様、それを見共が配下の隠密廻同心寺本以蔵が見つけ出し、
後藤屋敷からこれを密かに脱出させました。
その後定八と寺本以蔵が落ち合う場所を定め、
証拠となるものを持ちだした模様。
その後寺本以蔵からの連絡が途絶え、
身共が調べを進めた結果この両名を後藤屋敷の隠忍が追っていることが判明いたしました」。
「やっ それで判った!わしを二度も襲ったのはそ奴らであろう、
ただの無頼じゃぁねぇことは太刀筋からも相当な手練であったことからも伺える」。
「その隠忍共を追っておりまして・・・・・」
「わしにぶつかったと言うわけだな」
平蔵、合点がいったふうに島崎正吾の顔を見た。
「はい まことその通りにございます」
後藤屋敷では折れ、欠け、摩耗などによる軽目金が多くなり、
これを補修する本直しと呼ばれる足し金が行われております。
後藤庄三郎は鋳造時に外金の鉛丹や錫を混ぜ込み両目を揃え、
余剰金を蓄えたフシがあり、それを探るために隠密廻が潜入いたしておりました。
その本直し作業を定八が受け持っておりましたようにございます。
その証拠の品と生き証人の身柄を拘束保護するのが寺本以蔵の御役目でございました。
その寺本も証人の定八も消された今、もう打つ手は潰えたのでございます」。
無念そうな島崎正吾の声を制して平蔵
「待て待て この二名とも柳森神社傍での襲撃とあらば、
そこで二人が逢うたとも考えられよう。
恐らくは奴らが定八を追い詰め、
それによりすでに証拠の品が隠密に渡った事を知り、こいつを殺害、
そのあと寺本以蔵を追ったと考えれば辻褄も揃うではないか。
だとするならば、先ほどの最後の言葉(たぬき)こいつぁは、・・・・・・
柳森稲荷は鬼門除けがおたぬきさまではないか?」
平蔵やっと喉の小骨が取れた思いである。
「まさに!では早速その場所を・・・・・」
こうして後藤庄三郎 金座後藤屋敷内での
金目一部横領発覚の罪で長蟄居が下ったのはまもなくのことであった。
「なぁ佐嶋・・事の起こりは伊三次からのちょいとした世間話、
だがこいつが柳森神社で傍と隠密廻との遭遇で一つにつながった。
その結果池田筑前守さまのくびきをほどくことになった。
何一つつながりも無ぇと思っていたものが時という出汁を加えるとどうだい!
旨ぇ料理に変わっちまう妙なもんだなぁ、
人は意図しておるわけではないが、
時はそれを知っておるかのごとくこうして日盛りの前にさらけ出してみせる。
俺もそちも、お天道さまから見りゃぁ
将棋の駒の一つに過ぎねぇんだろうなぁ、ははははは」
浅草寺名物 1795初めて風雷神門大提灯が奉納された。
浅草寺本堂の志ん橋大提灯 広重画
ここは浅草寺本堂(志ん橋)と書かれた大提灯をくぐって朝のお参りを済ませ
広小路に戻りかけ、消失したままの雷門に差し掛かった時、
「喧嘩だぁ喧嘩だぁお侍ぇ同士の喧嘩だぁ」
と声が飛んできた。
大勢の人をかき分けて覗いた浜崎十兵衛の見たものは
いかにも強そうな浪人風体の男と、
すでに勝敗は付いていると想われる若侍が抜刀して対峙している光景であった。
頃は六月中の頃・・・・というと壺坂霊験記・・・・・・あるわけはない、
ということで振り出しに戻って。
頃は六月七日、夜ともなれば鳥越囃子が聞こえてくる、
浅草でも最も気の短い連中がうようよいる場所である。
ここの蛇骨長屋をねぐらにしている浪人浜崎十兵衛
「ちょいと待った!その喧嘩俺が買おう、何しろ今日の食い扶持が底こをついておる、
飯のためにはやむをえぬ、どうだ五両でこの喧嘩引き受けよう、すでに勝負は見えておる」
と喧嘩の仲裁を勝手に買って出た。
「邪魔だていたすな」
浪人が声高に叫ぶ。
「おうおう そう邪険にするなよ、仲裁は時の氏神と申すではないか、
お前さんのほうがどう見ても優勢、こいつぁ面白くもなんともねぇなぁ皆の衆」
すると周りから
「そうだそうだ!それじゃぁつまんねぇ!火事と喧嘩は江戸の花!ッて言うぜ」
「それ見ろ!お江戸の花を今散らして何が面白い、
どうだ!五両ではだめか?うむ仕方がない三両で手を打とうどうかな?」
どう見ても劣勢の若侍の方に寄りながら指三本立ててみせる。
「お構いくださるな!」
若侍が逃げ腰のまま刀を突き出して追い詰められている。
「その通り邪魔立ていたすと貴様の方から先に片付けるぞ」
今度は浪人が威嚇してきた。
「おおそいつぁ怖い、だがその前に商談がまだ決まっておらぬ、
どうだ?三両でも出せぬか!う~んこうなったら清水の舞台だ、
一思いに飛び降りて二両!これ以上は負からぬぜ」
その言葉の終わらない内に浪人が大上段に振りかぶった長刀を一気に切り下げた。
若侍はとっさに目をつむり刀をそのまま固まってしまった。
(ビィ~ン)鋭い音とともに浪人の刀が中に舞い上がり
ギラリと陽を返してドォと地に落ちた。
「むぅ!」
浪人の口から低い声が漏れ、抑えた右腕から鮮血が地面に吸い込まれてゆく。
「糞!覚えておれ!」
浪人は刀を拾い上げて人混みの中に消えてしまった。
「やれやれこれで又今夜も根深汁かぁ」
十兵衛は尻餅をついて刀をガタガタ震わせている若者の腕を掴み
刀を剥がすように取り、鞘に突っ込んだ。
勝負あったと群がっていた野次馬も散って、元の人通りに戻った。
「なぁお前さん、どのような事情があるかは知らぬが、
始めっから勝負は付いている、なのにどうしてやるんだね、
おれにはさっぱり判らねぇ」
と首を傾げる。
この浜崎十兵衛親代々の浪人暮らし、この時代 役にも立たない物の、
腕に覚えの剣術で飯を食おうとこの浅草界隈で喧嘩の仲裁を生業にしている。
若侍を引き起こし、土埃をはらって近くの茶店に抱え込んだ。
「私は挙母(ころも)藩内藤家家臣崎森良太郎と申します。
父が上野国安中より挙母へ移藩の際母とともについてまいり、そこで生まれました。
天明四年(一七八四年)父が小普請を勤めておりまして、
その同僚と工事采配の事であらがいになり怪我を負わされました。
その怪我が元で父は死亡、すでに出奔していた板垣十四郎を追って
、江戸に参ったのでございます」
「なんと、それにしても怪我が元での死亡では仇討ちも認められんだろうに、
そこまでして何があるんだい?」
「武士の一分が立ちません」
「やれやれ、この時代にまだ武士の一分たぁ恐れいったぜ、
おまけに刀の持ち方一つ判っちゃぁいねぇ、俺には皆目判らん世界だなぁ」
「それでも私にとっては意地がございます」
「その意地を通すにも命を捨てては何にもならんだろう、
あっ お前さん路銀が切れたということか!
それなら色好い返事の一つも出なくて当たり前ぇだ、
はっ!こいつぁ俺がしくじりよ」
「申し訳ございませぬ」
「まぁいいさ、所でお前さんこれからどうするつもりだね?
見れば行く宛もないようだが、他に何か才覚はないのかね」
「父が小普請におりましたもので、
剣術よりもと文事、学芸に力を入れておりましたもので」
「ははぁそれで先ほどの・・・・よし判った、
お前さんを、う~ん おうそうだ!花川戸の尾張屋のだんなに相談をぶってみよう、
まぁ今日は俺のねぐらで骨休めして、明日にでも出かけてみよう、
おれのねぐらはその横の奥にある、蛇骨長屋だ」
「蛇骨とは又・・・・・」
「はははっ 気にするねぇその昔、
この長屋の奥の方から大蛇の骨が出たってぇ話しでよ、
それ以来ここいらを蛇骨長屋と呼ぶそうだ」
「左様ですか、まさか夜な夜な大蛇が出てくるとか・・・・・」
「おいおいそれじゃぁだぁれも住み着かねぇ
おっと蛇は棲み着くかも知れねぇがな、はははは」
こうして十兵衛と良太郎の奇妙な生活が始まった。
翌朝、身支度も整えて良太郎は十兵衛に伴われて花川戸の豪商尾張屋を尋ねた。
尾張屋の本家八木下家は鑓水村(やりみず)で
紡がれた生糸をまとめて江戸に持ち込み財を成している。
「これはこれは浜崎様お珍しい、本日は何処からの仲裁に御座いますかな?」
にこやかな表情で尾張屋の主が奥座敷で出迎えた。
「いやぁまった!いつもいつも喧嘩の仲裁ばかりは致しておりませぬぞ尾張屋どの」
「さようでございますか、で、本日はいかようなご用向きで?」
と茶を勧める。
「はい この若者故あって浪々の身、なれど糊口をしのぐにも術なく、
幼少より心得たる算術に長けておりまして、
暫くの間でもこちらのお役に立ちはしまいかと、お連れいたしました」
「おう それはまたお気遣い頂き・・・・・
ですが、手前どもにはすでにそのほうは足りておりまして、
新たにその必要もござりません」
「そう申されると想っておったが、こちらは小普請の御用方も心得ており、
帳面記載の管理などの奥向にも詳しい、若輩なれどお役に立とうかと」
「それはまた・・左様でございましたら話は別、
さてでは、暫くお預かりさせて頂いて、
その後でということもでもよろしゅうございましょうか?」
「おお 勿論、ものは遣うてみよ 人には添うてみよと申しますからなぁ、
何卒よしなに願います」
「ならば お引き受けいたしましょう」
と言うわけで、とりあえず糊口を凌ぐ手立てが出来た。
「さて住むところだがちょうどわしの家の向かいが空いておる、
そこを何とかあてごうてもらおう」
こうして棲み家も決まりひとまず落ち着いて仇を探すこともできることになった。
「この度は誠に数々のお骨折りをかたじけのうござりました」
良太郎は改めて十兵衛に感謝の意を述べた。
「よかったなぁ 崎森どの、俺もこれで喧嘩仲裁の甲斐があったと言うものよ、あははははは」
こうして二月が流れた。
良太郎は蛇骨湯の朝湯につかりに出かけた。
朝湯は夜の商売のものが入ったままなので、
上がり湯と言い入浴にはならない、そこで良太郎
銭湯の掃除をすることを引き受ける代わりに朝湯に入れることになったわけである。
尾張屋の帳簿付けは夕方から本仕事、したがって朝はゆっくりできる。
これは十兵衛が良太郎が仇持ちであることを尾張屋に話し、
尾張屋が任侠心で決めてくれたことであった。
蛇骨湯を出て浅草寺にお参りしようと金龍山山門をくぐった。
すでに人影は多く集まり、忙しげに行き交う人混みで賑わっていた。
(あっ 確かにあの後ろ姿は板垣十四郎・・・・・)
良太郎は背を見せて立ち去る三人組の一人が、板垣十四郎だと確信を持った。
そしてその後ろを付かず離れずついていった。
三人が入っていった先は新鳥越町の貞岸寺横少し入ったところの藪田の中の一軒家。
遠くで暫く様子をうかがってみたが、全く動きがない、
(おそらくここがあいつのねぐらであろう)と、蛇骨長屋に戻り十兵衛に報告した。
「それは何より!あとは奴の動きを見張れば良い、その方は俺が引き受けよう」
「誠でございますか?」
「こうなったら乗りかかった船、とことん付き合うぜ良太郎さんよ、
何日でも奴が一人になるのを待つしか無い」
それから毎日十兵衛は遠くまで野中の一軒家を見張ることになる。
そのころ平蔵は、てかの者から話を聞いたと報告があり
菊川町の役宅で五郎蔵に話を聞いていた。
「何とな!もう一度申してみよ、確かに其奴は音無(おね)の喜三郎だと申すのだな!」
「はい 間違いのない所でございます」
「うむ あ奴には煮え湯を飲まされた苦い思い出が今もこうして胸の奥底でうずいておる。
わしもまだ盗賊改めのお役に付いたばかりで、
同じ御先手組弓頭の堀田帯刀殿より佐嶋忠介を借り受けたばかり、
そのおり堀田殿が持て余して居った盗賊が其奴であった。
おれも若かったせいもあり功を焦って取り逃がした、
そのあと奴はあざ笑うかのごとく市中で暴れ回り、
堀田殿は引かされわしが火付盗賊改方になった」
「左様なことがございましたので・・・・・」
大瀧の五郎蔵はこの長谷川平蔵という人の気持をよく判った。
「で、いかがした、何ぞ手は打っておるのであろうな」
「それがでございます長谷川様、こうしてお伺いいたしましたのは
そのことについて長谷川様のご指示を頂きたく・・・・・」
「うん 何だ言ってみろ」
「はぁそれがどうも妙なことで、あっしの手の者の話では、
そいつらを見張っている者がおりやすそうで、そこのところをどうすればと・・・」
「で、其奴は何者だ!」
「はい 野郎が後を追いかけて着いたところが浅草の蛇骨長屋、
ですが、どうもそっから先が読めません」
「うーむ そやつは確かに奴らを見張っているのだな」
「はい それは間違いございません」
「だとすれば奴らの一味でねぇ事だけは確か・・・・・
もう暫く奴らをそのままで張り付いてくれぬか、
何か動きがあらばすぐにでも手を打てるよう塩梅だけはしておこうからに」
「はい 承知いたしました」
この奇妙な張り込みは此処に始まったのである。
五郎蔵は平蔵の命で早速新鳥越町の貞岸寺の奥まった寺男の空き家を見張り所に借受、
墓地を挟んですぐ向かいが盗賊の盗人宿の横正面に当たり、
昼夜見張るのには絶好の場所となった。
一方十兵衛はというと、墓地の端に身を潜めていたものの(
ここはさすがに墓地があるだけに蚊が多い、こいつぁたまらん)
夕方ともなれば一斉に襲いかかってくるので団扇などで追い払えるものではない。
どこかに良いばしょは・・・・と見回すと、寺の奥に小屋が見える
(うん あそこなら何とか蚊遣りでも焚けば大丈夫であろう)
とそそくさとやってきた。
長らく人の住んでいる気配はなさそうで(よしここなら忍び込んでも良かろう)と、
ガタガタと戸を開けた。
「誰だ!!」
中から声がしたので十兵衛驚いた。
「いやっ これは失礼をいたした、まさか人がおろうとは・・・・誠にご無礼を致した!」
と平謝り。
「当方は火付盗賊改方である、お手前は昨日よりこの界隈で一体何をなされておる、
御役目によりお尋ねいたす」
声を出したのは同心山田市太郎。
「あっ盗賊改めのお方でござりますか!
私は鳥越町蛇骨長屋に住まいいたしております浜崎十兵衛と申します、じつは・・・・」
と今日までのいきさつをかいつまんで話した。
「判りました、ですがあそこに潜みおる者は極悪非道なる盗賊音無(おね)の喜三郎である、
したがってお上の御用の邪魔立ては以後慎まれよ!」
ときっぱりと釘を刺されてしまった。
「とは申せ、こちらも仇を見張らねばならず・・・・・」
十兵衛は何とか食い下がろうとするが
「ここは一旦我らに任せ、捉えたる後しかる処置をお頭に仰ぎ、
そこ元に通達いたす、早々に立ち去られよ」
とけんもほろろの厳しい態度である。
相手が火付盗賊改方となれば、黙って引き下がる他に方策はないと十兵衛、
やむなくその場は立ち去った。
帰宅して、このことを文太郎に報告したが
「文太郎さん、よりによってによって相手は火付盗賊改方、
おまけに密かな探索中ということで、こいつぁ賽の目が揃うまで動けませんなぁ」
と悲観的である。
「盗賊改めの方のお返事は捉えたる後、
然るべきお知らせをいただけるということでございますか?」
とやや不安なれど、逆に考えれば無謀なことをしなくても良い事にもなる。
「ここは一つ考えようでございますねぇ」
と、十兵衛の思いとは裏腹に悲観的ではない。
「判りました、明日からの見張り早めてください、
お上の沙汰を待つのが賢明と存じます」
ときっぱり心を決めた様子で、さすがにこの辺りは文官の素養を伺わせる。
「へ~ぇそんなもんですかねぇ」
十兵衛は少々不満が残るものの、当事者の文太郎がそう言うのだから
それ以上口を挟みこともないと腹を決めた。
「長谷川様、奴らの狙いがどこなのか、それを掴めておりません、
そこんところがちょいと」
と大滝の五郎蔵が平蔵を訪ねて菊川町役宅に現れた。
「そいつよ、俺もなそいつがどうも引っかかる、
その後の奴らの動きは山田より聞いておるが、
それらしき動きは今のところわからぬという話だなぁ」
「はい まったくその通りでございます、ただ・・・・・」
「うんっ ただ・・どうした?」
「はい いつも出かけるときは三人連れ、こいつを微行(つけ)た限りでは
これといった決め場所も定かでなく、何故か決まっていつもの道をいつものように、
そこんところが私には・・・・・」
「うむ 腑に落ちねぇと言うわけだな」
平蔵煙管に刻みを詰めながら頭を少しもたげる。
ギラギラとした日差しが降り注ぐ。
五郎蔵は木陰に身をおいてその暑さを避けている。
「五郎蔵!そ奴らどこを通るんだえ?」
何かが働いたのか平蔵はそう五郎蔵に問いかけた。
「はい ヤサから鳥越町を進み、三谷橋をわたって山谷堀沿いに進み、
山之宿町から花川戸を通って浅草寺境内で茶店により、
しばらくして元の道を戻ります、
ただ帰り道は花川戸の川べりを流して新鳥越町まで戻ってきます」
「ふ~ん ちょいと可怪しかねぇか?一つは浅草寺の茶店、
おそらくはここでつないでも人目には却ってつきにくい、
もう一つ、これはおそらくこの辺りに目星をつけているところがあると見てよかろう」
「はっ?狙い目がこの辺りとおっしゃられますので?」
五郎蔵、少々合点がいっていないふうで
「花川戸を表裏と道筋を変えると申したな・・・・・・」
「あっ!」
「うん さすがに大瀧の五郎蔵だぁ、読めたと見えるな」
「長谷川様!奴らの狙いは花川戸・・・・・」
「そういう事だなぁ」
平蔵煙管の雁首を軽く手で打ってぷいっと吹いて収める。
「早速おまさをその辺りに手配りいたせ、
どこか奴らの狙いそうな大店の有無や規模なぞ、ひと通りのことが知りたい
それから、山谷通いの猪牙以外に川筋に留船が潜んでいないか調べてくれ、
どうも引っかかっていけねぇ」
平蔵立膝で袖に渋扇を当てて風を送りながら目を閉じ、何かを瞑想する様子であった。
「おまかせくださいやし」
五郎蔵はひと声かけて裏の枝折り戸をくぐり、日差しの強い江戸の町に戻っていった。
その夜菊川町の役宅に五郎蔵が再び現れた。
「おお 待っていたぞ、で 手配は終えたな?その後の首尾は如何であった」
と渋扇をゆらゆらとくゆらせながら口元が穏やかである。
「はい 長谷川様の仰るとおり、山谷堀の葦叢の中に小舟が二艘隠されておりやした」
「で、その船の持ち主は判っておるのか?」
「そのところまでは今のところ・・・ですが、こいつを仕込んでいるとなると」
「そうさなぁ 押込みは近いと想わねばなるまい、
問題はその押し込み先が未だ判らぬ」
「おまさはなにか探って帰えりましたか?」
そこへおまさが戻ってきた。
「おう おまさ、遅くまでご苦労であった、
今ちょうど五郎蔵とお前ぇの事を話していたんだ、
どうだぃどっちかの耳が痒くはねぇかぁ、あははははは」
「長谷川様 又そのように・・・・・・」
と言いながら五郎蔵の方をチラっと見やる。
五郎蔵、ばつが悪そうに頭を掻いてごまかす。
「で、如何であった?」
「それが長谷川様、花川戸には豪商が立ち並んでおりまして、
とても絞りきれるものではございません、
お前さんの方からは何もつかめていないのかね・・・・・」
お五郎蔵を見やるおまさであった。
「うむ よし、未だ山田より繋ぎがないということは、
本日は何事も動きがねぇと見てよかろう、
ご苦労であった、身体を休めてくれ、ああ それから五郎蔵、
すまぬがあすからは浅草寺での奴らの動きに少しでも変わったことがねぇか気配りを頼むぜ」
「承知いたしました」
五郎蔵夫婦は舟形の宗平が待つ本所相生町の長屋へと屋敷を下がっていった。
翌朝五郎蔵は浅草寺境内の茶店に陣を張る、傍におまさが付いている。
目的の相手がいつも立ち寄る茶店は決まっている、
そのすぐ横に後ろ向きに五郎蔵、
おまさが正面を向いて茶と団子を横において待ち構えているとも知らず、
いつもの三人連れは腰を据えた。
茶を飲んでいると下働きの形をした女が立ち寄って浪人たちに背中を向けて座った。
五郎蔵から見ると真正面である。
女は茶を一杯頼み、手早く飲むと
「置いときますよ」
と声をかけて立ち去ろうとして、浪人の投げ出している足につまづきそうになり
「あっ ごめんなさいまし!」
と声をかけた。
浪人は
「おっと 危ねぇ!」
と手を添えるように女を支える風を見せたその瞬間をさすがに五郎蔵見逃さなかった
(繋ぎやがった)おまさに目配せした。
おまさは茶代を置いてその女の後をつけていった。
すぐ後を追うように浪人たちが立ち上がったので、
五郎蔵も茶代を置いて少し後を油断なく微行を始めた、
これはおまさに何かが起こった時の用心を平蔵から命じられていたからである。
が、何事も無く浪人たちはいつものように川沿いに歩を進め、
このたびは少し念をいれているのかゆっくりとした足取りであった。
船着場の一つに小舟が繋がれており船頭が忙しげに働いていた。
その男と二言三言言葉をかわして、又そのままいつもの帰路についた。
五郎蔵はその場に残り、先ほどの船頭に声をかけた。
「忙しそうで結構じゃァねえか、いつもそんなに忙しいのかい?」
船頭は
「今日はまだそれほどでも無いがね、
明後日荷が届くんでこの辺りの小舟を寄せておかねぇといけねぇもんで」
と汗を拭きながら真っ白に見る陽を見上げた。
五郎蔵がその船着場のもやい場の表札を見ると㋾と書かれてあった。
菊川町の平蔵が待つ役宅に二人揃って現れたのはその夕刻であった。
「おいおまさ、五郎蔵お前ぇ達の顔に目星がついたと書いてあるようだがどうだ?」
「あっ これは・・・・・恐れいります、
長谷川様の眼はあっしらの背中にでも付いているのでございましょうか?まったく」
・・・と頭を掻く。
「で、 どうであった?」
「はい 浅草寺で待っておりますと、いつもの様に三人でやって来ましたが、
今日は繋ぎと見える女が加わりました。
おまさがその後女をつけていきましたので、あっしは残った奴らの後をついていきました。
すると、川沿いに歩いた中程に小舟が止まっておりまして、
その男と何やら話しておりましたが、そのまま帰って行きましたので、
おそらく変わりはねぇと踏んで、その船頭に話を向けてみましたら
明後日に荷物が入るんで船の片付けをしているとか・・・・・・
みれば台場に㋾と札がかかっておりましたので」
「長谷川様、その㋾は生糸の大店尾張屋だと思います。
私が後をついて行きました女が戻ったのがその尾張屋でございましたので」
「でかしたぞ おい こいつぁ上出来だぁ間違いなく奴らの狙いはそこであろう、
大凡(おおよそ)日にちもこれで読めた!
いやそれにしても暑い中をよくやってくれたありがてぇ、さぁゆっくり休むが良い、
誰か!あいつを持ってきてくれ!」
と奥に向かって叫んだ。
程なくして盆に盛られたスイカが運ばれてきた。
「おい ちょうど冷えておる頃だ、さぁやってくれ、俺も一緒に馳走になるかぁ」
平蔵は二人を縁側に招き、自分も座り込んでスイカに手を伸ばした。
「うん 旨い!!」
爽やかな夏の香りが甘く三人の口元にほころんだ。
「あとは山田の報告を待つのみ!詰めておる者達もさぞかし難儀であろうよ、
御役目とはいえ動くわけにもゆかず、さりとて目を離すわけにもいかぬ、
まこときついお務めよ・・・・・」
平蔵はこの仕事の矛盾さを誰よりもよく知っていた。
「しかし長谷川様、それ以上に長谷川様はさらにご苦労をなさっておられるのを
皆よく存じております」
と、平蔵の心中を察している。
小柳安五郎と交代した山田市太郎が戻ってきた。
「おお 山田ご苦労ご苦労、さぁお前もこっちに来て冷えたスイカを食ってくれ、
で 変わりはなかったろうな?」
「はい 今日のところは別に何の動きもございませんでした、
ただ夕方後ろの方で何やら動いてはおりましたが、別に人の増員もなく、
まぁいつもと変わりございませんでした」
「五郎蔵お前はどう見る?」
「はい おそらく船の確認とか塩梅を確かめたのではないかと・・・・・」
「俺もそう思う、小柳、明日そちは奴らに気取られぬよう、小舟の場所とを確認し、
明後日夕刻を過ぎたら小柳とその小舟を解き放て、
良いか、奴らが休む前に確かめに出向くはず、その後での仕事となる、良いな判ったな!」
「ははっ!」
山田市太郎は平蔵の言葉の奥にためらいのないことを知った。
翌日は何事も無く無事に終わり、いよいよ決行当日を迎えたが、
いつものとおりに過ぎていった。
夕方近く平蔵は全員を招集した。
「一同!連日の昼夜を問わぬ張り込みにさぞや疲れておろう、
だが押込みは今夜と見た、今宵を逃すと又どのような災いを引き起こすやも知れぬ、
相手は音無(おね)の喜三郎、音もなく近づき全員皆殺しにするという兇賊、皆心して掛かれ。
佐嶋を元に一隊は花川戸の裏手の船着場に網を張れ、
おそらくそこでの合流はないと想われるが、万が一の時の手配りと想え。
残りの一隊は新鳥越町の百姓屋の山谷堀に網を張る、
必ず奴らは小舟で仕掛けてくるはずだ。
夜明けまでには決着を見るであろう、それまでは動きを気取られてはならぬ、よいな!」
こうして、網は確実に張り巡らされていった。
両手の掌から水が漏れるの例えがあることを平蔵は身にしみて知っていたのである。
その夜更け、平蔵の見込み通り新鳥越町の山谷堀川筋に百姓屋から十数名の陰が近づいてきた。
その時、
「お頭!船が見当たりやせん!」
と驚きの声が上がった。
「何だとぉ!そんな馬鹿な話があるわけがない!
昨日遅く見まわった時には確かに隠してあったのを見届けやした」
と誰かが叫んだ。
「その通り、昨日では確かにあった、だが今朝方船は流れちまった、
誠に気の毒なことをしたなぁ」
「誰だ!貴様は!」
狼狽しながらも鋭い声が暗闇に響いた。
「俺だよ音無(おね)の喜三郎、火付盗賊改方長谷川平蔵だよぉ」
「何だとぉ 野郎何しやがった!」
その言葉の終わらない内に御用提灯や高張提灯が一斉に掲げられ
、山谷堀の川面を明るく照らした。
斬り合いは四半時(15分)で終わった。
逃げ延びた残党は百姓屋で待ち構えていた木村忠吾達によって取り押さえられたのである。
捕らえられた一党は番屋で予め取り調べを受け、
それぞれの検分内容に従って大番屋に連れて行かれた者もあった。
首領の音無(おね)の喜三郎と浪人板垣十四郎は番屋で平蔵の厳しい詮議を受けていた。
そこへ山田市太郎によって平蔵からの言付けを聞いた崎森良太郎と浜崎十兵衛が駆けつけた。
「長谷川様!板垣十四郎が捕らえられたと伺い駆けつけてまいりました」
「おう これは朝早くから相済まぬ、
いやなに 山田にそこ元二人の話は聞いており申したゆえに
捕縛いたしたことをお伝えしたまでのこと、
崎森とか申されたな?敵討はご法多と存じておろう、
したがってそうさせてやりたいがそれはならぬ、許せよ、
だがなぁこ奴はわしが間違いなく千寿骨ケ原で晒してくれよう、
それだけは約束いたす、だからなぁもうここいらでこのことはすっぱり忘れ
新しき生き方を見つけるのもよいと思うがのぉ、
その二本差は何を繋ぎ止めておるのだえ?
新しい生き方の橋架けをしているのではないかえ?
小難しい生き方よりも己れの心を解き放って穏やかな生き方もあるってことを、
こころのままに生きるってぇ事は、何んにも増してかけがえのねぇものだと想うがなぁ。
のう浜崎殿」
「いやっ これは一本とられましたなぁあははははは、
私はこれしか才覚が無き故に今さらどうにも浮きませぬが、良太郎はまだ若い!
それにヤットウよりも才覚をお持ちだ、まさに長谷川様の仰る通り」
こうしてこの事件は落着を見た。
「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
本所深川北川町万徳院前に居を構える(唐物屋ええもんや)
左衛門、深川界隈に集まる材木商のお大尽相手に商売繁盛の様子であった。
「ちょいと出てくるよ、後を頼みましたよ」
気楽な格好で小脇に何やら包みを抱えて出て行った。
「今日はどちらかねぇ」
と女房のお福が誰となく問いかけた。
「さぁいつものことでございますが、
私共には何もおっしゃいませんので・・・・・・
ただ何やら箱物を抱えてお出かけになりましたから、
いつもの一草庵ではございませんかねぇ」
「一草庵って言うとあの目利きをなさる茶人の古田一閑先生かい?」
「だと思いますよ、いつものことですから」
その日の夕刻左衛門はホクホク顔で戻ってきた。
「これお福や、一閑先生が箱書きを書いてくださったよ、
まぁ少々金子はいったがね、なんでも唐物井戸茶椀とかで、
中々の名物だそうだよ」
とえびす顔で箱書きを見せた。
真新しい桐の箱に収められたその茶碗はなるほど本物だけに名物であった。
実はこの茶碗、さる大名家より質草に左衛門が引き取った物、
したがって真贋の方は間違いない。
左衛門はその茶碗を古びた箱に移している。
「旦那様、どうして別の箱に入れなおすのでございますか?」
と怪訝な顔で主の左衛門を見た。
「ああ こいつかね、これが元々入っていた箱さ」
「えっ ではこの新しい箱書きの箱はどうなさるのでございます?」
腑に落ちないお福はいぶかしそうな顔で主の返事を待った。
「この茶碗はお預かりしているもの、
だからこいつを売る訳にはいかないだろう?そこであたしゃぁ考えたのさ、
この新しい箱を茶渋で染めて、古く見せかけその中に
よく似た物を入れてどこかの欲のくらんだ金持ちに高く売りつけるのさ、
誰にもわかりゃァしないよこんなこと、
何しろ一閑先生が箱書きを描いてくださっているんだからね、
これは鬼に金棒ってもんだよ」
と声を潜めてお福に話した。
「本当に旦那様はこういうことには頭がよく回るのでございますねぇ」
半ば呆れながら感心するお福であった。
この左衛門の手口は特に茶道具においてはよく見られたやり方であった。
「豊太閤さまなぞは刀剣鑑定家本阿弥家に強要して、
無名の技物に「正宗」と折り紙をつけさせ褒美として
与えたと言うではありませんか、たかが茶道具ですよ・・・・・」
左衛門は軽口を言いながら自分のしている事を正当化しようとしていた。
その数日後左衛門は材木商の橘屋にでかけた。
この橘屋は山師上がりで、江戸の大火で一山当て、
にわかお大尽となったいわば成り上がり者、
それだけに金は唸るほどあるが、
その使い道も知らなくて、したがって当然のことながら
骨董などの目利きは全くないものだから、骨董屋の言いなりである。
そこをつけ込んでのハッタリ家業がこの左衛門の本業であった。
「橘屋のお大尽様、この度珍しい茶道具が手にはいりましたので
、このお屋敷にもふさわしいかとお持ちいたしました。
箱書きもこの通り一閑先生が目利きをして下さった折り紙つきのもの、
いかがでございましょうか?」
と、幾重にも包んだ風呂敷包みを解いてさも貴重な風に差し出した。
これは唐物の井戸茶碗・・・・・中々手に入らない名物でございますよ」
と勿体をつける。
「それはそれは左衛門さん、また良い物をお世話いただきありがとうございます。
何しろ私はそっちの方はさっぱり目利きが効きません、
材木ならばなんでも判るのですが、銅も骨董となると・・・・・
左衛門さんのお陰で良い物が手に入り私も嬉しゅうございますよ」
と手放しで喜んでいる。
「また 何かお薦めの物が出てきましたら、まずは私に回してくださいよ、
お金に糸目はつけませんから・・・・」
「はいはい 橘屋さんにお買い上げいただければ、
どこにご紹介するよりも安心でございますからなぁ」
と左衛門は揉み手を擦ってえびす顔である。
左衛門は家路を急ぎながら「あんな偽物茶碗が百両で売れるとは、
こっちは箱書きで2両使っただけ坊主丸儲けとはこのことだねぇ」
と独り合点でほくそ笑みながら本所深川の「ええもんや」ののれんをくぐった。
「おかえりなさいませ」出迎えたのは女房のお福
「はいただいま帰りましたよ」
その亭主のえびす顔を一目見て
「旦那様さぞや良いことがおありになったのでございましょうね」
と上目遣いに左衛門のしたり顔を見上げた。
「上首尾だったよ、何しろあのお大尽はこんなものには全くの素人、
そこがつけ目でこちらはよい思いをさせてもらっているんだからねぇ、あはははははは」
「まぁ旦那様はお人の悪い・・・・・」
「そのお人の悪さのお陰で贅沢しているお前さんは一体何なんだろうねぇ」
「まっ 嫌な人!うふふふふ」
ところがそこから事件が起こった。
橘屋が出入りの旗本山名家に大仕事を請け負う礼にと
「これは大変珍しい唐物の茶碗でございます」
と手土産に持参した。
「なんと、唐物とな!それはまた貴重なものを・・・・・・
どれどれ、・・・・・・ふむ 一閑の箱書きも付いておるのう、
これはまた我家の自慢の種が増えたという物、
よしよし!今後共よろしく頼むぞ橘屋!」
「恐れいります!」
こうして唐物の偽物は山名家に嫁入りを果たした。
これで収まっていれば何事もなかった、
だが事はそうおもわく通りに運ばないこともある。
城中でたまたま茶道具の自慢話に花が咲き、
その名物を観たいと言う話にまで進んでしまった。
そこはそれ、自慢したいがための暇つぶし談義、
早速お披露目の日取りも決まり、意気揚々と屋敷に戻った。
翌日その茶碗を出す前にじっくり眺めて、
相手の驚く顔を楽しもうと奥女中に命じて茶箱を持ってこさせた。
貴重な品であるために奥女中が蔵から持ち出すのを若い武士が警護していた。
上屋敷の長い廊下の角を曲がろうとした時
反対側からいきなり猫が飛び出たからたまらない
「きゃっ」
と悲鳴を上げて思わず後ろにのけぞったと同時に、
後ろからついてきていた若侍にぶつかった、
はずみで捧げていた箱を取り落としてしまった。
鈍い音がして木箱は廊下に転がった。
ブルブル震える手で包みを解いた箱のなかで無残に茶碗が割れていた・・・・・・
「榊様・・・・・・」
「みつどの・・・・・・」
ふたりとも事の重大さから言葉を見失っている。
「とにかく殿にご報告を致さねば」・・・・・・・
割れた茶碗をとりあえず元に戻し、主の前に運び込んだ。
「おう 待っておったぞ!」
自慢の茶碗をお披露目することになり、
鼻も一段と高くなるは必定の後日の茶会である。
早速包みを解き、中を検めた山名影房は、変わり果てた茶碗の姿に
動転したのは言うまでもない。
「何と致した!」
「申し訳もござりませぬ、運んでまいります途中に陰から急に猫が飛び出し、
そのはずみで・・・・」
「取り落としたということじゃな!」
壊れた茶碗のかわらけを掴んで若侍の顔に投げつけた。
若侍の額が切れ、鮮血が鼻筋を通って口元から顎へと・・・・・・・
「申し訳もござりませぬ」
と奥女中のみつが震えながら小さな声で返答した。
「殿!この度の事はいかにしても回避できぬ物にございます」
と、これまた頭を擦りつけての詫びを述べたが、
逆上してしまった頭を冷やす方法などあろうはずもない。
「たわけ!言い訳をしても茶碗は元には戻らぬわ、
此度の茶会をどう申し開きできようか、
儂の恥を天下に晒すことになるばかりではない、
嘘つき呼ばわりされても身の証しようもない!
手打ちに致してくれる!そこへなおれ!」
言うが早いか立ち上がり、
刀掛けに収めてあった大刀を鞘走らせ奥女中に詰め寄った。
「殿!しばしお待ちくださりませ!」
止めに入った若侍を足蹴に飛ばし、奥女中の襟上をひっつかんで廊下に引きずり出し
一気に切り落とした。
だが腕に覚えもない太平楽なこの時代、
一太刀で切り落とせるほどの技を極める大名旗本など皆無である、
「ぎゃっ」
と叫ぶ断末魔の声が更に油に火を注ぐ結果となり、
幾度も幾度も崩れている奥女中の首に斬りかかった。
廊下はすでに血の海と化し、血糊に足を取られて山名影房はその場に転げ、
放心したように我が身の犯した惨状を眺めていた。
「殿・・・・・・」
一瞬の出来事に言葉は続かず若侍は放心状態の主を見た。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた家老に
「良きに計らえ」
と一言残してその場を逃げ去るように引き込んでしまった。
「ええい やんごとなき事柄にてお手打ちに相成ったと親元へ申し伝えよ、
早ぉこのむくろを始末致さぬか!」
家老は駆けつけた侍共にそう下知して、さっさと引っ込んでしまった。
事はすべて隠密裏に運ばれたが、このままでは事は済まない、
何しろお披露目に期日は迫っているのであるから・・・・・・
「橘屋 此度の唐物、殿が誠にお気に召され、
その話からどうしてもその唐物を望みたいと申される御仁があり、
殿も引くに引けず約定致してしまわれた。
何とかならぬか?多少の無理はこの度においては致し方ない、
もう一つ唐物を探してはくれまいか、無理を承知での頼みじゃ、
これこの通り」・・・・・
橘屋としてもこれを断るわけにはいかず、頭を抱えた。
「判りました何とか手を打ってみましょう」
と引き受けたものの、そう簡単に唐物が手に入るとも思えない。
だが、考えていても何も始まらないとにかく
(ええもんや)の左衛門さんに相談するしかないと、出かけてきた。
話を聞いた左衛門(こいつぁまた柳の下に二匹目のドジョウがおよいでいたわい)
と腹の底でにんまり。
「それはそれはまた難儀なお話で、・・・・・が、
まぁ私もこの商いでおまんまを頂いておりますからには、
無碍にお断りするのも心が痛みます、
殊に橘屋さんのお話とあらばなおさらでございます、
よろしゅうございます、この左衛門一肌脱がせていただきます」
と大見得を切った。
とは言うものの、同じ事を一閑先生にお願いしたのではばれてしまう、
うん 今回は別のお師匠さんにお願いするしかないなぁ。
翌日左衛門は再び例の品物を抱えて店を出、日本橋は品川町の笠原道雪を尋ねた。
うまい具合に道雪は在宅で、持ち込んだ唐物を一目見て
「ほう これはまた中々の物・・・・」
と目利き両の五両が効いたのか、ひと目で箱書きを引き受けた。
そそくさと店に戻った左衛門、早速箱の細工にとりかかった。
ススや泥を混ぜあわせて茶渋に混ぜ込み、
これを箱全体に摺りこんで内側は少し薄めた物を塗り込めるという
念の入った拵えにした。
早速翌日橘屋に持ち込み
「これは私の仲間内で大切にしていたものでございますが、訳を話し
無理をお願いして手にはいりましたもので、
先の物より少々値ははりましたが二つとない逸品物で、
まぁお買い得とは存じます」
と相手の足元を読んでふっかけた。
「で、如何ほどご用意致しましょう」
と橘屋が中身を検めながら。
「左様でございますね、このご無理な話を引き取ってくださった為に、
少々高く付いてしまいましたので・・・・」
と勿体をつける。
「重々判っております、ご無理を願いしたのはこちらの都合、
どうぞおっしゃってくださいな」
「では・・・・・二百両お願い出来ましたら
、私もあちら様にそれで収めさせていただきます」
「それはまた、それでは左衛門さんの儲けが・・・・・」
「いやぁ何、困っているときはお互い様でございます、
それにいつも橘屋さんにはご贔屓に預かり、お陰であたしの商売も
成り立っておりますので、このたびは私の橋かけ料はよろしゅうございます」
と恩を売るのも商売上手。
「誠に誠にありがとうございます、これで私の肩の荷もおりました、
ありがとうございます」
橘屋は自分の役目が無事勤められたことに胸をなでおろしている。
まぁこのような裏の作業もあって、唐物のお披露目は無事に終わったのである。
手打ちにあった奥女中のおみつの親元では、
粗相の上のお手打ちではどうすることも出来ず、
泣き寝入りのまま時は流れようとしていた。
老中への届けも
「粗相の上のやむなき手打ち」
ということで一件落着。
それから二月程の時の流れがあった。
本所深川万徳院まえの(唐物屋ええもんや)
左衛門の店に盗賊が入ったと届けがあった。
盗まれたものは古道具、それも高価なものばかりを狙ったもので、
日常お客の前に持ち出すためにさほど厳重な管理もしていなかった、
そこがつけ目であったようである。
問題はそこであった、盗品一覧の中に例の唐物が含まれていたのである。
当然本物であるから盗まれるのは当然のこと、
だが盗まれた左衛門にしてみれば、まだ請け出しが済んでいない預かり物、
これを紛失したのでは相手によっては首も飛びかねない。
「後生でございますから、お願い致します、
あの唐物を何とか無事に取り戻してくださいませ」
と奉行所に泣きついてきたという話しである。
早速失物御吟味街触(うせものごぎんみまちふれ=盗品手配書)が配られた。
その五日後、下谷の仁王門町にある道具屋から
「それらしい品物を持ち込まれた」
と番屋に届けがあった。請人は道具屋(さかい屋)である。
早速役人が左衛門を伴い取り調べに当たった結果、
盗まれた唐物に間違いないことが判明、
物が物だけに即日買い取りは難しいと訳を話して
後日代価を受け取りに来るように話をつけてあるという。
そこで南町奉行所では鉄砲町の文治郎が網をはることとなった。
清水御門前の火付盗賊改方にご機嫌伺いに立ち寄った文治郎からこの話を聞いて
「古道具をもっぱらの盗っ人がおるとはのぉ、
いやこいつはうかつ!左程に旨味があるものなのかえ?」
「それが長谷川様、こいつが中々足がつきにくい、
おまけに曰く因縁の物ほど高値を呼ぶ、
まぁこんなところで物によってては1つ2つで百や二百になるものも・・・・・」
「だが、そのような値では引き取るまい」
「はい おっしゃる通りでございますが、
そこそこの値で手が打たれます、後は売り方一つで、
そのような時は密かに一人で喜んでいるような旦那衆に
能書きをつけて売りさばくようで、外に出てくることがございません」
「なるほどなぁ 上手ぇ所に目をつけるもんだ、で どうした?」
「はい あっし一人では少々心細く、どなたかすけて下さるお方でもと、
実はこうして・・・・・」
「あい判った! 誰かある!忠吾を呼べ」
「おかしら 及びでございますか」
と木村忠吾が控えた。
「おお 忠吾御役目大義 ところでなぁこの文治郎と
ちょいと張り込みをやってはくれぬか?
お前も・・・・・・」
「どうせ暇だろうからとおっしゃりたいのでございましょう」
と少々お冠の様子である。
「おい忠吾そなた 近頃中々冴えておるではないか、あはあはははは」
「おかしら それはお戯れでございましょうか」
「ん でないでないぞぉ忠吾、そなたでなくばやれぬ仕事とおもうたが・・・・・
駄目とあらばぁ・・・・」
「参りまする、おかしらがそのように思ってくださるのならば、
この木村忠吾身命にとしても参ります」
と乗せられてしまった。
だが、これが想わぬ方向に流れていったから面白いと言えよう。
近場の茶屋で朝から団子など食いながら見張っていた。
向かいの道具屋に丁稚姿の文治郎が前垂れを外す合図を送ってよこした。
出てきたのは四十がらみの優男、主との打ち合わせ通り
「今、先様と交渉に入っておりますので、
少しでも高値の方がよろしいかと存じますのでどうかもう二~三日、
時をお貸し下さいませ」
と帰したのである。
当然高値のほうが良いに決まっているから
「それじゃぁまた」
と戻っていった。
それを微行するのが忠吾の役目。
その日遅く忠吾が役宅に戻ってきた。
「お頭木村忠吾ただいま帰りました」
と挨拶に来た。
「おお 忠ちゃんご苦労」
平蔵はニヤニヤ笑いながら忠吾を迎えた。
「で如何であった?」
忠吾の怪しげな笑顔から事の首尾がうまく行ったことを
察知しての平蔵の対応である。
「それがでございますおかしら、
奴の居場所は下谷三ノ輪町浄閑寺裏でございました、
近所で聞きこみました所、どうもこっちが専門のようで、
向かいの長屋の婆が申しますに、近所付き合いは全くなく、
どうやら一人者のようで時々朝帰りがあるとか、
また通りがかりに目にしたところ一人者には似つかわしくない
壺の入った箱などが見えたとか」
「ふむ なるほどそいつは怪しいのう、よし早速其奴のねぐらを探索致し、
場合によっては即座にひっくくれ!」
「判りました、お任せ下さい、この木村忠吾必ずや奴めを
ひっ捕らえてご覧に入れます」
と大乗り気である。
「おい 忠吾!表には出るなよ盗賊改めは此度は檜舞台ではないからな、
それと文治郎を忘れるなよ」
と釘を刺した。
翌日忠吾は文治郎を伴って下谷三ノ輪の浄閑寺裏手に向かった。
近所の聞き込みではどうやら留守ではなさそうであった。
忠吾は文治郎に命じて、近所の者をそっと家から外に出し、
万が一の時の危険を回避する措置をとった。
やがて文治郎が安全確認の合図を送ってきた。
「よし踏み込め!」
忠吾は文治郎に手柄を譲り自分は後方を固めた。
いきなりの岡っ引きの踏み込みに動揺したのか、
手当たりしだいにその周りのものを投げつけながら身をのがそうとあらがった。
だが所詮小商いの盗っ人、文治郎の十手に打ちのめされ捕縛された。
こうしてこの事件は南町奉行所の扱いとなった。
盗っ人の又吉の家にあった盗品しらべ書きと
唐物屋ええもんや左衛門の商品つき合わせで驚くことが判明した。
「なんと おかしら、あの左衛門の店の奥に同じような茶碗が幾つもありました。
主に厳しく確かめましたる所、いずれもが贓物
(ぞうぶつ=まがいもの)でございました」
「さもあらん 故買屋をやっておったのであろうよ、まぁきついお咎めは免れまい」
「それにしてもなんでまたこのようなことになったのでございましょうか?」
忠吾いささか気になる様子に。
「もともと物に価値観とか申す値はないもの、
いずれも適度な値を付けられ買われて遣われる、
それが道具というものよ、したがな、千の利休がこいつを変えた。
「利休?あの茶道の宗家と呼ばれている・・・・・」
「その通りよ、利休は目利きが金儲けになると気づいたのよ、
安価な物にも箱書き(鑑定書)をつければ、皆こぞって歓びこれを買い漁る、
俗に売僧(まいす)と申すやつだな。
我が物を利休に目利きして貰えば箔が付く、
そこで諸大名から商人まで大層な繁盛のようであったそうな、
それらのつながりから幾多の諸大名とも縁が出来
これらの大名から豊太閤さまのご意見を知る足がかりにと近づく者もおろう、
多くの言われざる情報を取るためにもこのつながりは
増していったと想わねばなるまい。
キリシタン大名の大友宗麟は大坂城を訪れた際、豊臣秀長から
「公儀のことは身共に、内々の事は宗易(利休)にお聞きなされと言われたそうじゃ」
「それはまことで!? 利休とは何と申しますか怪物でございますなぁ」
「そうだのう ここ一つで世の中を裏から動かす、
こいつはどうして中々出来るものではないわな、
何処の時代も政は裏で操るのが本道、
こうして眺めればそれもうなずけると言うものよ、
のう忠吾、たかが土くれ茶碗一つで人の生命までもやりとりするとは、
わしにはよく判らぬ、わははははは」
と平蔵は口元をさみしげに歪めた。
どうだ忠吾、久しぶりに下谷にでも出かけてみるか
、お前も此度は苦労であったが手柄にはならぬ、
まぁその辺りの褒美と想うて付いて参れ」
「えっ 下谷・・・・・まさか・・・・・」
おいおい気を回すんじゃぁねぇ提灯店は伊三次の持ち場、
そこを荒らしちゃぁお前ぇ筋が通るめぇ?」
「ご尤もでございますはい、ではどちらに?」
「何!池之端当たりまで足を伸ばそう」
「ははっ お言葉のままに」
とすでに忠吾は口元が怪しい。
不忍池南にある池之端仲町にある料理屋「繁や」二階座敷に上がった平蔵と忠吾、
「まさに驚きでございますなぁ、このようなところがあろうとは・・・・・」
忠吾いささか驚いた様子である。
遠くに弁財天を見ながら、二階から見下ろす不忍池には
蓮の花が今を盛りと紅白咲き乱れ艶やかな装いを見せていた。
「おう 来たか来たか!忠吾、こいつは蓮飯と言うてな、
巻葉を細かく刻み塩少々振りかけたもち米を炊きあげて
蓮の真新しい荷葉に包み置き、香りを移して楽しむ風流よ」
「はぁ~ 左様でございますか、たかが蓮の葉一枚に・・・・・」
「まぁお前ぇにゃぁ提灯店の方が良かったかも知れぬがのう」
「あっ またそれを持ちだされまするか」
と忠吾。
この蓮飯はな、盂蘭盆(うらぼん)にもてなす物だそうな、
十三日ともなれば夕方には門口でおがら(皮を剥いだ麻の茎)を焚いて迎え火と呼び、
十六日には送り火としておる。
十四日にはナスときゅうりの胡麻和えなぞ供え、
十五日には蓮飯や蓮粥、こいつがまた旨い、
米に一晩水につけた蓮の実の乾燥したものと塩、
それに水たったこれだけのものだがこいつがまた香りよく
、蓮の実の歯ごたえもあり中々に旨ぇもんだぜ」
「はぁそんなものでござりましょうか、私はどちらかと申せばこのぉ
少々こってりとした脂の乗ったもののほうが」・・・・・
「そうさのう お前ぇの出入りする茶屋は皆脂が乗っておるそうだからなぁ、わはははは」
「あれっ やはりそこに行きますか、とほほほ」
と忠吾かたなしである。
「忠吾蓮の葉商いと申すものを存じておるか?」
「面目次第も・・・・・」
「うむ まぁそうでろう、わしのように放蕩無頼を過ごした者には
当たり前のものであったがなぁ。
お前ぇもよく存じておろう蓮っ葉(はすっぱ)な女なぞは・・・・・」
「またまた そこでございますか、何卒ご勘弁をくださりませ」
忠吾泣きっ面の体である。
「こいつはなぁ蓮葉女と申してな、
それ!蓮の葉の上で露玉が風に揺れるたびにころころころころ転がるであろう?
そこから落ち着きのない者のことを言ったんだな、
決してお前ぇの事を言うたのではないぞあっはっは」
朝市や縁日に蓮の葉の上に季節のものや旬の物を置いて
葉を皿代わりに売っておる、特に精霊会(しょうりょうえ=盂蘭盆)
こいつを蓮の葉商きないと呼ぶんだがな、
こいつは季節ものだけに足が速い、すぐに味が落ちる、
そこでキワモノとも呼ばれやがてそれがまがい物や偽物と言う意味になったわけだ。
そこから蓮荷買いと呼ばれる商いが生まれた、
いうなれば偽物買、此度の唐物屋左衛門もその一人よ、
一組の名物ものがある、こいつを箱と品物に分けて、
中身の品物を確たるお方に見せて目利きをしてもらう、
当然ながら本物だから本物であるという目利きの証
すなわちこれを箱書きというが、そいつが出来る、
そこに似たものを紛れ込ませて、
あまり目利きの出来ぬ亡者どもに高く売りつける。
亡者どもは人目に晒したくねぇものだから、
密かに己の部屋で悦に入っておる、とまぁこういう筋書きよ。
こいつを幾度か繰り返し、そのたびに目利きのものを変えれば、
元の中身は誰も判らぬままだ」
「それがこの度は盗賊に入られて・・・・・・と いうことでございますか」
忠吾ひとしきり関心の体。
「おう やっとおめざめかえ?」
平蔵はにやにや忠吾を眺めている。
「なんともこの美しい蓮の花にもそのような含みがあったとは・・・・・
ははははは、木村忠吾うかつでござりますなぁお頭ぁ」
目の前には艶やかに蓮の色香が饗宴している、
平蔵は盃をゆっくりと空けながら、欲が生み出した
この目利きという生業を憐れむように想っていた。
あるがまま・・・・・
それがこのようにただ美しいだけでおれるではないか、
さわやかな夕暮れの風にハラハラと蓮の花が溢れるのを飽きもせず眺めていた。
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「はい 何しろ品物は新しい内が何より、
それで安いのが手前どもの信条でございますから」
腰を低くして愛想をするのは「なんでも屋」の主、幸兵衛
このなんでも屋、まさに何でもありときている。
特に日々の暮らしに必要なものはほとんどこの店1軒でまかなえるほどである。
「近頃長屋の近くに出来やしたお店が評判でござんして」
と粂八
「ほう、そいつは一体ぇどういうお店なんだえ」
「何しろその日その日に入り用の野菜・味噌・醤油・酒・砂糖・米・ヒモノ
・端布・小間物なんぞが揃っておりやして、野菜なんぞは近くの百姓と
契約しておりやすそうで、そのために間を通さないので安く出来るとか・・・・・」
「なるほど そいつぁ考ぇたものだなぁ」
平蔵はこの新しい商いのやり方を面白いと思った。
「だがなぁ、そうなると仲買や問屋が黙っちゃぁいねぇんじゃぁねえのかい?」
「そこなんでございやすよ、何でも製造元に直接掛けあって現金で仕入れるもんで、
先方も金回りがよく助かるということのようでございやす。
まぁ出回る商品の数が知れておりやすので大店あたりは気にもならねぇ
というのが本音のようで。
主は五十過ぎのいかにも商人ふう。
奉公人は番頭と想える四十代の男、それに小間物など女子衆を相手の下女、
他に小僧が二人。
それにしては店構えもそこそこの広さで、
品物も分別がきっちりとなされて選びやすく、
自分の手にとって品物を確かめた上で納得して買い求められるところが
受けているようでございやす」。
押し売り掛売一切なしの毎日ニコニコ現金払いと申しておりやす」。
「なるほどなるほど、聞けば聞くほど面白ぇ・・・・・」
平蔵は腕組みしながら粂八を振り返った。
「なぁ粂、商いは商品を並べ、やってくる客に商品を薦め、
挙句買う時ぁつけというのが普通だよのう」
「へぇさようで・・・・・」
「そこだ そこがどうも気になる、何かあるような気がしてならねぇ、
現金払いとくりゃぁお前ぇそれなりの蓄えが常に店にある問いうことだぜ、
それにしちゃぁ不用心だと想わねぇかえ」
「左様でございますねぇ、米にしても小分けとはいえ
日々の量を賄うにやぁそれ相当の置き場所も必要でございます、
ところがよく考えておりまして、それぞれ個別に商品を保管しており、
毎日夕方翌日必要な物を書き出して、その日の内にそれらを手配いたしまして、
翌日朝には品物が店に並べられるような塩梅で、
こいつは中々よく出来ております。
地産地消とか言うそうで、出来る限り近場のものをなるべく早く
回す事で皆が助かるという事だそうでございます」
魚などは日本橋あたりにいけすを持っており、
そこから上げて配達したとのことでございます。
「なるほどのう 専門店との集まりと言うわけだな」
「へい そのようで・・・・・・」
「ところでなぁ 売れ残りというものはでねぇのかえ?」
「へい あっしもそこんところが気になりやして聞いてみやしたら、
それなりに調節して仕入れるそうでございますが、それでの残る者も有り、
まぁそれを見越しての掛け値もあるのが普通でございます。
ところが驚くじゃぁございませんか、売れ残った野菜や魚は調理して
(暮れ市)と称して置くと、勤め帰りにお武家様や夜勤をする当番のもの、
お酒を召された後の手土産とか、
中にぁ博打の現場に持ち込んでなんてのもあるそうでございます」
「へへへっ! 考ぇたものだのう、そいつは手間いらずで独り身にゃぁ良いわな。
では繁盛いたしておるであろうのう」
そりゃぁもう、女房も亭主も稼ぎに出かける者にとっちゃぁ
便利な仕掛けでございますよ」
「そうさなぁ毎日根深汁にメザシと梅干しじゃぁお前ぇ
飽きもこよってぇもんだからなぁ、だがよ粂!味はいま一つじゃぁねぇのかえ?」
「ところがどっこいと来やして、味も中々の腕前で、
元は築地の板前がまかないをこなしているそうで、
こっちのほうも中々評判でございますよ」
「おいおい そいつは聞き逃せねぇぜ」
平蔵の虫が目を覚ましかけたようである。
「よし! 俺も一度検分にまいろう」
「長谷川様が・・・・・へへっ こいつはどうも へへへへっ」
「おい 粂!そのへへへっは余計だ」
「へい こりゃぁどうも へい!」
というわけで、早速平蔵翌日には早速の出陣と相成った。
お供はおなじみのウサ忠こと木村忠吾。
「お頭本日は又どのようなところへお供致せばよろしいので?」
「忠吾、あ~本日はな、お前ぇの好きな者を求めてちょいとなぁ」
「と申されますと・・・・・うふふふふ」
「おい 忠吾、出会い茶屋ではないぜ」
「はっ?違うておりますので?な~んだ」
「な~んだとは何だ、お前ぇはなっからそう想ぅておったのか?」
「はぁ何とも、私の好きなものと仰せられましたので・・・・・・」
「違ェねぇ そいつは悪かったなぁ わぁははは」
目指すは日本橋小網町の「なんでも屋」
「なるほど本所も浅草も築地も程々の場所、こいつぁ美味ぇところに構えたもんだ、
近くは商いの町を控えそこの奉公人なども、色々と便利が良かろう、
なるほどなるほどうんうん」
「いらっしゃいませ!どうぞご自由に手にとって眺めてくださいませ」
腰を折って笑顔で対応するこのなんでも屋の奉公人の眼を確かめるように
「他所のお店より求めやすいのだが、この店の品物はどこから仕入れるのだえ?」
と平蔵は棚に並んだ酒に眼を流す。
「はい、私どもは大抵のものを赤間関で直接仕入れ、足の早い自前の小船に積み、
上方で荷降ろしするものと積み込むものの仕入れを済ませ
南海航路で江戸に運んでおりますので、
他所よりも安く早くお客様にお届け出来るのでございます、
従いまして全国の銘酒もご覧のとおり揃っております」
とにこやかな返事が戻ってきた。
江戸の物価高騰の原因は株仲間の市場独占ばかりではなく
需要が追いつかないところであった。
これは吉宗が行った享保の改革で株仲間の解散により
流通が混乱してしまったためである。
あらゆる物資は一旦大坂に集まりそれを百石の菱垣廻船で江戸まで送っていたが、
それぞれの生産地にある廻船屋が自分の船で直接売りさばく
内海船の南海航路を築いた。
これまでは蝦夷や松前からの荷も日本海廻りで赤間関(下関)で一旦潮待ちする。
ここに内海船が待ち受けて、大坂の商人が江戸の商人とかわした通常の銀高より
高値で買い取り江戸に運んだ。
しかしこれもある程度の荷がまとまらなければ動かなかった。
その隙間をうまく立ちまわったのが足の早い酒などを主に扱う樽廻船による輸送であった。
瀬戸内は潮待ち、風待ちで止まるところも多く、
そこでもこの商売は成り立っているという。
この時の平蔵の体験が、後に石川島加役方人足寄場を造るさいの
授産施設の考え方の基本になった。
つまり、一箇所に集められた人々に対して社会復帰のための施設として
それぞれ能力に応じて適材適所の仕事を習わせ、出
所後の生活自立の道をつけたわけである。
清水御門前火付盗賊改方役宅に忠吾を残し、本所菊川町の役宅への帰り道を、
平蔵は永代橋を渡り久方ぶりに深川へと足を向けた。
同心村松忠之進より「深川法禅寺傍に(科野庵)という
美味い白傍を出す店があると聞いていたからである。
本所深川法禅寺近くの蕎麦屋はすぐに判った。
小粋な数寄屋造りに店構えもあまり欲張らず、
3間ほどの入り口には小庭をしつらえてあり、三石に小草、黒竹、冠り松を配し、
景気をよく心得て配られた景色は入る前から客の心をつかむに十分な気配りが伺え、
店主の心意気が感じられた。
中は表からは見えないが広々とした中に部屋をゆったりと塩梅しており、
質の高さを覚える。
丸窓を開けると路地庭が隣の土壁を隠すように竹壁が配され
小石や草花のあしらいも見事という他ないほどに気配りも行き届いている。
なるほど材木商が出入りするこの深川ならではの洒脱なのびやかさを
平蔵は感じていた。
見上げれば、西の空が紅葉を敷き詰めたように真っ赤に染まり
その中をすじ雲が刷毛で引いたように流れていた。
あないされるままに通された部屋は、小さいながらも床が仕切られて
北山の杉絞り丸太に床框には高価な紫檀を使っている。
掛け物も、おおぶりな月に雁の二つ3つ、さり気なく振り込まれた床の花も
糸芒に不如帰があしらわれ、静けさの中にも風を想わす気持ちが読めてとれる。
「おまたせを致しました」
亭主らしき五十過ぎと見える男が静かに膳を持って入ってきた。
「初めてと思い受け致しますが、今後共よろしくお願いいたします」
と手をついた。
「俺は昔この界隈に住みおったものでなぁ、いや懐かしくあの頃を思い出される」
「左様でございますか、まだこの店は日も浅く少しでもおくつろぎいただければと、
余計なものを排しました」。
「ところで名前ぇから察するに信濃の出であろうかの?」
「はい 主の先祖が保科様のおそばに仕えていたそうでございます」
「おいおい お前ぇが主ではないの変え?」
平蔵はこの落ち着いた所作の男が主と思っていただけに、
この言葉は少々意外であった。
「するとご亭主は・・・・・・」
「はい めったに顔を出されません。
旅がお好きのようで、店は私どもに任せ全国あちこちと食べる気とか」
「へへっ そいつはまた豪気な、だがそんなものが生かされておるのであろうな。
ところでこの白湯はなんだえ?」
「はい 手前共の故郷では蕎麦はいたみやすい物と言われ、
食当たりしやすいので、毒消しに茹でたそば湯を仕上げに頂く風習がございまして、
元々は豆腐の味噌煮を頂居たようでございますが、
土地柄も貧しくいつからかそば湯を頂くようになったようにございます」。
「ふむ さっぱりとした中に何とも言えぬ甘さ、
それに薫りが名残の気持ちを誘うものよのう、
ウム細打ちの白蕎麦に満足させられるしかけだのう」
この一時が平蔵はいたく気に入った様子である。
役宅に戻った平蔵は早速村松松忠之進を呼び出し
「いやぁ猫どの、あの深川の蕎麦屋は実に美味かった!構えも見事という他無く、
さすが猫どのご推薦のことだけはある」
と報告した。
「あっ お頭はお一人で?」
「うむ、ゆっくりと味おうてみたくてのう」
「お一人とは・・・・・・」
と恨めしそうな顔之猫どのの顔を察して。
「おお こいつはすまぬ、いずれ又猫どのと同道いたそう」
と繕った。
「まぁお頭が然様に申されますなら・・・・・」
と先ほどのおかんむり顔は何処へやら消えて、目尻が緩んでいる。
その数日後、日本橋の「なんでも屋」が火を出し丸焼けになる家事騒ぎがあった。
火事の知らせを受けて清水御門前の役宅から急ぎ駆けつけた平蔵の
目に写ったものは、見る影もないほどに焼けた無残な火事場であった。
火元が主の寝室からで、奉行所の所見では寝煙草の不始末ということであった。
証拠に枕元にはうつ伏せの主の死体と煙管や煙草盆が焼け焦げた状態で
残っていたからである。
平蔵はその焼け具合がどうにも気に入らなかった。
あまりに焼けすぎていたことや燃え方に不自然な所見が見られたこと。
与力筆頭の佐嶋忠介が
「おかしら 何やら菜種油のような匂いが感じられますが」
と。
「佐嶋 おまえもそう想うか、俺はどうにも気に食わねぇ。
つい先日立ち寄った際にはこのような事が起こる前触れは感じなかった」。
残された柱にも不自然な焼け方が見られる。
途中から燃え広がったような燃え方は普通しないはずである。
「こいつは油をかけて日をつけたように思えるがどうじゃ?」
と佐嶋の意見を正してみた。
「全くそのようにしか想えませぬなぁ」
「ふむ すると火付け見るか」
「はぁ そのほうが自然かと存じます」
「とすれば物盗りということになろうが、その方はいかがであった?」
「奉行所の調書を読みます限りでは、物盗りのようではございません、
何しろ金子箱にはおよそ三百両ほどの金が残されておりましたよし」
「ただ・・・・」
「ただ?何とした」
「はぁ ただ箱は鍵がかけられておらず、錠前は開いたままで
傍に落ちていたそうにございます。
「と言うことなると物盗りと見せかけたことも考えられるわけだな」
「ははっ 仰せのとおりかと」
「死体はいくつあった?」
「検視の調書では五体とあります」
「うむ 俺が知っている人数もそうであった、で、
それぞれの遺体はどのような場所度と格好であった」
「少しお待ちを・・・・・主は寝間でうつ伏せのまま、番頭は自分の部屋で・・・・・
全員それぞれの寝間ではございますが一様に乱れた様子もなき状態でございます」
「なぁ佐嶋、人は寝る時うつ伏せで休むかえ?うつ伏せは赤子の時のみ、
こいつぁ背中で汗をかくからだとよ、大人はそうはするまえ?
おまけに火の中で乱れもないとはこいつはどう見ても妙ではないか」
「確かに・・・・・・・妙でございますなぁ」
「誰か!小林はおらぬか!」
「お頭 これに、何か御用でございましょうか?」
「おう 小林、すまぬが麹町平川町の山田浅右衛門殿に、
長谷川平蔵がここにお越し願えまいかと申しておる故伝えてきてはくれぬか」
「あの 御様御用(おためしごよう)の山田浅右衛門様でございますか?」
「うむ 過日知りおうてのう、是非にお力をお貸し願えまいかとさよう・・・」
「早速出向いてまいります」
と小林金也は出かけていった
その日の昼過ぎ小林とともに山田浅右衛門がやってきた。
「山田殿ご足労をかたじけのう存じまする」
「道中こちらの御仁よりあらかたは伺い申したが、
長谷川殿又いかようなことでござろう?」
と浅右衛門が焼け跡に入ってきた。
すでに遺体は道に出され、火事場の片付けも始まっていた。
何しろ焼け方が激しく類焼の家が今にも倒れそうで、
その引き倒しが安全を確保する上でも必要との判断からであった。
「山田殿、この遺体にどうも不自然なところを感じまして、
ご貴殿のお考えをお聞かせ願えればとご足労をお願い申しました」
「判り申した・・・・・」
浅右衛門は亡骸に軽く両手を合わせて検視にかかった。
すでに腐敗が始まりかけた異様な異臭の中での検視は生半可なことではない。
次々と検めた後
「長谷川殿、いずれも鋭い刃物のようなもので殺害されていますな」
「何と!やはり殺害でござったか」
「見事という他ござらぬが、これは相当の手練ものと想われます、
まず口を塞がれ、その状態で心の臓を一突き、
絶命するまでその状態を維持できるところなぞ並みの器量ではでき申さぬ」
「山田殿 何故そのようなことがお判りなされるので?」
平蔵は山田浅右衛門の知識と実践に裏打ちされた経験からだとは理解が出来たが、
それが一体何なのか合点がいかなかった。
「長谷川殿 普通であれば心の臓を一刺ししても、
ましてや火で囲まれればじっとしてはおりませぬ。
人はまだ息を吸おうと口を開け申す、だがこの遺体いずれも口は閉じたまま、
さすれば口をふさぎて絶命するのを待った残忍なやり口と
見るのがまっとうでござろう」
「なるほど 左様なことが‥‥‥‥‥それにしても酷いやり方でござりまするなぁ」
平蔵は犯人の手口の凄まじさにますます怒りが燃え上がった。
だが、この事件はその後の調べでも全く証拠が残されておらず、
迷宮入りのままである。
平蔵にとって痛恨の事件の一つでもある。
あの日なんでも屋を出る前に主が言った言葉が平蔵の耳に残っている。
四ツ谷南寺町戒行寺門前の茶店で、
商家の娘とその下女と思しき二人連れが休んでいた。
隣の置縁に腰を下ろした浪人が
「親父酒をくれ」
と冷酒を注文して、
「おっ これは又美しきお女中、どうだな1杯酌をしてはくれぬか?」
と絡んできた。
「どうぞお構いなく」
付き女中が慇懃(いんぎん)に断ると
「まぁ良いではないか、何も取って食おうなぞと言っておるのではない、
一杯だけでも美しきお女中に酌をして頂ければ、
酒も又いっそう美味というだけのこと」
と盃を差し出した。
「お許しくださいませ」
女中はそう断りを入れて
「お代はここに置きますから」
と茶代を置き立ち上がってその場を離れようとした。
「待て待て!ただの1杯だけ、それならばよかろう!」
と娘の袖を掴んだ。
「お許しを!」
と袖を引いたその袖先に徳利が触れて酒がこぼれた。
「おのれ何を致す!」
とこれを機に言いがかりをつける。
「ご無礼を致しました、これでお許しを」
といくばくかの小銭を差し出した。
「無礼な!落ちぶれ果てても武士の身、施しとはいかなる所存!」
と語気も鋭く立ち上がった。
険悪な空気が廻りを包み、遠巻きに人々が怖いもの見たさで成り行きを見守った。
「もっ 申し訳ござりません」
蚊の鳴くようなか細い声で娘が詫びる。
「俺はなぁ、ゆすりタカリをしようと思っているのではないぞ、
こぼされた酒の始末をどうしてくれるかと、それを申しておる」
言葉は穏やかだが、そこに更なる含みを意図していることは明らかである。
「ではいかようにすればよろしいのでございましょう?」
と女中が言葉を継いだ。
「だから先程から申しておるではないか、1杯だけ酌をしてくれと」
「そのお申し出だけはお断り申し上げます」
きっぱりと言い切った女中に
「無礼者!」
男は刀を抜き脅しに掛かった。
「ご無体な!」
女中は娘を後ろにかばいながらわなわなと震えている。
「そこまでになされてはいかがでござろう」
と、奥から声が聞こえてきた。
「何ぃ 誰だ、出てこい!」
男は奥に向かって大声を上げた。
「下手な芝居に旨い酒がまずくなった」
その声の持ち主は刀を落し差しに手挟みながら店先に現れた。
「余計な真似を!」
「おう して悪かったかのう」
静かに微笑を浮かべながら娘のほうをチラと見やり、
「早く行かれよ!」
と表の道を顎で指した。
「相済みません!」
女と女中は軽く会釈をしてその場を立ち去った。
「余計な事をしおって!」
浪人は刀の柄に手をかけながら威嚇した。
「抜かれればその腕の一本も頂けねばならぬが、それでもよろしいか?」
ゆっくりと腰を落としながら仲裁に入った浪人が鯉口を引き出してぐっと押さえた。
「ぬぅ 覚えておれ!」
と立ち去ろうとするのへ「
待った!酒代ははらっておけ」
バラバラと小銭を放り出して浪人は足早に立ち去った。
「やれやれ、騒がしいやつだ、ゆっくり酒も飲めぬ、
亭主、すまぬが飲み直しにもう一本つけてくれぬか」
今度は表の置縁に腰を下ろし、立ち去ってゆく人の流れに目を向けていた。
「これはあっしのほんの気持ちで」
と亭主が酒を持ってきた。
「あっ そのようなお気遣い無用だ」
「へぇ ですが、先ほどのお武家様のやりとりに、
こう 胸ん中がスッキリいたしやしたものでございやすから、どうぞお口直しに」
首に巻いた手ぬぐいで首を拭き拭き頭を下げた。
「さようか、ならば遠慮無く頂戴する」
その数日後、又同じ場所で浪人が酒を飲んでいた。
このたびは店前である。
「まぁ お武家様は先日の・・・・・・」
と親子らしき商家の者が声をかけてきた。
「うっ? おお あの時の、無事で何より何より、で?本日は又」
「はい お父様と戒行寺にお参りに行った帰りでございます。
お父様 この方が先日私どもを難儀からお助けくださったおぶけさまですわ」
とそばの主に告げた。
「これはこれは、その節は娘が危ういところをお助けいただいたそうで、
誠にありがとう存じます」
「何の何の、たまたま居合わせていたまでのこと礼には及びません」
と手を振った。
「何を申されますやら、手前は四谷御門前、四谷伝馬町の小間物問屋
鈴屋重兵衛と申します、この娘は菊と申します」。
「菊どのか、この辺りは武家屋敷も多くしたがって浪人も又多い、
過日のようなこともしばし起こりかねぬ、出来るなら父御殿と
同道されたほうがよろしいかと」
と忠告した。
「最もな事でございますなぁ、丁度あの日は手前が多用にて、
女中に任せてたもので、今後は気をつけると致します。
ところでお武家様はいずれかのご家中でお勤めであったとか?」
「何故だな?」
いぶかる浪人に
「聞きましたるところでは剣の方も中々のようでございますね」
「どうしてそのようなことを?」
「私どもの店に出入りしておりますものが、丁度あの場に居あわせておりまして、
その後のことを聞きました。
それで、もしやと、こうして日々お寺に参っておりました」
「何と!呆れた御仁じゃなぁあははははは、身共は鈴木大志郎と申す、元
はさる小藩の納戸役を勤めておりましたが、何処も同じで身共もお役御免になり、
それ以来浪々の身、時折腕に覚えのそろばんで商家などの帳簿の手助けで
何とか糊口をしのいでおるという有り様、お笑いくだされ、あははははは」
「さようでございましたか、で 今は何処かのお店に?」
「この所口入れ屋からの話もなく日暮しゼミでござるよ」
「おお それは丁度よかった、どうか手前どもの相談に乗っては頂けませんか?」
「うむ どのような商いをされておられる」
「はい 手前どもの商いは小間物でございまして、場所が伝馬町ということもあり、
町家の方々から武家屋敷の奥向きからお女中までおかげを持ちまして
賑わっております。」
「それはそれは 繁盛が何より、まぁ一度店を覗かせていただこう」
「はい ぜひにそのように・・・・・・お待ち申しております」
そう言って別れた。
数日後大志郎の姿が伝馬町の鈴屋の前にあった。
「ごめん!主どのはおられるか?拙者鈴木大志郎と申す者」
と取次を願った。
番頭の知らせに大急ぎで主の重兵衛が急ぎ出てきた。
「これはこれは鈴木様!どうぞどうぞ奥の方へ」
と奥座敷に案内し
「菊はおらぬか!鈴木様がお見えになられたぞ」
と奥に声をかけた。
出かける支度を終えた菊がいそいそと出てきた。
「おや、本日も何処へかお出かけですか?」
と、姿を見て聞いた。
「はい、本日は麹町の成瀬様のお屋敷までお父様とご挨拶に」
「いつも成瀬様の奥向きに色々と小間物を収めさせて頂いておりますもので」
「それは又ご苦労でございますな」
「おお ちょうどよいところで、いかがでございましょう鈴木様、
道中の警護をお願いできればこれほど心強いことはございません」
「そうですわお父様!お願いいいたしましょうよ、
ねっお引き受け下さいましな鈴木様」
「んっ まぁ立ち寄ったついでと想えば・・・・・判りました、
お供を引き受けましょう」
「まぁ良かった、嬉しい!では早速参りましょう!」
と菊ははしゃいでいる。
こうして大志郎と鈴屋の関わりが始まった。
「重兵衛どの、店の物を少し並び替えなぞなされば、
更に買い求める客にも見やすくなると思うが・・・・・」
「あっ さようなことがございましょうか?」
「うむ 店構えというものは、先ず入りやすいということから始めるが第一歩、そ
こから品数や色違え、更に奥には高価なものと、
まぁ魚で申せば定置網の様に想えば良いかなぁ」
「これは又面白いたとえでございますねぇ」
「うむ 人というものはそれと知らずに流れを持つもの、
無駄な動きを整理して導く、これも商いの気配りと思うが」
「はぁ全く鈴木様の才覚にはこの商い専門の重兵衛も舌を巻きますわい」
と手離しの様子である。
事実商売には呼び込み用のものや見世物、
それから本命と水の流れのような動線を考慮するのが無駄を省き、
客層を見定めるにも適した配置といえる。
それぞれに得意な者を手配りすれば、買う方も安心して相談もできる。
おかげか、鈴屋の商売も繁盛している。
こういう時の月日は流れるのも早い、
あっという間に半年が流れてゆこうとしていた。
「お父様京は浅草の掛け小屋へ行きたいのですが、
大志郎様に連れて行ってもらってもいいでしょう?」
「これ お菊!鈴木様をそのようなところへ・・・・・」
「ねぇいいでしょう大志郎さまぁ」
菊の訴えるような眼に大志郎
「さても困った菊どので・・・・・」
と笑いながら
「いかがかなぁ鈴屋どの、拙者っも退屈しのぎになりますから」
「おお お引き受け下さるか、かたじけのうございます、それなれば大安心、
ぜひともよろしくお願いいたします、では早速籠の用意を致しましょう」
と、籠を手配した。
「うれしい!大志郎様と出かけられるのは菊の何よりのたのしみでございます」
とウキウキしている。
「鈴木様今月の収支でございますが・・・・・」
と重兵衛が売掛帳を出してきた。
帳簿を調べ、売掛や取り立ての様子を調べ、
この後の方針を見定めるのも大志郎の仕事であった。
「重兵衛どの、この掛け売りは何時頃から支払いがとどこおっておるので?」
「はい この一年、催促は致しておりのでございますが、
なかなかお家の事情とかで・・・・・」
「ちと様子を探ってみましょう、焦げ付かせてもいきませんのでなぁ」
「そう願えれば私も助かります、なにとぞよろしく」
取り付け騒ぎはこの頃常套手段であったために、大志郎は少し気になった。
商家からの多額の借り入れが露見して、
その監視役であった大志郎が責任を取らされて苦い思い出があったからであろう。
数日後
「重兵衛どの、この貸付はこれ以上はされぬほうがよろしかろう」
「えっ 何故でございます?」
「うむ どうも他のところにも探りを入れてみたが、何処も未払いが続いておる、
これ以上は危ないと」
「判りました、鈴木様が左様仰せられるのでれば、
これ以上の掛けはなしに致します」
その翌月、その貸付先は責任者が逃亡し、借受帳簿が行方不明という理由で
借金の支払いを拒否してきた。
「鈴木様の仰るとおりになりましたなぁ、
こちらは大した被害もなく済みましたが、
米などを収めておりましたお蔵はかなりの被害とか、
いやはやお武家様も昨今信用がございませんなぁ」
このようなことも度々で、
鈴屋にとって大志郎は無くてはならない立場になっていった。
それと同時に娘、菊のまなざしが、大志郎に徐々に傾いてきたことを
大志郎も主の重兵衛も気付き始めていた。
「大志郎さま!今日はお芝居見物に連れて行って下さいませんか?
ねぇいいでしょうお父様」
「おやおや 又菊のわがままが始まりましたぞ大志郎様」
「私は一向に構いませんが、それにしても菊どのはお出かけがお好きなようで」
「私は大志郎様と出かけるのが好きなだけ!お
芝居なんかその口実でございますわ」
と言ってはばからないようになり、
店の者も もう当たり前のことのように黙認されている。
その帰り道、まもなく鈴屋戸いうところまで来た時、
店の横から浪人が少しだけ顔をのぞかせ、
大志郎に目配せした。
大志郎は軽くうなずき、菊を送り届けて横手に回った。
それはいつかの浪人であった。
「ちょっとそこいらまで・・・・・・」
「俺に何のようだ」
大志郎は男に問いかけた。
「うまくやっているようで・・・・・」
「まだ十分ではない!」
「そうは見えませんがねぇ、毎日毎日、今日は芝居に昨日は見世物小屋にと
ご発展のご様子」
と少々嫌味も混ぜての言葉に。
「さほど奥のほうまで出入りが叶わず、もうしばらくは時がほしい」
「のう鈴木 我らとて十分余裕があるわけではないことは
お主が一番良く存じておろう」
「判っておる!だが十分調べて無理をせず成し遂げたい、
殺しなぞは避けたいからなぁ」
「まぁ時と場合に寄るであろうが、我らとてそこまで荒っぽい事は避けたい」
「ならば今しばらく時をかけねば」
「判った、又連絡する、だが忘れなさんなお前ぇさんも同類だってことをな、
妙な仏心は身の破滅というからなぁ」
それからひと月ほど過ぎた頃、鈴屋の主人重兵衛が
「大志郎様、元はお武家様なれど、今は浪々の身の上、
されば娘の菊を嫁に貰ぅていただくわけにはいきませぬか?」
とたずねてきた。
「なんと!、いやその儀ばかりはなりませぬ!」
「何故でございましょう!やはり身分が違ぅてはなりませんか?
娘は大志郎様を好いておるようで、傍から見て痛い程でございます、
まさか大志郎はそれにお気づきにはなっておられないとか?」
「あ、いや、それは又別な気持ちでござろう、危ういところを救われた、
そのような一時の思いが残っておるだけで、
それを思い込んでおられるのではないかと・・・・・」
「まさか、それならば菊に真の気持ちを確かめればよろしいことで」
「いやいや、それだけではござらぬ、身共を保証するものとてなく、
これは難しいお話故、お断りいたしたい」
何と!欲のないお方ですねぇ、判りました、
そう云う事なればこの鈴屋が身元保証人になりましょう、
そしてこの店の裏に別棟を立ててお住まいいただき、それからという事で、
店のあとは菊と大志郎の間に生まれる子を継がせれば、何の問題もございません、
なっ!左様に致しましょう、
早速明日からこの話進めてまいりますよ、どんなに菊が喜ぶか、こ
れは良かったよかった!」
強引に重兵衛に押し切られる形で成り行きが変わってしまった。
翌日の菊の嬉しそうな顔を大志郎は生涯忘れないと想った。
それから数日が立った夕方、またしても浪人が待ち伏せしていた。
「おいちょっと顔をかせ」
それはいつぞやの茶店事件の浪人であった。
「その後の事を聞きたい、皆が待っておる、後から例の場所に来い!」
と言い残して去っていった。
その夕刻、大志郎が牛込高田の元國
寺裏の空き家、そこにはすでに浪人が四名集まって酒を飲みつつ巣食っていた。
「おお来たか、待ちかねて居ったぞ!首尾はどうだ?」
大志郎は懐から絵図を取り出した。
「うんこいつはよく出来ているではないか、これがあって引き込みがあれば、
後は赤子の手をひねるよりもやさしいではないか、のう!」
「で、決行はいつにする?」
「もう待てぬぞ、俺は懐がすかんぴんだ!」
「まぁ待て、大志郎の意見も聞かねばなるまい、何しろ胴元だからなぁ」
「それはそれとして、どうだ大志郎早いほうが良いと想うぜ」
「鈴家も月末とあらば、取り立てもまとまろうし、
売掛も期限であろう?ならばやはりこの2~3日が山場だと踏んだほうが良かろう」
「まさにそのとおりだ、大志郎、明日決行ということにして、
時は子の刻三ツあたりでどうだ、されば家人もぐっすりと寝込んでいよう」
「・・・・・・・やむをえん、あい判った」
「よし、そうと決まれば今夜は大いに飲み、かつ酔い羽目をはずそうではないか!」
「馬鹿を言え!事が終わるまでは慎重の上にも慎重に気を引き締め
構えねばならぬ!」
「そう堅いことを言うな、貴様は鈴屋の娘とよろしくやれようが、
我らは、徳利を抱き寝のわびしき日々だぞ」
「勝手にしろ!だがそのためにヘマだけは致すなよ」
翌日大志郎は菊屋に呼ばれ、月末の売掛などの帳簿を見ることになった。
「鈴木様のお知恵を頂いて、店の方もお客様が以前に増して、
多くお出かけ下さるようになりました、誠にありがとう存じます。
本日は日頃のご苦労をねぎらう用意を致しておりますので、
何卒ごゆっくりお過ごしいただき、
おおそうじゃ!出来ますればお泊りなぞ戴ければ、菊もさぞや歓びましょうし、
集金いたしました金子も用心できると言うもの、何卒お引き受けくださりませ」
「左様にござりますか、相判りました、ではそのように心づもりを致しましょう、
誠にかたじけのうござります」
「何を今更鈴木様こちらこそいずれは我が家の娘婿どの、
何のお気遣いがございましょうや」
こうして、大志郎、鈴屋の娘菊と三人で遅くまで談笑しあった。
その夜遅く、時は子の刻を回り始めた。
すでに店の者はいずれもぐっすり寝込んでおり、
空気は床に張り付いたように静まっている。
与えられた部屋の障子をわずかに開けると、
真夜中の月が一筋部屋の中に差し込んできた。
そろりと障子を開け、廊下に歩を進め入り口の潜戸を慎重に開ける。
「おお、待っていたぜ!」
と低い声がして、浪人が四名中に入ろうとした。
「まて!」
大志郎は声をかけながら、ぬっ!と、外へ出た。
「どうした!?」
「どうもこうもしない、俺はこの話辞めた!」
と言い終わらない内に、一気に抜刀して払い腰に目の前の一人を切り倒した。
「ゲッ!」
一声で終わった、見事に胴は上下に分かれてその場に血を吹き出しながら転がった。
「おのれ!寝返ったか!かまわぬ、こうなったら此奴から先に血祭りりにあげろ!」
三人が左右と正面から大志郎を一気に襲った。
大志郎は正面の男の右脇をすり抜けるように足を左にさばき、
返す刀で胴を切り倒して向こうに抜けた。
正面の男は
「ギャッ」
とうめき声を発して落とし戸に激突した。
ドンと大きな音がして、大戸が揺れた。
身を起したが、刀を構え直す余裕がなかった、
そのまままっすぐに立ちふさがった一人に突きをくれると
深々と白刃が腹に突き刺さった。
びゅっ と血潮が大志郎の顔に振りかかる、
刀を抜こうとしたが、相手が刀を掴んで離さない。
「くくくっ!大志郎は、男を足で蹴り飛ばして白刃を引きぬいた、
そこに残りの男が体当たりで突っこんできたからたまらず大志郎
「ぐへっ!!」
と腹を抑えてよろめいた、その刀を素手で掴んだまま、
脇差しを引き抜いて相手の腹に刺し違え、そのまままっすぐにかき切った。
「うぎゃっ!!」
腹を二つに引き切られて大量の血を流しながらズルズルと大志郎の足元へ
ずり落ちた。
その上に折り重なるように大志郎も崩れ落ちた。
表の物音に、大戸に近い部屋で休んでいた番頭が中から明かりを捧げて出てきた。
「ぎゃ~~~~!!」
番頭は悲鳴を上げてその場に腰を抜かして座り込んだ。
騒々しい物音と大声に近所からも明かりが集まったその中で、
五名の男の死体が辺り一面を血の海にして転がっていた。
明かりを持って一人一人の顔を照らした鈴屋重兵衛
「すすすっ鈴木様ぁ!」
大声を張り上げて大志郎を抱き起こした。
「すっすまぬ・・・・」
それが大志郎の最後の声であった。
表に駆け出してきた菊は、この光景を見ると、半狂乱のように泣き叫び
「大志郎様大志郎様」
と大志郎の亡骸を抱きしめた。
真っ白な寝衣がみるみる真っ赤な花が咲いたように染まり、
闇の中に浮かび上がり、菊の哀しい叫び声を月が照らすだけであった。
「長谷川様どうも妙なことになっちまいましてね」
仙台堀の政七が平蔵の役宅に、やってきて首をかしげた。
「如何が致した政七」
「へい 先日の四谷伝馬町の小間物問屋鈴屋重兵衛の一件でございますが・・・・・」
「うむ てぇへんな斬り合いであったそうだのう」
「へぇ 何しろ店の前で真夜中に斬り合いでございやすから、
こいつぁ並の話じゃぁございやせん」
「うむ 、確かに妙だのう」
「後で色々と調べて判ったことでござんすが、あの鈴屋の娘菊と、
殺しあった浪人鈴木大志郎ってぇ浪人は恋仲で、
近々祝言をあげる所まで来ていたってえぇ話で」
「何と浪人とかえ?」
「へぇ それが鈴屋の主に見込まれての事だそうで・・・・・ま
ぁここいらは今どきよくある話でござんすがね、
野郎どもは五人連れで小石川あたりをゴロ巻いてつるんでいた奴らだってぇ話で、
何でも言いがかりをつけ、それを仲裁して小遣いを稼ぐ小悪党だそうでござんすよ」
「それが此度は押し込みでも企んだのであろうが、その何とか申す・・・・」
「たしか鈴木・・・・・」
「それそれ、其奴が鈴屋の娘と、まぁ瓢箪から駒であったろうが、
想えばゴミ溜めから這い出る良き頃合いと目論んだのであろうよ。
解からぬでもない、考えても見よ、長ぇ間の浪々の身は傍で見るより辛ぇもんだ」
「さようでござんすねぇ」
「で、お奉行はどのように始末をつけたんだえ?」
「へぇ お奉行様は浪人同士の単なる斬り合いという形でお収めなさいやした」
「ウムそれで良い、さすが筑後守様先を見据えたお裁きじゃ、
のう!綺麗ぇな花に泥をかける事ぁねぇじゃぁねぇか、
思い出は時に哀しみから生まれることもある。
その菊とやらも又良き思い出をでぇじに心の奥にしまっておけばよいのさ」
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本日も下谷三丁目にある提灯店(みよしや)に伊三次の姿があった。
馴染みの(およね)は伊三次が二歳から十歳まで
岡崎の油屋に奉公に出されるまで育ててくれた関宿の宿場女郎(お市)の娘である。
本人同士はそれを知らないが、ふたりとも何故かウマが合い、
半ば夫婦同然の間柄で、平蔵が「お前ぇおよねに惚れてるな?何なら女房にしろ。
おれが世話を焼いてやってもいいぞ」・・・・・
「女房かぁ・・・・・およねをねぇ、そらぁ出来ねえ相談じゃねえが、
とても俺一人じゃ持ちきれねえやな」
まぁそんなわけで、この二人一体どうなるのか・・・・・・・
そのおよねが「ねえねえ伊三さん、
この所しょっちゅう上がっているチュウさんだけどさぁ」
「チュウさん?誰でぇそいつぁ?」
「ほら!よく伊三さんとも会っているあのお武家さん!じゃぁないのよぉ」
「木村の旦那?」
「そうそうそれそれ、そのチュウさんじゃぁないかなぁ」
「それがどうかしたのか?」
「相方のおたみちゃんに出来ちまったようでさぁ、
あたしに相談があったんだよぅ」
「出来ちまったって、あのあれかぁ?」
「そうその アレよぉ」
「そいつぁ嘘じゃぁあるめぇな!」
「だって伊三さんに嘘ついたってなァンにも得なんかありゃしないもん」
「だよなぁ」
「ウン だよ!」
「けどよぉ、相手が木村様だってぇどうして分かるんあぁ」
「だってこの所ずっと通い続けてるしさぁ、
それにおたみちゃんがちゅうさんって、そう言うんだもの・・・・」
「そうだよなぁ・・・・・・
よし判ったそれとなく木村様のお耳に入れておこう」
まぁそんなわけでこの話はいつのまにやら密偵たちの耳にも・・・・・
さすがと言えばさすが地獄耳の粒ぞろいだけの事はある、が
当の忠吾こと、木村忠吾にはまだ届いていないから当事者の忠吾、
本日も市中見廻りにかこつけてのお忍び。
「おいおたみ、今日は又ずいぶんと愛想が良いなぁ、
そんなお前が好きでたまらぬ」
「あれ 本気に取りますよぉ」
「おお 本気で取れ取れ、お前のためなら親も要らぬ名誉も要らぬ、
お前だけが居てくれればそれで良い」
「あれ 本当で?」
「当たり前だ、俺とお前の仲ではないか!むふふふふふふ、
だからもう一度・・・」
「あれまぁ チュウさんも(も、である)お好きですねぇ、
アレぇいやぁぁぁぁ・・・・・」
夕方近く菊川町の火付盗賊改方役宅に戻った忠吾に
「おい忠吾このたびは命中したそうだのう」
と同心の一人がニヤニヤ笑いながら耳打ちした。
「何がでございましょう?」
狐につままれた顔で忠吾きょとんとしている。
「またまたおとぼけ忠吾どの、そうやってこれまで何人泣かせたことやら、
さすが捕物よりもそちらのほうが上手うござるなぁ」
「何ですかその、そちらのほうとは、この木村忠吾一向に解せませぬ」
と少々お冠の様子に
「密偵共も風のうわさでお前の行状はお頭にも筒抜けだと想うがなぁ」
と今度は意味深な言葉に忠吾
「誰がそのようなわけのわからぬ噂を聞いてお頭に告げ口したのでございます?」と、ものすごい剣幕である。
「木村さん、下谷の提灯店(みよしや)をご存知で?・・・・・・」
と、同心の小柳安五郎
「あっ あぁあぁ 見回りの中にそのような場所もあったと
記憶いたしておりますが?」
「あっ さようで、ところでそこには
(おたみ)と申すおなごがおるそうですが、ご存知ではございませんか?」
「うっ そういえば伊三次の馴染みの何とかと申す女は存じておりますが、
はてさて・・・・」
「あはぁ さようでござりますか」
「それが何か?」
「まぁこれはあくまでも風のうわさと言うやつで、
真偽の程は定かではござらぬ、が」
「が?」
「左様 が、でござる」
「何ですかその歯に物の挟まったような物の言いようは」
忠吾、かなりかっちんと来た様子に
「おい その辺りでやめておけ」
と沢田小平次が口を挟む。
「何ですか沢田さんまで・・・・・面白くもござりませぬなぁ」
「忠吾 本当にお前には何も心当たりはないのだな!」
沢田の毅然とした言葉に忠吾
「ない・・・・・とは申しませぬが、はぁまぁ在るような無いような・・・・・」
「忠吾!お前も男ならば少しは己のやったことに責任を考えても
良いのではないか!」
「はぁ?責任でございますか?一体何の責任でございましょうや?」
「なぁ忠吾、このことはすでにお頭もご存知のこと、
知らぬはお前だけかも知れぬぞ」
「沢田さん、それは又一体どのようなことをお頭はご存知だと申されますので?」
「忠吾、お前その下谷のけころ茶屋(みよしや)のおたみをまこと知らぬのか!」
「はぁ、まぁ幾度かは伊三次に誘われて・・・・・」
「要するに知っておるということだなその(おたみ)を」
「その事が何か?」
「お頭が案じておられる」
「えっ おかしらがぁ・・・・・・・」
忠吾言葉を失いほどの驚きようである。
谷中いろは茶屋事件以来、平蔵には全く信用のない忠吾にとって、
再びのこの降って湧いた話は心中穏やかではない。
そこへ
「忠吾は戻ったか?」
と言う平蔵の言葉が流れてきた。
忠吾真っ青になりながら
「おかしら 木村忠吾ただいま町廻りより戻ってまいりました」
と報告を上げた。
「忠吾、ご苦労であった、でその後どうじゃな?」
「はっ その後でございますか?何のその後でございましょうか?」
「チュウちゃんちょいと耳を貸してはくれぬか」
平蔵の意味深な笑顔に忠吾尻の方が何やらムズムズ・・・・・・
「あっ はぁ・・・・・そのぉ 何とも・・・・・・」
「忠吾 此度は目出度い、とは申せ、お前も御家人の末裔、
右から左とはゆくまい、まぁ親戚一同の手前、どこかに住まいなぞ構えて、
まずは相手を住まわせてはどうじゃ?
聞けばまもなく年季も開けると言うではないか」
「はぁ 年季でございますか?一体どこの誰の・・・・・・
で、ございましょうか?」
「忠吾!」
突然の平蔵の激しい語気に忠吾は這いつくばって後ずさりを始めた。
「忠吾!そちは下谷の茶屋おんな(おたみ)を存じおろう!」
「ははっ!」
「そちがお役めを抜けだして茶屋にしけこんでおることは皆承知じゃ、
だがなぁそれだけなら良い、時には気晴らしも必要だからなぁ、
だがな、事がそれ以上進んじまった今、先の手当を講じねばなるまい、
お前ぇは一体どう致す所存なのだぇ?」
「はぁ 一体私は何をどのように致せばよろしいので?」
「馬鹿者!(おたみ)の事に決まっておろうが」
「はぁ ですから、その(おたみ)と
この木村忠吾とどのような関わりがござりますので?」
「おい うさぎ いい加減観念しろよええっ!
聞けば(おたみ)は出来ちまったってぇ話ではないか、
さすればこの始末如何がするつもりか、それを聞いておる」
平蔵は半ば呆れ顔で忠吾を見つめるが、忠吾も話の中身がまるで空っぽ。
(お頭は一体何のお話をなさっておられるので)
とその場の空気が読めず戸惑っている。
「なぁうさぎ お前は(おたみ)に心当たりはないと言うのかえ?」
平蔵の言葉に忠吾
「いえ 無いとは申しませぬが、それが・・・・・」
「おいおい まこと知らぬは亭主ばかりなりかぁ、
のぅチュウさんや!その(おたみ)は腹に子ができたそうな」
「はぁさようでございますか、それは又目出とうございますなぁ、
この後如何するのでございましょうか」・・・・・・
「チュウさまや、その相方はそちだそうじゃが?」
「えええええっっ!!まさかまさかぁ」
「そのまさかだから皆も案じておるのよ、それがまだ解らぬのか?」
「そそそそっ それは困りまする」
「おうおう 困るのはそちだけではないわなぁ、
この話を聞けばおまえぇの親戚の者共が何と言い出すか、
覚悟の上のしでかしであろうなぁ」
「めめめっ滅相もござりませぬ、(おたみ)とは、ただ客と言うだけの」
「この大馬鹿者!何事であれ、やれば出来るのも当たり前ぇのこと、
それを承知で通うたのではないのかえ?」
「滅相もござりませぬ、ただ行きずりの・・・・・」
「手慰みと申すか!」
「あっ いえ そのぉ・・・・・・」
「ええぃ はっきり致せ!」
「ははぁっ!誠に持って申しわけもござりませぬ」
忠吾、機織りバッタよろしく頭をぺこぺこさげるばかりである。
「まぁ嫁を持つ前に手前ぇの跡取りをこさえちまったんだ、
痩せても枯れても御家人のお家柄、捨てるわけにもいくまいし、
さりとて囲い者にするほどお前ぇの俸禄は余裕もなし、フム。
まぁこの広いお江戸におなごは僅かしかおらぬ、
その気になれば働くところもあろうよ、
その辺りはわしが手を貸さんでもない。
(おたみ)の年季が明けるのをまって、どこぞの長屋でも見つけ、
まぁそれから考えればよかろう。
どうじゃぁ 親父になった気分は?」
「はぁ 手前が父親でござりますか?はぁ 何ともこう・・・・・」
「でも まだ私にはその(おたみ)の腹の中の子が私の子であるという
確信がござりませぬ」
「うむ まぁ初めはそのようなものよ、何しろ己にはその確信がないからのう。
その点おなごは己の子と言う確信がある、こいつぁ大きな開きだよのう」
「忠吾どの、おなごは殿方次第で変わるもの・・・・・・
とはいえ、忠吾殿はおなごでお変わりになられるかも・・・・・おほほほほほ」
「奥方さま!それはあまりなお言葉、この木村忠吾も男でござります」
「おお よくぞ申した、それでこそ男じゃぁ、が しかしいかがいたすか、
ここが思案のしどころじゃぁのう久栄」
「はい 殿様」