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鬼平犯科帳 鬼平罷り通る
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十五日は八坂神社でどんど焼が執り行われる。
ちよを店に残し、揃って去年戴いた破魔矢も添えて神飾りの炊き上げに向った。
新しく破魔矢を戴き、それを神棚へ飾り、三人そろって柏手を打ち、今年一年の願をかけた。
銕三郎とかすみ、店廻りをすませ植木屋を訪ね、室咲きの桜を探す。
室に桜の若枝を入れ、炉火を入れて暖め、早咲きさせる物で、その分いのちも儚いものの、目出度い席には好まれるもので、中々程の良い物はみつからない。
狛(こま)やの女将にたのまれたものである。
「銕三郎はんこまったなぁ……」
しょんぼりと肩を落すかすみは、か細い肩がよけいに小さく見え、落胆の程が伺える。
「専純殿に相談してみるのもよいかと思いますが。あのお方ならお顔も広ぅございましょう」
「そやなぁ…。お師匠はんならええ知恵貸してもらえるかも知れへんもんなぁ」
かすみの顔に少し精気が戻ったようで、銕三郎ほっとした面持ちに
「銕三郎はんかんにんえ」
とつぶらな瞳で見上げた。
かって知ったる紫雲山頂法寺である。案内も乞わず奥へと進む。
道場に専弘の姿があり、二人を見つけ
「おやかすみはん、それに長谷川はんどしたな」
と笑顔で迎え入れてくれる。
「専弘様、御住職は御在宅でございましょうか?突然の訪門で真に恐れ入るのでございますが」
銕三郎一礼して専弘の返事を待った。
「へぇ在宅中でございますさかい、ちびっと待っておくれやす」
と奥の方に去って行き、暫らくして専純が出て来、
「よう越しで──」
と二人を交互に見やり、
「何んぞこまった事でもあったんかいな、かすみはん (さて本日はどちらの方が問題なのか) と問いつつ二人を見る。
「お師匠はん狛ののお女将はんが、室の桜欲しい云われはって、うちの行ってるとこ、皆、今はまだて──」
しょんぼりしたかすみの顔を眺めつつ専純、
「よっぽど大事なお客はん来やはるんやろな」
専純腕を組み、しばし何かに思いを巡していたが、
「そや!伏見の花(はな)清(せい)が時折高瀬川を上って来るによって聞いてみよし、ここにも持って来るよって明日にでも言うてみまひょ!心配いりまへんよって、にっこりお笑いよし、長谷川はんも辛そうどすえ」
と銕三郎の面もちを案ずる。
専純の言葉に背を押され、かすみ
「お師匠はんおおきにどすえ、ほんまこれで肩が軽ぅなったわ!なあ銕三郎はん」横に並ぶ銕三郎に微笑みを見せた。
「ところで長谷川はん、あれから何か判らはりましたやろか?」
過日の禁裏附の事を尋ねているようであった。
「いえ、江戸表よりの周りを色々と廻っては見ておりますが、今一つこれと云うものは」
銕三郎深い溜め息を洩らす。
「そうどすやろなぁ……。禁裏附と賄頭だけでは内向に長じた地下官人相手の相撲はおお事やろな」
専純両眼をつむり思案にくれる。
専純に暇を乞い、戻りかけに高瀬川へ廻ってみる事にした。
高瀬川は、かって京と伏見を結ぶ主要な運河で、この川を行き来する高瀬船から名付けられたと云う。二条大橋南にあり、鴨川西岸に添って流れるみそぎ川から取水して枝分れしている。
ニ条から木屋町通りに添って流れ、十条の上で再び鴨川に戻る、鴨川までを高瀬川、鴨川以南を東高瀬川と呼ぶ。
このあたりは桜の頃ともなると曳船道に植えられた桜が咲き乱れ、花界にさらに華を添える所でもある。
戻り道の四条烏間の上の九之船入りに立寄って見る。
その四日後、六角堂の小僧より知らせを受け、次の朝早く銕三郎とかすみ、九之船入りに向う。
すでに船は曳き子によって到着しており、"花清"の主人が待っていてくれた。
「お早ょうございます」
かすみは主人に声を掛け、
「烏間のお師匠はんの使いのもんやけど」
と頭を垂れる。
船主と思しき気の善さそうな、小柄だが赤銅色に焼けた笑顔で
「おお!六角はんの所んお人どすな、へい託っておます、重とぅどすえ」
一束の花筵(はなむしろ)に包んだ物を持って来てくれる。
「けんど男はんがおるよし、どうでもあらへんやろう」
と銕三郎を認め、大切に手渡してくれる。代価一分銀二つを渡し
「おおきにお世話さんどした」
と頭を下げるそれへ
「美人ん嫁さんがけなり(羨ましい)どすなぁ!大事にしとぉくれやす」
首にかけた手拭いを取って銕三郎にペコリと頭を下げる。
手押車に花筵を積む銕三郎にかすみ
「聞いた?聞いたやろ銕三郎はん!美人の嫁はんてうちの事や!なぁ銕三郎はん?」
満面の笑みをたたえ、大はしゃぎで銕三郎の袖をひっぱる。
「さぁ誰の事でしょうね!」
銕三郎かすみのほころぶ顔を見やる。
「あん、もう銕三郎はんのいけず!うちぐれちゃる!」
とすねて見せる。その顔をながめつつ銕三郎
「いや怒った顔がまた可愛いですね」
と茶々入れる。
「うちもう知りまへん!」
、かすみ完全におかんむりである。
一方、腕に深傷を負った侍、あれからすでにふた月が流れ、年も変って安永二年一月下旬。
おしまはこれまで通り、毎日木屋町の高瀬川沿いにある旅人宿{すずや}に出掛けている。
夕刻にはいそいそと戻って行くそれへ
「ここんところおしまはん何んやうきうきしてはりますな」
賄いの徳二が前掛けはずし乍ら女将に言葉を投げた。
「そやなぁ、今までやったら早う戻ってもしゃあないよって─云うてたのになぁ…あぁ!もしかしたらええ人でも出来たんちゃうやろか」
「へぇ、もしかしてあん時の侍──そんなわけおへんな」
云いつつ終いにかかる。
「そやなぁうちもそんな気ぃしたんやけど、まさかなぁ」
そんなうわさ話しになっていようとはおしま、想ってもいなかった。
「今戻りましたぇ、ちょと待っとくれやす、じきにおばんざい作りますよって」
軽く奥に声をかけ、いそいそと前垂れをつけ、片たすきをかけて夕食の仕度に取りかかる。
その後ろから男が近より、おしまの身体に左腕を巻きつけるように引き寄せる。
「あかん、包丁持ってますんや─」
と云いつつもその腕にしなだれかかるおしま。
おそ目の食事も終り、おしまは酒の仕度をして奥の部屋にやって来た。
九十郎はんのお父 はんも、お家の皆はんもお近くに居られへんのどすか?」
「うむ──いずれもそばに居る」
盃を受取り乍らボソリとつぶやく。
「ほな、どないしてこんように市中(まち)に出はられますのや」
おしま不審そうにそう言葉を繋いだ。
「うん それだ──心が遠い……」
「いやぁかなんわぁ!…けどそん気持ち、よぉ解るような気ぃします」
水仙一式 「陰の花水仙に限る」
お見世は三元日を過ぎた頃から年の瀬に生けた花の挿し替えが必要になって来る。
松・竹・梅・水仙・寒梅・柳・千両・椿・南天・葉牡丹・万年青・葉蘭と云った材料の花類はちよが背負って来る物や、近郊の植木屋より仕入れる。
これらを手押車に載せて得意先の見世見世を廻り、挿し替えるのが銕三郎・かすみの商いである。
四日の朝早く、ちよが早摘みの草花を背負ってやって来、
「お師匠はんおめっとうさんで……」
と、迎えたかすみを一目見、
「あっ──お師匠はん!んっもうむっちゃ綺麗やおへんか!何んかいい事がおましたんやぁ」
と、確める風にかすみの瞳を覗き込み、
「なぁ鉄はん!ええことおましたんやろ?」
前垂れを目の傍まで上げたちよの目元もほころんでいる。
「ちよのいけず!そんなんちゃう!ちゃいますえ!」
耳朶までまっ朱に染めたそれを悟られまいと片袖に包むかすみ。
「怪しいなぁ──。お師匠はんほんまに綺麗どすえ。ちよも嬉しゅうおすえ」
と真顔で見つめたものである。
ちよの持参した花を仕分け終え、植木屋で仕入れた花木を揃え、銕三郎に抱えてもらうと、
「ほんなら行って来ます。後はよろしゅうたのみますえ。ほな鉄はんぼちぼち行ままひょか?」
銕三郎を促し、手押車に寄り添う。
それを見送ってちよ
「鉄はんおきばりやすえ」
と冷かし半分、うらやまし半分の顔で見送った。
祗園のお茶屋は様々な人々が出入りするし、芸子の前でも商談や相談事が平気で行われており、そんな奥向きの話も、かすみならそっと零してくれるのである。
だが銕三郎が傍に寄ると、急に口をつぐみ、怪訝な眼で銕三郎に視線を投げる。
それを察しかすみ
「お母ぁはん、こん人はどもないねん、御師匠はんのお墨付きどすえ」
と銕三郎を引き合せてくれるのである。
翌日少し遅めの朝餉をすませ、
「ほなおちよ、あとん事よろしゅうたのみますえ」
お揃いの晴着に袖を通し、烏間六角堂に専純を訪ねた。
道場の縁側に腰を下ろし、思いを巡らせていた風な専純、二人の姿を認め
「おゝこれは又御揃いでおめでとうはんどす」
いつもの笑顔で迎えてくれる。
銕三郎の後に添うように控え
「お師匠はんおめっとうはんどす」
初々しい恥じらいを見せるかすみの姿に専純をんなを視た。
「専純様、本年も何卒よしなにお願い申し上げます」
銕三郎両掌を腹前に添え合わせ頭を垂れる。
「これは又長谷川様、商人姿もよう似合うて─。ははは!どこから観てもこら町衆におますな」
「お師匠はん今年ん花は何の あっ──。花生けはられましたんどすか!」
道場で一人想いを巡らせていた姿にかすみ、すなおに心を述べる。
「今な、杜若エ夫しょったんや。こん花は、在原業平はんが三河国八橋で{から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う}と詠まはれましたんや。
こん花はいつ見ても観あきまへんのや。浅き春、盛りの夏、侘びの秋、霜枯るゝ冬それぞれに、葉にも風情がありましてな──」
専純、眼を細め。ふっと遠くを見つめる。
「おおそゃ!かすみはん、松飾りはちゃんと出来たんかいな」
「へぇ銕三郎はんに手伝ぅてもろて、お師匠はんに教わったとおりに、竹の底節残して、あとは皆抜いてもらいました。おかげさんで小笹もしっかり水が上ってます」
(なぁ銕三郎はん)と云いたげに銕三郎を見つめる。
「そらなんよりどしたな。ところで長谷川はん何んゃ変った事はおへんか」
専純、気に懸かっていたらしく真顔に戻り話しを変えた。
「年の瀬よりこちら、これと云った様なものは……」
「そうどすか──仙洞御所で公文はんの動きが近ごろなんや妙や云うとったさかい、そのねきどうやろかておもてな、あはは……」
「姉小路様が──」
銕三郎、この陰の仕事を始めて以来、公家の名を知る様になっていた。
「さすがに長谷川はんどすな!よぅお判りでございますなぁ」
と、かすみの方に目を移し、にこやかに笑んだ。
三人並んで縁側に腰を下し、暫らく談笑の後、二人は専純に暇を乞い、六角通りへと歩を進める。
「お師匠はんおもどりやす」
ちよが笑顔で出迎える。
「お昼も近いし、ほなちよ!木槌持ってきておくれやす」
と、ちよを奥へ追い払い
「鉄はん善哉はお好きどすか?お鏡はんをカリッと焼いて、粒あんで仕立てますのや」
かすみ、ちよから木槌を受取り
「鉄はんおたのしますえ」
と銕三郎に手渡す。
俎板に下げた鏡餅を置き、銕三郎一気に打ち下す。
「待ってやぁ!……。綺麗に割れたやおへんか、なあ“おちよ”!割れ方で運気が判るんどすえ」
と講釈がつく。
「けんどなぁ…何で善哉なんやろか?」
素朴なちよの間いに
「六角堂のお師匠はんから聞いたんやけど、昔一休はんが食べはって、善き哉善き哉と云わはったそうや。そいからこっち善哉っ云うようになったんや」
「へぇ、やっぱり和尚、物知りやなあ」
「あたり前や…。なあ鉄はん」
その問に男は油紙を敷いた上り框(かまち)に横たえられ、医者の着くのを待つ。
心配そうに周りをかこむ客に
「明日も早うおす、どうぞ休んどぉおくれやす」
と女将が客を追い払う。
暫くして先程のおしまが医者の手を取り、提灯を掲げて戻って来た。
怪我人をひと目視て、
「刀傷どすな、焼酎があればそれを、そいから箸を一本─気い失うかも知れへんけど我慢しおし、お侍はんどっしゃろ」
と待の切り裂かれた袷をぬがし、傷口を確め、よこされた焼酎を傷口に流し込む。
「ぐぇっ!」
よほど傷口に浸みるのであろうか、男は噛まされた箸を噛み砕き、そのまま気を失ってしまった。
一応開きかけていた傷口を縫い合わせ、手当を終え
「傷はかなり深いもんの、命には拘われへんやろ、ま今日は動かさんといて、多分熱も出て来るやろ、そん時はじゅうぶん冷すのんどすな」
と提灯を受取り戻って行った。
「いやぁどないしょう」
(これ以上関わり合ぅても何の得もない、できればこのまま外へでも放り出したい気持ちや)心のなかでそう想ったか、
「明日までおしまはん、面倒見てくれまへんやろか」
と女将、蝿のように両掌をすり合せる始末。
「仕方あらしまへん、うちが見てます」
と、おしまと呼ばれた女は云ってしまった。
男は一晩中呻き声を上げ、うわ言の様に言葉にならない言葉をもらし、医者の言った様に傷口が熱を持って来たのか、油汗が吹き出して来るのをおしま、休む問もなく冷水でぬぐい取り乍ら、夜通し看病を続けた。
朝方旅人も起きて来、朝の支度をすませ、朝餉を取ったあと出達の用意をして框に出て来、ほとんど気を失いかけている侍の傍に寄り、
「 まだ生きとるかいな?」
と声をかけて来た。
おしまはほとんど寝ずであった為、その声を遠くで聞いたように感じていた。
皆それぞれ声をかけて各々京の町へ散ってゆき、朝五つ(午前八時)頃、再び医者がやって来、包帯を取りかえる。
てぬぐいに水を浸し、軽くしぼってそれを当て、血糊をゆっくりと溶かし、晒を解く。
さすがに傷口は血糊がこびりついており、容易には剥がせない。
「辛抱しなはれ」
そう云いながら、少しずつ傷口に絡みついた晒しを解き、再び出血が始まるのへ蓬を揉んで汁を作り、それを傷口にたらし込む。
「ぎゃっ!!!」
悲鳴をあげて悶絶してしまった。
石灰を溶いて晒しに塗り、それを油紙で包み、これをあてがって晒しを裂いて肩口から腋へ、更に反対側の腋へ巻きつけ、その上から再び腕を固定させる為幾度も巻いた。
「とにかく血を止るこっとす、それから熱うなるさかい十分冷しとったらよぅおす」
医者はそれだけことづけて戻っていった。
女将はこの侍をどうしたものかと思案している模様で
「奉行所にお届けなだめやろぅか…」
「けど女将はん、相手んお人がいーひんのやさかい、どうにもなりまへんよ」
と、おしま(、、、)
「そやなぁ─。おしまはんあんた、こん人看といておくれやすな、お願いや、これこんとおり」
又もやおしまに両掌をすり合せる。(まるで夏場の蠅みたいや)おしまはそう想ったものの、このまま放り出す事もならず、思案にくれた末、
「女将はん、こんお人の気ぃつく迄うちあずからせてもらいます」
と云ってしまった。
それから駕籠を呼んで何んとか乗せ、囲りを縄で縛り、転げ出ないようにして、三条を渡って北に上がり、孫橋を渡った先の若竹町の長屋に連れ戻った。
空蝉
銕三郎はその翌日、訴えかける妻女久栄の眸(ひとみ)を振り切り、そのまま真直ぐ祇園に向い、事の一部始終をかすみに伝えた。
「銕三郎はん、お一人での探索はどうぞやめておくれやす、うち銕三郎はんに何ぞあったら心配でかないまへん、ほんまにほんまにお願いどすえ」
かすみは眸を潤ませて銕三郎の袖にすがる。
確かにこのままではいつ何刻あの刺客が再び襲って来るか判ったものではない。
銕三郎意を決し、かすみに
「のうかすみどの、私は町衆になろうと思うが如何でしょうか」
と、かすみの瞳に同意を求めるごとく見つめる。
かすみ驚きに眸(ひとみ)を見開いたまま
「銕三郎はんが髷(まげ)を落しはるんどすか?」
「いやそうではのぅて町人髷に変え、この辺りに住もうかと考えてみたのですが──。いけませぬか?」
「なら銕三郎はんも此処にいられますのんどすなぁ?そぅやったらいつでも一緒に居れますのんやなぁ」
とかすみ大きく澄んだ瞳を耀かせる。
「いえ、そう言う事ではなく、私の姿を消さねば、いつ何刻又あのように刺客に襲われるや知れません。やはり侍姿より町衆の方が何かにつけ溶け込み易いと想います」
と言葉を足す。
「ほんまどすか?そやったらかすみ、もんむっちゃ嬉しゅうおすえ、明日にでもお師匠はんにお願いしまひょ、御隠居はんが話し通してくれはりますよってに──。 そうやそうや二人して手分けすれば色んな事判りやすうおすえ」
かすみは浮き浮きと一人胸を弾ませている。
こうして翌日夕刻にはかすみの手で髷を町人髷に結いかえてもらい、建仁寺門前の建仁町通りにあるかすみの居する花屋「百花苑」の二階奥をとりあえずの宿とした。
この界隈の門前で寺社や詣(もう)出客に供養用の花を売り、祇園のお茶屋に花を生けて廻る商いがこの頃のかすみの本業であった。
こうして銕三郎は花を抱え、祇園一帯の花街を廻りながら、そこに出入りする口向役や禁裏附役に加え、ひそかに寄り合う武家伝奏や地下官人の動きを昼夜に亙り見張る事となった。
とは云うものの銕三郎は京言葉が話せない、そこで{口の訊けない鉄さん}と云うふれ込みで花篭を背負い、かすみの後ろに随い、先々の出入店で眼を光らせ耳をそばたたせ、彼らの動行を探る事となったのである。
無論この事は壬生の御隠居の力に他ならない。
かすみの店には、店番のちよが通って居、朝届く榊やしきび、草花を分別し、残った物は小把にまとめ一束十文(二百五十円)で売っていた。
草花は紺絣の半着に三幅前垂も同じ絣に手甲脚絆、白い腰巻に帯は縞物で頭に竹駕籠を載せ
「花いりまへんか」
と売り歩く白河女から仕入れたり、ちよが近くで取りそろえて持って来た。
ちよは南禅寺北ノ坊光雲寺近くの農家の娘で、毎朝採れ立ての野菜などを背負って来、それを夕餉の膳にこしらえてくれたものだ。
かすみはこれを銕三郎と二人で戴く事に嬉々としており、一日の終いを待ちこがれていた。
かすみより二ツ三ツ年下と想われるちよも(鉄さん)を気に入った様子で、
「お師匠はん、あん人はどないなお人どす?」
と興味深々の瞳でたずねる。
「ああ、鉄はんどすか?お師匠はんとこにおいでになったお方や、口訊(き)けへんけどええお人ぇ」
かすみわざと素っ気ない態度で応えるが、どうにも口元が緩む。
「へえよぅ解ります、せやけど、おかしなお人おすなあ」
ちょこっと小首を傾げてかすみを見上る。
「なんでやの?」
(何か感づかれたのかしらん…)少し眉根を寄せてかすみ。
「何んかこうお侍はんみたいなとこおすなぁ」
「そないなことあれへんえ、うちやちよが大荷物で難儀してるん知らはって、お師匠はんが付けてくれはったんえ」
どぎまぎとぎこちない返事も信じたのか
「なんやそうどしたんかいな、ほな力仕事頼めますなぁ」
ちよは何の疑いももたない様である。
こうして銕三郎はかすみと共に昼夜祇園界隈で見かけるようになっていた。
この翌日から銕三郎は鳥海彦四郎の手控帳に記されていた禁裏附の周りや代官所の内情を探るべく昼夜を問わず駆け回って居、その為に家を空ける事も頻発するに至った。
「銕さま、本日もお出掛にございますので」
腰の物を捧げつつ妻女の久栄はうらめし気に夫を見上げる。
「久栄、父上をお助けするのが儂に出来るただひとつの孝行、それを弁えてくれ」
「まだこの着物に女子の移り香が……」
久栄は衣文掛に懸かった長着を溜息吐きつつたゝみ込むしかなかった。
銕三郎、この日も祇園の狛のにあった。
「かすみどの、昨夜は如何でございましたか、何が変った事でもあれば只今から参りますが」
これが現在の銕三郎の 主な仕事である。
この祇園界隈には口向役人や禁裏附役人も多々出没する為、漏れ来る物に耳をそばだてておればさまざまな物を知る事が出来るわけである。
それらに逐一耳を向けておれば内向きの事なども知る事が叶うのであり、その為のかすみ達が在る。
太田正清の同心もこのようなところで声息を探っていたのであろうか。
かすみもこの鳥海彦四郎には拘わりないようで、町奉行所とは別の指図で動いていると銕三郎にも想われた。
銕三郎はかすみと打合せを終え、隠密同心鳥海彦四郎の手控え帳に記されていた禁裏役・口向役の屋敷周りに探りを入れてみるのが日常となっていた。
この他にも、当時西国大名は六十八屋敷の内四十八屋敷を置き、代官やその他の武家屋敷は六十以上存在した。
探索とは云うものの、せいぜい遠目で馴染みの顔、官人や待の出入を見定めるのが精一杯である。
この日、いつもの様に白地の提灯を提げて役宅に戻る途中、この数日嫌な気配を感じながらも何事も無く役宅まで戻っていたのだが、狛のを出て三条大橋を渡りかけた折、先程まで辺りを照していた月が雲間に隠され、周り全体を漆黒の闇が呑み込んだ。
急に重々しい空気が銕三郎をおし包む。
(何だこの重たさは、殺気にしては鋭さがない!妙な──) 銕三郎用心しながらゆっくりと橋半ばにさしかかった、突然背後にのしかかる重圧感に振り向き提灯をさし出したその一瞬、闇をも切り裂く様な鋭い太刀風に銕三郎よろけるようにかろうじて半歩退き、拍子に提灯を持つ手が挙がった。
その刹那、提灯は真っ二つに切り裂かれメラメラと燃えながら落下し、その傍に銕三郎の左袖がひらひらと落ちた。
銕三郎ためらう事なく粟田口国網の鯉口を切った。
一瞬の間もおかず己の背後に再び強い殺気を覚え、振り向きつつ一気に抜き胴を放つ。
「うっ」
一瞬ひくい声がもれたものの、その在りかを確める間もなく刺客の姿も先程の重々しい空気も朝の霧のごと消えていた。(何だこいつぁ──)
これ迄味わった事のない背筋が冷たく張り付く恐怖が甦って来、(恐ろしいまでに儂を圧し包んだあれは一体何であったのであろう) 満天の下ゆっくりと周りに気を放つも、手応えはまるでなく、左腕に絡みつく切り裂かれた袖が、夢・幻の出来事ではなかった事を教えているのみであった。
(まこと恐しい敵だ!気配すら残さず来て去ぬとは─)銕三郎真剣を構えて初めて恐怖と云うものを味わった。
役宅に戻る迄気を抜く事はなかったものの、ついにあの覆い被さる重々しい殺気は微行て来なかった。
銕三郎の戻りを案じていた妻女久栄、夫の肩口から切り裂かれ、だらりと垂れ下っている袖を見、
「銕さまこれは何と致されました!」
わなわなと震えているその手をにぎり銕三郎
「久栄!儂も初めて恐しいと云う思いを致した。何ともすさまじき剣であった。
だが案ずるな、この儂とて高杉道場の龍虎と謳われておった、そう易々と討たれるものか……」
とは云うものの、己の所在が知れた今、次にこの妻子が狙われないと云う埋合わせはない。
その同じ頃、三条西木屋町高瀬川に沿った通りに面した商人宿の仲居女は、夜五つ(午後八時)の鐘が鳴り始めたので、捨鐘を聞いた所で入口の戸を閉めようと表に出た。道の向う、桜の傍に何かうごめく物をみとめ、訝り乍ら眸を凝らして観ると、かすかに呻き声のような物音が聞えた。
月明りの下、どうやら人の気配らしき事に驚き、中にかけ込み
「誰かぁ!そとに何やいます!」
大声を上げた。
「何やおっきな声なんか出しいやって」
めんどくさそうに中から女将が出て来、女の指差す桜の袂にうずくまる物を視
「ぎゃあっ」
と大声をあげる。
宿の中からばらばらと人が出、中には火吹竹をひっつかんでいる者もある。
おそるおそる客の一人が近づいてみる、
「あっこりぁ大事だ、怪我してるみたいでっせ」
と叫び
「お前さん大丈夫でっか!」
と抱え起そうとした。
「ぐぅ!!」
呻き声がもれ、ぐったりと前のめりに倒れてしまった。
「とに角中に運んでおくれやす」
女将は舌打ちしつつ男衆に指図し、
「しょうがおへん、お医者はん呼びなはれ」
と先程の女を見る。
「へぇお役に立てればよろしゅうおす」
主は銕三郎を部屋の外へと誘う。
玄関を前に銕三郎、先程より心に罹(かか)っていた事を口にしてみた。
「主どの、真に失礼とは存知ますれどお許しの程。
先程の御人はどのようなお方でござりましょうか?」
先に立っていた主人足を止め銕三郎を振り向き、
「あんお人は壬生のご隠居はんどす、これ以上はかんにん」
と、再び前(さき)に立ち、銕三郎を広玄関に案内した。
銕三郎、先程壬生の隠居から渡された紐の事が気になり、
その足で祇園へ取って返すべく足を向けた。
めざす揚屋狛のは祇園町薮ノ下、周りは軒も連なるように茶屋が立ち並び、
目の前は祇園社が控え、後ろは建仁寺とまさに祇園の目貫である。
厨子(つし)二階の緩やかな起(むく)り屋根に、仕舞いは一文字瓦で軒を整え、
表は紅殻格子(こうし)が美しく組まれている。
表は犬(いぬ)矢来(やらい)が組まれ、厨子には木瓜の虫籠窓が漆喰の白さに
囲まれ柔らかな面立ちを見せている。
この角を丸く収めた横窓は江戸で見ることはなく、銕三郎には珍しい眺めであった。
紅殻(から)はインドのベンガル地方から輸入された酸化鉄の出す赤色顔料、
赤土などに含まれる色素は備中岡山の吹屋村で作られ、
また木材などには防腐剤としても多用され、石州瓦や器物などの赤褐色はこの紅殻による。
(京という街はどこまで行っても雅なもの──江戸の荒々しさとは比べるべくもない。
あはははは、東男に京女かぁふふふふ)ふと先日のかすみの柳腰に
チラと覗く引き締まった小股の白さが思い浮かぶ。
隣は仕舞屋(しもたや)(店じまいした店)があり、今は町家になっているようで、
人の出入りもなく静けさの中、侘びた風情を見せていた。
銕三郎云われた通り、あないの者に紐を見せると
「どうぞ」
と先立って厨子(つし)二階へと銕三郎を導いた。
「お見えになりはりました。ほなよろしゅうに」
とそのまま襖の前に銕三郎を残し立去ってしまった。
(何と…) 銕三郎少々戸惑いを覚えつつ
「御免を仕る」
と襖を開いた。
「あっ!」
銕三郎の眸(ひとみ)が大きく見開かれ、あっけにとられた口はそのままに、
その部屋の奥を凝視したまま釘づけになった。
虫籠窓から入る光を背に、匂やかな女性(にょしょう)の丸い肩が飛び込んできた。
「うふふ……」
「か・か・かすみどのが又──」
銕三郎双眸(そうめ)を見開いたまま、
想定外の景色を受け入れがたく呆(ほう)けたようにそれをみつめる。
「銕三郎はん、お待ちいたしとりましたぇ」
利休鼠の大島紬に楓で染めた薄色目に桔梗・白菊・女郎花など秋草を織り込んだ
袋帯の上に茜珊瑚色の帯揚げで身を包んだかすみが座していた。
「いや又、何故どうしてここにかすみどのが……」
銕三郎、辺りをきょろきょろ見回すものの、当のかすみ以外人の気配もなく
狐につままれた面持ちの顔
「可笑しゅうどすか?」
袖を口元に運び、悪戯っぽい瞳で迎える。
「いや驚きました、まさかこの様な処で」
(壬生の隠居は儂のお護りだと言われたが、まさかそれが女性、
それもあのかすみみどの……。悪ふざけとも想えぬものの、
はは─なんとも驚くやら嬉しいやら)そんな顔で見つめた。
「うち、先に云いましたえ、祇園で茶酌みしてたて」
この謀(はかりごと)に見事嵌(は)まって鳩が豆鉄砲食らったような銕三郎の顔を、
目元もほころばせてかすみが見やる。
「んっ確かに、ですが─。壬生のご隠居様とは?又六角堂の専純様は……」
この繋がりからかすみは結びつかなかったからであろう。
「へえ、うちはご隠居はんとお師匠はんの眼と耳の一人どす」
「一人─と云う事は他にも…」
(もしや父上が申されて居られた奥の院への入り口となるのか)
と言う疑念が脳裏の片隅に朧(おぼろ)げながらも浮かんだ。
「そらぎょうさんおいでます」
ちらっと上目遣いにかすみ銕三郎の顔を盗み見るように
「ですが、御隠居様は今後私の目と耳にと申されましたが」
「へぇ、そない云いつかりましたぇ、なあ銕三郎はん、
こん紐のことお知りになられへんのやろう」
「はい確かに、見せれば判ると申されましたので」
(まさかこのかすみどのがそうであろうはずもなかろう、
喩え花界に身を置いていたとしても、とてもそのような形には見えない)からだ。
「そうやろなぁ、これは結び紐云ぅて、結び方や色により色々に意味があるんどすぇ」
「何んと、そこまで裏があるとは」
銕三郎、京と云う町の表と裏、本音と建前の奥深さを初めて思い知らされたのである。
「これはうちのもんどす」
そう云ってかすみ、七分の血赤珊瑚玉簪を抜いて銕三郎の前に差し出した。
紅く燃え立つ珊瑚玉のそこには兎の陰刻(かげぼり)がほどこされてあった。
「これは?」
「これはうちの証しどす、うちらだけに判る標(しるし)どすえ」
「へぇこのようなものにも一つ一つ意味があるのですか」
銕三郎しげしげと珊瑚玉とかすみの顔を見比べる。
「いやそれにしても美しい……」
銕三郎まじまじと眺めつつ思わず口を突いてしまった。
「いやぁほんまに?うちほんまに綺麗?」
かすみ、牡丹の花の一気に開くが如き笑顔をほころばせ、銕三郎の顔を凝視した。
「えっ?……。はいこの珊瑚玉と帯揚げの色目がかすみどのによう似合ぅて──」
代わる代わる両者を見つめる銕三郎
「珊瑚玉?帯揚げ?──。ンもう!銕三郎はんのいけず!!」
拳で銕三郎の肩をトンと打ち据え、横を向いてしまった。
「ああああっ!これはしたり、いやぁかすみどのはそれにもましてお美しい──」
慌てて取り繕うも後の祭りであった。
「んもう知りまへん!」
横を向いたまま口元を真一文字に結び、目を閉じて完全に無視の体
(こいつは困った!はてさて女子と小人は養いがたしというが、
おなごは難しいものだ、どうにかこの場を収めねば…)
頭を抱えつつ……(おお!そうだこの手があった)と銕三郎
「いやぁ又そ"かすみどののすねた横顔、なんとも美しい!しばし見取れてしまいます」
これはまぁほとんど本心であった。
それ程かすみの横顔は虫籠窓から差し込む暖かな日差しに、顔の輪郭が縁取られ、
半日陰にうなじの白さが浮き上がって見え、
ふわりと産毛が陽光に透けて艶めかしさを覚えた。
「またうちをかまされますのやろ?」
プンとふくれたままかすみ
「かます?何ですそれは?」
「んもう銕三郎はんのいけず!!うちをからこうておられますのやろ!」
「違う違うそれは違います、まことそう思うたからそう申しました」
少々冷や汗ものではあるものの、正直な気持ちである。
「ほんま!うちほんまにかいらし?」
弾けそうに顔をほころばせ、大きな瞳を開けて銕三郎に飛びついてきた。
「まままっ真でございます!」
銕三郎、かすみの柔らかな肉体(からだ)の感触と肌のぬくもりを受け止めつつ
引き離そうとするそれに
「こんまま…こんままで……」
かすみの指先に力が籠る。
白く抜けたうなじのあたりから、かすかに誰が袖の白梅香がこぼれる。
「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(古近和歌集)
そこは静かに穏やかなひと刻(とき)が流れる。
こうして銕三郎、新しい探索の第一歩をふみ出す事となったのである。
この日役宅に戻り、父宣雄に報告に上った。この一部始終の報告を聞いた宣雄、
「太田殿より白足袋者について伺ぅた、彼らは常に白足袋を用いておる者達の事、
言うならば陰翳(かげ)の者とも云える。
我らが江戸表より申しつかった口向役に妙な動きがあるゆえ、
心して探索(さぐる)様との下知であったが、京とはおかしなところ、
我らの立入れぬものがある。
地下官人や武家(ぶけ)伝奏(でんそう)が禁裏附と深い係わりを持っておるが、
この辺りがどうしても我らには入り込めぬそうな。
その入口こそこの白足袋者の持ちしもの、どうやらその壬生の御隠居、
よほど上のお方やも知れぬぞ。六角堂の当主は仙洞御所に出入りする力を持っておると聞く。
それ程のお方がお前の後ろに附いたとなれば、
これはまさに百万の味方を得たのも同じ。だが銕!先の太田殿の隠密同心殺害の一件もある、
せいぜい心して当たらねばならぬぞ」
深く頭を下げ帰宅した。
銕三郎の高揚した面持を、妻女の久栄差料を受けつつ
「銕さま何ぞ良い事でもおありになられましたので?」
さぐる目つきで見上げた。
「んっ ああいや大した事ではない、六角堂の住職に招かれたゆえ出掛けたまで」銕三郎、外着をくつろげる普段着の袖へ通しながら…
「それより父上はまだお戻りにはならぬか?」
「はい本日はまだお戻りにはなられておりませぬ、何か急ぎの御用でも?」
訝りそうな妻女の眼差しを背に銕三郎
「いやさほどの事ではないが、明日より儂も父上の助役として忙しゅうなるやも知れぬ、その事に関し、父上の判断をいただかねばならぬ」
銕三郎本日の出来事をかいつまんで久栄に聞かせた。
そうこうしている内に父宣雄が戻って来た。
「父上お戻りになられましたか、ところであちらの方に妙な動きはまだ?」
宣雄は立ったまましばし目をとじた後、
「我ら町奉行では歯が立たぬ相手だと太田殿が申しておられたそうだが」
宣雄は苦々しそうに宙をみつめた。
「その事で父上にお話しいたしたき事がございます」
銕三郎これまでの経緯(いきさつ)をくわしく話し、今後の取るべき指図を仰いだ。
「六角堂の主か──。銕!こいつは想わぬ道が開けるやも知れぬな」
信雄の顔に少し安堵の色が浮んだ事に銕三郎胸をなでおろした心地であった。
翌日の昼七つ(午後四時)、銕三郎は身形を整え、壬生村の日下部家を訪れたていた。
主人の案内で通された奥座敷の前、で主は居ずまいを正し
「おこしにおます」
と中に声をかけ、静かに襖を開く、そこは明り取りの雪見障子より漏れる光と、わずかに一本の灯明があるのみので、人の気配すら感じない程の静寂感に銕三郎(はて──)と下げていた頭(かしら)を上げた。
相対主は床の間を背に居、銕三郎に
「どうぞ」
と中に入る様促す。
銕三郎再度低頭し、
「御無礼を仕ります」
と両刀を控える主人に預け、中に進んだ。
襖が静かに閉ざされ、立去る足音ひとつ聞えてこない。
「よぉお見えで─」
低く重味の加わった静かな口調であった。
銕三郎思わず身体に震えを覚えた。言葉と声から放たれた威厳とでも呼べる抗いきれない力である。
「ははっ──」
銕三郎身の引き締まるのを覚えつつ胆気で腹にぐっと力を込める。
「あんたはん、六角はんから会わせたい云われたお人どすか」
恐る恐る顔を上げた銕三郎の双眸(そうめ)の奥底を読み取るかのごとき眼光に、銕三郎脂汗がじっとりと吹き出すのを覚える。(武家などから受ける高圧的な重みではない、この腹の底までものしかかるような威圧感、これが京という物なのか─それにしても恐ろしいほどの威厳だ)
それはほんの一瞬であったろうが、銕三郎には身体が金縛りにでもなった風で、長き刻のごとく想われた。それを破るように
「あんたはん、六角はんからの言付、見てへんのどすか?」
銕三郎やっとこの明るさに眼も慣れ、正面に座している人物の風貌が視てとれた。
すでに七十近くと想われる白髪を、そのまま肩辺りで揃え、縹(はなだ)色(いろ)(淡い藍色)の表に裏は白のお召・同色の羽織、金糸を織り込んだ西陣綴帯に手の込んだ象嵌造(ぞうがんづく)りの真(しん)塗(ぬり)脇差の拵(こしら)えで紫の座蒲団に座していた。
實(まこと)に穏やかそうな人物である、が─銕三郎を瞶(みつい)める眸(ひとみ)の笑っていない事を銕三郎素早く読み取った。
「はい、結び文は一度開けば決して元通りには結べません、しかも専純様よりのお言伝ならば尚更にも」
と低頭して応える。
「ならよろしゅうおす、祇園の狛(、、)の(、)を訪ねなはれ、そこでこれを見せとぉくれやす、あとはあちらはんがええようにしてくれはります」
と云い乍ら懐から懐紙に包んだ物を銕三郎の前に置いた。
「これは?」
縹(はなだ)色の紐を結んだ物のようで、銕三郎は初めて目にする物であった。
「まぁあんたはんのお護りどすな」
「私のお守り?」
「そうどす、何んかの時役に立つやろ、これからあんたはんの眼と耳になりますやろ」
と、銕三郎の反応を味うかのように、先程とは打って変った穏やかな面差しである。
「ははっ真にかたじけのうござります」
銕三郎低頭して応えた。
少しして襖の外から
「よろしゅうございますやろか」
と声がかかり、襖がすべる様に開き、先程のこの家の主人が控えている。
「真にご雑作をおかけいたしました」
銕三郎あらためて挨拶をのべた。
銕三郎は此度京へ上る中、大きな目的があった。
鎌倉時代、この京の東山北西端には銕三郎が将軍御目見の祝いとして
父宣雄より譲り受けた差し料粟田口国綱を打った名刀工、山城国住人
林藤六左近将監の粟田口派が、かつて存ったからである。
遵い、平蔵の差料も無名の粟田口に国綱の銘を打った物ともいわれており、
それを知っての上だから気軽に手挟み使ったと想われる。
この日、銕三郎は西町御役所を出、長さ六十一間(約百米)幅三間(約五米)
の三条大橋を渡り南へ折れ、縄手通りからひとまず建仁寺を目指した。
俵屋宗達の風神雷神図屏風が納められていると聞いていたからである。
この屏風、京の豪商打它公軌(糸屋十右衛門)が建仁寺派の妙光寺再興記念に
俵屋宗達に依頼制作し、納めた物が妙光寺より寄贈された物であると聞き
およんでいた。さほど深い感心があった理由ではないが、(まあ京の土産話しの一つにでも)
といった軽い気持ちである。
これを拝観し終え、一路足は粟田口鍛冶町粟田神社に向いた。
この粟田口、古清水と呼ばれる粟田口作兵衛や色絵付けの野々村仁清で
知られた粟田口焼の窯元が隆盛を極めていた事もあり、その頃は帯山窯・
錦光山窯も名乗りを上げ、粟田焼と呼ばれるに至っていた。
享和二年(一八〇二)(南総里見八犬伝)の著者滝沢馬琴(曲亭馬琴)
もここを訪れ
「京都の陶は粟田口よろし、清水はおとれり」
と旅行手記羇旅漫録の中の巻八十四に記している。
佛光寺の辺りは三篠小鍛冶信濃守粟田藤四郎の一派が栄えた処でもあり、
その後、粟田口一派が大いに栄えた。この跡なりとも見、
古を偲んでみたいと思ったのであった。
銕三郎は、宝暦四年(一七五四)山脇東洋が日本初の腑分けを行い、
この五年後、解剖図録「蔵志」を刊行した六角通りにある六角獄舎から
粟田口へ向かい、これを更に遡り、千本松の方へ上がってゆく。
そこには蹴上と言う所があり、粟田口刑場に向かう際、
罪人が進むことを拒むため役人が蹴りながら進んだと言われている話を、
粟田口を尋ねた建仁寺の門前茶店で聞かされていた。
「なんとも京と言う町はいにしえの名の謂れ多き所よ、
髑髏町なぞよくぞ呼んだものだ、江戸じゃぁこうはゆくまいよ」
京都絵図を眺めつつ、妻女久栄に語ったものだ。
建仁寺を拝した後、踵を翻し、粟田口鍛冶町の粟田天王宮を訪れた
ここの社には天下五剣の一つ、三条小鍛冶宗近の名刀三日月宗近や、
山城の國住人粟田口吉光作の名刀一期一振藤四郎が奉納されている。
東山三十六峰の裾に当たるこの地に鎮座する粟田天王宮は、
周りを鬱蒼と繁った森に囲まれ、常盤木はすっかり落ち着きを見せ、
紅葉や黄葉樹は色どりを増し、逝く時季を惜しみつつも静かな佇まいを
見せている。
社殿詣でを終え、山辺の戻り道を辿りつつ、社の出口近くにさしかかった時、
若い女性がおろおろしている姿を認め、怪訝に思った銕三郎
「いかがなさいましたか?」
と近寄る。
その女、相手が京言葉ではないことに少しためらった後
「お師匠はんがここから──」
と女、不安げな面持ちで薄暗い藪の中を覗き込む。
「何んとした!」
銕三郎急ぎ藪の中を覗き込んで、何やらうずくまった人の気配に
「やっこれはいけません」
あわてゝ腰の物を抜き、
「まことにすまぬがこれを預かってはくださらぬか?」
と両刀を女性に預け、銕三郎、そろそろと藪の中をかき分けつつ下って行った。
藪の中ほど、少し平らになったところへ老人が倒れて居、
見れば軽衫が裂け、血のようなものも浮いて観える。
「ご老人気を確かに!」
そう大声をかけると、何やらぼそぼそ声で手を上げてみせる、
そこには薄闇にも見事なまっ赤に紅葉した梅嫌の枝が握りしめられていた。
そのまるで童のような無邪気な面持ちが、
見れば六十を回っていると見える容姿に銕三郎、思わずにが笑い。
それを受止めたのか老人も照れかけたものの、傷の痛みに思わず低く
「ううっ!」
と声を漏らした。
「あっそのままそのまま!」
銕三郎そう声をかけつつ近づき、ゆっくりとかかえ起してみる。
「 んんっ!」
思わずもらす声は傷の痛みのものの様で、他の手足を触ってみるも
それには反応ないのを視、とりあえず骨には何の心配もないと想われたので、
京入
長谷川平蔵宣雄は少し遅れた十一月十一日東海道を銕三郎妻女久栄や嫡男辰蔵に
与力・同心に小女・小者など少人数をともない馬で入り、粟田口蹴上(けあげ)に着いた。
出迎えを受けたのは、京都町奉行目付方与力一向。
「これは長谷川様、遠路はるばるお勤めご苦労に存じまする」
「これはまた、ご丁寧なるお出迎え痛み入ります」
馬上より下馬した宣雄、出迎えた面々に軽く頭を下げ、ゆっくりと見回す。
慇懃ではあるものの、その奥に冷ややかな物を感じ取った宣雄、さらりと受けて流し,
迎えの乗り物に銕三郎妻女久栄と嫡男辰蔵を乗せ、一路西町御役所へと向かった。
東町御役所(奉行所)は西町御役所の直ぐ傍、押小路通大宮西入る神泉苑西隣にあった。
此処は元々五味備前守屋敷蹟に建てられた物。
東町奉行酒井丹波守忠高へ新任到着の挨拶に上り、後、西御役所(町奉行所)に入った。
旅仕度を解く問も惜しみ宣雄、引継の経過を銕三郎より受ける。
「父上、長旅ご苦労様にございました。太田様よりお引き継ぎいたしましたる事の中、
くれぐれもと申されたものにございます」
と大田正清より託された手控え帳を差し出した。
銕三郎の差し出す手控帳を読み進める険しい宣雄の顔を一瞬で見取り
「父上早速なれど余程の事と想われます」
と、過日太田正清から受取ったおりの事を、つぶさに語った。
「銕!心して聞け、この手控に記されておる事は他言無用と心得よ、
してこの者は只今いかように──」
宣雄、当時者の手控帳がここにある事を訝(いぶか)しく感じたようで、
銕三郎の応えを待った。
「殺られました…」
「何と!」
驚きと共に(それ程事は根深い物になっていたのか…)
宣雄、手控帳を手にしたまましばし宙を見た。
「かなりの遣い手のようで、応ずる間もなく真っ向から一太刀だったそうにございます」
その時物の割れる音がし、部屋の外、
廊下で茶を捧げて来た久栄が、聞えて来た話しに驚き、碗を落とした模様であった。
その音にこちらでも驚いて襖を開いたそこに、
蒼ざめた顔の妻女久栄がぶるぶると震えていた。
「やっこれはしたり、驚かせてすまなかった」
奥から舅(しゅうと)、宣雄の労わる声を背に、
銕三郎が飛び散った碗の欠片(かけら)を拾い集め、
懐紙に茶を吸わせている久栄の手を取り、
「案ずるな、案ずる事はない」
と気を落ち着かせるベく中に入れた。
「義父(ちち)上様、こたびの御勤めは然程にあぶなき物にございますので…」
舅(しゅうと)の目を見上げたまま、今だ少し震える声で尋ねる。
「案ずる事はない、よいか久栄!そちは辰蔵が事を守ってくれればよい、
後の事は儂と父上にまかせておけ。よいな」
「銕さま……」
久栄は不安な面持ちを隠せない
この夕刻、二人は揃って菊川町の役宅へ戻ってきた。
銕三郎には妻女久栄が、生まれて間もない嫡男(ちゃくなん)辰蔵を抱えて出迎えた。
「お義父(ちち)上様お戻りなされませ。銕さまお戻りなされませ」
と出迎えた後、二人の後を奥へと従う。
宣雄は両刀を刀掛けに預け、侍女の運び込んだ衣服に着替え、
床前に座し、脇息(きゅうそく)に左腕を預けた。
「お義父(ちち)上様、御老中松平様より書状が届いております」
と書院棚の手文庫から一通の文を取り出し宣雄に手渡す。
「御老中から?はて何であろう……」
言いつつ宣雄それを開く。
読み進める父宣雄の顔に緊張の色が走る。
「父上!一体どのような!御老中様からいかなる事が」
銕三郎、顔相の変わってゆく様子にいたたまれないのか、
読み終えるのを待てず言葉を発した。
「銕、心して聞け!筆頭御老中松平越智武元(たけちか)様よりの、直々の御沙汰じゃ」
老中首座松平越智武元は上野館林・陸奥棚倉城主で、田沼意次とは協力関係にあり、
この長谷川平蔵宣雄も、嫡男銕三郎(後の鬼平と呼ばれる長谷川平蔵宣以)も
共にこの松平武元と田沼意次には目をかけられている。
「よいか銕!儂は急ぎ京へ参らねばならぬ事と相成った。
御老中よりのお達しでは、今 京において御所賄方(まかないかた)や
口(くち)向(むき)(経理・総務)を治める禁裏附(きんりつき)に不正流用の疑いがもたれ、
これを証さねばならぬ。
何しろ相手は御所の御用を司る立場、並の事では済まぬであろう、
今からすでに気が重い」
宣雄、銕三郎の顔を覗き込むように肩を落として見やる。
「父上!よりによって京とは。又如何様なる理由(わけ)でございましょうか?
口向とはどのようなお役目で、又いずこのお方がお勤めなされますので」
銕三郎、老中よりの密命をおびた父の並々ならない覚悟の言葉に、
何かを感じ取ってのことのようである。
「うむ、口(こう)向役(げやく)とは朝廷の地下官人(じげかんじん)で、
朝廷の出仕を云い、これを監理する為に江戸より禁裏附役が出仕いたしておる。
このあたりに不正ありと言うことだな」
宣雄、顔を曇らせたのは、京都西町奉行への下知を賜って後、知ったばかりの話。
それ以上の詳しいことはつかめていない様子であった。
「何とかようなところにそのような。ですが父上、
京には他に東町も所司代もござりましょうに」
(何で我らが京都くんだりまで出向しなければならぬのだ?)
と言わんばかりに銕三郎の顔へ書いてあるそれを読み取り、
「それよ、その辺りがな!朝廷に関る金子は所司代より支払われる。
この辺りに何やらうごめく者有りとの事だ。
つまりあちらでは袖の下が馴れ合いになってしまっているという事であろう。
それを東西合わせても与力二十騎と同心五十名で京の都を取り纏めるのだ、
並のことではないと想われる」
「何と面妖な……。ところで父上、私と久栄や辰蔵と共に
久助はお連れになられますので?」
押し包むようなこの一件をどう納得すればよいのか混乱の中銕三郎、
宣雄の反応を確かめる。
「銕よ、おそらくは長くて三年と想われるゆえ、そなた親子共々出向ということになろう」
「えっ!で、久助はお連れになりませんので?」
この中間の久助、宣雄の元から勤め上げている忠義者である。
(ふむ、まさかお前の義妹の面倒を見させねばならぬゆえ、
供に加えられぬとは言えまい、さてさて)宣雄一呼吸おき、
「其処だ銕よ、この屋敷の者も目白の組屋敷へ移らねばならぬ。
従いここを護る者がおらぬことになる。そこでだ、久助を残してゆこうと思う」
「はぁ──、然様で」
釈然とはしないものの、父宣雄の決めたことである。そのまま飲み込み
「で、出立はいつ頃と」
「早いほうが良かろう、儂は後々のこともあり、
諸事万端為し終えてと言う事になろうほどに、お前は先に京へ参じ、
引き継ぎの方を預かってはくれぬか」
「えっ!私どもが先に京へ?それにしてもそれなりに支度というものもございますが」
半ば慌てながら銕三郎
「そこだがな銕、お前一人まずは出立いたせ。
ことは急を要するゆえな。後から儂らも出向く、案ずることはない、
妻子(これら)の事は儂に任せておけ」
宣雄の、この件はこれで落着という顔に銕三郎、
半ば諦めの顔で見上げたものであった。
時は明和九年(安永元年・一七七二)九月二十日。
銕三郎は父宣雄より一足先に京へ前入りを果たす為出立したのである。
日本橋から京の三条大橋迄、東海道は五十三次回りで百二十六里六町一間
(四九二キロ)役務引継・居住所等整える為でもあり、少し早めの旅立ちであった。
この時長谷川平蔵宣以(のぶため)二十五歳である。
京の入り口、三条大橋から千本通押小路を入った千本東角の西御役所
(西町奉行所)に着いたのはその十五日後である。
一日おうよそ三十三キロ歩くことになるが、
これは当時平均身長百五十五センチの日本人の速さであるから驚く。
銕三郎、夕刻には京に入る事が出来。
早速西御役所の太田備中守正清へ着任の挨拶に出向き、
残留している与力等から多々引き継ぎの用件を済ませた。
「太田様、ただ一つ用心いたす事なぞあらばお教え願えませんでしょうか」
銕三郎、太田正清を見上げた。
「うむ然様にござろうな─」
太田正清、ちらと控えている筆頭与力の方に眼を配り、
与力が僅かに小首をそのままに、眼を瞬(またた)かせた。
「よろしかろう──」
太田正清机に向き直り、控えの与力に
「長谷川殿にお見せいたせ」
と小さく指図した。
「暫くお待ちを──」
そう云って席を離れ、やがて一綴りの控帳を銕三郎に差し出した。
「これは?」
銕三郎はこれを受取り、目を走らせながら
(何を申し送りたいのであろうか)と、太田正清の真意を読み解こうとした。
数枚めくったところで銕三郎、そこに何か重さを感じたのである。
太田正清が
「それはふた月前に殺害されましたる江戸表より連れて参りし
身共(みども)の配下、隠密廻り同心が残せし手控帳にござる」
ゆっくりと銕三郎の方へ振り向き、膝に両手を揃え
「お頼み申す長谷川殿。何としてもこ奴の無念をはらして下され」
膝の上の拳が小刻みに震えているのを銕三郎じっと視
(これは余程のことのようだ、しかも他言をはばかられるような物)
「この長谷川平蔵宣以!確かにお引き継ぎ致しまする」
と応えた。
それで商家か町家の者か、あるいは夜鷹なぞ下賤の者かも判じえよう。
髪の拵え、持ち物・挿し物でもこれらを見分けることが出来る。
着付け一つでも自ら着たるものか、あるいは後で着せられたものかも
お前ならば判るであろう?」
(げっ!その眼差し──こいつぁまずい風向きになって来おったぞ、
さてどう返事をすればよいのやら、とほほほ)
「あっ!はぁまぁその何とか見分けほどは……」
「わははは…。まぁよいわ、悪さも程々に致せよ。
それから面の見立てだ。
まずは顔色、形相は目を開けておるかどうかで他殺・
自殺も判じることが出来るからな」
「えっ!それだけで自殺か他殺か判りますので?」
「そうだ、それどころか瞳や歯舌からも判じることになろう。
鼻腔内に薬物を押し込むることもあるからな。
特に鬢内(頭・髪の内部)にても疎かに致さぬことだ。
通天・心中・盆の窪も見逃しやすいゆえ重ねて検視致せ。
ここに錆びたる寸鉄を打ち込めば血も流れぬと言われておるからな」
「ええっ!!真そのようなことが──」
「うむ、錆のゆえにすぐさま血も固まると言われておる」
「加えて総身の肉色に変わりあらば殺害の後、
いかほどの刻が流れたかも判じることができよう。
だがこいつは季節で大いに変わる、そのところも勘案致さねばならぬ」
「では此度の者は、秋口なればさほどの刻が過ぎておらぬと?」
「恐らくなぁ、身なりからも夜鷹とは考えられぬ、
従い、何処かで事を為し、ここまで引き連れし後絞殺し、
息を吹き返すことも恐れてか、孕み児もろとも掻き切ったと想わねばなるまい」
「何と酷いことを──」
「人を殺めようなぞと想う者の心には、最早仏は住しておらぬ、
無用の気遣いだ。このような場合、まずは知らせた者に疑いがかかる」
宣雄そう言いつつ木場の松三を見上げた。
「げえっ!」
松三あまりの言葉に飛び上がって尻餅をつく。
「あははははは、と言う事だがな、この度はお前の仕業ではなかろう」
その言葉を聞いて松三、大きなため息を三度も漏らした。
「ああ驚いた、小便ちびってしまいそうなほどで…」
と、己の股間を掴み、確かめる始末。
「悪い悪い!だがな、通常ならばまず疑われるのが初に通告した者だ。
それはどのような細工でも出来る立場に居るからだ。
だがお前はその様子から、履物も汚れてはおらぬし、
股引も鯉口(下着)も汚れなく、髪・半纏にも何らの疑いもなし。
更にその顔だ!望診と言うてな、行いは顔に出るという。
望診・触診ともに大事で、特に顔相は大事の一つだ」
なかば反応を楽しむかのように宣雄、にやにやと松三の表情を
見やったものであった。
「酷ぇなぁさ…あっしぁてっきり御用かと肝が縮みやした」
と、今だ冷や汗が流れてくる様子。
そこへ町奉行の者が番太に伴われやって来た。
「おうおう、ご苦労であったなぁ、駆けつけいっぱいと言うから、
出し殻茶でも飲んでまずは休め。
ところで御役所よりのお出ましご苦労にござる。
身共火付盗賊改長谷川平蔵と申す」
腰を上げ、右脇においた刀を帯に手挟みながら奉行所の役人を観た。
「これはまた丁重なるご挨拶を頂戴いたしいたみいります。
身共は、南町奉行所与力岡野省吾にござります、
何卒お見知りおきのほどお願い申し上げます。
所で長谷川様、番太の知らせでは殺しのよし」
そこに置かれた骸を見やりながら平蔵の顔を再び凝視する。
「うむ、そこの者より番屋に知らせがあり、
居合わせた儂がまずは立会い、ここまで運ばせた」
と、手短にこれまでの経緯を語り、己自身の検視結果も
残(あま)すところ無く話し終えて後、
「お手前も検視なさるであろうが、これはあくまで
身共の推量にござるゆえ……。
所で犯人は恐らく侍であろうと想われる」
言いつつ松三の顔を見る。
「えっ!侍にございますか?」
口を開いたのは銕三郎
「おおそうだ、この切り口は絞め殺した後に切り裂きしもの、
しかも切り口があまりに見事すぎる。生半可な柄物ではこうは切れぬ。
しかも経絡を心得たものとも見て取れる」
「それはまた……」
今度は岡野省吾
「ああ、普通ならば首を絞めるおり両手で手前から締め上げる。
だがその場合したたかに暴れられるものだ。
だがその様子はあの場所ではみられなかった。
すなわち此奴は恐らく経絡を存じおるものであろう。
経絡を存じおらば、喉仏を押しつぶせば息を奪われる。
その後首奥に手を添え、首筋の後ろを同時に締め上げれば血の流れも止まり、
即座に命を奪える。締めた後というは尋常ならば肉叢の切り口は
外へめくれるもの、だがこの切り口はさほどの開きを見せておらぬ、
ということは、そこ元、岡野どのと申されたな、
切り口を抑えてみられよ、如何かな?」
「はい、何やら水のようなる物が滲み出てまいりました」
「そうであろう?通常ならば切り口から残血が出てくるが習いなれど、
すでに絶命しておったるゆえ、出血は止まっており、皮・肉とも
そのように内に巻いておる。
先程も確かめさせたが、喉の上に死斑が視て取れる。
こいつぁ並の者には判らぬ所だからな。
少なくとも其処な木場の松三でないことだけはこの儂が受け合う」
このとき大きなため息が漏れてきた。無論松三のものである。
こうしてこの事件は無事町方へ引き渡し、
平蔵親子は再び越中島の橋を渡り大島町から松平下総守下屋敷前の
大島橋を中島町へ過ぎ越し、相川町・熊井町と進んで
佐賀町の永代橋袂にたどり着いた。
「女は何を挿しておる?」
「はい、銀の打ち物(簪(かんざし))にございます」
「他には!」
「はい、櫛(くし)、笄(こうがい)に髪もさほど乱れてはおりません」
「懐はどうじゃ?」
銕三郎懐から十手を取り出し、その先で女の懐を上げてみる。
ふくよかな胸乳が少し覗き、それらしきものが十手の先に触れた。
それを掻き出してみると、こちらも手付かずである。(という事は)
「物取りが目当てではないと?」
「そうだ!では十手を口に差し込んでみろ」
「えっ?口にでございますか?」
「そうだ!そこへ、その打ち物を差し入れてみろ、暫くの後銀の色が変われば
そいつぁ石見銀山の毒と想わねばならぬ」
「あっ!……」
(そういうことなのだ)銕三郎思わず唸った。
だが想いのほか口に十手が入らない。
観ると舌が大きく口いっぱいに膨れ上がり、
中には容易に飲み込んでくれそうにもなく、宣雄には死後の硬直と見て取れた。
銕三郎、そこへ無理やり抜いた女の銀簪(ぎんかんざし)を差し込む。
「その間に胸を開いてみるが良い、傷はないか?」
「はい、それらしき痕は何も」
(それにしてもまだ三十歳半ばと見えるこの骸(むくろ)は初々しくさえ見て取れる。
「乳首の色はどうだ?」
「えっ?乳首の色──で」
よく見ればすでに血の気は失せて褪(さ)めてはいるものの、
淡い桜色であったろう事は容易に想わせるに十分なふうである。
「はい、綺麗にございます」
そうとしか答えようもなかった。
(まさか白首女郎のものとは違います、なぞと言えたものではなかったからだ)
「そうか──。では帯を解け」
「はっ?帯をでございますか?」
銕三郎思わず鸚鵡(おうむ)返しに問い返した。
何しろ、いくら死人であっても人前での丸裸を晒すのには些か抵抗もあった。
「何を致しておる!早く致せ!」
宣雄は急き立てる。
銕三郎しぶしぶ女の帯を解き、それらをはだける。
真っ白であったであろうその躰は、陽光の下、惜しげもなく晒されている。
剥ぎ取った瞬間銕三郎驚きの声を上げる。
「まままっまさか!」
下腹部が真一文字に掻き切られていたのである。
着衣の状態からも抜き、胴に払い切られたであろうとは想っていたが、
銕三郎の驚きの声に固唾をのんで見守っていた衆人も驚嘆の声を上げた。
「銕三郎!その胸乳の下を臍(へそ)の下辺りまで触ってみろ」
「腹にございますか?………こうで?」
宣雄の顔を伺いながら銕三郎、女の腹に手を触れた。
切り口を境に少し感触が違う。
「どうだ、硬いかそれとも柔らかいか?」
意味ありげな顔に銕三郎、再度真剣に触れてみる。
「はい、臍の上辺りが少々硬ぅございますがそれがなにか?」
「うむ、硬ければ孕(はら)みがあると視ねばならぬが、
柔らかいのであらばそうでないと判る。
この中に取り上げ者(産婆)はおらぬか?」
宣雄、衆人を見渡しそう言うと
「へぇここにおりますだ」
と、群れの中から六十過ぎと見ゆる老婆が名乗り出てきた。
「おお、よし!ならばお前に頼もう」
そう言うなり宣雄、懐から手ぬぐいを取り出しビリビリと裂き、
老婆に差し出し
「こいつを指に巻き火処(ほど)(陰門)を探り、
中に何んぞ隠されてはおらぬか検(たしか)めよ」
と言い渡した。
「へぇ始末を調べるのでございやしょうか?」
老婆は宣雄の言う意味を判じたのかそう言葉を返す。
「そうだ!堕胎させてそこへ何かを押し込むことも想われる故な」
こともなげに告げ、
「どうだ何が判った?」
と問いただす。
老婆は陰門に差し入れた指を抜き出し
「これぁ……」
と宣雄を振り返る。その指先に乳白色のものが付着していた。
「ふむ、事を為した後という事だな、ご苦労であったな。
銕三郎その女の喉辺りをよく見ろ、締めた痕はないか?」
宣雄、どんどんと検視を奥深いところへ探り込む。