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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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この(忠吾親父になる)の噂は瞬く間に広がり
「口の軽いのは私ばかりではござりませぬなぁ」
と、忠吾をも安心させるところとなった。
それからの忠吾はお勤に励み
「これまでのあ奴は一体何だったのでござろう」
と言わしめるほどの変貌であった。
非番になると、朝からいそいそと支度をして出かけ、
夜遅く帰宅する、鳩ポッポの忠吾と新しい名前を頂戴するほどである。
およねも伊三次もこの木村忠吾の献身ぶりには舌を巻くほどのもので、
「ありゃぁ仏様がどこかを間違ってしまったんじゃぁござんせんかねぇ」
といささか呆れ顔で伊三次がこぼした。
数ヶ月が瞬く間に過ぎ去り、いよいよ(おたみ)の年季が明けることになった。
(木村様のおめでた事とあっちゃぁ、俺達も黙っちゃぁすまされまい)
密偵たちや五鉄の三次郎も一肌脱いでの資金の捻出。
「お前ぇたちがそこまでやるのに、俺がやらねぇわけにもいくまいぜ」
と平蔵も一口乗った。
お陰で下谷の金杉下町万徳寺裏の十軒長屋に棲家も見つかり、準備万端整った。
「こんなにまでして頂いて、どうして私のために?」
と(おたみ)は驚くばかり。
「それもこれも、生まれてくるやや子のため、
おたみは心配しないで元気な子供を生むために精をつけてくれれば良い」
せっせと通う忠吾はもうまんまオヤジ顔である。
「木村様どうしてここまで?」
「良いではないか、俺とお前の仲、いらぬ気遣いは無用というもの、
お前はただ黙って皆の好意を受けておれば良い」
「でも あたしは・・・・・」
「ホレ!それがいらぬ気遣いと申すもの、ゆっくり休んでおれば良い、
おまさも時折覗いてくれるそうだから、何も案じることはない!」
忠吾の毎日はこうして(おたみ)で始まり、(おたみ)で終わる。
「あの忠吾がここまで変わろうとは、はぁお釈迦様でもご存知あるめぇ
うわっはっはぁ」
と平蔵も半ば呆れながらも(あの癖が治ってくれればよいが)と思っていた。
そんなこんなで時は又もや瞬く間に過ぎ去って、
いよいよ(おたみ)の腹も突き出して臨月も真近かと想えた。
その数日後(おたみ)の隣の住人(おしま)がそれに気づき、
慌てて産婆を呼んだ。
亭主の作次がおよねにご注進に及んだところから、
一気にこの事は盗賊改めの中で広がり、平蔵や同心達の耳にの入ることとなった。
「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」
伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。
当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。
「木村様ぁ」
「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」
「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」
「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」
「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」
「(おたみ)がどうした?」
「ですから生まれそうなんでござんすよ」
「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」
「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」
「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」
「ですから先程から・・・・・・」
「で(おたみ)は今どこにいる?」
決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」
「判った!すぐに行くから待っておるように」
「へぇ判りやした」
伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。
すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。
「木村様は?」
「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」
「で?」
「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」
「それは良うござんしたねぇ」
奥から慌ただしい物音と声がした。
「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。
「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。
「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」
「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」
「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に
「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。
「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。
しばらくうめき声が聞こえていたが、突然
「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。
「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。
「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。
「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。
「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。
「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。
「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・
「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」
やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。
「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」
「どこが?」
と粂八。
「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。
「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。
まぁ賑やかなものである。
そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。
「うまれやしたぜ!」
と伊三次
「どっちだった!!」
「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。
「俺に似ておるか!」
「そりゃぁまるでそっくり!」
「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」
「一同?????・・・・・・」か?
まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。
「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」
「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」
「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」
「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」
「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。
それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。
その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。
忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。
その数日後のことである。
「ててててててぇへんだぁ!」
伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。
「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。
「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」
「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。
「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。
「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」
「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。
「伊三次をこれへ!」
「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」
「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて
「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」
「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」
平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、
おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」
「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」
とやり返した。
「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」
その数日後
「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」
「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」
「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」
「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」
「あっ さようか ふ~むさようかのう」
「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」
「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」
「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」
「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」
木村忠吾健在なりであった。
画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」
伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。
当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。
「木村様ぁ」
「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」
「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」
「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」
「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」
「(おたみ)がどうした?」
「ですから生まれそうなんでござんすよ」
「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」
「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」
「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」
「ですから先程から・・・・・・」
「で(おたみ)は今どこにいる?」
決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」
「判った!すぐに行くから待っておるように」
「へぇ判りやした」
伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。
すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。
「木村様は?」
「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」
「で?」
「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」
「それは良うござんしたねぇ」
奥から慌ただしい物音と声がした。
「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。
「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。
「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」
「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」
「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に
「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。
「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。
しばらくうめき声が聞こえていたが、突然
「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。
「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。
「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。
「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。
「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。
「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。
「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・
「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」
やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。
「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」
「どこが?」
と粂八。
「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。
「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。
まぁ賑やかなものである。
そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。
「うまれやしたぜ!」
と伊三次
「どっちだった!!」
「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。
「俺に似ておるか!」
「そりゃぁまるでそっくり!」
「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」
「一同?????・・・・・・」か?
まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。
「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」
「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」
「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」
「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」
「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。
それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。
その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。
忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。
その数日後のことである。
「ててててててぇへんだぁ!」
伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。
「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。
「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」
「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。
「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。
「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」
「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。
「伊三次をこれへ!」
「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」
「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて
「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」
「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」
平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、
おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」
「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」
とやり返した。
「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」
その数日後
「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」
「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」
「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」
「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」
「あっ さようか ふ~むさようかのう」
「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」
「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」
「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」
「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」
木村忠吾健在なりであった。
画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
平蔵が再び剣を深く構え直した瞬間、相手の目線が平蔵の肩に止まった次の瞬間「だぁっ!!!」
と勢いよく突き進んできた。
「ぬぅっ!!」
平蔵は右に姿勢をひねりながら脇から左肩に切り上げた。
「グワッ!!」
低い声を漏らして平蔵を追うように足元にあお向けに倒れた、
その胸に矢が深々と突き刺さっていた。
「ウヌッ!」
振り向くとすぐ向こうの木陰に弓を構えなおそうとしている男が見えた。
「おのれ!!」
平蔵はその場から左右に動きを変えながら突っ走った。
この場合の弓はもはや使いものにならないことをよく承知しているからだ。
敵は慌てて逃げ惑い弓矢を投げ捨てて抜刀してきた。
「あがいても無駄だ!観念せい!」
平蔵が刃を横に流すように構える。
敵は右八双に構え、いきなり足元の木の葉を足先で蹴上げた。
バラバラッ!と落ち葉や小枝が平蔵の顔面めがけて飛んできた。
思わずたじろき、袖で顔を塞いだその瞬間
「ダァッ!」
渾身の力を込めて真横に刃をはらった。
「うっ!」
平蔵は低い声を漏らした、太刀を持った右手で押さえた平蔵の左腕から血筋が流れてきた。
「おのれ!!」
平蔵は更に男との間合いを詰めて行き、腰を大きく後ろにひねった。
敵はそれを見て大きく太刀を振りかざした、その刹那平蔵は軸足を左から右にかえ
、左脚を左前方に踏み込みざま右脇をすり抜けるように太刀を右手に委ねたまま
左に大きく振りぬいた。
「げっ!!」
刺客は腹を押えながら前のめりに平蔵の右側を泳ぐように土手を転げ落ちていった。
平蔵はその太刀にずっしりとした手応えを感じていた。
急いで土手の下に戻ってみると、胸元に深々と矢を打ち込まれた丈之介が虫の息で倒れていた。
「丈之介!しっかり致せ、貴様俺を助けたのだな!」
その声にうつろに目を見開き、見えぬものを探すようにゆらゆらと瞳を動かせ、
ふっ と笑うように笑んで息絶えた。
「丈之介!丈之介!!」
平蔵は丈之介の瞳の動きに気付かなかった己を悔やんだ。
あの時一瞬丈之介の目線が平蔵の肩越しに移った意味が、今初めてわかったからである。
「無念!無念!」
平蔵は己の胸を幾度も幾度も刀の柄で打ち据えた。
弓矢を射掛けてきた刺客の面体を外したが、平蔵には記憶のほかであった。
平蔵は手ぬぐいを引き裂いて左の腕に巻きつけ、とりあえず止血を試みた。
小半時を少し回った頃、深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内の長屋に平蔵の姿があった。
手傷を負った平蔵の姿を、染は息の止まる思いで迎えた。
「長谷川様!そのお怪我は!」
その声に
「平蔵殿が怪我じゃと!」
奥で左内の驚いた声が飛び出してきた。
「何があったのか俺にもわからぬ、別れて以来20年近い時の流れは、
それぞれの生きる歯車をすり替えてしまったのであろう。
放蕩無頼の俺が火付盗賊改方、一方の丈之介は無頼の暗殺者へと変わっていた。
録之助は乞食坊主が性に合っていると言い、左馬之助は浪々に身をやつし、
恩人の高杉銀平道場は素浪人の集まるさびれ道場。
時の流れとは、まことからくりのごとく先の読めぬものにございますなぁ」
染の手当を受けながら平蔵、ポツリと呟いた。
「長谷川様にこのような事が起こると、染は胸が痛みます。
お命がけのお仕事と解ってはおりますものの、かようなことは嫌でございます」
染は涙を浮かべて平蔵を見上げた。
「わしを付け狙う者はいくらでもおろう、それを恐れておってはこの御役目あい務まり申さぬ。
身共とて生命はおしゅうござる、だがのう染どの、今身共が退けばこの江戸は千々に乱れよう、
盗っ人共や無頼の者共が横行するは火を見るよりも明らか、江戸の治安は誰かが守らねばなり申さぬ。
この平蔵にご指名のある限り、生命を賭してもご奉公致さねばなり申さぬ」
平蔵の毅然とした言葉に染は返す言葉もなく、絞るように染の肩を掴んだ平蔵の無言の言葉に
涙も拭わず見上げていた。
裏の万徳院圓速寺の庭に今年も見事な桜が咲いている。大川の風に運ばれて
ときおり花びらがこの長屋にも流れてくる。
「染どののように、いつもあでやかよのう」
平蔵は胸に顔をうずめている染の肩にハラハラと振りかかる桜を見飽きもせず眺めていた。
この事件のひと月あまり後、平蔵は深川北川町万徳院圓速寺そばの長屋を尋ねた。
桜もすでに翠の葉で屋根を覆うように輝かせていた。
「親父殿に精をつけてもらわねば・・・・・それには一番、深川名物鰻のマムシ!」
と平蔵が鰻飯を下げてやってきた。
「両国橋の広小路に美味い鰻屋がござってな!ぬくぬくをホレ!こうして・・・・はははは」
平蔵愉快げに染に差し出した。
「マムシとは、長谷川様はクチナワまでお召になられますの?」
と少々警戒気味の顔。
「やっ これはしたり、そうか染殿はご存じないか、このような飯は!
まむしと申してな、焼いて味付けした鰻を飯の間に挟んだ為に左様の申すそうな」
「まぁ驚きましたわ、長谷川様は何でもお試しになられるので、
このたびはくちなわまでお試しになられたのかと、うふふふふ」
「実はのう、この焼き加減がキモでござって、一度焼きたる物をどぶろくの熱燗と
醤油に数度潜らせた漬け焼きがみそでござるよ。
醤油は薄口ではのうて、江戸の濃口醤油に味醂、日本橋葺屋町の大野屋のタレ、
これでのうては・・・・・うん?如何がなされた?親父殿の姿が見えぬが?」
「父は少し前より少々風邪気味で、本日は臥せっておりまして・・・・」
「おお そいつはいかぬ、春の風邪は中々に面倒いそうじゃ、
それでは卵酒でも作ってしんぜよう!」
「あれっ!長谷川様は卵酒をお作りになられるので?」
「おっ 可笑しゅうござるかのう?、染どの まずは卵じゃ、それに砂糖と酒・・・・・
まずは卵と砂糖をこう混ぜっ返してよく溶かし、混ざったところで
熱燗をぽちりぽちりと流し込む、酒に卵を入れると白身が湧いて固まり、
まずうござる、酒はこうして・・・・・
ううんっ!これは又、中々の出来でござるぞ親父殿うんうん、
いかがでござる?この酒の香りに卵のまろやかさ、のう親父殿」
「いやぁ これはまこと中々に中々に旨うござるなぁ平蔵殿あははははは」
左内は声を上げる。
「で ござろう、ウム、俺としては中々の出来具合、
こいつぁちともったいのうござるなぁ親父殿」
「長谷川様!私にもそのお味見を・・・・・」
「ふむ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでござるぞ染どの、
のう親父殿、卵酒は病人のもの・・・・・・」
「あら それでは長谷川様はどうして?」
「それはこしれぇた者の特権でござるよ染どの うふふふふふ」
「まぁ憎らしい私も風邪を引いて見ようかしら」
「あっ それはいかぬ、それは困る、のう親父殿」
「何故でございます?」
「あ いやこれはその何んだ、うむ 親父殿の世話をしてくれる者がおらなくなるとこう、
ちと不便でなぁあははははははは」
「まぁ憎らしい、おふたりとも覚えておいでなさいまし」
「あいや 染どのの怒った顔が又ようござるのう親父殿、こうなまめかしゅうて、
桜の花もこうまで色めきは致さぬぞ」
「もうお二人共酔っておいでにございますか!」
「染どの、卵酒がこうも美味いとは、今日の今日まで思いもいたさなんだ、」
「まことまこと、身体の中にず~んと温もりが流れ込み、いやはやこれはたまらぬ美味さ!
もう1杯くださらぬか」
「おお何杯でも、まだまだござりますぞ」
「長谷川様!何かお忘れではございませぬか!」
「おっ はて、?おおっ!忘れておった、だがなぁ染どの、
本日はショウガはござらぬ故これまででござるようん!」
「長谷川様の意地悪!もう私にはおすそ分けはございませんので!?」
「さて、こいつは困り申したのう親父殿、これは風邪を引きたる者の飲み物ゆえ、
染どのにまわる余分がござるかのう、いかがでござる親父殿?」
平蔵と左内は染を肴に卵酒で気炎を上げているのである。
「お二人とも染はもう知りませぬ!」
とべそをかきはじめた。
「やややっ これは困った、親父殿、染どのを泣かせてしもうた、
ちといたずらが過ぎましたぞ」
「これ染、本気ではないぞ、冗談じゃよ冗談!」
「おおそうじゃ 染どのには鰻をたらふく食していただき、
精をつけてもらわねば、のう親父殿」
「いや、ちとお待ちくだされ平蔵殿、染に精をつけさせていかが致す所存?」
二人は顔を見合わせてにやにやと染の反応を楽しんでいる様子に
「もうお二人とも許せませぬ、この鰻、染一人で頂きます!」
そう言ってさっさとまむし弁当を持ち去ってしまった。
「あれあれあれ 平蔵殿せっかくのまむしを染にかどわかされてしまい申したぞ、
これはしたり、いや大事でござる、早う召し捕ってくだされ!」
「おお!相手がまむし飯だけに召し取れは、これはよいよい ふわはははははっ」
平蔵と佐内は腹を抱えて大笑い、
「うむ風邪も呆れて飛んでゆきおったぞ」
盃に桜の花びらがはらりと舞い落ちた宵の口であった。
京極備前守高久
本所深川の京極備前守下屋敷より長谷川平蔵にお呼び出しがかかった。
「平蔵、御役目とはもうせぬ故無理にとは申さぬ、が この話受けてはくれぬか。
名は明かせぬがさる大名家の内紛に関わる一大事なのじゃ、
わしのところへ相談があってのぅ、その大名家には世継ぎが皆早死して
誰一人残されておらぬ、その折町方より上がって居った側室に世継ぎが生まれた。
この度その顔見世に宿下がりが執り行われることに決まったのじゃが、
反対派の暗躍が画策されておるということで、警護の願いがわしの方に出された。
お家騒動は我らの関知すべき事柄ではない、が さりとて知らぬふりも出来ず、
ほとほと困り果てての相談なのじゃ、どうだな平蔵」
「ははっ!備前守様のお言葉、この長谷川平蔵身命をとしましても
必ずやご期待に沿う所存にございます」
「おおっ 聞いてくれるか!これでわしも肩の荷が下りる心地じゃ、頼むぞ平蔵!」
「ははっ!!」
(うむ 事はお家騒動に発展しかねぬ、かと言うてお役には当てはまらぬ故
これはわし一人で当たるしか無いな、何としても備前守様のお顔を潰しては
ならぬ)。平蔵は事の重大さを胸深く仕舞いこんで帰宅した。
「お頭 備前守様のお呼び出しはいかなる事で・・・・」
と筆頭与力の佐嶋忠介が言葉をむけたが・・・
「ふむ 内々の話ということで。此度はわしひとりで当たらねばならぬ、
済まぬがしばらくは皆の統括を頼む」
この平蔵の言葉の重さを佐嶋は瞬時に理解した。
「おまかせくださいませ」
「うむ 頼むぞ」
「ははっ!」
まさに阿吽の呼吸というか、平蔵が見込んだだけの事はあるこの頭脳明晰な
剃刀佐嶋忠介である。
その翌日から平蔵の姿はこの清水御門からも本所菊川町の役宅からも消息が
ぷっつりと途絶えた。
数日後平蔵の姿が確認されたのは、ひげもマメにあたらず、
さかやきは伸び放題の素浪人姿で神田鎌倉川岸あたりで見かけたと、
おまさから佐嶋に報告が上がっていた。
「で、お頭の形はどうであった?」
と佐嶋の意味深な含みの問に
「それはもう うふふふ」
と含み笑いで答えた。
「おいおまさ お前一人で合点をしても仕方あるまい、さほどのお姿であったか?」
「はい そりゃぁもうひどい格好でございまして、あれはどう見ても
ゴロン棒でございますよ佐嶋様」
「ふふふふ やはりおかしらはそのあたりから探っておいでなのだな」
一方平蔵は備前守より漏れ聞いた「登城は大手門より」と いう言葉を便りに、
諸大名のお家事情を探っていた。
その日の夕刻、日本橋南材木町の居酒屋に平蔵が姿を表した。
加古達の出入りもあるらしく、気楽に入れる店構えが目についた。
「入ぇるぜ」
平蔵は腰に落とした赤鰯を外しながら座敷に上がり込んだ。
古びた簾越しに浪人風体の男が酒を飲んでいるだけである。
「おやじ 何かあったけぇものをみつくろってくれ、それと酒を2本ほど・・・・」
しばらくして亭主が膳を運んできた。
「おっつ 何だえこいつは?」
「へぇ 巻繊汁でございやす」
「ほ~けんちん汁とな、こりゃぁまたあったまりそうだぜ!
しかもけんちんとは又妙な名前ぇだなぁ」
「へい 元は精進料理だとか、建長寺の坊様が作っていたとかで・・・・」
「なるほどそれでけんちんじるか、上手ェ事をいやぁがる、だがこの味・・・・・
やっ!こいつは美味い」
思わず平蔵が声を上げたほどこの汁は1日の疲れを癒やすには美味かった。
「さようでござろう、拙者もこの味に惹かれて日参いたしておる」
と隣の簾越しに声が飛んできた。
「おお さようか、なるほどこの出汁が又素材とうまく馴染んで
旨味を引き出しおる」
「さよう 巻繊汁は仕立てる前が肝心で、大根・人参はイチョウ切りに、
ゴボウは皮を摺り落としてササガキにして水に晒しアクをとる。
里芋は皮をむき薄く輪切りにして塩でもみ、ぬめりを取り、軽くゆでておく。
コンニャクは半分に切って小口切りに致し、豆腐はふきんに包み水気を絞りぬく。
鍋に胡麻油をたらし込み、ニンニクをひとかけら・・・・
これがこの店のどうも秘伝らしい。
鍋を熱くしておき、此処に大根・人参・里芋・コンニャク・豆腐・
ゴボウの順に加えながら炒め、ごま油が馴染んで参ったならば昆布と
シイタケにて取りたる出汁を加える、煮立ったならば火を弱めて
アクをすくい取りながら柔らかくなるまで煮る、そこに塩・醤油・
酒を加えて味を整える。
とまぁざっとこんなふうに手間ひまかけて出来上がる」
「あっ 恐れいった!拙者もこっちの方にはちとうるさいと自負いたしておったが、
ご貴殿の講釈にはこれこの通り兜を脱ぎますぞ!」
そう言って平蔵杯を上げた。
「あっ いやこれはお恥ずかしい、実はこの講釈、この屋のおやじの常套句で
ござってなァあははははは」
「なるほど 左様でござったか、道理で油のよく回った話しぶりだと・・・・・
わはははは」
久しぶりに腹の底から平蔵は笑った。
「所でご貴殿はお見かけせぬが・・・・・」
「おお 通りかかって こう鼻が・・・・」
と平蔵鼻をヒクヒクさせた。
「なんと 身共も左様であった、ふむ同じ思いで誘い込まれるとは
おもしろき縁でござるな」
「いかにもさようで」
「拙者この先の小網町に住まい致しおります由比源三郎ともうします」
「おう これは申し遅れもうした、拙者に深川北川町に住まいおります
木村平九郎と申す者、以後見知りおきを願います」
「いえいえ こちらこそ以後久しゅうお頼み致す、
所でお見受け致さば我が身同様浪々の身と・・・・・」
あっ いやお恥ずかしい、このご時世武士の生きる世ではござらぬゆえ、
その日その日のにわかな稼ぎで糊口をしのいでおる有り様、
中々まっとうな生き方は難しゅうござる」
と刀の柄口をトンと軽く打ってみせた。
「もしかして 用心棒とか・・・・」
「まぁ悪巧みがなしと見えれば引き受ける、道中用心が張ったりかませて
稼げますわい」
「あいや これ又ご同業で わはははは、親なし子なし、主じなしと
3拍子の揃い踏みでこれ以上言うことはござらん、
まぁ気楽な家業と申しますかなぁ、又何処でかお目にかかることもござろう、
その時には盃なぞ酌み交わすのも、これ又乙と・・・・・」
「いや 全く、ぜひともこうなんでござる、美味い店とか、わははははは」
「いやぁそいつは又楽しみでござるなぁ、ぜひぜひ左様願いたい」
こうして意気投合したまま、その場は別れた。
平蔵はその足で深川北川町万徳院圓速寺そばの長屋に染千代を尋ねた。
「染どの、このような時刻に相済まぬ、なれど急ぎの用件にて許していただきたい」
「まぁ長谷川様 何というお姿で!」
平蔵の無頼の姿に驚きながらも
「そのようなお気遣いはご無用に願います、父上もあのように
喜んでくれておりますし、私も・・・・・」
「おお 平蔵殿 ようお越しくだされた!ささっとりあえずお上がりくだされ」
と左内が奥から出てきて招き入れる。
「親父殿 日頃のご無沙汰をお詫び申す」
「何を申される、他人行儀な、平蔵殿は身共にはまるで我が子のように・・・・・
あっ これはしたり、天下の盗賊改めの長谷川様を、平にお許しのほど!」
「何と、そこまで身共が事を、親父殿この平蔵今のお言葉誠に嬉しゅうござる。
今にして思えば、亡き親爺がそこにおるような懐かしさと温もりが
胸にこみ上げておりますぞ、まことまこと嬉しゅうござる」
平蔵は心の底からそう感じていた。
「長谷川様 所で急なお話とは」
と染が口を切った。
「おお そのことよ、親父殿のあまりの嬉しき言葉にとんと忘れるところで
ござったあははははは、
実はな、日本橋南材木町萬橋東詰の材木商平澤屋の内情が知りたいのだが」
「大店でございますね!」
「うむ そこの娘子の消息がしりたいのだ、どうも表立っての話は
伏されておるようで、我らが手では探れぬ、
誠に持って相済まぬがその辺りが判明致さば、
菊川町の役宅におる佐嶋と申す筆頭与力につないではもらえぬか?」
「長谷川様のためならば、お安いご用でございますよ、
早速にでも探って見ましょう、
お役に立てればこれ以上嬉しい事はございませんもの」
「済まぬ!このとおり、この格好を見られる通り事情あっての探索でな」
「でもまぁよくお似合いでおほほほほほ」
染は実に楽しそうに華やいだ笑い声を上げた。
「まんざらでもござらぬか?ちと気に入り申してなぁ、あははははは」
それから二日後おまさが平蔵のつなぎ場所神田の鎌倉町に現れた。
「細かい話はお会いしてということでございました、
それと京極様から急ぎの御用とか」
とおまさがつないできた。
急ぎ平蔵は深川北川町万徳院圓速寺に足を向けた。
「長谷川様!」
染は頬を高揚させて迎え入れた。
「で、何と・・・・」
慌ただしい平蔵の態度に
「どうやら平澤屋には娘ごがお大名の下屋敷に上がっている模様で、
そのご家中から近々里帰りがあるようでございます。
そのために平澤屋は人の出入りも厳しくなっているとの話がございました」
「おお やはり平澤屋であったか」
平蔵はこれで警護の道筋を組み立てることが出来そうである。
その夜、平蔵は久々に身なりを整え本所の京極備前守下屋敷を訪れた。
「平蔵 又その形(なり)は わはははは 、中々似合ぅておるぞ!
雑作をかけるのう」
「ははっ このような風体にて探索にあたっておりますが、
いや中々敵の姿が掴めず難渋いたしておりまする、
むさ苦しい姿をお目にかけ深くお詫び申し上げます」
「すまぬのう平蔵、そこ元にそのような姿までさせて。
だがな、事は重大じゃ。
その大名は細川越中殿じゃ、細川殿にはお子がおられぬ故肥後宇土藩より
養子を迎えることになった。
そこへ和子の誕生というわけで、世継ぎ争いが起きてきたと言うことよ。
細川としては財政難を支えておる平澤屋も大事、
かと言うて政は急ぎ継がねば乱れの元と痛し痒しということだ。
此度の一件は、先ず無事に送り迎えを終わらすこと、
その後の内紛にまで我らが首を突っ込むことでもあるまい、
のう平蔵、無事に収めてくれ」
京極備前守の言葉は平蔵の重荷を少しだが和らげることが出来た。
問題は2日後に迫ったお宿下がりの時、所、道筋の戦略である。
翌日平蔵は備前守の添え書きを持ち日本橋新場橋向かいの細川越中守下屋敷に
出向いた。
一方由比源三郎はというと、口入れ屋の紹介で日本橋呉服町の料亭(菊屋)にいた。
「由比源三郎どのでござるな」
身なりの整った紋付袴の侍が3名で待ち構えていた。
「いかにも由比源三郎でござるが、お手前方はどこぞのご家中と
お見受けいたすが・・・・・」
すると、中でも上司らしき侍が
「その件については詮索ご無用に願いまする」
と切り返した。
「判り申した、まぁ身共のような痩せ浪人に頼み事といえば、
深い事情は知られたくない、それは当然でござろう。
で、手っ取り早く話の内容をお聞かせ願えまいか?」
「お引き受け下さるか?」
「話の中身にもよる、身共とてまだまだこの生命おしゅうござるによって
勝ち目のない戦は避けたいからのう」
「断るというなら!」
と若い侍が柄に手をかけた。
「まてまて まだ断ると申されてはおらぬ、のう由比殿」
と上司格の侍が若者を制した。
「いやぁ近頃の若い者は血気盛んと申すが、血の気が多くていかん、
心の乱れは気の乱れ、そこに隙が生じましょうぞ」
とグッと睨み返した。
その威圧的な気迫に押されて若者は立てた片膝を引き、柄から手を離した。
「申し訳ござらぬ由比殿、若い者はまこと血の気が多く事を急ぎたがる、
無礼をお許しくだされ、ところで頼みともうすは用心棒一人切っていただくこと、
それのみ」
「人を切れと申されるか、殺人は死罪!それを承知でのお頼みだな」
「いかにも!後の始末はこちらで致す故ご心配にはおよばぬ、
いかがでござろう50両と言うことでお引受くださらぬか!」
「何と一人切って50両とは安くはないなぁ、さほどの相手ということじゃな。
田宮流皆伝の由比源三郎、剣客としてこの上ない話し、お受け致そう」
「おおっ お引き受け下さるか!かたじけない、早速でござるが時、
所は後日当方より何らかの方法にてお知らせ申す、
ひとまず本日はこれにて・・・・・」
菊屋を出た3名の後をつけはじめたが、出てすぐに3手に分かれた。
(さすが藩名を明かさぬだけのことはある、参ったなぁ、
さてどっちを微行よう・・・・・・)
後の二人はそれぞれ、一石橋を渡るものと、
川筋を日本橋のほうに歩むものとに分かれた。
源三郎はひとまず上司格の男の後を微行始めた。
男はまっすぐに鍛冶橋御門を横切り尼丘橋を渡り西紺屋町から元数寄屋町の
小料理屋(みのや)に入ってしまった。
(むぅ ちょいと当てが外れたなぁ)源三郎は対処を案じた、 が
(待って見るか、どうせ時はたっぷりある)
とそばの茶店に腰を下ろし暫し待つこと小半時、先ほどの武士が出てきた。
急いで物陰に身を潜めると、その武士は数寄屋橋御門の方へ歩みだした。
幾度か後ろを確かめながら、怪しげな微行者がいないか確かめるふうであった。
やがて、辿り着いたところは細川越中守上屋敷。
(ふむ こいつは50両も嘘ではなさそうだ、あとは、連絡を待つばかりだなぁ)
源三郎は踵を返して小網町の長屋に向かった。
翌日口入れ屋から連絡があり、本日正午に菊屋にお越しくださいとのこと。
源三郎は頃合いを見て菊屋に上がった。
「由比殿、時と場所が判明いたした、先日も申した通り、
詳しくはお聞きくださるな、切る相手は籠に添うております用心棒ただ一人、
他はこちらで対処致す。
敵はおそらく最短距離を取ると思える、ならば越中橋を渡り、
江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って北に上った
和國橋たもとと言う道順でござろう」。
「あい判った。それ以後はこちらで塩梅致すゆえ おまかせあれ」
「何卒よろしくお願い申す、家名が懸かっており申す故
しくじりは断じて許されませぬぞ」
「判っておる、この由比源三郎痩せても枯れても田宮流を収めた腕
、滅多なことでしくじりは致さぬ」
「おおっ それを聞いて安堵いたした、よろしくお頼み申す、
これは約束の金子50両お収め願いたい」
と無地のふくさに包んだ切り餅1つを差し出した。
「かたじけなく頂戴仕る」
源三郎は包のまま懐へ収めた。
「ところで細川家のご家中も大変でござるなぁ」
と水を向けてみた。
「ななっ!何と申される!」
見る見る血相が変わった。
「あいやそこまでそこまで、それ以上の詮索は無用と心得てござる」
と相手を制して源三郎ニヤリと笑った。
一方平蔵はと言えば、幾度か下屋敷を出入りして、敵の動きや道中の道筋など、
丹念に手当を講じていた。
(俺が襲うならば・・・・・細川家下屋敷を出れば向かいは本材木町、
人通りもあり襲うには不都合。こちら側は九鬼式部・牧野豊前と
大名屋敷で人の通りも少なかろう、
さて、いかが策を用いるか・・・・・
越中橋を渡り、江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って
北に上った和國橋たもとが常道よのう)平蔵は腕組みしながら絵図を眺めていた。
翌日早く日本橋の細川越中守下屋敷を一挺の大名籠に供の女十名ほどと侍5名に
警護され出立した。
新場橋を西に渡り本材木町を北上、まもなく江戸橋が見えてくる、
天気も良ければこのあたりから西の方にお城を見つつ不二山(富士山)が眺められ、
絶景の場所である。
蔵屋敷を過ぎようとした時、稲荷社辺りに潜んでいたのであろうか、
バラバラとたすき掛けの侍が駆け寄り、籠の前後を固めた。
平蔵は素早く籠傍に駆け寄り、抜刀して身構えた。
「女性は離れよ、無益な殺生は望むところではない!」
武士団の一人がそう叫んだ。
女どもは我先にと稲荷社の方に逃げ去った。
残るは5名ほどと平蔵一人・・・・・・
その時暗殺者の中から平蔵の背後に飛び出してきた男があった。
気迫に振り向いたその顔を見て平蔵
「源三郎殿ではないか!」
「何っ!おっと これは木村さん、どうして又このような場所に!?」
「お手前こそ、何故に卑怯な闇討ちに手を貸すのでござる?」
「いや 身共は浪人一人殺れとの約束で・・・・・・」
「で いくら貰った?」
「おう 金子50両だが」
「俺も安く見られたものよのう、100両でも受ける奴はゴロゴロいるぜぇ」
「なななっ 何と100両! そいつは無念、で、籠の中身は何だ?」
「もうよかろう、出て参られい染どの」
平蔵の言葉に籠の天蓋が開き、扉が開かれ中から出てきたのは染。
籠を取り囲んでいた暗殺者の中から声が上がった。
「図られた!!此奴はお局様ではない、かくなる上は共々皆殺しに致せ!」
「おいおい 証拠隠滅かえ、そいつぁ乗れねぇ相談だぜ、おい源三郎!
お前ぇはどうする?」
「待った待った!俺は降りるぜ、お家騒動の巻き添えは一度で十分
かんべんしてくれ」
「きっさまぁ良くも裏切りを!」
そう言うなり取り囲んでいた侍たちが一斉に陣を敷いた。
「染どの、ひとまずあれへ!」
と平蔵が先に逃げた奥女中共の方へ顎で示した。
「何の長谷川様、染とて武家の娘、まして与力の娘とあらば武芸の一つも
心得ております」
そう言って平蔵の脇差しを引きぬいた。
「おっ これはまた!」
平蔵は顔をほころばせながら染を背にかばった。
ダァ!!と、我慢ならず一人の侍が平蔵めがけて振りかざしてきた。
ヌンッ! その男は袈裟懸けに刃の峰で肩口から叩き伏せられてグワッ!とうめいて
その場に無様に崩れた。
「殺すではない!」
平蔵の声に
「判っております」
と答えたのが源三郎。
「おいおい お前ぇ一体どっちの仕事をするのだえ?」
平蔵の軽口に
「お家を引っ掻き回す奴は大嫌いでね、俺もこっちが性に合っている」
「やれやれひでぇ奴だなぁ裏切り者とは、あははははは」
「全くで、このような場面を考えても見なかったよ木村さん、あははははは」
「細川家のお方とお見受け申す、どなたかは存ぜぬが、
身共は火付盗賊改方長谷川平蔵と申す、京極備前守様よりのお指図でまかりこした、
ご存念あらばお伺い致そう。
すでにお局様は昨夜の内に町籠にて平澤屋にお届け申した。
これ以上の無駄な争いは無用と心得るが・・・・・・・お引き上げなされい!」
平蔵のこの一言に襲撃者は一瞬たじろいた。
「やむをえぬ 皆引けい!」
主犯格らしい男の声に、各々刀を鞘に収め稲荷社の方に駆け去った。
その時後ろで低いうめき声がした。
振り返る平蔵の眼に脇差しを掴んだ源三郎の座した姿が眼に飛び込んできた。
「源三郎!何という早まった事をしでかしたのじゃぁ」
「長谷川様とも知らず、このたびは誠に持って・・・・」
「源三郎しっかり致せ!」
「すみませぬ、金子は家内と娘の永代供養代にと、
昨日肥後早川の覚法寺に送り申した」
「何故!何故腹を切らねばならぬ!」
出血多量で意識も薄れてきている源三郎を平蔵は抱きかかえた。
「武士の一分でござる長谷川殿」
そう言って息を引き取った。
「源三郎!源三郎!」
平蔵はこの僅かな時であったが、気持ちの清々しい時を共にした源三郎を
惜しんでやまなかった。
「武士さえ捨てれば生きる道もあったろうに、
何と侍の一分とはかくもむごいことを飲まねばならぬのか!のう染どの」
「長谷川様・・・・・・
染が平蔵の傍に寄り添った。
「染どの、此度は危ない目に合わせ申した、何卒許されよ、
染どのをおいて他に策もなく、まことにこの長谷川平蔵心を痛めながらの
選択でござった。
わしの命に代えても染どのを護り通すと親父殿に約束いたした通り、
その気持ちに嘘偽りはござらぬ」
「長谷川様・・・・・・
染はそのお言葉だけでいつでも死ぬ覚悟でございました」
その数日後、平蔵は京極備前守下屋敷に姿を表した。
「平蔵!此度の働き、いや実に見事であった、この備前心より礼を言うぞ」
「ははっ! もったいないお言葉、この長谷川平蔵何よりの歓びに存じまする」
「ところでのう平蔵、細川の件じゃが、肥後国宇土藩より細川立禮を養子を迎え、
財政の立て直しを図ることに相成った。
平澤屋はこれまで通り細川家に助力を致し、子は平澤屋の跡取りとすることで
決着が着いた、まずは目出度い。
それにしても手際の良さはさすが平蔵よのぉ、いかような手立てを致したのじゃ」
「ははっ おそらくは当日表、裏共にみはられていようと考え、
その前日密かに町娘に衣装替えを致し、町籠にて身共が荷を担いで付き添い、
裏木戸から霊岸橋を南下して湊橋を越え箱崎町殻永久橋を渡り、
更に東に進み松平三河守様下屋敷を過ぎ、川口橋を越えて堀田備中守様下屋敷を
北上し、濱町川岸から更に北上して、久松町榮橋を渡れば和國橋までは目と鼻の先、
何とか無事に平澤屋裏口にお入り願うことが叶いました。
どうやらそれが網から漏れたようにござります」
「なるほどのう いや大儀であった、盃をとらす近う」
「ははっ・・・・・・」
盃を拭おうと懐紙を出すのを
「ああ そのまま・・・・まこと御苦労であった」
と盃を受け取った。
平蔵は胸の詰まる思いで備前守を見上げた、
そこには信頼の証のように京極備前の笑顔があった。
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この日も平蔵は単衣の擦り切れた長着の上に
洗いざらしの馬上袴を着けて市中見廻りの用意を始めた。
内儀の久栄は、この所平蔵がいそいそとこの支度を好むので、
どこか腑に落ちない風で「本日も目白でございますか?」
と問いただす。
「うむ ちと諸用があってな・・・・・」
平蔵はと見るとどこかウキウキとした紅潮が感じられる。
このような平蔵の態度は、平蔵が姑の長谷川宣雄に付いて
京へ上った時によく似ている。
「銕さま、都は江戸とちごうて華やぎの多いところゆえ・・・・・」
と、あちらの方を心配するのを
「拙の事は案ずるな」
と意気揚々と出かけ、浮き名を流したことも判っている。
袖に包んで、愛刀粟田口国綱ではなく、
鞘も剥げかけた赤鰯を差し出せば
「行ってまいる」
とそそくさと裏木戸を抜け出す。
実はこのところ面白い店を見つけたのだ、
名は(茶巾)ただそれだけのものだが、此処の茶がまたうまい。
「何ともこの味わいが旨い」
平蔵は久方ぶりの旨い茶に出会った。
「おやじ この茶は何処のものだえ?」
好奇心旺盛の平蔵納得がいかぬ様子である。
「へぇ、釜炒り茶と言いやして、茶は裏の畑で作っておりやす、
カカアが若くて柔らかい茶葉を摘み取りやす、
こいつは一芯二葉と言いやして、一本の芯に葉が二枚のものを
すぐに熱くさせた鉄鍋に入れてよく混ぜながら、
しんなりするまでかき混ぜやす。
しばらくすると青臭さが消えて良い香りに変わりやす。
そこで茶葉を出して風を入れながら冷ましやす。
そのあと葉を茣蓙(ござ)に振り拡げて水気を飛ばし、
茶葉を転がすようにしっかりともみますと水気が更に飛びます。
水気がなくなるまでこれを繰り返して、その後茶葉を揉みながら形をつけ、
摺り合わせて細く針のように仕上げ、光るようになるまでくりかえしやす。
「なるほどなぁ それでこの香りがまた格別なのじゃな?」
「へぇ鉄釜で煎られた茶葉は特に薫りがよろしゅうございやす、
それに又色目が綺麗で黄金色に輝くのが上質と・・・・・」
「う~む まさにその通りよ、この色といい香りと言い中々に至福の時じゃ」
「ありがとうございやす」
「ウムそれにな、この菓子、こいつが又旨い」
「ははぁ お気に召しましたでございやすか」
「うむ こいつは一体ぇ元は何だえ?
口当たりからは芋のようであるが・・・・・」
「あははは お武家様 よくお判りで、
そいつは芋を薄切りにしてカラカラに乾かし、
それを蒸かしてお天道さまに乾かしていただくんで」
「やはり芋であったか、それにしてもこの甘さは又・・・・・」
「幾日もお天道様に乾かしていただきやすと、
飴のような甘みが出てまいりやすこれをすりつぶして茶巾で包み、
形を整えやす」
「ふ~む それで絞った形が残るというわけだな、
それで茶巾か、わははははいや恐れいった、
それにしても茶と言い茶巾包と言い、中々に手間ひまかけた物よのう」
「お武家様 なんであれ、手間暇惜しめばろくなものにはなりませんや。
手間がかかる・・・・・・こいつぁいけません、
ですがね、手間ひまかける・・・こいつぁ先が楽しみで
それだけの値打ちが出ようってもんでございやすよ、
あっしはその手間ひまかけた末のものをお客様が楽しみ、喜んで下さる、
それを頂くのが一番の贅沢かと・・・・・・」
「おお こいつは良いことを聞いた、なるほどなるほど まさにその通りじゃ」
平蔵はこのどこにでもいるおやじの言葉が大いに気に入った様子であった。
こうして平蔵がこの茶店に寄るようになったのが今の経緯である。
「気をつけろい!」
罵声に振り返った平蔵の目の前を初老の男がよけながらべたりと
地べたに倒れこんできた。
「おい 大丈夫かえ」
平蔵はその男をかかえるように抱き起こした。
「これはどうも とんでもないところをありがとうございました」
「近頃の駕籠かき共はまるで神風みてぇで危なくてしょうがねぇな」
「全くでございますよ」
これがふたりの出会いの始まりであった。
見れば右の肩口が裂け、肌着が朱に染まってきた。
「おうこれはいかん 肩を怪我なさっておる、
これ亭主!水と、それから焼酎があればそれを、無くば酒だ!」
平蔵は亭主の持ってきた酒を、懐から手拭いを出し二つに裂き、
それに酒を振りかけ軽く絞って
「ちとしみるが我慢いたせよ」
男の襟元を押し開き傷口に押し当てた。
「おおっ」
思わず平蔵が驚きの声を小さく発した。
ううっっと声を殺し、歯を食いしばった後、ほっと息を抜いて
「お見苦しい物をお見せいたしてしまったようで」
男は苦笑いをしながら襟元を正した。
「いや 見事な物でわしも目の保養をさせてもろうた」
「お恥ずかしい、若い時分に粋がって彫ったもので、
いまじゃぁしわがれた姿に成り果てました、
この私のように・・・・・ははははは」
男は茶をすすりながら街をゆく人々の動きに目をやる。
「のう ご老人、わしはこの茶と茶巾が気に入って、
時折寄るのだが、いかがであろう?」
平蔵の問に
「ああ左様で御座いますな、私もこの茶が好きでこうして
時折出かけてまいります」
「いやぁ そうであったか、うむ 誠にこの茶は旨い」
平蔵も目を細めて茶を口にすすり入れる。
それから数日後、再びこの老人と出くわす。
「おおご老人 その後怪我の具合はいかがかな?」
軽く会釈する老人を見ながら平蔵が店に入っていった。
「お武家様その節は大変お世話になりまして、
おかげさまで傷もすっかり元通り、
ちと梵天様のシワが増えたようにございますが」
「わははははは さようか、梵天様とはいやなかなか」
「しかしなぁ 何で又梵天様なんぞを・・・・・」
老人は恥ずかしげに笑いながら
「私は周防長門の国厚狭郡中村の在でございます。
子供の頃から遊び下手で、ほとんど毎日近所の浄圓寺の境内で一人遊び、
そこには大きな公孫樹の木がございまして、秋ともなると葉が色ずき、
毎日ハラハラと舞い散ります。
公孫樹には男樹と女樹がございまして、
男樹は葉が真ん中から分かれておりますが、
女樹はこれが裂けておりません。
秋になるとたくさんの実が落ちこぼれてまいります。
落ち葉に折り重なったまましばらく致しますと異臭がいたしますので、
たいていは毎日清掃とともに取り入れます。
竹籠に入れてしばらく放置いたしますといやはやこれだけは言いようのない
異臭が漂うようになりますが、これを近所の小川の棒杭に引っ掛けておきますと、
水の力で綺麗に取れます。
それをお寺の境内に持ち寄って掃き清めた落ち葉に火を着けて
焚き火を致すのがほとんど毎日の事、そ
の焚き火にこの銀杏を放り込みますと、
しばらくしてパチンと実がはじけて淡い翠色の実が赤い衣を脱ぎかけて
飛び出してまいります、
これを拾ってふうふう言いながら食べるのが私ら子供の遊びでございました。
何しろ貧しい土地柄でございましたから、
稲刈りなどもハゼ掛けした後残された落ち穂を拾うて集めるのも
私らの仕事、一日掛けて拾えば結構な量になります、
それは皆で食べる芋粥の種になるのでございますよ」
「ほうほう!!」
平蔵は自分の幼少時代の遊びとはかけ離れたこの老人の子どもの遊びや
暮らし方にひどく興味をそそられたようであった。
「だがご老人 稲穂を拾うのは罪ではないのかえ?」
ついつい日頃のお努めが顔をのぞかせる。
「はい それは皆様お天道さまの取り分と申しまして、
貧しい者たちへの恵美(めぐみ)と思うておりましたようで」
「恵美とはまた美しい響きであるなぁ」この言葉に平蔵感無量の面持ちであった。
「そいつをどうやって遊びにしたんだえ?」
もう平蔵もその時のその場所のガキ大将になった気分の様に興奮して
膝を乗り出して老人の話を催促する。
「はい ひと掴みの稲穂を焚き火の上にかざして動かしますと、
パチパチと稲穂がはじけて、中から真っ白な実が覗きます、
これを手でしごいて集め、口に頬張るのでございますよ」
まだ青臭い米の薫りが何とも・・・・・・懐かしい思い出でございますよ、
はははははは」
「何と羨ましい話だのう、でその背中の梵天様はどうして
背負うようになったんだえ?
こいつは伺ぅてはまずいかのう、いやどうもこう好奇心が先走ってしもうて
相済まぬ」
と頭を掻き掻き笑いかける。
「いやいやそのようなことではございませんが、
その頃よく遊びに参っておりましたのが沖仲仕の親分の所でございました。
ある暑い日に
「坊!水浴びせんか」
と木陰にたらいを置いて子分衆に水を運ばせ、
たらいの中に私を入れて遊んでくれました、
その時に片肌脱いだ背中から胸にかけて梵天様が彫ってあったのでございますよ。
それを見た私に
「坊 大きゅうなってもこんな彫り物するんじゃ無いぞ、
おやごさんがかなしむでなぁ」
って言われましたがね。
周防長門の国は先が瀬戸内で魚介類はそれはもう手ですくうほどの
場所でございましたが、その親分さんにはお子がなく、
私が遊びに行くととても喜んで、私はその親分さんの膝の上が
親の膝のようなものでございますよ。
その御方は中国を股にかけた勢力をお持ちのお方でしたので、
そこいらの親分衆がよく集まっておりました。
そんな中で育ちましたので、いつのまにやら私も渡世の世界へ
足を踏み入れてしまい、まぁよろず揉め事承りみたいな事を
始めたのでございます」。
「てぇと何かい取り立てとか・・・」
「あっ いえ そのようなものではなく、貸し倒れとかその後のことを
うまくまとめる仕事でございますよ。
何しろたいていはそんなところには土地の親分衆がからんでおります。
そこでまとめ屋が必要になるのでございます。
双方をうまくまとめる仕事、これは親分衆には出来ません、
かと言って上辺だけで片付くほど甘いものでもございません。
そんな時子供自分から慣れ親しんでいた親分衆の出入りが
役に立ったのでございますよ」
「なるほど、子供の自分から顔が知られていれば、
いずれも仲間内みたいなものだわなぁ、
さすれば話もまとまりやすい・・・・・・
うん確かに確かに」平蔵納得の様子に
「まぁ私もお上のご法度以外は何でもやって来ました、
すれすれの世界で世渡りしてきたのでございますから、
その頃勢いに乗ってやっちまったのが背中のモンモンで、あははははは」
「それが又何故このお江戸に来ることになったんだえ?」
「あはははは まるでお取り調べのようでございますねぇお武家様」
男は笑って愉快そうに腹を揺する。
「いやいやとんでも無い、だがしかし、ご老人の話はいや中々に楽しい、
こう胸がざわめくほどでござるよ」
平蔵は老人の指摘が当たっていただけに慌てて話を反らせた。
「真締川の付け替え工事の利権に絡んで親分が闇討ちにあいまして、
まぁ親分の仇はどうにか討ち果たしましたが、
とうとう戒めを犯しての凶状持ち・・・・・・
で誰も知らないお江戸でこうひっそりと・・・・・・ははははは」
さみしげに男は笑った。
それから半年が瞬く間に過ぎた。
二人にとっては相変わらずこの茶店は憩いの場となっていた。
「一つ我が家においで願えませんかな、ここほどの旨い茶は出ぬとは
存じますが一つ碁のお相手でも一手ご指南頂ければありがたいことで」
「さようか、それも又目先が変わればなんとやらと申しますな」
平蔵乗ってきた。
「おさよ 今帰ったよ」
老人は声をかけて戸口を開けた。
「お帰りなさいませ」
中から華やいだ声が飛び出してきた。
まだ二十歳を回ったばかりと見える若女であった。
「おう これは!」
驚く平蔵に
「私もこの年で、身体も思うに任せません、
それで身の回りを世話してくれるおなごを雇ったというわけでございますよ。
近所では色好みのご隠居で通っておりますがな、
このおさよには好いた男が居りますのじゃ、のうおさよ!」
「あれ そんなぁ・・・・・」
おさよと呼ばれた小女ははにかみながら平蔵に座布団を薦めた。
「今日は何を作っておくれだい?」
「はい先日ご隠居様がお話しされていましたゆうれい寿司を作ってみようと」
「おうおう それは懐かしい、ありがたいねぇ」
「ゆうれい寿司?それは又奇っ怪な名前で何と申すか」
平蔵の好奇心もすでに上り詰めた面持ちである。
「はい 古くは酢飯に冬は柚子の絞り汁、夏場は青柚子の
絞り汁を入れただけの酢飯、これに仙崎あたりから運ばれてまいります
塩さばや干物、しおくじらなどを酢じめにして乗せたり致すようになりました。
今日はどのような物が出来ますやら、ははははあ
楽しみでございますなぁお武家様」
ゆうれい寿司の出来るまで碁を打ちながら茶をすすり、
静かな時間がゆるやかに流れていった。
「おまちどうさまでした」
そう言って膳が運ばれてきた。
「ほう これは又何とも・・・・・」
四角に切り分けられた表はただの白酢飯に平蔵は
少しばかり意表を突かれた面持ちではあった。
「春ならばこの表に青柳の葉を二枚ならべて・・・・・・」
「わはははは 幽霊も出そうな・・・・成る程こいつは愉快でござる」
「はい この酢飯は白魚のエソをすり身にしまして、酒、醤油、
塩を合わせたすし酢にこのすり身を加え出来上がりで、
中に入れますゴボウや人参、油揚げに戻した山菜を混ぜて砂糖や、醤油、
酒、味醂で煮付けます。
昆布で炊きあげた白飯に先ほどのエソのすり身を混ぜ込んで酢飯を造ります。
この酢飯を三ッ割に取り分けて二ツにかやくを混ぜ込み、
下に芭蕉の葉や,葉蘭を敷いて、その上にこの酢飯を敷き詰め、
錦糸卵やおぼろを敷いて、その上に白酢飯を敷き、又詰めながら繰り返し、
数段重ねた上に白酢飯を重ねて、表に芭蕉葉や葉蘭を敷き詰めて蓋をし、
重石をかけて木枠を外し、目付板を置いてそれに合わせて包丁を入れます」。
「何と手のかかる仕事よのう」
平蔵はこの素朴な物にそこまで手を掛ける料理へのこだわりを感心していた。
「先の茶巾のご亭主がよく申しております、良いものは手間暇掛けねば造れないと」
「おうおう わしもそれをあの亭主からご教示頂いたぜははははは」
「さようで・・・・・まぁ早速お口汚しに」
と箸を取り上げた。
「うむ では馳走に相成るか!」
平蔵も箸を取り上げ口に運んだ。
「うむ この薫りは青柚子だのう、それにこの酢飯の具合がいや
これはこれはまろやかで口の中で拡がる心地の良いこと、
これは一朝一夕で出来るものではござるまいわはははは」
平蔵ほとほと感服の体である。
帰り際老人が「こいつぁお口汚しのついでにお手間じゃぁござんしょうが
奥方様へのおみやげと洒落こんで・・・・」
「ほぉそいつぁまた・・・・」
「なぁに、ただの醤油でございますが、周防柳井津の甘露醤油でございますよ、
こいつぁ刺し身がよう合います」
そう言って持たされたのがさしみ醤油であった。
それから数日、又もや妻女久栄の白眼を横目に平蔵赤鰯をたばさんで出かけた。
すでに袷を着る頃となっていた。
「何!あのご老人が見えぬと?」
「へぇ この所一度もお目にかかっておりやせん」
おやじの返事に平蔵胸騒ぎを覚えた。
くだんの家に出かけてみると、すでに空き家の貸札がゆらゆらと
無表情に揺れていた。
近くのものに尋ねると、二日程前に押しこみがあってその老人が殺害された
という話しであった。
「で 若いおなごが居ったはずだが・・・・・・」
「へぇ それが不思議なことにその翌朝からぷっつり姿が見えねぇんで」
「くそ!!! やられた!」
平蔵は僅かではあったが腑に落ちない事があった。
それはゆうれい寿司を作った時の手際の良さであった。
「あれほど手際よく聞いただけで出来るものではない、
おそらくは昔作った覚えがあったからであろうよ・・・・・
のう佐嶋!そうは想わぬか?
俺はあの隠居が親爺と慕ぅておった沖仲仕の親分の仇を討ったと言っておったが、
もしかしたらそのやられた相手の遺恨返しであったのかも知れねぇなぁ・・・・」
お互い名を告げることもなくあえて名を知ることもないまま
心の隙間に流れた秋の風をいつまでも平蔵は忘れることはない。
平蔵には唯一の隠れ家であったあの茶巾をその後再び訪れることはなかった。
柳の裸枝がゆらりとひとつ揺れた。
「秋の風は心寂しいものだのぉ・・・・・・・」
相模無宿の彦十 この上に猫さんはなく、
この下に猫さんは居ない・・・・・当たり役だったなぁ
此処は半蔵御門を真っ直ぐに西へ取った麹町九丁目
お店の名前を(大坂屋)という穀物商、主は五十がらみの優男で、
名を菊次郎という。
奉公人は十名ほどで、さほどの店ではない。
今朝も今朝とて朝餉8あさげ)を済ませた老人に、
丁稚がのれんを分けた間からこれもか細い体つきの腰を曲げた格好で
ヨイショと声をかけながら空を見上げた。
「ほな 行って参じます」
「へぇお気をつけて行っておいでやす」と店の者に見送られて、
杖をつきながらよたよたと半蔵門の方に向かって歩き始めた。
いつもと何の代わり映えもない一日の始まりであった。
この老人、名を久左衛門といい、上方でも同じ穀物を商っている。
大坂の店は長男の菊太郎が引き受けており、上方と江戸の両方で
更に商いを拡大しようという触れ込みでのことのようである。
そのために、この度江戸にも店を出すことになって、
次男の菊次郎が主を務めることになった。
あちこちの茶店に寄ってはしばらく休み、世間話をしながら
めぐるのが楽しみのようで、
ほぼ毎日朝出かけては夕方帰ってくるというのが日課のようであった。
先々の茶店でも居酒屋でも(ご隠居さん)で通っていた。
何しろすでに七十近くになると見えて、それなりに耳も少し遠い
多少は大きな声で話さないことには、馬の耳に念仏の例えのように、
仏様のような笑顔でニコニコ笑っているだけである。
立ち寄る店の者もすっかりそれには慣れてしまっているようで、
さほど気にもしていない。
それでも時には心配だからと一人手代がついてくることもあった。
そんなある日の出来事である。
「ご隠居さん本日もごきげんでございますね」
と茶屋の親爺が迎え入れる。
「はいはい今日は向かいの相模屋さんが又大賑わいでございますねぇ」
「へえへえ 本日は相模屋さんの荷物が届きまして、
それで人出が多いのでございますよ」
「はぁさようでございますかぁ いつもこの頃で?」
「へぇ 船の都合とかで毎月決まっているようでございますよ」
「はぁそりゃぁ又大事で・・・・」
と 人足の出入りを眺めながら茶をすすっている。
茶をゆっくり飲み、饅頭をつまみながら供の手代に
「ありゃぁ大変な荷物じゃなぁ清どん」
と声をかけた。
「ほな又寄せてもらいまひょ、おおきにごちそうさんでした」
老人は供の者を従えてよたよたと歩き出した。
こんなことが一年以上続き、すっかり馴染みになった店のものからも、
知りたがりやのご隠居様で通るようになった。
それほどこの老人は物を尋ねるのが好きなようである。
「こんな雨の中を、足元の悪いのにわざわざ・・・・」と 言えば、
「じっとしていると身体が生っちまってねぇ、雨も又風情があってようござんすよ」
との返事。
まぁ人は好き好き、こんな日は雨宿りの客くらいしかないものだから、
店の亭主も座り込んでの長話、世間話に花が咲くというものである。
「おや 雨の日でも荷物は運んでくるのだねぇご苦労なことで」
「そりゃぁご隠居さん、雨だろうが風だろうが荷役は待ってはくれませんやぁね、
ああして雨の日は人足の数も少なく、蔵まで運ぶには時がかかりまさぁ」
「ふ~んそんなに蔵まで遠いのかいなぁ」
「さようでござんすね、大黒様の鏝絵(こてえ)が見えるのが一ノ蔵、
弁財天が二ノ蔵と聞いておりやす」
「はは~ 鏝絵でっかぁ何ですかそれは」
「あれまぁ ご隠居さんもご存知ねことが・・・・・ははは。
鏝絵は左官が壁を塗る時にコテで絵をかいたものでございやすよ、
漆喰は貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作るそうで、色目には色土や岩、
貝殻から松脂(まつやに)のススまで、何でも使うそうで、
特におめでたい絵柄は大切な蔵や土蔵に飾るようでございやすよ」
「はぁ~そいつはまた豪気な話で・・・・・」
呆れた表情でキセルに煙草を詰めてぷは~っと気持ちよさそうに
雨の向こうの喧騒を眺めている。
「おやおや清どん、今日は又荷車がひいふうみい・・・・
五つも並んでおるによって、荷が雨に濡れたら大変だすなぁ」
「左様でございますなぁ大旦さん!あの荷は何でおまっしゃろか?」
「ああ あれは堅魚でございやすよ、荷函に字が書いありますやろ、
今のじぶんは土佐物が多く、四国沖の物が出回ります、へぇ」
「へ~堅魚でっかぁ、あの出汁にする」
とご隠居さん興味津々で言葉を引き継ぐ。
「へぇ 堅魚とか松魚とか言うそうで、土佐から阿波、紀州、駿河、
伊豆、相模から安房、房総、上総、陸奥と最後はなんと蝦夷まで行くとか、
で、それぞれ捕れる時期が変わるそうでございやすよ」
「へへ~それにしてもご亭主どん、よう存知でんなぁ」
「そりゃぁもうご隠居さん、しょっちゅう相模屋さんの大旦那から
聞かされますんで へぇ」
「特に堅魚はあっしらには縁のねぇもんでござんすがね、お武家様や大店、
はては将軍様までこの堅魚で出汁を取るのが一番とかで、
そりゃぁ大層な値段で売れちまうそうでござんすよ」
「ほっほっほっそれじゃぁあのお店はおぜぜがぎょうさん貯まるばかりでんなぁ」
「さいですなぁ あっしらにやぁ関わりござんせんですがね、
まぁそれで蔵が二つも三つも並ぶってぇこってござんしょうね、
はぁ何とも羨ましい話でござんすよ」
亭主はそう言って新しい茶を出してきた。
それからひと月あまりが流れた。
「おやご隠居さん、お久しぶりでございやしたね」
と茶店の亭主。
「おおっ これはこれは 何ね ちょいと身体をこわしたもんで、
ひきこもりぃだす。
やっとお天道さまの下を歩けるようになりましてん」
「そりゃぁ又難儀でございやしたねぇ」
「おや ご亭主どん 向かいのお店がえらい騒がしいようだすが・・・・・」
「へぇ 何でも昨夜お店に盗っ人が入ったとかで、
今朝からお役人様方が色々と出入りされておりまして、
あちこち聞いて回っておられますようで」
「さいですかぁ、そりゃぁ又大事っちゃ、のう小吉どん」
「でどないな様子だす?」
「それがでんね、何でも朝方押し込みがあって大旦那やおかみさん、
番頭さんなど主だった奉公人が皆目隠しの上に猿ぐつわまでされて、
今日入る荷のための為替金100両と、この月のお店の売上などが
盗まれたそうでございやすよ」
「やれやれ 何とお気の毒なこって」
と相変わらず美味そうにキセルをふかす。
「わてらも気ぃつけとかんとあきまへんなぁ清どん」
「ほんまでっせぇ大旦さん、江戸はきついところでおますなぁ」
ところがこのような事件がこのところ頻発した。
狙われるのは荷が入る前日か、その前日・・・・・・
判でしたように似通っており、町方だけでなく火付盗賊改方にも
この話は舞い込んできた。
「うむ 近頃では珍しい押し込みではあるなぁ」
平蔵は昨今頻発している急ぎ働きの悪辣(あくらつ)な手口に
胸の悪くなる思いであったから、余計にそう思えたのかもしれない。
「小林!お調書をもう一度洗いなおしてみよ、他に手すきの者は
被害のあった店に出張り、更に詳しく、落ち度なきよう聞き取ってまいれ、
ああそれから近所で不審なものや話などなかったかそれも忘れるでないぞ!」
と命じた。
その数日後密偵や同心などが聞き取りしたお調書が集められた。
筆頭与力の佐嶋忠介をあたまに、盗賊方の主だった面々が
清水御門前の役宅に集められた。
平蔵は大きな紙を広げ、そこに日時、場所、時刻、店の内容、
奉公人の規模、被害額など判る限りを書き出させた。
ところが面白いことに忠吾が気づいた。
「おかしら、どうも先ほどから私めが担当いたしております不審なもの、
あるいは特定の者の中に知りたがりやのご隠居とか申すものが度々見えまする」
「何ぃ!」
平蔵の顔が一瞬引き締まった。
「忠吾 其奴は一体何者だえ?」
「はぁ 何でも久左衛門とか申すようでございますが、
皆は知りたがりやのご隠居様と呼び親しんでおるようにございます」
「うむ 知りたがりやとはちときになるのう・・・・・」
これはいつもの平蔵の感ばたらきにすぎない。
「よし!とりあえずそちはその知りたがり屋のご隠居を・・・・・
おおそうだ、伊三次とあたってみてくれ」
「ははっ!」
木村忠吾は早速密偵の伊三次を清水御門前の役宅に呼びつけ、
事の次第を告げ、話が出ていたお店を回らせることにした。
数日後忠吾は平蔵の報告書を持ってやってきた。
「おかしら 例の知りたがり屋のご隠居の身元が判明いたしました」
「おう ご苦労ご苦労 で、 お前ぇはその間何を致しておった」
「はぁ?」
「これ忠吾 お前はこの俺の眼が節穴だとでも想っておるのか?」
「はぁ~一体何のことでござりましょう」
と、とぼける忠吾ではあったが
「馬鹿者!お前ぇが一切を伊三次に背負わせて、
昼日中から茶屋に出入りしておることを知らぬとでも思うたか!
此度の事を何と心得ておる忠吾!」
「ははっ!!!!!何ともその、あのぉ・・・・・」
忠吾は廊下に頭を擦り付けてなお顔の埋もれるほど低頭した。
「忠吾、わしはなぁお前ぇに茶屋通いを致すなと申したことはない、
だがそれも時と場合を考えるであろうと想うたからじゃ、
その俺の気持ちをお前はいかように想うておる!」
「ははっ 申し訳もござりませぬ、親の心子知らずとは
誠に持ってお恥ずかしく・・・・・」
「もうよいわ! で、いかように判明いたした?」
「はい 伊三次の申すには、この知りたがり屋のご隠居は
麹町九丁目に大阪屋と申します穀物商の隠居だそうでございます。
名を久左衛門と言い、1年と少し前に上方からこの江戸にやってきて
商いを始めたそうに御座います。
商いの方も手堅くやっておるようで、店の評判もなかなかよろしいそうにござます」
「ふむ こたびはちとわしの想いと外れたのう・・・・・・・
だがどうもこう、歯に何かがはさまったような、
う~ん いやさっぱりと致さぬ、ふむ」
平蔵、腕組みをしたままじっと目を閉じて、散逸した駒を頭のなかで組み替える、
そのような面もちである。
「他に駒が見つからぬか・・・・・・
「もう一度そこいららあたりを更に深く探るように伊三次と、
おう彦十にも左様申し付けておけ、それとな、忠吾程々に致せよ」
「はっっ!!!!」
平蔵はこれまで被害のあった店を中心の探索から、
知りたがり屋のご隠居の徘徊先を洗いなおしてみることに切り替えた。
平蔵の部屋に拡げられた絵図面には、このところ立て続けに被害にあった店の
印が記されてあった。
「どうもこの目の端がぴりぴりするでなぁ」
と筆頭与力の佐嶋忠介に話した。
被害の範囲が一定の広さから出ていない、要するにどこからであれ、
1日かかって歩ける範囲に集中していることが平蔵のピリピリに
つながっているようである。
したがこの範囲内に在る商家といえば、まるで途方も無い数に登る、
何かに的を絞らねば・・・・・・・
だが、その何かが判らぬ・・
ほころびとは想わぬ時に見つかるもので、日常ではさほど多く目にすることではない。
この度の事件も想わぬところからその糸口が見えてきた。
伊三次が相模の彦十を伴って麹町の大阪屋の隠居、
通称知りたがり屋のご隠居を微行すべく店の斜向かいの建物陰で待ち構えていると、
それらしい風体の品の良さそうな老人と共の者が出てきて
店先で何やらふたことみこと言葉を交わして歩き始めた。
「彦十さんあれが例のご隠居さんだ、後に付いているのが手代の清吉ですぜ」
と伊三次が顎で指す。
「ふ~ん あの野郎かい 銕っつあんの言っていなさる野郎は・・・・・」
彦十はさほど気にすることもなく漠然とその老人を眺めた。
通りがかりの者がその老人に挨拶を交わした、その後供の者が振り返りながら
世辞を言ったようだが・・・・・
「あっ!」
彦十が小さく驚きの声を漏らした。
「伊三さん、確か清吉って・・・・・」
「ああ そうだよ、清吉ってえんだ」
「清吉ねぇ・・・・・・」
彦十は何かをつなぎ合わそうとするように首を傾げたまま集中している。
「あれっ 珍しいじゃござんせんか、彦十のとっつあん考え事をするってぇのは」
「おいちょいと待ってくれよ、あの顔どこかで見たんだよなぁ」
彦十は伊三次のからかい半分の言葉を制しながら記憶の糸を
浮かび上がらせようとしているふうである。
「まぁそいつは歩きながらでも思い出せばいいや、
それより長谷川様のお言いつけ通り、後を微行けなきゃぁ」
「おっとがってん承知之助」
彦十も頭を切り替えたらしく、ひょこひょこと微行を始めた。
「う~む どうもねぇ・・・・・」
彦十はそれほど前をゆく若い男にひっかるようである。
いっ刻程後を尾行(つけ)たとき、浅草の柳原同朋町にさしかかった所で
茶店に立ち寄った。
いつものようで、いっぷくふかしながら、
出された茶をすすり浮世話しでもしている風情である。
両国橋を抜けて左に曲がり、柳橋を潜った所で一双の川船が荷揚げを始めた。
上げたところは川向うの平右衛門町、その向こうは浅草御蔵が続く蔵前である。
しばらくして隠居主従は立ち上がってまた歩き始めた。
「とっつあん、あっしはこのまま奴の後を微行やすんで、
とっつあんは先ほど奴らが何を話したか、茶店の親爺に探りを・・・・」
「がってん承知!任せてくんねぇ」
と掌を叩いて茶店に向かった。
「とっつあん 茶代だ!」と伊三次が気を利かす。
「へんっ!オイラだって茶代くらいは持っているよう伊三さん、
後は任せな、それより・・」
と首をひょいとしゃくって先立った主従の方を見やる。
「任せねぇ」
伊三次は素早く後をつけはじめた。
「おう ご苦労であった!」
本所菊川町の長谷川平蔵役宅で報告を待ちわびていた平蔵が
キセルをふかしながら畳縁に腰掛けて庭の紫陽花の色移りを眺めていた。
「で、 彦 いかがであった!」
平蔵は相模の彦十の収穫に期待をしていた様子であった。
「それがね銕っつあん、どうにもこうにも、あっしは伊三さんと分かれて、
野郎が何を聞いたか喋ったか、そこんところを探ろうと茶店に入ぇりやした」
「おうおうそれでどうした」
平蔵はその先を聞きたくてウズウズしているようである。
「ところがドッコイでござんすよ、なんてぇこたぁねえありきたりの世間話でね、
へっ面白くもおかしくもねぇや」
と、彦十、あてが外れてようでふてくされている。
平蔵もその返事に少し腰砕けを感じつつも、一日中歩き回された
この元老盗の働きをねぎらうように言葉を返した。
「なぁ彦十 お前ぇは世間話に聞こえたやも知れぬがな、
そんな普通の話の中に思わぬ者が潜んでおる、
いやさ、老獪になればなるほどその辺りの仕掛けは巧妙でな、
それがわかっちゃぁお前ぇおしまいだぜ」
「へぇ~そんなもんでござんしょうかねぇ、
野郎(今日は又弁財船でも入ったのかねぇ、川船が幾双も寄せて、
お向かいは賑やかで、とか何とか平右衛門町の船着場の様子を
供の男に話していたそうで。
一瞬平蔵の顔色が変わった。
「なにっ 弁財船だとっ!! むむっ ぬかったわ そいつだ!
彦十そいつが奴らの狙いだったんだ、でかしたぜぇ えへへへへへへ
う~むでかした!」
狐に包まれたような顔で彦十
「ててて銕っつあん いったい何がどうなっちまっているんで?」
とひょうきん顔で問い返したものだ。
「彦 川だよ 川が絵解きの糸道だったんだ」
「へっ? そいつぁ一体どのような仕掛けで・・・・・」
「仕掛けも糞もあるか 大坂屋は上方にも店があると申したな」
「へい 江戸の方はその出先と聞きやした」
と答えたのは朝熊の伊三次
「そいつだ !そいつよ、うむこいつを見逃しておったゆえ
的がひとつ絞り込めなんだ」平蔵の目にメラメラと炎が立ち始めた。
「伊三次 奴らは結局そのまま店に戻ってのではないかえ?」
「あっ 長谷川様よくまぁお判りで、全くその通りでさぁ、
野郎その後はまっすぐ横山町を抜けて大伝馬町から本町と抜け、
途中何度か茶を飲みに立ち寄りやしたが、
それもちょいの間の一休みってぇところで、常盤橋を右に折れて
鎌倉河岸から一橋御門、俎坂橋をわたって九段坂を越え
お堀端一番町から麹町のお店へ戻りやした」
「ふ~むやはりそうであったか、よし、押し込みは今夜か遅くとも明日と読んだ、
早速手すきの者共を集めるよう手配いたせ!」
平蔵は同心筆頭の酒井祐助に下知を飛ばし、奥に引こうとした時
「てててっっつあん いや長谷川様!思い出しましたよ」
彦十がどんぐり目をむいてのりだした。
「何だ えっつ 彦十 素っ頓狂な声を出しおって!」
平蔵は振り返りながら彦十の驚いた顔を見た。
「あいつぁ牛尾の・・・・・」
「何だその牛尾の何とやらは」
平蔵は彦十の記憶をたどる顔を覗き込むように再び尋ねた。
「確か牛尾のえ~っ何とかぁ・・・・・」
そこへ駆けつけた五郎蔵が
「相模の そいつは牛尾の太兵衛じゃぁござんせんか?」
と言葉を挟んだ。
「そそそっ そいつだぁ」
彦十はシワだらけの顔を余計しわくちゃにして目を輝かせる。
「誰だその牛尾の太兵衛ってぇのは」
「牛尾の太兵衛と申しやすのは遠江の国山名郡金谷宿牛尾郡の出とか、
駿河、遠州、伊勢が奴のおつとめのようで、岡部の宿で呉服屋を商っていたとか。
ただ中風になって子分どもは散り散りと聞きやしたが・・・・・」
「そいつだよ五郎蔵さん、その一人泥亀の七蔵とよくつるんでいたやつ、
名前はおぼえてねぇけど間違いございやせん」
「急ぎ牛尾の太兵衛のお調書を捜しだせ」
平蔵はこの事件に王手をかける面持ちでてぐすねした。
だがいっ刻過(た)ってもお調書は見つからない。
「こうなったら是非もなし、おそらく奴らは船を使うに違いない
、川筋を厳重に見張るよう、それと押し込み先が知れぬ今、
麹町の大阪屋の動きを張るしかあるまい、皆心して臨め」
その夜半平蔵の指揮のもと火付盗賊改方の面々が麹町九丁目の
心法寺門前に集結していた。
「おそらく奴らは四ツ谷御門辺りから川筋を取って速やかに
目的地に進むに違いない、これまでの被害におうた店の近くには
必ず水路が通っておる」
平蔵のこの読みは的中した。
暁の九ツ(午前0時)を回る頃、ひたひたと人の足音が暗闇に聞こえてくる。
遠くで犬がけたたましく吠え、静けさを破った。
(来る!)
平蔵は四ツ谷御門に向かう一団の前に立ちはだかった
「火付盗賊改方長谷川平蔵である、おとなしく縛につけ!
」と呼ばわり、廻りを提灯が囲んだ。
塀際から掲げられた高提灯の中で、無言の気迫がせめぎ合った。
黒装束の一人が、ゆらり・・・・・前に進み出て、平蔵の前に腰を落とし、
「お手向かいはいたしません」
とその男は静かな口調で、しかし毅然とした態度であかあかと照らしだされた
平蔵の顔を見上げた。
それを見た他の者も黙って座り神妙である。
一味は総勢十名、残された者は、かの知りたがり屋のご隠居を含め三名が
大阪屋店内で捕縛され、川船で控えていた二名も逃れることはなかった。
「それにしてもおかしら、何故川筋が怪しいとお思いになられましたので」
沢田小平次がまず口火を切った。
「うむ あれか、ほれ、彦十が拾うてきた船荷の話しよ、
あのおやじの話題は何だったえ?」
「そういえば荷車がどうのとか船がどうのと・・・・・・あっ!」
「その通りよ、奴はそれぞれの店の前でその月のいつ、
どの時刻にどのくらいのものがどのような形で運ばれるかを
丹念に探っておったわけだ、
そいつを一年も掛けて調べるたぁこいつははぁ何とも用心深い奴らよ、
さすが牛尾の太兵衛の手下どもだ、いやそれにしても長い捕物になったが、
こうして皆の者の苦労が実ったってぇことだ、目出度ぇ事だ。
「もうひとつ、これはぜひともお伺いいたしたきことが・・・・・」
と沢田小平次
「うむ 何だ?」平蔵はゆっくりと沢田を振り返った。
「はい お頭は何故奴らが押し込みに入る日時がお判りになられましたので」
「おお そいつか それはな、上方訛りであったことからよ、
江戸の商人と違ぅて時価もの取引を致さぬそうな、江戸は金座で金が通り相場、
だが上方は銀だそうな、そこで品物を受け取る時銀と金の交換が必要になる、
そこで上方の商人が編み出したのが為替という換金方でな、
こいつは前もって金を両替商に持ち込み為替に交換しなければならねぇんだ」
「あっ 判りました、つまりはそのための金が前日に手元に在るということで、
それを判断するのが荷物の運び込み日時・・・・・」
「さすが沢田 鋭い指摘じゃ、その通り、だが此度はその上を行く事が起こったのだ、
何故奴は船荷がつく日にちを前もって判って、それを確かめに見聞に行ったと想う?」
「はぁ~そこまでは」
「そこだよ、上方で商いを致しておるという話しであったなぁ」
「はいそのようで」
「そいつだ、上方に出入りする船を見張っておれば、いつどこへゆく為の荷物か
見聞きできるであろう?東回りの千石船だ、風待ち潮待ちで時もかかろうよ、
それを飛脚便などで知れば前もって中身を知ることが出来、手を打てるという、
うむ さすがに牛尾の太兵衛の流れを汲む盗っ人、読みが深ぇってことだな」
「時の流れというもの、時に面白ぇ物を生み出しちまうものらしい。
紙切れ一枚ぇが小判と同じ仕事をやってのける、
こいつぁお釈迦様でも気が付かねぇことだったろうよ」
平蔵は時の流れを身にしみて感じているようであった。
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舟形の宗平・大滝の五郎蔵
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。
襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。
被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。
しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。
この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。
だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう
そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。
特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。
だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。
「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」
平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。
「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。
すでにふた月を無意味に流してしまっている。
「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。
ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。
「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。
「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。
書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。
だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。
表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。
「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」
「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」
「何?船が消えただと?」
「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」
「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」
「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」
「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」
「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。
「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」
「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」
こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。
「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。
「何! でたかっ!」
「で 何処であった」
「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」
「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」
「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」
「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。
「忠吾!!」
佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。
「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!
どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」
「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。
「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。
船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」
平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。
だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。
それからほぼ1年目の12月初旬
江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。
あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。
「そいつは一体ぇどういうこった?」
平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた
「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・
どうも大口の掛取りができなくなったようで」
「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・
なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」
「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」
「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」
平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。
不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。
「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」
それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。
「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」
その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。
「おおお おかしら これこれこれっ!」
「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」
「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」
「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」
「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。
蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」
気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」
「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・
左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。
そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。
本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて
「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」
と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。
「あっ!千成の・・・・・・」
「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」
「それでお前さん、今もおつとめを?」
「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」
「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」
「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」
「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」
「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」
「何だって!・・・・・・」
宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。
あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。
「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」
「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。
「そうそう そう言うこった!
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」
「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。
「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」
九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。
「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。
「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」
九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。
「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」
まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に
「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」
何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で
千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。
判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」
「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。
こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」
「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」
「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」
「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」
「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」
「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」
「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。
まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。
まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。
「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」
明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。
おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。
ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。
「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。
ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。
その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて
「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。
「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」
平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。
翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。
「なんだ 申してみよ!」
「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。
平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、
「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」
「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」
「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」
「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。
店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。
だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。
船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。
何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・
でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」
「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」
「はははははっ
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」
「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。
「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」
「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」
「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」
「ご冗談を!」
「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」
げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、
「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」
「義理があると申すのだな」
「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」
「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」
こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。
その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。
そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。
お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」
あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。
「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」
「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。
治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。
何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。
「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。
「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」
平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。
「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」
「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」
「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」
「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」
それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。
治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・
「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。
「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。
しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。
「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。
「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。
長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」
こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。
その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。
盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。
絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
舟形の宗平・大滝の五郎蔵
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。
襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。
被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。
しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。
この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。
だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう
そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。
特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。
だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。
「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」
平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。
「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。
すでにふた月を無意味に流してしまっている。
「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。
ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。
「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。
「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。
書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。
だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。
表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。
「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」
「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」
「何?船が消えただと?」
「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」
「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」
「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」
「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」
「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。
「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」
「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」
こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。
「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。
「何! でたかっ!」
「で 何処であった」
「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」
「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」
「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」
「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。
「忠吾!!」
佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。
「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!
どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」
「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。
「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。
船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」
平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。
だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。
それからほぼ1年目の12月初旬
江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。
あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。
「そいつは一体ぇどういうこった?」
平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた
「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・
どうも大口の掛取りができなくなったようで」
「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・
なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」
「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」
「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」
平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。
不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。
「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」
それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。
「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」
その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。
「おおお おかしら これこれこれっ!」
「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」
「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」
「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」
「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。
蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」
気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」
「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・
左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。
そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。
本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて
「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」
と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。
「あっ!千成の・・・・・・」
「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」
「それでお前さん、今もおつとめを?」
「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」
「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」
「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」
「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」
「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」
「何だって!・・・・・・」
宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。
あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。
「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」
「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。
「そうそう そう言うこった!
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」
「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。
「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」
九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。
「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。
「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」
九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。
「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」
まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に
「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」
何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で
千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。
判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」
「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。
こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」
「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」
「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」
「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」
「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」
「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」
「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。
まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。
まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。
「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」
明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。
おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。
ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。
「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。
ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。
その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて
「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。
「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」
平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。
翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。
「なんだ 申してみよ!」
「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。
平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、
「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」
「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」
「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」
「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。
店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。
だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。
船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。
何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・
でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」
「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」
「はははははっ
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」
「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。
「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」
「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」
「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」
「ご冗談を!」
「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」
げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、
「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」
「義理があると申すのだな」
「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」
「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」
こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。
その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。
そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。
お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」
あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。
「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」
「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。
治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。
何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。
「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。
「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」
平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。
「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」
「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」
「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」
「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」
それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。
治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・
「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。
「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。
しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。
「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。
「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。
長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」
こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。
その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。
盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。
絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
結城紬
長谷川様やっとご注文のお仕立て物が出来上がりまして、
と上州屋が持参した袷に袖を通しながら平蔵
「ウムこれはまた着心地の良い、中々仕立てが良いと見ゆるのう、
わしはちと右腕が長うござっての、それがちゃんと合わせておる」
「はい 仕立てましたのは手前どもの針子の中でも一番の腕前にて
過日お屋敷にて長谷川様に着尺を合わせましたる者でございます」
「うむ 仕立て上がりというものは、どうもどことなく肩が張って
叶わぬのだが、此度のものはそれがなく初めから着馴染みた着心地で、
おう中々うむ よいよい」
「恐れいります、お着物は着込まれた結城紬でございますが」
「うむ 俺の親父殿から下りてきたものだがな、親父殿もその親父殿からの
下がりものじゃと言うておったわ」
「さようでございましょう、特に結城は幾代も着込まれて初めて
その真価が出ると申します。
茨城の結城は絹川(鬼怒川)と呼ばれるように、
絹の生産が盛んでございました。
元々は屑繭をほぐしまして綿の状態から紡ぎ直し致します、
煮繭(しゃけん)と申しまして、マユを重曹を加えた湯で
一刻(2時間)ほど煮込みまして、柔らかくしたものをたらいに移し、
ぬるま湯の中で5つ6つを拳にて広げながら重ねて1枚の真綿袋を作ります。
この時、中のサナギが生きたまま煮たものを(生き掛け糸)と申しまして、
艶のある丈夫な糸になります。
真綿をのしたものを更に拡げて、端から糸を引き出します、
この時指先にツバをつけてヨリをかけながらまとめ糸に致します。
特に女ざかりの物はツバに粘りがあり、照りの有る良い糸が紡がれると申します」
「ほほ~女ざかりとはこれまた上々 う~んなるほどのう、
中々粋なことを申すものじゃな」
「はい そのようで、これをくくります、カスリは絵図面にあわせて
墨をつけたところを綿糸でくくってゆきますが、これは男手でなされるようで、
始めからおしまいまで一人で為されます、人が変われば染も違うてまいります故・・・・・
括(くく)り作業も少ない所で80亀甲から200亀甲まであるそうでございます」
「ほう、その亀甲とはどのようなものかのう?」
「それは一反の一幅に80の模様が入ったものを80亀甲と呼びますので、
200亀甲ともなりますとかすり模様が400となり、
一反では10万箇所にもなり、手の早い男ででも数ヶ月はかかるそうにございます」
「なんと 数ヶ月も手間ひまかけたものか・・・・・」
「結城は甘撚りのために、織る前にノリを付けます、そのために
織り上がったものを湯通しいたしまして糊を落とし、
仕立てに入ります、これが中々の作業で、
もっぱらこの作業のみ行う商いがあるほどでございます」。
「いやいや さような手間ひまかけたものをこうして我らは
着ることが出来るのでござるなぁ」
平蔵は結城紬の温もりがそこからも伝わってくるような面持ちで渋く燿く袖を眺めた
ところでその‥‥何と申したかなこのお針子は?」
「はい 私どもは(おさえ)と呼んでおりますが、本当の名前は明かしてくれませぬ」
「なんと 本名ではないのかえ?」
「はい 何でも昔好きおうた男が居たそうでございまして、
その男が佐渡から帰ってくるのを待っておると申したそうにございます」
「佐渡だと?てぇ事はよほど重てぇ罪を犯したことになるが・・・・・・」
「なんでも人を手に掛けたとか・・・・・・」
「ふむ いつごろの話だえ?」
「もう5年になりましょうか・・・・・・」
さて、その頃に時を戻さねばならない。
師走を控えて江戸の町も慌ただしさが日増しに色濃くなり始めた12月も終わりの頃
昌平橋を渡った神田明神前の金沢町の呉服店(黒姫屋)の
戸口を開けた丁稚が門口で震えている子供がいると主の清兵衛に報告した
ことが事の発端である。
何はともあれと店の中に入れて風呂を沸かし体を温め、
店のものと一緒に朝餉をすまさせた。
半年ほど前に同じ年頃の娘を流行病で亡くしたばかりの夫婦には、
まさに神様からの授かり物にさえ想え、そのまま育てることにした。
ただ、身にはお守りひとつ持っておらず、名を聞いてもただ泣くばかりで、
それではととりあえず亡くした娘の(おさえ)で呼ぶことにした。
それからの5年程は他人も羨むほどの可愛がりようであった。
だが、おさえが拾われて5年目の12月半ば、清兵衛夫婦に子供が授かったのである。
それまで我が子と思い育ててきた娘よりも実の我が子が可愛くなるのは
何時の世にも変わらぬ事のようで、年がいってからの授かった子供だけに
溺愛も一段と激しく、その分おさえに対して手のひらを返すが如き扱いに
なっていったのは自然の成り行きだといえよう。
「おまえを拾うてこれまで育て恩を忘れるんじゃァないよ!」
女房の(お妙)はおさえに事あるごとに口やかましく言うようになった。
子供が泣いたりむずがったり、挙句は子供が自分たちになつかないのは
おたえがそうしているのではないかと、おたえの子守の仕方が悪いと
折檻する始末、それも身体の見えないところを責めるものだから
そんなことは誰にも気づかれない。
おたえの背中と言わず足と言わず、外から見えないところはアザだらけであった。
寝床についた時から翌朝食事が終わるまでがおたえの唯一の慰めの時でしかなかった。
そんなある日、朝からぐずる子供に手を焼き、
又もやおさえに八つ当たりする女房のお妙。
その場にいたたまれなくなったおたえは、いつも子供を背負って
行く近くの神田明神の門に腰掛けて泣いていた。
まだ10才を出たばかりの子供である。
そこへ通りかかった20そこそこと想われる男が
泣いているおたえに腰の手ぬぐいを渡した。
おさえはもうこの男をここで見かけるようになって半年近くになっているので、
あまり警戒する様子もなく手渡された手ぬぐいで涙を拭った。
男はそのおさえの顔を見てにっこり微笑んだ。
おさえは男に名前を聞いたが男は黙って微笑むだけであった。
この男をよく見かける近所の女の話では、どうも口が聞けないようであった。
ただ定職は無いもののこまめに働くところから薪割りや水汲みなど
力仕事に皆重宝して使っているようだが、
棲んでいる場所も定かではないようである。
実はこの男、名を与助と言い奉公先の主から暴行を受け、
争った挙句主に怪我を負わせ逃亡した時、
主の枕金庫から金子が少々無くなっていたと番頭より届け出があった、
そのために厳しい取り調べがありその際の拷問で口が聞けなくなったようである。
そんな与助の気持ちがおさえには唯一の気の安らぐひとときであったのは
当然といえば当然であったろう。
あるときおさえは与助に
「あたしが15になったらあんたのお嫁さんになってあげる、
その時あたしの本当の名前を教えてあげる」と話した。
与助は黙って静かに微笑みを返した。
それを遠くで眺めていた黒姫屋のおかみお妙が、
「こんな薄汚い奴といたんじゃぁ娘に何をするかわかったもんじゃァない、
お前もお前だよこの島帰りのろくでなしと話をするなんてとんでもないことだよ」
と平手打ちでおさえを攻めた、驚いて泣き叫ぶ娘に
「お前のおもりが下手くそだから娘が変になっちまったじゃぁないか!」
と再び手を上げた。
それを与助がおかみの腕を握って押さえつけた。
「何すんだよこのゴロツキが、汚らわしいその汚い手をお離し!」
おかみはかんしゃくを起こし、「奉行所に訴えてやるから覚悟おし!」
と、毒ついて背中におわれた娘を奪い取るように引き剥がして帰っていった。
その夜おさえが再びおかみのお妙にいじめられたのは言うまでもあるまい。
折檻の激しさは店の者が陰で見ていても怯えるほど凄まじいものであったと言う。
翌日与助はお妙の訴えで捉えられ、
町奉行所の門前で100叩きにあい、放免となった。
その3日後黒姫屋に明け方押し込みがあり、黒姫屋夫婦が殺害され、
番頭の話では手文庫の100両あまりが盗られていた。
店の奉公人は奥の離れに皆休んでいたために朝まで何も気ずかず、
丁稚が戸を開けようとして戸が開いているままになっていることに気づき、
その報告をするために主の部屋に番頭が出向いて事件が発覚したと
町奉行所に届けがあった。
奉行所は先日のおかみの訴えを元に与助を捕縛、
拷問の末与助が恨みを持ってやったと自白、佐渡送りになった。
奉行所では与助とみ知り合いであったおさえが手引をしたのではないかとも疑り、
おさえも捕縛されたが、店の奉公人がおさえと同じ部屋であったために
疑いは晴れお解き放ちになった。
与助が拷問によって自白した事を知ったおさえは取り調べに当たった
奉行所与力の帰りを待ち伏せて与助の取り調べの再考を願い出た。
無論一旦決まった事件を蒸し返すことなど出来るはずもなく、
押し問答の中で、はずみからおさえは与力の首を与助のくれたかんざしで刺してしまった。
幸い一命は取り留めたものの、事の重大性は殺害の意思があったと断定され、
おさえは殺人未遂で石川島寄場送りと決まった。
上州屋は話を続けた。「それから2年の歳月が流れまして、
おさえは再犯の恐れなしという事と、
行状すこぶるよろしいと言うことで1年早く釈放された後、
深川のひょうたん長屋に棲みついたそうにございます。
寄場の中の授産所で読み書きや針仕事を学んで、
それが今のおさえの生業になって生きたと申しておりました」
「おお 加役方人足寄場がお役に立てたか・・・・・
何とも嬉しい思いだのう」
平蔵は自分が老中に言上して、石川島に軽い咎人や無宿者を収監し仕事を与えて、
出所厚生の基盤を築いた。
その結果がこうして花開いたことに少なからず喜びを見出したのである。
ところで上州屋、先程の押し込みの件だがな、確か黒姫屋ともうしたな?」
「はい 間違いございません、神田明神前の金沢町でございます」
「フム確かどこかで読んだような・・・・・・
おい誰かある!」
「おかしらお呼びで!」と筆頭同心酒井祐助が控えた。
「おう 酒井、定かではないのだがこの春ひっ捕らえた急ぎ働きの事件で
神田の押しこみ事件の控えを探してはくれぬか」
「ははっ 早速に!」
しばらくして「おかしら!ございました。
神田明神前金沢町呉服屋黒姫屋押し込みのお調べ書でございます」
「おお すまなんだ!
のう酒井そちも覚えてはおらぬか、
忠吾めが出会い茶屋で拾うてきた話が糸口で奴が捉えて参ったこそ泥、・・・・・・
このお調べ書ではあぶはちの千六と書かれておるが」
「はい たしかそのような名前で、
捕らえた忠吾がクモでのうてよかったと申しておりました。」
「はははっ!虻蜂取らずよのう 忠吾めそこまで読みおったか!わはははは。
うむ、やはりそうであったか、のう伊勢屋、先ほどの与助の話だが、
どうやら下手人は他に居ったようだ」
「何と申されます?では与助は下手人ではなかったと・・・・・」
「うむ これは奉行所の勇み足のようだのう・・・・・・」
「何とも酷い話で・・・・・・
長谷川様なんとか与助の身の証を立てることは出来ないもので?」
「あい判った!明日にでも奉行所に出向き冤罪であることを証し、
その与助とやらを佐渡より呼び戻そうではないか、お上とて人の子、
まして採決間違いとなれば文句も出まい」。
翌日平蔵は奉行所に出向き、事の次第と盗賊あぶはちの千六の
聞き取りお調べ書きを提出。
与助の冤罪はこうして晴れることになった。
それから2月あまりの歳月が流れ、長谷川平蔵のもとに一通の書状がもたらされた。
「何と・・・・・・・」平蔵は深い溜息を漏らして空を見つめた。
平蔵は伊勢屋にお針子のおさえを伴って役宅に出向くよう指示を出した。
翌日伊勢の主がおさえを伴って清水御門前の火付盗賊改方役宅に出向いた。
「おさえと申したな、そなたの仕事はいや実に良い、
ほれこうしてわしは気に入って毎日着させてもろうておる、
ところでな、昨日佐渡のお山より与助のことで返事が参った」
その言葉を聞いておさえは目を輝かせて膝を乗り出した。
伊勢屋から与助が冤罪であった話を聞いて、
密かに本日の知らせに胸も高鳴っているのであろうことが平蔵にもよくわかった。
「おさえ・・・・・・
与助は昨年暮れに労咳で倒れ、そのままもう戻っては来れぬそうだ、
最後までお前が与助に渡した神田明神のお守りを離さなんだそうな、
誠に相済まぬ、お取り調べにもっ
と深く当たればよかったものを、
誠に無念でならぬ・・・・・」
平蔵はおさえの顔を見ることが出来なかった。
おさえは平蔵から渡された与助に持たせたお守りを握りしめ、
声を殺してその場に崩れ落ちた。
この哀しみは声さえ奪うほどの重さであることを平蔵は胸にたたんでいた。
「罪を憎んで人を憎まず、のう伊勢屋、人が罪を犯すのではない、
世間や人が罪を犯させるのだ、
その罪を誰が裁けよう、俺とて罪を犯してはおらぬと言い切れるものではない、
人はみなそれなりに罪を犯し、その重さを胸に仕舞いこんで生きておるものよ、
だがそれをせねばこの世も又地獄、誰かが為さねばならぬ辛ぇ仕事だと想わぬか?
皆それなりにわけがあって道を誤り外道の道に進んでゆく、
その裁き場所を間違わぬよう我らとて心を引き締めて当たらねば、
こたびのおさえのような事件は無くならぬ」鬼と呼ばれる平蔵の頬を
止めどもなく涙が流れていた。
後に市中見回りの途中立ち寄ったとおさえの元を平蔵が尋ねたことがあった、
無論これは口実で、その後のおさえを案じての平蔵の優しさである。
「ところでおさえ お前ぇの本当の名前ぇは何てぇ言うんだぇ?」
と水を向けたが、おさえはただ笑って
「あたしの名前は忘れました」と小さく答えたそうだ。
おさえ15歳の春の出来事であった。
村松 お頭 棒手振りの辰五郎がお頭にと
三陸の秋刀魚を持参いたしております
鬼平 おお そいつはありがてぇ どれどれ
おう 辰五郎三陸の秋刀魚とは又、久しぶりじゃァねえか
辰五郎 殿様 こいつが中々手に入ぇらねえもんで
今朝ほど猫印飛脚で届きやしたんで
久しぶりに殿様に召し上がっていただこうと
鬼平 すまねぇすまねぇ 気ぃ遣わせたなぁ
辰五郎 とんでもねぇ いつもうちのカカアがご厄介になっておりやす
村松 お頭 秋刀魚は生サンマよりもこの氷漬けが宜しゅうござります
生サンマは陸揚げされて魚河岸から大卸、仲買と周る間に
生きが落ちてしまいまする
三陸物はとれた先から氷漬けに致しますので
鮮度が保たれておりますんで、眼の色もギラギラとほれこのように
忠吾 あれ! お頭、秋刀魚は目黒に限ると申しますが・・・・・
鬼平 忠吾 それはな 小話の世界よ
忠吾 は~小話でござりますか
鬼平 なんだ お前ぇは知らなんだか
在る殿様が目黒まで鷹狩りに出かけたんだがな
お前ぇの様なそそっかしい供の者が弁当を忘れちまった
忠吾 アッ!なんでそこに私めが引き合いに出されますので
鬼平 まぁ良いではないか例えの話だ
忠吾 いえ 何と申されましても例えであれこの木村忠吾そこまでは!
鬼平 あい解った ンでだなぁ その時何やら美味そうな香りが漂うてまいった
殿様が「この匂いはなにか」と仰せになられたので
供の者が「これは下衆魚で秋刀魚と申すもので、
とても殿様に差し出せるものではござりませぬ」と申したそうな。
しかし腹が減った殿様は「このようなときにそのようなことは言っておれぬ」
と、秋刀魚を持ってこさせた。
ところがそいつは隠亡焼きであったために、脂が乗ってそりゃぁ美味かった
それから 殿様は秋刀魚が食べたくなり、「秋刀魚を所望じゃ」
と家来に調理させたが、油や小骨も全て取り去った秋刀魚は
姿も崩れて皿に載せることも出来ず椀に盛りつけて出した
それを食った殿様は「この秋刀魚は何処から参ったものか?」
と尋ねたら、家来が「芝浜より取り寄せましたるもので」
すると殿様は「ウムやっぱり秋刀魚は目黒に限る」・・・・・
忠吾 はは~~~~ 中々よく出来ておりまするなぁ
村松 秋刀魚の一番旨い食べ方は、何と言っても炭火焼き
それも紀州の備長炭で、なおかつナナカマドを極上と致しまする
ナナカマドは七度カマドに入れても灰にならぬと言われるほど
火持ちも宜しい
鬼平 さすが猫どの、奥が深うござるのうぅ
村松 なんのなんの この備長炭は紀伊の国田辺の備中屋長左衛門が
発祥と聞き及びまする。
特に備長炭は炭琴と呼ばれる如く、金気の音がするほど焼きが深いとか
されば中々に火が着き難うござります
従いまして、長七輪に黒炭にを入れましてこれに火を点けまして、
その周りに炙るように備長炭を載せ予熱致しまする
四半時足らずで火の着いた黒炭の中に入れます、
しかし、備長炭は爆ぜますゆえ金網を七輪に被せ
しばし遠巻きに養生いたしまする
鬼平 おいおい 然様に面倒なことを致さねばならぬのかえ?
村松 当然でござりまする
手間暇を惜しんで良い料理など生まれは致しませぬ
鬼平 いや こつぁ一本取られたな
村松 この村松忠之進 お頭のためならこの程度の手間なぞ
骨惜しみいたしませぬ
鬼平 こいつはすまぬ 猫どのの気持ち
この平蔵いつも手を合わせておるぞ
村松 お頭にそこまで思って頂けておれば
やる気も起ころうと言うものでござります
やがて備長炭が白くなり始めましたら
秋刀魚を網に載せる頃合いでござります
この備長炭には遠赤外線が発しまするゆえ、
ゆっくりと焼きあげるのが秘訣でござりまする
鬼平 おいおい猫どの 講釈はそれぐれにして
食わしてはくれぬか?
村松 お頭 それだけでは片手落ちになりまする
突き合わせには大根 それも普通の大根ではなく
練馬大根が宜しゅうござります
コヤツは少々辛味が強うござりまして
タカジアスターゼとか申す消化酵素が豊富でござります
コヤツが秋刀魚の油を中和するという次第で
昆布と鰹で煮だしましたる濃い目の出し汁
ここに薫りつけの酢橘なぞ絞り込み
鬼平 おいおい猫どのこれ以上は待てぬ
まるで拷問ではないか
火付盗賊の拷問よりも恐いぜ
村松 ではまずは食しながらということで
鬼平 おうおうそれで良いそれで良い あ~たまらねえなぁ
夜見世
鬼平 「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」
とか申すそうじゃのう忠吾 お前ぇの ほれ !
これが居った谷中はそちの持ち場であったのう
忠吾 お頭 !
それはすでに決着が付いております
今の私めは、御役目第一と日夜駆け回っておりまする
鬼平 まぁそういきり立つな
益々怪しく想えてくるではないか
忠吾 そそそっ そんなぁ
鬼平 ところでのう忠吾
人間というやつ、遊びながら働く生きものさ
善いことを行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける
悪事を働きつつ、知らず知らず善いことを楽しむ
これが人間だわさ
忠吾 お頭・・・・・・
鬼平 覚えておるであろう ! 網切の甚五郎
忠吾 料亭大村事件でござりますな
鬼平 彼奴をお縄にするきっかけを作ったのが鴛原(おしはら)の九兵衛
忠吾 あの 芋酒屋の・・・・
鬼平 ああ 九兵衛のいもなますは天下一品だぜ
忠吾 村松様が嘆かれましょう
鬼平 おお そいつはうかつであった
猫どのは別格じゃ・・・・・と 言うことにしておけ
忠吾 仰せのとおりに
ところでお頭本日は何処へお供に
鬼平 な~に 「いせや」にちょいとな
忠吾 いせや と申しますと
板尻の吉右衛門・・・・・
鬼平 フム その通りよ
この度の九兵衛の働きでわしも九死に一生を得た
そこで「いせや」の親爺と俺とで九兵衛に店を出さすことになった
本日はそのお披露目というわけさ
芋酒はな、皮を剥いた里芋を小さく切り
これを熱湯に浸し置き、ぬめりが取れたら引き上げて
すり鉢で摺り、ここへ酒を入れる、それを燗にして出す
こいつは精がつくらしいぜ忠吾
芋酒をやったら、一晩で五人や六人の夜鷹を乗りこなすなんざぁ
理由もねぇとよ
忠吾 おおっ お頭! それは真で!
鬼平 おいおい 忠吾 眼の色が変ぇっているぜぇ
まぁまぁ 落ち着け忠吾
で、 お前ぇにもそのイモナマスを食わせてやろうと思うてな
忠吾 いもなます で、ございますかァ
私めは 出来ますれば芋酒のほうが、このぉ~
鬼平 はしかい奴め!
九兵衛 これは長谷川様
鬼平 おう 父っつあん こいつに芋酒を出しいてやってくれ
俺は芋ナマスでよいぞ
忠吾 お頭 !!
鬼平 おうおう 気にするな
だがな あとは知らんぞ なぁ父っつあん
九兵衛 へぇ
木村様
まぁ 出来るまでの間 芋ナマスでも食いながら
飲んで食っておくんなせいその内、
今夜はもう岡場所へなと繰り込んで
白粉くせぇのでも抱いてみるかぁなんて勢いも出てねぇ!
忠吾 おおぅ そうなるか!
鬼平 そうさなぁ 最も役に立つか立たねぇか
そいつはお慰みってぇもんだよなぁ
九兵衛 へへへへへ 最もで
忠吾 ククククッソぉ~
いけ好かぬ親爺だなぁ
クソ おかわりもう一杯
鬼平 旨ぇだろう そいつが腰を抜かすから
俺はやらんのだよ忠吾 わはははは
父っつあん おもんは寄るけぇ
九兵衛 時折来やす
「あのお侍さんどうしていなさるかねぇ」って
長谷川様の事を・・・・・
鬼平 さようか
人は皆一枚脱げば、何も変わっちゃぁいねえさ
俺もお前ぇも なぁ父っつあん
九兵衛 長谷川様・・・・・・
週刊連載 鬼平犯科帳外伝 http://onihei.nari-kiri.com/
画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
この日同心木村忠吾は市中見廻りの途中雨に降られて少々腐っていたが、
少し前を歩く女の後ろ姿に目を奪われた。
傘をさし、片方の手で裾を少しばかりからげた姿が何とも色っぽい。
スッキリと切れ上がった小股が、赤い襦袢にからみつくように踊る
(むふふふふふ・・・・こんな色っぽい後ろ姿はきっといい女に違いない)
自分勝手に妄想を重ねながら木村忠吾は女の後をつけてゆく。
(こんな時はしっぽりとさしつさされつ「忠さま おひとつ・・・」
なんて、悪くないなぁ、お前もどうだい、
あら 今度は口移しにいただこうかしら・・・・・)むふふふふふっ
ここは小石川伝通院前を背に南にまっすぐ下る安藤坂、
白壁町辺りを過ぎ、右に安藤飛騨守屋敷の高く長い塀があるあたりで
まっすぐ下りて小石川龍門寺門角を曲がれば別當龍門寺牛天神があり、
少し手前が桑名屋橋となる。
折しも梅雨の入間、偲ぶようにあじさい色の雨が降りしきっている。
雨宿りのつもりか女は角の菓子屋に入ろうとした。
忠吾は素早く女の前に回り「御役目がらちと尋ねたいことがある・・・」
と懐の十手をチラリと見せた。
無論これは忠吾のハッタリで、なんとか女を口説こうとする
思いつきにほかならなかった。
だが、事は一転 事件はここから始まったのである。
「おお怖い!」と言いつつもしなだれるように胸乳を忠吾の腕に
すり寄せ押し付けながら、上目遣いにしっとりと見上げた。
(ぶるぶるぶる・・・)忠吾の眼は下がるだけ下がり、
もはやこの女の色香に飲み込まれてしまっているようすである。
「ねぇ旦那、雨も止みそうにもござんせんし、
こんなところじゃぁなんですから、奥に入ってそれからって言うことに
なさいましよ」と流し目に店の奥を示す。
「よし、あい判った!」忠吾は女のさそいに安々と乗り、
(まずは手始めに・・・うふふふ)と気分はもうあらぬ方向へ勝手に飛ばし、
自ら進んで奥に入った。
こうなると女郎蜘蛛の糸に絡められるのは時間の問題であろう。
後ろからついてきた女が心張り棒で一撃したから堪らない、
ガツッ! 鈍い音とともに忠吾の体が前のめりに土間に倒れこんだ。
「早くこいつを穴蔵に押し込めておしまい」鋭い語気で女が奥に向かって叫ぶ。
「何んでぃこいつは」と言いながら40がらみのでっぷり太った男が
のっそりと現れ忠吾をずるずる奥に引き込んでいった。
この京菓子屋井筒屋の主は井筒屋徳右衛門と言う。
元は近江国、高宮の出身という触れ込みで15年ほど前、
(近江落雁)と名づけた京菓子を売りだした。
その主人徳右衛門が死んだのは10年ほど前だが、
60を越えた徳右衛門が死ぬ半年前に女房を迎えていて、
今もそのままこの京菓子井筒屋はその女房が引き継いでいる。
だが、店を切り盛りしているのは番頭の勝四郎、
年は40を回った頃で小太りでありながら、身のこなしは軽やかである。
「よござんすか!」とふすまの向こうから声をかけた。
「勝さんかえ、こっちにお入りなよ」と女はキセルを煙草盆に預けながら
声をかけた。
お頭!先ほどの奴郎は一体ぇ何でござんす」と奥の土間を指さした。
「あたしにも合点がいかないんだけどね、伝通院を出た頃から
ずっと後をつけてきて、いきなり十手をちらつかせて
「お役目柄ちと尋ねたいことがある」と言われて、
まさかとは思うけど身なりからもお上の御用を承っている者としか思えない。
もしやあたしの素性を探索中であったらと、ここまで誘いこんだということさ」
ふっ とキセルを空ふかしして、ごろりと向き直った。
「まさかお頭がここで男をくわえ込むとは想えねえし・・・・・・」
「若い男なら大坂屋のあいつでいいよ」
「しかしお頭も今度ばかりは ひどくあの若いのにご執心のようでへへへへへ」
「ああ 若い男の体はこたえられないもの、おまけにあの男は
私が初めての女だそうな。
そりゃぁ可愛いものさね、初(うぶ)っていうのはああいうのを言うんだろうね、
お陰であたしも後をひいちまってるところだよ、だがね・・・・・・」
「始末をつけるんで?」
「そうだねえぇ・・・・・・もう1日だけ、最後の楽しみをさせてからにしようと
思っているのだがね」
「やれやれ お頭の男狂いにも参っちまいやすね」勝四郎は舌打ちしながら、
所で穴蔵のやつはどうしやす?いっその事バラして土左衛門にでも・・・・・」
「その前に、どこまで探索の手が伸びているか探りださなきゃぁ
こっちもいつ火の粉が飛んで来るかわかったものじゃないよ、
土蔵の2階へ引き上げて傷めつけておやり」
それからの数日忠吾は拷問に耐えていた。
「お前がお上の御用をつとめていることは承知さ、
どこまでこっちの手の内を知っているんだえ?素直に吐いたほうが
お前の為になろうというものじゃないか」
猿ぐつわをかまされ、両手を後ろ手に縛られたまま忠吾は土蔵の床に転がっていた。
女が忠吾の前に廻り、片膝突いて忠吾の顔を手で抱え上げた。
裾前がバラリとはだけ、真っ白な素足が蹴出しの薄影の中に消えるのを
忠吾はゴクリと生唾を飲み込んで見とれた。
「どこ眺めてんだよう!」女の平手打ちが飛んできた。
「着流しということは手前ぇ町奉行所のものじゃぁねぇな」
勝四郎が忠吾の前襟を掴んで首根っこを締めあげた。
忠吾はただ睨み上げるだけで、それ以外の反応を見せない。
「お頭、と言うことは、こいつ火盗・・・・・・・・」
「冗談じゃぁ無いよ、こんなひょろひょろして、女とみりゃぁ
鼻の下を伸ばす奴が盗賊改め?はんっ!だとしたら、
盗賊改めも落ちたもんだねぇ、話さなくていいよ!
その代わり悲鳴も上げるんじゃぁないよ、
そのくらいの根性はあるんだろうねぇ えっ!
お願いですからと言うまで痛めておやり」女はそう言って下に降りていった。
それからひととき勝四郎の殴る蹴るの責め上げ方は、息つく暇もないほどで、
猿轡(さるぐつわ)の上からも漏れる声は、生半可な攻め方ではない事が伺える。
気を失い、ぐったりした忠吾をそのままま放置して勝四郎も階下に降りていった。
しばらくして気がついた忠吾、何という事はない
例のものがもようしてきたのである。
バタバタと床をかかとで打ち続けた。
ハシゴの引っかかる音がして「うるせぇな、静かにしやぁがれ」と
勝四郎が上がってきた。
顔を真赤にしている忠吾を見て、それと察し
「なんでぇそこんところの小窓にでもひっかけな!
飛べばのもんだがなぁ へへへへっ」
股間を蹴り上げられて腫れ上がっているのを承知の嫌味であった。
手をほどいてもらい、やっとの思いで用を済ませた忠吾に
「どうでぃ ちったぁ話す気になったけぇ」と胸ぐらをつかまれた。
眼をむいて睨み返す忠吾の喉へ鋭い蹴りの一撃が食らわされた
「げふっ!!」忠吾は激痛にもんどり打ってつっ伏した。
「口を割らねせんなら、しゃべることもいるめぇよ、
そこいらにいい子でねんねしてな」
明けて3日目の朝である。
夜半になっても帰宅の報告がなされない
「まぁ、あいつの行状から言えば一晩や二晩の無届外泊は
取り上げるまでもなかろう」と
同心筆頭の酒井祐助は筆頭与力の佐嶋に報告をあげなかった。
それが三晩となり、(もしや・・・・・・)と
佐嶋から平蔵に報告が上がった。
「何ぃ 三日もつなぎがないというのは、いかに忠吾といえども
御役目を忘れるものではあるまい。
急ぎ密偵共を呼び出し、火急のつなぎを取れ」
珍しく平蔵は心の乱れを感じた。
「忠吾も火付盗賊の端くれ、いつなんどきであれ、
そのための覚悟は出来ておろうと存じます」と筆頭与力の佐嶋忠介が口を切る。
(やつだけは死なせとうない・・・・・・)
平蔵の心のなかに大きな不安が秋の叢雲のごとく吹き上がってくるのを
抑えようもなかった。
浅草観世音境内では、梅雨の晴れ間とあって久しぶりの人々が
大勢集まって賑わっていた。
密偵のおまさが参詣を済ませて元来た参道へ道を取ろうとした時
「や おまさちゃんじゃァねえか」と声をかけてきたのが瀬音の小兵衛であった。
「瀬音のお頭・・・・・まぁお久しぶりでございますねぇ」
「やっぱりおまさちゃんだね、見違えちまったよ」
この瀬音の小兵衛、おまさの父親 鶴(たずがね)の忠助とは昔なじみで、
平蔵がまだ本所の銕と二つ名で暴れまわっていた頃からの付き合いである。
「おまさちゃんお前さん 幸太郎のことはしっていなさるねぇ」
「ええ」
幸太郎は瀬音の小兵衛のただ一人の子供であった。
小兵衛が40を過ぎた頃、浅草今戸の料亭(金波桜)の女中をしていた
気立てもよく、よく気の利く女にすっかり夢中になり
その(おしま)と世帯を持ってしまった経緯はおまさも忠助から聞いていた。
しかし、産後の日立ちが悪く女房おしまはあっけなくこの世を去ってしまった。
取り残された小兵衛は忠助の口利きで下谷広徳寺門前の数珠や
名倉屋太吉が幸太郎をもらってくれることになってひとまず安心となったが、
その2年後に名倉屋に男の子が生まれた。
そんなわけで幸太郎は立花町のある乾物問屋大阪屋伊之助方へ奉公に出された。
足を洗って岡部の宿へ引きこもる前に、よしみの盗賊福住の千蔵に
「陰ながら、幸太郎の事を見ていてくれ」と頼んだ経緯があった。
「さようでございましたか、私もお父っつあんがなくなってからは、
本所から出てしまい、幸太郎さんの事はちっとも知りませんでしたけれどねぇ」
この前岡部の宿で福住の千蔵さんが「お前さんの息子が
とんでもねぇことになっている、「幸太郎さんの奉公している大阪屋さんへ
狙いをつけた猿塚のお千代が、色仕掛けで・・・・・
そうと知らない幸太郎さんがまんまとお千代の手練手管に
取り込まれちまって・・・・・」って聞かされて、
わしはたまりかねてお江戸に出てきたってわけなんだよ、
こんな薄汚い年寄りだ、お店の前をうろついたんじゃぁ眼にも
つこうってもんで、お頼みってぇのはこの事で、
どうかおまさちゃん一つ幸太郎の事を引き受けてくれちゃもらえないかい」
これが平蔵にもたらされた別の一件であった。
平蔵もおまさもこの小兵衛の件は昔なじみとあって盗賊改めとは
無縁の件であり、二人だけの探索ということで行動が為された。
この時、忠吾は納屋の屋根裏で嬲(なぶ)られ拷問に耐えながら
瀕死の状態であった。
忠吾は飲まず食わずでもうすでに4日は過ぎ、脱糞と小水で
狭い屋根裏は悪臭がただよい、すでに意識も朦朧としてきている。
(このままでは・・・・・・)萎えそうになる意識を奮い立たせて
忠吾は下帯を抜きあげた。
(この下帯を誰かが見つけて異様に想えば・・・・・・・)
儚い望みではあった、だが何もしないのは更にはかないと想ったのである。
這いずりながらようやく小窓に寄り、下帯を格子に括りつけた。
その向こうに川をはさんで牛込の小屋敷の家並みが雨の中ぼんやりと
霞んで観えた(叫んだとて届くはずもない・・・・・)
再び忠吾は意識を失った。
一方おまさは幸太郎が奉公している乾物問屋大阪屋伊之助宅を見張っていた。
夕刻籠が1丁呼ばれ、幸太郎らしき男が乗り店を出て行った、
その後をつけて行った先は上野池之端の出会い茶屋(ひしや)であった。
そこへもうひと籠が着いて、少し年増には観えたものの、
中々艶っぽい女が出てきた。
これが福住の千蔵から聞いていた猿塚のお千代と睨んだおまさは、
ひととき半ほど後に出て来た2丁の籠の後をつけた。
途中から籠が別々に別れために、お千代の方をつけ、
行く先が小石川別當龍門寺牛天神まえの金杉水道町で降りるのを見届けた。
空には月が輝き、梅雨の雨に洗われた空は碧々と雲ひとつなかった。
やれやれと踵を返そうとしたおまさの眼に納屋の2階から妙なものが
ぶら下がっているのが観えた
(何かしら?)いぶかしく思いながら平蔵の待つ上野池之端の出会い茶屋
(ひしや)に向かった。
「おう おまさ ご苦労であった、で何か変わった様子はなかったかえ?」
「はい 長谷川様のお見込み通り2丁の籠が出ましたので、
幸太郎の方は帰るところは大阪屋と踏みまして、もうひとつの籠をつけました」
「ふむ で、行く先はつかめたのであろうな」
「はい 小石川の牛天神前の京菓子や井筒屋に入るのを見届けました、
しばらく張っておりましたが、その後店の戸を閉めた模様なので
急ぎ帰ってまいりました」
「そいつはご苦労であった、で 他に変わった様子はなかったかえ?
「そういえば妙なことが一つ・・・・・・」
「何妙なことだぁ?」
「はい 隣の納屋の2階の小窓からなにやら白い晒のような物が
下がっておりました」
「何!晒しだぁ・・・・・・・くくくくくくっ
おい!でかしたおまさ!そいつはうさ忠だぜ、
奴めまたもや下帯に救われたか うわははははは」
木村様・・・・・でございますか?」
「ほれ 深川、蛤町の海福寺門前の茶店(豊島屋)の一本うどん事件よ」
「あっ そういえばあの時も・・・・・うふふふふ」
思わずおまさも笑ってしまった。
「こうなると相手は猿塚のお千代と判明いたした、
どうにも俺たちだけでは手が足りぬ、急ぎ籠に乗って役宅へ行き、
手すきのものを差し向けてくれそれまで俺はここにおる。
急げ、彦十と粂も駆り出してここへ連れてきてくれ」
やがて東の空が白白と明け始めた7ツ頃、雨支度を整えた定六が
井筒屋から小石川金杉の通りへ現れた。
「長谷川様、あの男でございます」陰で張っていたおまさが声をかける。
「よし、お前たちは奴の後を追え、他の者は井筒屋から出てくるものあらば
離れてから捕縛せよ、俺が戻るまで決して打ち込んではならぬ」
平蔵はそう指示しながら彦十おまさや粂八の後を追った。
こうして根岸の里の大捕り物は無事に終え、馬で取って返した平蔵指揮のもと
井筒屋に打ち込んだ。
猿塚のお千代は平蔵の顔を見るや道中差で自らの喉を一突きに自害して果てた。
隣の納屋の2階から木村忠吾が救出されたのは言うまでもあるまい。
「やれやれ 忠吾!お前はまこと下帯に縁があるとみえるなぁ、
今度からは下帯に名前ぇでも書いておくと良かろうぜ、
すぐにお前ぇと判るからのう、いや下帯を解くのは程々にいたせよ、
まぁせめて出会い茶屋あたりで止めておくこったなぁ あはははははは」
「おかしら それはあんまりなぁ・・・・・・」
忠吾は殴られ蹴られて顔を風船のように腫れ上がらせたまま、
更にふくれっ面でぼやくのであった。
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夕刻より平蔵は清水御門役宅の裏から、
ぶらりと気晴らしに出かけたその最中に事は起こった。
平蔵が思いつきで出かける事はよくあり、別段変わった行動ではない。
その時々で行く先は気分次第ということは多々あるものの、
目的もなくというのがいつもの事。
十二月に入って、さすがに冷え込みも厳しくなり始め、
夕刻ともなると日差しの失せた道は底冷えを運んでくる。
(ちょいと寒くなってきたな)懐に両手を入れて、
(さて本日はどの道筋を選ぼうか)と塗笠を上げて見る先に
いつも立ち寄る居酒屋の明かりが目に入った。
(うむ ちょいと引っ掛け温まって帰ろう)
「いらっしゃいやし」
「おう いつもの奴を二本程持ってきてくれ、
それに何か適当にみつくろってな
この居酒屋は伊丹の丹醸柱焼酎の剣菱を出していた。
このすっきりとした辛口の男酒が平蔵の好みに
合っていたのであろうか。
「きょうの酒肴は何だえ? おう たたき牛蒡か」
「へぇ 大浦牛蒡が手に入りやしたもので、
藁束で泥をこすり落として、すりこぎ棒で軽く叩いて
筋離れさせやす、こいつを一寸五分ほどに切りそろえて
鍋に酢を少々、煮上がったものを取り上げて、
白ごまをホウロクで炒り上げてさましたあとで
すり鉢にて軽く摺ります。
酢に味醂、昆布とカツオの出し汁に塩少々を入れて
煮立てたところへゴボウを入れて汁気を飛ばし、
ゴマを加えて和えます。
「ウム いやなんだなぁ この牛蒡の香りとゴマの香りの
程よい絡み方がふ~ さすがに上手ぇ、
火の落とし所が肝だな?」
「恐れいりやす お武家様にかかっちゃぁ叶いませんや」
そんなやりとりをしながら徳利が二本あいてしまった。
「おう 済まぬもう一本持ってきてくれ、程よく体も温まり
夜道もこれだと大丈夫であろうからのう、ところで親父女房の
(おふじ)の顔が見えぬが・・・・・」
平蔵の言葉を聞いた親父の顔が一瞬戸惑いを見せたのに平蔵は気づいた。
奥から追加の酒を運んできた親父に「うむありがとうよ
お前ぇも1杯ぇどうだ?」と盃を向ける。
「ととととんでもねぇ!」亭主の語気の強さに平蔵はますます
疑念を抱いた。
「さようか、まぁ無理には勧めるめぇ」と盃を出した。
亭主の得利を持った手が小刻みに震えている。
「おい お前ぇ熱でもあるんじゃぁねえか」と、
おやじの額に手を当てつつ盃を干した。
「いえ 熱などございやせん へぇ」そう言って
そそくさと奥に引っ込んだ。
しばらくして「ぐへっ!!と表の方で声がした。
「親父 お前ぇ酒に何を仕掛けた! ぐはっ!!」
何かを吐くような音とともにドウと倒れる音がした。
そのあと奥のほうで「ギャッ」と言う悲鳴が二度ほどして
静まり返った。
火付盗賊改方長谷川平蔵暗殺を外部に漏らすまいと
町奉行も盗賊改めも隠密裏に動いたのは言うまでもあるまい。
もしこれが巷に流れるようなことあらば、
この時とばかり盗賊どもが暴れまわるに違いないからだ。
そうこうしている間にも時は瞬く間に流れ去り、
江戸の町を雪が白く染めてゆく頃となった。
どこから漏れたのか、(長谷川平蔵死す)の風評が立った。
明けて睦月半ば、東に砺波(となみ)平野、
西に金沢平野の広がりを見せる倶利伽羅峠に綱切の甚五郎一党が
金沢に向けて越そうとしていた。
峠の頂上付近にポツリと地蔵堂が建っている、
その縁に腰掛けて握り飯をつまみながら、
「それにしてもお頭、平蔵の最後があまりにもあっけねぇんで、
ちぃっとばかりがっかりしやしたねぇ、
もっと骨があると想っておりやしたもんで」
「だがよ、これで俺は兄貴の敵が討てたんだ、
お前ぇが平蔵の動向を探り、決まって帰り道は行きつけの
(かどや)に立ち寄ることを突き止め、平蔵の先回りをして、
女房に短刀突きつけて亭主を脅し、
酔って警戒心をなくした頃合いを見計らって酒に毒を仕込ませ、
奴に飲ませたそのあとお前ぇは亭主と女房を刺し殺して
ずらかったわけよなぁ」
「そのとおりでさぁ、見たら野郎血へどを吐いて
くたばりやがったんだぜ、 ざまぁ見ろってんだ。
半年もかけて平蔵の動きを見はった甲斐があったってぇ事よ、なぁ!」
その言葉の終わらないうちに、
「誰が血反吐を吐いてくたばったってぇ言うんでぇ」
藪から棒に地蔵堂の中から声が飛んで来た。
何ぃ!!」驚いて甚五郎が振り返った。
地蔵堂の扉が観音開きに開け放たれ、旅姿の男がぬっと現れた。
「誰だ 手前ぇ」
「お前ぇの手下(てか)に毒を盛られた長谷川平蔵よ」
「てめぇ死んだはずじゃぁ・・・・・・」
予期もしない平蔵の出現に、甚五郎は残忍な眼をいっぱいに
見開いたまま持っていた水筒をとり落としてしまった。
「残念だったなぁ網切の甚五郎、あの時俺は親父に
(女房のおふじの顔が見えねぇが)、と聞いたら、
亭主の返事がこわばった。
そのあと酒を運んできたので「お前ぇもどうだと勧めたら、
いつもなら盃を受けるのに、そん時ばかりは手を振って断りやがった、
こいつは何かあるなと勘づいたってことよ。
そこで俺は亭主に(熱でもあるんじゃァねぇか)と
ヤツの額に手を当てて目線を防ぎ、その隙に盃の酒を
俺の懐紙に飲ませたってぇ寸法だ。
お陰で女房殿に着物がシミになったと小言を食らっちまった。
それから先は、その手下(てか)の後を密かにつけ、
お前ぇの盗人宿を探り当てたのよ。
だがいつまでたってもお前ぇは現れねぇ、
しかもそいつらが一人づつ別々に出たまま帰えってこねぇ、
そこで九兵衛が申しておった、
お前ぇたちがここを通って江戸に入ぇったってぇ事を思い出してなぁ、
昨日からこうして待ち伏せておったのよ、今にして思えば、
そいつが俺のとどめを刺さなかったのが運の尽きってぇことだなぁ」
「けど 俺が見た時にぁ確かに血反吐を吐いて・・・・・」と
野尻の虎三
「おうさ お陰で掌の傷がこうして残っておるわ、
酒をこぼして血を少し溶けば、おめぇ、
結構な血反吐に観えるんだぜぇ へへへへへっ!
俺のからくりが引導代わりよ、網切り甚五郎、
この倶利伽羅峠がこの世とあの世の渡し場と観念いたせっ!」
「くくくっ 糞野郎!!」
甚五郎は道中差を引き抜きざま平蔵に襲いかかった。
「甚五郎!手前ぇだけは俺が手で地獄に送ってやる、
なぶり殺しにしても飽きたらぬ奴、きさまなどどのような
死に様であろうと地獄の閻魔様とて手加減はしねぇ、
これまで貴様が手にかけてきた人々の恨みを思い知れ!!!」
平蔵は河内守国助を腰だめのまま一気に甚五郎の顎から頬にむけて
切り上げ、二の太刀で右腕を切り落とし、
さらに三の太刀で残る左腕を切り落とした。
甚五郎は顎を打ち砕かれて物も言えず、
ひざまずいたまま形相凄まじく平蔵を睨みながら仰向けに
ドスッ と崩れた。
数日前から降り続いた雪は甚五郎の両腕から吹き出す血潮を
音もなく吸い込み、辺り一面まるで真っ赤な花が咲いたように観えた。
「地獄花を咲かせやがったか」
平蔵は河内守国助をビュッと血振りして鞘に収めた。
あまりの出来事に腰の砕けた野尻の虎三と文挟の友蔵は、
その拍子に雪に足を取られもんどり打って転げたところを
沢田小平次と小林金弥によって逃さず打ち倒された。
倶利伽羅峠は金沢平野をはるか下に見下ろしたもやの中、
白くけむっているばかりであった。
数日後、清水御門前の平蔵の役宅に京極備前守より
「下屋敷に出ませい」という通達があり、
平蔵はこの度の事件の引責を言い渡されるであろうと与力、
同心たちに伝えて出所した。
かみしも姿の正装での出所である。
平蔵より事後報告を聞いていた備前守が
「筆頭老中よりそちのやり方に対して引責を求めて参った、
さすがのわしもこれ以上逆らい切れるものではない」
其の言葉に平蔵は腹を切る覚悟を決めており、
白装束の上に着衣しての正装であった。
「わしはなぁ平蔵(今の世の中長谷川平蔵を置いて
他に誰にこのお役が務まりましょうか、
おられるならば即刻お申し出くだされ)と
言ってやったらばな、誰も一言も申さなんだ、はははは
さぁ近う寄れ盃を取らす」
「ははっ!!」
感慨無量の面持ちで杯を飲み干し、
懐より懐紙を取り出し盃を拭おうとするを、
「そのままそのまま・・・・・」
「ははっっ!!」
「いやご苦労であった」平蔵はこの備前守の言葉に
心から救われた面持ちであった。
役宅に戻った平蔵を与力、同心全員が打ち揃って出迎えた
裏庭には密偵たちがこれも全員揃ってかしこまり平
蔵の無事を待っていた。
「お前ぇたちにも心配をかけたなぁ、ありがとうよ」
誰も言葉を一言も発せなかった、
ただただ涙のあふれるまま平蔵を迎えた。
いつの間にか雪が音もなく降り始めていた。
「雪か・・・・・・この世の地獄も極楽も
みんな消せるものならばなぁ」
平蔵はそのまま立ち尽くしていた。
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というのが事の発端のようではあった。
庶民を守るものが庶民に不安を与えることは如何なものか。
幕閣にもその意見を声高に述べるものも現れ、京極備前守も抑えきれず、
このような処置になったと言うのが大筋の見方のようである。
清水御門前の役宅は門を閉め、門番も中に入ったまま人の出入りの気配も全くなく、
不気味なほどだと谷中三崎町の法受寺門前の花屋鷹田(たかんだ)平十の耳にも
達していた。
この男、鷹田の平十は品川の上郎上がりの女房おりきと暮らしており、口合人を
十五年もやってきた盗賊の間では名の知れた男である。
そこへ網切の甚五郎の配下、野尻の虎三から、腕の立つ助っ人をお頼みしてぇと
網切の甚五郎からの口合話が持ち込まれた。
断るわけにもいかず、さりとてこの網切の甚五郎の悪どい評判はいやというほど
聞かされている。
なまじの助っ人では務まりもしまいし、第一この網切の甚五郎のやり方が気に入らなかった。
盗人にもそれなりの仁義というものがある。
(殺さず・犯さず・貧しき者からは奪わず)せめてそれが盗人にも三分の理だと
思っている平十は困り果て、同じ口合人の本所相生町で表向き煙草屋を営んでいる
舟形の宗平に困り事を持ち込んだ。
この舟形の宗平は初鹿野音松の盗人宿の番人をしていた頃平蔵に捕縛された経緯が
ある男である。
宗平が少しばかり年上ということもあり、「お願い致します、舟形のどうか私を
すけておくんなさい。
いやね、あっしだってこんな急ぎ働きのおつとめなさる網切のお頭の持ち込み話しは
出来ればお断りしたいのですが、その後のことを思うと、女房のおりきに
類が及ぶんじゃァないかってね・・・・・
困り果てて相談をと言うわけさ、何とか・・・どうにかならないかねぇ」
ほとほと困った様子で差し出された茶をすすっている。
「平十さん、ご覧のように私も年で、今じゃぁ気質の煙草屋で何とか暮らし向きも
溜息ほどだが続いております、だからと言って、昔はご同業のよしみってぇものもありますから、
どうでしょう間に入る人をご紹介することでこの場を繋ぐってぇことは出来ないものでしょうかね?」
宗平はそう断って平十の顔を見た。
「分かりました、これでやっと私も肩の荷が下りたような気分でございますよ、
所でその仲立ちのお方は何とおっしゃるのでございましょう?」
馬蕗の利平治さんと言います。
元は上方にいなすった頃は高窓の久五郎お頭のなめやくを受けていたお人さ」
宗平はじっこんの間柄でもある馬蕗の利平治を仲介役に薦めた。
「上方で、さようですか、ならば間違いもございませんでしょう、
何しろ網切のお頭の所業はこの道では知らぬ者とておりますまい。
血なまぐさい事では盗人仲間でさえ一目も二目も置いているお人ですからねぇ、
これで私も今夜から枕を高くして休むことが出来ます、ほんに ほんにありがとうございます」
平十は涙を流さんばかりに喜び、幾度も幾度も宗平に両手を合わせて伏し拝んだものだ。
翌日、本所石島町の船宿(鶴や)に平十の姿があった。
「もし、ちょっとお伺いをいたします、こちらに馬蕗の利平治さんはおられますでしょうか?」
出迎えた小女は「どのようなご用事でございましょう?」と怪訝な顔で問い返した。
「相生町の舟形の宗平さんより、こちらにお伺いするよう伺ったもので鷹田の平十と申します」
小女は「ああ それならばどうぞお入りなさってくださいまし・・・・・」と
言いながら丁場の方をチラと見やる。
先ほどまでいた主の粂八の姿は見えず、丁場の机の横にそろばんが立てかけてあった。
小女は客を二階へ案内し、茶を運んできた。
程なくそれらしい男が部屋を訪ねてやってきた。
「鷹田の平十さんで?・・・・・馬蕗の利平治でございやす」と 色黒のこの男、
まさに馬蕗(ゴボウ)の様に顔も手足もひょろ長く、(なるほどその名が表している)と
平十は一人合点したものである。
丁度その頃鶴やの奥座敷、主の部屋に小房の粂八の姿があった。
押し入れを開け、中にはった粂八は隠し階段を引き下ろし、静かにゆっくりと登っていった。
この部屋は、鶴やの持ち主で伊予の大須藩士森為之介のものであったが、
平蔵を付け狙う暗殺者金子半四郎の兄を切り倒して脱藩したのちに、
密かに身を隠して営んでいた店である。
平蔵と岸井左馬之助と居合わせた事件にて、暗殺者から身を隠す暫くの間預かっているもので、
その間に粂八が部屋を改造し、盗み見が出来るようにした小部屋である。
当の森為之介はすでに江戸に女房と二人して戻り、この鶴やの料理人として復帰しており、
時折平蔵をしてうならせる料理の達人でもある。
話はそれたが、馬蕗の利平治と鷹田の平十との会話は当然粂八がすべてを聞き、
又顔の確認もしてのけたのは言うまでもあるまい。
この平蔵暗殺計画の一部始終はその翌日粂八と馬蕗の利平治によって平蔵の耳に達していた。
網切の甚五郎はかつて向島の料亭(おおむら)の奉公人を含む二五人を惨殺して、
平蔵を待ち構えていた「大村事件」の張本人であり、平蔵に父親の土壇場の勘兵衛を
殺された恨みを持ち、執拗に刺客を放つなど、幾度も平蔵は窮地に追い込まれていた。
この網切りの甚五郎が舞い戻ってきたという事は平蔵に計り知れない威圧を与えた。
その 甚五郎が平蔵の暗殺目的に江戸にまたもや舞い戻ってきたということは尋常ではない。
(余程の覚悟であろう、それならばこちらとてそれ相応の手立てを講じねば
再び大村事件のようなはめに落ちるやも知れぬ)平蔵は深い溜息をついた。
(俺だとて、親を殺されれば事の善悪は別にして相手を憎むであろう、
それに関して甚五郎の気持ちは解らぬでもない、だが仇を打つということで
関係のないものにまで手を下すことは人間のやることではない)。
馬蕗の利平治に紹介された浪人大崎重五郎を鷹田の平十が訪ねたことも
すでに平蔵の耳に達していた。
だが、それ以後ぷっつりと網切りの甚五郎の足取りが途絶えてしまった。
いつ又あの網切りの甚五郎が江戸市中を恐怖のどん底に陥れるかと想像するだけでも
身の毛がよだつ思いである。
何としても捕まえねば、これ以上やつをのさばらす訳にはいかぬ。
平蔵は密偵たちを軍鶏鍋屋の五鉄に召集した。
翌日夕刻、清水御門前の長谷川平蔵役宅は大門が閉ざされ、
門番までも引きこもって全く人の気配が消えてしまった。
長谷川平蔵逼塞(ひっそく)の噂はこうして市中に拡がったのである。
平蔵としてみれば、この度の甚五郎の目的が我が身の暗殺であるなら、
それを逆手に取れば良いという考えに至ったわけである。
一日中張り付くことよりも、時間を決めて行動するほうが相手にわかりやすく、
その間密偵たちも休息をとれるし、都合が良いであろうと考え、
その旨を京極備前守に密かに書面を持ってお伺いを立てた、
当然使者は筆頭与力佐嶋忠介である。
佐嶋仲介は平蔵に借り受けられるまでの間、同じ御先手組頭堀立脇の筆頭与力であった。
このような経緯から平蔵の役宅が逼塞の沙汰がおりた事となった。
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