忍者ブログ

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る 三嶋山燈

鬼平犯科帳 鬼平罷り通る

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


8月第4号  忠吾 父親になる


この(忠吾親父になる)の噂は瞬く間に広がり
「口の軽いのは私ばかりではござりませぬなぁ」
と、忠吾をも安心させるところとなった。



それからの忠吾はお勤に励み
「これまでのあ奴は一体何だったのでござろう」
と言わしめるほどの変貌であった。



非番になると、朝からいそいそと支度をして出かけ、
夜遅く帰宅する、鳩ポッポの忠吾と新しい名前を頂戴するほどである。



およねも伊三次もこの木村忠吾の献身ぶりには舌を巻くほどのもので、

「ありゃぁ仏様がどこかを間違ってしまったんじゃぁござんせんかねぇ」
といささか呆れ顔で伊三次がこぼした。



数ヶ月が瞬く間に過ぎ去り、いよいよ(おたみ)の年季が明けることになった。



(木村様のおめでた事とあっちゃぁ、俺達も黙っちゃぁすまされまい)



密偵たちや五鉄の三次郎も一肌脱いでの資金の捻出。



「お前ぇたちがそこまでやるのに、俺がやらねぇわけにもいくまいぜ」
と平蔵も一口乗った。



お陰で下谷の金杉下町万徳寺裏の十軒長屋に棲家も見つかり、準備万端整った。



「こんなにまでして頂いて、どうして私のために?」
と(おたみ)は驚くばかり。



「それもこれも、生まれてくるやや子のため、
おたみは心配しないで元気な子供を生むために精をつけてくれれば良い」
せっせと通う忠吾はもうまんまオヤジ顔である。



「木村様どうしてここまで?」



「良いではないか、俺とお前の仲、いらぬ気遣いは無用というもの、
お前はただ黙って皆の好意を受けておれば良い」



「でも あたしは・・・・・」



「ホレ!それがいらぬ気遣いと申すもの、ゆっくり休んでおれば良い、
おまさも時折覗いてくれるそうだから、何も案じることはない!」
忠吾の毎日はこうして(おたみ)で始まり、(おたみ)で終わる。



「あの忠吾がここまで変わろうとは、はぁお釈迦様でもご存知あるめぇ 
うわっはっはぁ」
と平蔵も半ば呆れながらも(あの癖が治ってくれればよいが)と思っていた。



そんなこんなで時は又もや瞬く間に過ぎ去って、
いよいよ(おたみ)の腹も突き出して臨月も真近かと想えた。



その数日後(おたみ)の隣の住人(おしま)がそれに気づき、
慌てて産婆を呼んだ。



亭主の作次がおよねにご注進に及んだところから、
一気にこの事は盗賊改めの中で広がり、平蔵や同心達の耳にの入ることとなった。



 



「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」



伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。



当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。



「木村様ぁ」



「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」



「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」



「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」



「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」



「(おたみ)がどうした?」



「ですから生まれそうなんでござんすよ」



「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」



「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」



「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」



「ですから先程から・・・・・・」



「で(おたみ)は今どこにいる?」



決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」



「判った!すぐに行くから待っておるように」



「へぇ判りやした」



伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。



すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。



「木村様は?」



「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」



「で?」



「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」



「それは良うござんしたねぇ」



奥から慌ただしい物音と声がした。



「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。



「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。



「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」



「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」



「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に

「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。



「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。



しばらくうめき声が聞こえていたが、突然

「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。




「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。



「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。



「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。



「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。



「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。



「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・



「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」



やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。



「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」



「どこが?」
と粂八。



「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。



「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。



まぁ賑やかなものである。



そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。



「うまれやしたぜ!」
と伊三次



「どっちだった!!」



「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。



「俺に似ておるか!」



「そりゃぁまるでそっくり!」



「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」



「一同?????・・・・・・」か?



まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。



「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」



「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」



「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」



「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」



「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。



それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。



その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。



忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。



その数日後のことである。



「ててててててぇへんだぁ!」



伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。



「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。



「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」



「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。



「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。



「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」



「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。



「伊三次をこれへ!」



「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」



「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて

「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」



「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」



平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地 
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、

おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」



「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」

とやり返した。



「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」



その数日後



「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」



「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」



「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」



「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」



「あっ さようか ふ~むさようかのう」



「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」



「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」



「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」



「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」



木村忠吾健在なりであった。




画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/


拍手[1回]

PR
 



「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」



伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。



当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。



「木村様ぁ」



「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」



「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」



「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」



「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」



「(おたみ)がどうした?」



「ですから生まれそうなんでござんすよ」



「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」



「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」



「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」



「ですから先程から・・・・・・」



「で(おたみ)は今どこにいる?」



決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」



「判った!すぐに行くから待っておるように」



「へぇ判りやした」



伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。



すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。



「木村様は?」



「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」



「で?」



「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」



「それは良うござんしたねぇ」



奥から慌ただしい物音と声がした。



「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。



「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。



「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」



「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」



「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に

「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。



「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。



しばらくうめき声が聞こえていたが、突然

「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。




「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。



「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。



「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。



「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。



「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。



「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・



「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」



やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。



「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」



「どこが?」
と粂八。



「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。



「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。



まぁ賑やかなものである。



そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。



「うまれやしたぜ!」
と伊三次



「どっちだった!!」



「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。



「俺に似ておるか!」



「そりゃぁまるでそっくり!」



「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」



「一同?????・・・・・・」か?



まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。



「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」



「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」



「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」



「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」



「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。



それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。



その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。



忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。



その数日後のことである。



「ててててててぇへんだぁ!」



伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。



「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。



「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」



「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。



「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。



「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」



「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。



「伊三次をこれへ!」



「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」



「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて

「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」



「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」



平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地 
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、

おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」



「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」

とやり返した。



「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」



その数日後



「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」



「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」



「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」



「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」



「あっ さようか ふ~むさようかのう」



「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」



「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」



「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」



「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」



木村忠吾健在なりであった。




画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/


拍手[1回]

PR
" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/93/" /> -->

8月第2号  俺の女

本所深川今川町の小料理屋”桔梗屋、”店はまだ客足も少なくいつものようにゆったりとしていた。

「おいでなさいまし」
女将の言葉の終わらない内にドカドカと上がり込む客に驚いて
「ちょいと待っておくんなさいよ、勝手に上がられちゃぁ困りますよ」

女将の制するのを無視して無頼風の一団がバラバラと部屋に散らばった。

アクの強い見るからに無頼の男が女将の胸ぐらをひっつかんで低いドスの効いた声で
「ここに染千代ってぇ芸者がいるだろう?そいつは今どこにいる!?」
と睨みを効かせた。

「そっ!染ちゃんならまだ上がってませんよ、まもなくきますよ」
と震えながら答えた。
「よし それまで此処で待たせてもらおう!」
と連れの仲間に目配せして一つ奥の間に円陣を組んだ。

「困りますよそんな勝手なことをされちゃぁ」と女将の菊弥

「うるせぇ婆ぁだ、金ならある、ホレこいつで酒を持ってこい」
と小判を1枚投げてよこした。

女将はしぶしぶ引っ込んで酒の支度にとりかかった。
そこへ
「姉さん遅くなっちまってすみませんねぇ」
と染千代がやってきた。

その声を聞いた女将が
「染ちゃんお逃げよ!」
と叫んだ。

「うるせぇ 婆ぁ!」
中の一人が女将を鞘でうち伏せた。

ぎゃぁと叫んで女将はその場にうずくまってしまった。

事の異常を察知した染千代が踵を返そうとしたが、もう間に合わなかった。
入り口は浪人が塞ぎ、背後にも数名の浪人が押し包むように染千代を包囲した。

「誰なんでござんすあんた達ぁ、どう見ても客とは思えないし、
押し込みなら時刻が早すぎゃぁしませんか!」
威勢のいい伝法な口調に、正面の男がせせら笑いを浮かべながら一歩中に入ってきた。

「おふざけじゃァないよ!此処は深川!吉原だと想ったらおおきに大間違いさ!
辰巳芸者はその程度の脅しでは驚きもなんにもしやぁしませんのさ!」
と啖呵を切った。

「ほう 中々威勢のいい女だのう」

「あたしにいったいどんな御用なのさ!あたしゃぁお前さんたちを知らないね」

「おいこいつを縛り上げておけ」
首謀者らしき浪人がほかの浪人に指示をした。

「何すんのさぁ!」
抵抗する染千代の腕をねじり上げようとした瞬間、
染千代はかんざしを抜いてその男の腕に突き刺した。

ぎゃっと悲鳴を上げて浪人が手を離した。

「此奴さすがに与力の娘、多少の心得があると見た」

始めから後ろでことの始終を眺めていた目付きの鋭い浪人が、つっ!と歩を進め、
染千代に近づいた。

「それ以上近寄るんじゃァないよ!」
染千代がその男をかんざしで牽制した。

「ぎゃぁぎゃぁ喚くではない、静かにしておればお前に危害は加えぬ」
と言いつつ刀の柄先を染千代の水月(みぞおち)に放った。

(ぐっ!)と低い声を漏らして染千代はその場に崩れ落ちた。
それからどのくらい時が過ぎたであろうか、染千代は後ろ手に縛られていることに気づいた。

「おう やっと お目覚めか」
首謀者格の男がそれに気づいて声を出した。

「お前さん達一体何者なんだい、あたしに一体何の用があるってのさ!」
精一杯の声で染千代は叫んだ。

「お前ぇに用はない、お前はただの餌だ」

「餌?何の餌だっていうんだい、こんなあたしで釣れるたぁ、大層な獲物のようだねぇ」

「黙れ!女!口の減らねぇやつだ、ならば教えてやろう魚はお前の親父だ」

「父上!?」

「そうさ、お前の親父、元南町奉行与力黒田左内よ」

「父上がお前たちに何をしたっていうんだい?」

「おれを地獄の一丁目に送りやがった」

「はんっ!それ相当の悪さをしたからじゃぁ無いのかい!」

「黙れ!」
男が染千代の頬を張った。

染千代の頬はみるみる指の跡がミミズ腫れに腫れ上がり、
頬の内が切れ、唇から鮮血が糸を引いた。

「女将!こいつを、この女のおやじの元へ届けてこい」

首謀者格の男が、何やらしたためたものを女将の懐に突っ込んで、
蹴りだすように店の外へつきだした。

「いいか 此処のことは誰にもしゃべるんじゃぁねぇぜ!
喋っちまったらあの女がどうなるかよっく考えるんだな」
ダメ押しの決め台詞を押し付けて女将を突き放した。
それから半時(1時間)が過ぎた。

「確かにお届けいたしましたよと」
女将がよろけるように戻ってきた。

「後は彼奴の出方次第だ、果報は寝て待てというから、今のうちに体を休めておけ」
そう指図してそれぞれ横になった。

「お前さん達一体父上にどんな恨みがあるっていうんだね」
染千代は少しでも内情を聞き出そうと試みた。

「知りてぇか?」

「ああ 知りたいねぇ」

「ありゃぁ5年ほど前の事だ、・・・・・・・・」

時を五年前に戻そう。

今日も暑いさなかを南町奉行所与力黒田左内は持ち場の本所深川界隈を見回っていた。

永代橋を渡り、下之橋を東にとって千鳥橋たもとから緑橋を越え、
黒江橋を渡り猪口橋をまたいで永大寺門前に向かった。

永大寺門前の茶店で茶をすすりながら、代々に亙る二半場の御家人の暮らしも、
自分の代で終りとなる事に、深く思いを馳せながら、
長らく歩いてきたこの界隈の思い出を紐解く‥‥‥‥‥それ程の時が流れていた。

左内には染という娘が一人いる、三十路を越えようとしているが、
未だ嫁にゆく気もないらしく、料亭で芸者をしながら左内を支えている。

残念なことに男子の跡取りはなく、母親は染が十歳の時流行病であっけなくこの世を去った。
炊事から洗濯まで十歳の娘はこなし、合間に剣の道場にも通った。

この気丈な娘は中条流小太刀をよく学んだ、普通ならば女子は薙刀を学ぶものだが、
父左内の深川町廻りから薙刀よりも太刀の方が有用性があると想ったようだ、
しかし大刀は女子には扱いにくいため小太刀を選んだようであった。

無論左内はおなごとしての教育も忘れてはおらず、苦しい家計の中から芸事も習わせていた。
この界隈は左内にとって思い出のいっぱい詰まった故郷のようなところである。

人工的に埋め立てられた土地柄だけに整然と整理された堀や川はまだ若く、皆活気に溢れ、
まるで少年のようにはつらつとした命の輝きを持っていた。

左内は父親に連れられてこの界隈を歩き始めたのが十歳を過ぎた頃、
見習い与力の修行を兼ねての日々の日程は、子供にとって難儀なものであった。

特に雨や雪の日は足元がぬかって足が冷え込み、しもやけやひび割れを起こす。
それを母が温かいすすぎ湯を持ちだして、わらをまとめたたわしでゴシゴシこする。
この痛みにに思わず涙を幾度も流した。

「男は滅多なことで泣くでない!」
父の一言に幼いながら歯を食いしばり耐えた。

「お父上もお前と同じようにお泣きになられたそうですよ、
でも男に涙は似合わぬとお祖父様から言われて、
今のお前のように歯を食いしばって我慢なされたそうです、
だからこの辛さはお父上もご存知なのですよ」

この母の言葉を左内は忘れることがなかった。

父の生きざまを思い出しながら、目の前の川面に目をやれば艶やかに咲き競う桜が
川風に色めきを見せてくれる。

「旦那ぁ・・・・・」
その声の方に目をやると仙台堀の政が駆け寄ってきた。

「おう 政七!毎日ご苦労だなぁ」

「旦那こそご苦労様でございます」
この政七、仙台堀の親分と呼ばれているこの界隈の御用聞きで、左内の下で働いている。

「なにか変わったことでもあったか?」

「へい それがおお有り名古屋のコンコンチキ・・・・おっといけねぇ旦那の前で」

「いいって事よ、それより何だ、その大有り名古屋は?」

「あっしの手下(てか)の文助が小耳に挟んだネタでござんすがね、
近々本所深川の法禅寺東の御家人太田次郎左衛門の屋敷で大きな賭場が開帳されるという
噂があるんでさぁ」

「ふむ 御家人か・・・・・」
左内は自分も御家人であるだけにその台所事情もよく判っている。

博打は当時もご法度であり、露見して捉えられれば流刑もあり、場所の提供者も当然罰せられ、
時には家名断絶もある、それほど厳しいものではあったが、
何処も同じ苦しい台所事情がそれを暗黙の内に許していた。

特に旗本屋敷や寺社は一般に町奉行方が入り込めず、中々検索は難しかった。

特に寺は離れが多く、その奥での開帳は取り締まりの目から逃れやすく、
そのために多くの土場が開かれ、その上がりを上納させて潤っていた。

その為にその上納金を寺銭と呼んでいたほどである。

「よし!先ずそいつの出どこを探ってくれ!」

「がってんしょうち!任せておくんなさい」
政七は茶をぐっと飲み干して懐に十手を差し込み、
「旦那 ご無理はなさいませんように!」
と左内の身を案じた。

「ありがとうよ、お前ぇにそう言われるような歳になっちまったなぁ」
と少々さみしげであった。

翌日同じ場所で茶をすすっていると、仙台堀の政七と下っ引の文助がやってきた。

「おう 文助このたびは面白ぇ話になりそうかい?」
と問うた。

「黒田のだんな、そいつですがね、どうやらこのたびはかなり大掛かりな様子でござんすよ」
それを引き継いで政七
「あっしも方々あたってみたんでございやすが、
どうも川向うからも出かけてくるようで・・・・・」

「おいおいそいつは又・・・・・・・」

「で ござんしょう?
いえね、鉄砲町の文治郎親分から引き出した話でございますが、
呉服商や両替商の旦那衆がわたってくるようでございますよ」

「な~るほど、こいつは大掛かりだ、ってぇことは用意もいるなぁ、
加勢を頼まなきゃぁ少々無理が出るかも知れねぇ、
事によっちゃぁ強ぇ用心棒も居ると踏まなきゃぁなるまい、うん こいつは大変だ」

左内はこの捕物が自分にとって最後の大捕り物になるかもしれないと感じていた。

幸い敵が御家人ということならば、町奉行所が出張っても何ら差支えはない、
問題はその時捕らえた人々の扱いであった。

ご法度はご法度、だがその日暮らしの人々にとって丁半博打は単純であるだけに間口も広い。
その日その日の稼いだ銭をあぶく銭にと夢を描く者もいる。

商家の旦那衆は日頃のウサを晴らすためにひと時の危険に身をおくことで刺激を楽しんでいる。

(判らないでもない・・・・・だがおれはお上の立場でそれを取り締まらねばならない身、
町方ではその賭場開帳を見逃すために懐銭が入ってくる)、
俗に、与力の付け届け三千両とまで言われるほどで、それで潤っている与力、同心が多い。
残念なことにそのような者に飲み込まれていないお仕事一筋の不器用な左内であった。

「日時が判明したらこの場所で待っておるから知らせてくれ」
左内は文助と政七に指示を出し、次に打つ手を塩梅しなければと想った。

何しろ、まいないが行き渡っているこの世界、
下手に漏らせば逆に筒抜けになってしまいかねない。(さて・・・・・どうしたものか)
思案に困り果てた左内は、南町奉行池田筑前守長恵に相談する。

この奉行、豪胆でありながら涙もろく、南町の鬼と呼ばれる中にも人情に厚いところを
併せ持つ人物であった。

「あい判った!」
長恵は即座に快諾し、
「このことは内密に事を運ぶよう」
と左内に釘を刺した。

その数日後、此処は本所永代寺門前の茶店(かめや)
永大寺の鳥居をくぐる人々の姿を眺めながら今日は団子を一皿前にして、
左内は茶を飲んでいた。

「黒田の旦那ぁ」
左内の姿を見つけて文助が駆け寄ってきた。

「判りやしたぜ、どうやら明後日の夜五つ頃、場所は本所深川の法禅寺東の
太田次郎左衛門屋敷ということでござんす、政七親分にはこれからお知らせしようと思いやす」

「そうか!ご苦労だったなぁ、こいつは少ないが取っておけ」
そう言って一朱金を握らせた。

「旦那ぁこいつは・・・・・」

「いいから取っときな!たまにやぁかみさんにいい顔も出来なきゃぁな!」

「ありがとうございやす!」
文助は左内にいくども頭を下げて政七のいる仙台堀目指して駆け去っていった。

翌日左内は南町奉行池田筑前守長恵にこの事を報告。
「あい判った、さほどの開帳ならば大金を賭けるものも出ていよう、
さすれば腕利きの用心棒などを抱えた者も出よう、それも対処せねばならぬな、
左内そちの眼に叶うた者を書き出せ」
と当日手配を左内に任せた。

「ははっ!」
左内は最後のご奉公と想う故に、抜かりがあっては無念と、念を入れて選別をしたためた。

翌日は折悪しく朝から小雨模様。
奉行所内町方廻りの控えには、左内により選別された同心が緊張した面持ちで控えていた。

「本日の物々しい支度は一体どこでござろう?」

そのような空気が流れる中、一旦出所すれば自由に出歩くことはまかりならない定めなので、
奉行の出張る合図をただじっと待つだけであった。

南町奉行所から鍛冶橋御門を抜け五郎兵衛町を突切り、本材木町を北に上がり、
新場橋を越えて細川越中守下屋敷を抜けて亀島川岸を上り、霊岸橋を越え湊橋から
北新堀を駆け抜け、永代橋から中の橋、上の橋を渡り万年橋たもとを東に折れ、
小名木川沿いに秋元但馬守下屋敷を南に下って目指す御家人太田次郎左衛門居宅まで、
一刻足らずの行程である。

南町奉行池田長恵の命が下ったのは暮六つ(午後六時)を少し回った時であった。
黒田左内は同心三名に若党二名同心は小者を従えるが、ほとんどこれらは戦力にはならない。
実質戦うのは与力と同心である。

法禅寺には、すでに仙台堀の政七が連絡を取っていたので、本所深川の町方が出張っていた。
まずは町人の巻き添えを避けるために、家から出ないように伝達して回る、
これは辻番所の者や岡っ引きと下っ引が当たった。

次は辻の木戸を閉めさせ、出口を塞ぐ。

すでに八ツ(午後八時)は回っており、賭博もたけなわと踏んだ左内は
「打ち込め!」
と号令し、自ら先に踏み込んだ。

屋敷内で見張っていた土場の若党が
「ガサ入れだぁ、皆の衆逃げておくんなさい!」
と大声で叫ぶ中を左内を先頭に同心三名が現場に突入した。

商家の主と見える者や、女将と思しき女に町人など、まるで蜂の巣をつついた騒ぎで、
逃げ惑うそれらを選別しながらの捕縛は並大抵ではない。

胴元を抑えなければ何にもならない、だがこの時は掛け金も大仕掛けなので
用心棒も数名控えていた。

捕り方が袖からめで刀を持つ袖を絡めて引き倒す。
そこを刺股(さすまた)ですねを突き転倒させ、戦意を喪失したところを早縄で捕縛する。
その後を下っ引などがそれぞれに応じた捕縛方法で本縛りを行った。

たとえ剣客であっても、この袖搦などで取り囲まれれば逃げ場がない、
何しろ狭い部屋の中である、たいていは捕り物道具で深手を負って捕縛される。

四半時(三十分)の手入れで胴元を始め、その用心棒三名と逃げ出した商家の主や、
木戸口で捉えられた女将や町人達や無宿人、渡世人と総勢二十名ほどが捕縛された
大捕り物であった。

この時同心一人が浪人の太刀で背中を切られる大怪我を帯びた。
武器を帯びた者はそのまま大番所に送られた後、奉行所の取り調べを受けて判決が決まる。

商家の主や女将などは所持金を没収され解き放たれる。

胴元は遠島、その他の者は人足寄場送りである。

こうして左内は大役を無事納め、その年の暮れにお役御免を戴き、
娘の染と二人今の長屋に引っ越したわけであった。

話はここから元に戻る。
「おれの兄者はおれをかばって大怪我を負わされ、おれは役人を傷つけた罪で捉えられ、
八丈島送りとなった。

5年の刑期を終えて江戸に帰ぇって見りゃぁ、兄貴はそのあと受けた傷が元で牢死していた。
その時の町奉行所の責任者がお前ぇの親父、
南町奉行所与力黒田左内と判って調べを始めたってわけよ。

蛇の道は蛇、てェしたこともなく居所は判っちまった。
で、手下を張り付かせていたらお前ぇが見つかったってぇわけだ。

おれたちゃぁ仲の良い兄弟だった。
親代々の浪人でこのご時世、まっとうな仕事もなく、その日その日を日暮し蝉だ。
わんわん泣いてもどうにもならぬ」

「そこでわるさを始めたってことだね」

「その通り、初めの内ぁゆすりたかりで食っていた、だがそれも取り締まりが厳しくなり、
小商いの店を襲うようになり、行き着くところがお定まりの博打三昧」

「世間をすねるのはお前さん達の勝手!だけどねそんな中でもまっとうに暮らしたいと
毎日汗水たらして働いている人はいくらでも居るさぁね!
そんなことが身を持ち崩すわけにゃぁなりませんさね!」

「うむ 確かになぁ お前ぇのいうことにも一理はある、だが俺達はそうは出来なかった、
それだけのことよ」

「それじゃぁあたしの父上を恨むのは逆恨みなんじゃァござんせんかね!」

「黙れ!お前ぇにゃぁおれの気持ちが判ってたまるか!」

「ああ 解らないねぇ いやさ判りたくもないねぇ、負け犬の遠吠えじゃぁありませんか、
世をすね人を憎み、それで何が残るんでござんしょうかねぇ」

「うるせぇ!静かにしろ!この減らず口をつぐんでいろ!」

再び染千代の頬に平手打ちが飛んできた。
染千代は気を失って倒れてしまった。

鬢はほつれ、櫛かんざしは外され、紫の袷と真っ白な半衿にかけて鮮血が飛び散り、
切れた唇から赤い血が糸を引きながら喉元から胸乳にとゆるやかに流れている。

一方、深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅から左内は菊川町の平蔵役宅に向かった。

大川沿いに上ノ橋を渡り、万年橋を越えて深川元町を突っ切り北六間堀街を抜け
北ノ橋を東に渡り北森下町の五間堀に架かる伊豫橋を越えてまっすぐ東に進めば
角に町番屋のある菊川町二丁目火付盗賊改方長官長谷川平蔵の役宅が見える。

「お願いの儀がございます、身共はもと南町奉行所与力黒田左内と申すもの、
何卒長谷川平蔵殿にお取次ぎを!火急の件でお尋ね申す!」

左内は息せき切ってよろめくように長谷川平蔵役宅にたどり着いた。

門番は驚いてその日当番の酒井祐助に取り次いだ。

「何ぃ黒田左内とな、急ぎこちらへ通せ!」

平蔵は刀を掴んで玄関口に向かった。
「長谷川様!」

「これは黒田殿、血相変えて如何がなされた!」

「染が軟禁され申した!」

「何と!、でそれは何時のことでござる」

犯行者の書状を見せられた平蔵は
「馬引けい!」
と叫び
「ご安心召され!ただいま駆けつける故無事の帰りをお待ちくだされ」
そう叫んで引き出された馬にまたがり今川町の桔梗屋に向かった。

桔梗屋の表の方で騒がしい物音がして、人の乱れた足音が響いた後、
目の前のふすまが突然ビシッと左右に開け放たれた、
そこには鬼の形相の平蔵が立ちはだかっていた。

「おい!おれの妹(おんな)を返ぇしてもらいに来たぜ!」
平蔵は大音響に呼ばわった。

「誰だぁ手前ぇ」
主犯格の浪人が刀を掴み睨み据えた。

「俺が誰だってぇ?知りてぇか、だが俺の名を聞いたらお前ぇ達の首は
胴から離れなきゃぁならなくなるがそれでも良いのか?」

「長谷川様!」
意識を取り戻した染が小さく叫んだ。

「長谷川?・・・・・あっあの・・・・・」

「そうよお前ぇ達にぁ鬼と呼ばれ、時には仏と呼ばれる火付盗賊改方長谷川平蔵よ。
ところで、お前ぇ達今日はどっちの顔が見てぇんだぁ」

腰を落とし柄口に手をかけ、鯉口をぷっ!と切ってはばきを親指で押さえた、
これは次にどのような動きがあっても刀と鯉口がずれない用心である。
主犯格の浪人が抜刀して片膝を落とし正眼に構えた

「ほほう真庭念硫か、ちったぁ出来ると見たが、お前ぇにぁこの俺は切れねぇ
判っておるなら獲物は収めよ」

「うぬっ!!」
その姿勢のまま一気に突き出した。
渾身の一突きは平蔵の脇腹をかすめて黒の片袖が二つに裂けた。

「あっ!」
思わず染の口から不安の声が漏れた。
だがそれよりも浪人の方が(ぎゃぁ)と叫び声を発した。

平蔵の一振りは浪人の右肩から切り下ろされ、肩口から血潮が吹き出したからである。

「まだやるかえ!」
平蔵の形相と気迫に残りの浪人共は戦意喪失の体で、
その場にガタガタ震えて座り込んだ者もある。

縛られていた腰紐を(すっ)と切り解くと、染はそのまま平蔵の胸に倒れこんだ。

「染どの、間におうてよかった、親父殿に生命を掛けてお守り申すと約束したゆえなぁ
あはははは」

そこへ知らせを受けた町方がおっとり刀で駆けつけた。
その後ろから顔にあざを残した桔梗屋の女将菊弥の姿があった。

「菊弥ねぇさん!ありがとうござんした」

「何言ってんだい、染ちゃんに何かあったら、
あたしゃぁ長谷川様に申開きが出来ないじゃァないか、ねぇ長谷川様」
女将はそう言って平蔵を見る。

染を伴い平蔵は深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内の居宅に向かった。

「長谷川様!あの折たしか(おれのおんなを返ぇしてもらいに来たぜ)
とおっしゃいましたわね」

「おお そんな事を言ったかえ?さぁてさて、
なぁ染どの、左内殿はおれには親父、染どのはおれにとっては大事な妹(おなご)!
わははははは」

平蔵は照れくさそうに高笑いをした。

見上げる空は飛び抜けそうに爽やかに晴れ上がり、大川は満開の桜が艶を競っていた。

浪人共はすべて捕縛され、平蔵に片腕を切り落とされた主犯の浪人は手当を受けて
一命をとりとめ、後日大番所より南町奉行所のお白州に引き出された。

主犯の涌井兵庫は佐渡送りとなり、残りの浪人はそれぞれ取り調べの後石川加役島人足寄場や
八丈島送りとなった。

拍手[0回]


8月第1号 卵酒



本所出村町の剣術道場主高杉銀平門下、村木丈之介
平蔵より5才若く、道場では平蔵や井関録之助、岸井左馬之助の後輩にあたり、
皆によく可愛がられていた。

腕の方は平蔵達より少々劣るものの、心根の優しいところや真面目一方のところが
好かれていた。

高杉銀平が亡くなり、その後道場は荒廃の一途をたどり、今や見る影もない。
主だった門人はすでに門を離れ、新たに道場を持つものや僅かではあるが士官するものなど、
時代の花形であった頃の門人はすでに出入りも無くなっていた。

村木丈之介は代々の浪人暮らし、仕事とて、剣以外これというものを持ち合わせぬ
不器用な男であった。

口入れ屋からの時折かかる商家の用心棒や、古骨買いで利ざやを稼ぐのが
日々の生業であったようだ。

今日も古骨買いした物に油紙を張った張替え傘を束ねて浅草成田不動の大道で商いをしていた。
何しろ一通りが多いのが何よりの場所である。

江戸の庶民にとって新しい傘なんて物はとても手に入らない、
そこで古くなった傘を買い取り、油紙を張り替えた古骨張替え傘は手頃であったため、
場所さえ良ければ結構よく売れた。

そこへ通りかかった二本差しの侍が「まこと傘張りは儲かるようで、
本日はいかほどかのう、恥という言葉を知らぬようだ!」
と酔った勢いもあったろうが絡んできた。

初めはおとなしく対応していた丈之介であったが、あまりのしつこさに
「商い中でござる、邪魔立てなさるな!」
と 語気強く言い放った。

それが気に食わなかったのか、いきなり傘の束を切り倒した。

「おのれ!何を致す!」
丈之介が腰のものに手をかけたのがまずかった。

「おお!竹光かとおもいきや、これは赤鰯のようでござるわはははははは」
と笑い飛ばした。

「抜けぇい!」
腕に覚えのある丈之介腰を引いて身構えた。

「喧嘩だぁ喧嘩だぁ!」
あっという間に人だかりができてしまい、
双方とももはや引くに引けない状況に陥ってしまった。

少々ふらつきながらもその二本差しが太刀を抜き放った。

「おおっ!やるぜやるぜ!」
やじうまのはやし声に押されるように大上段に振りかぶって一刀両断と切り下げてきた。

丈之介は半歩踏み込んで正眼から受け流し背後に回ってその男の背中をドンと突いた。
その男はカエルのように無様に這いつくばった。
丈之介は散らばった傘を集め、河岸を変えようと歩き出した。

「待てぃ!」
背後から新手の声に振り向いたその顔面に太刀が浴びせられた。

たまらず丈之介持っていた傘束で受け流したが、その大半が切り捨てられてしまった。

「何を致す!」
傘束を投げ捨てて鞘を払って正眼に身構えた。

「出来るな!」
男は再び八双に構えなおした。

「どうしても争うのですか?」

「仲間の無様な姿を見せられちゃぁ後には引けぬ、武士の面目だ」

「やむをえぬ、お相手致しましょう」
静かに丈之介は両足を開き腰を落とし直した。

にらみ合いがしばらく続いた末、丈之介が下段に構え直しながら誘い水を向けた。

「いやぁっ!」
気合鋭く袈裟懸けに切り下ろした。

丈之介はそれを読みきっていたようで、わずかに体を開いて肩先にかわし、
素早く流れに沿うように逆に切り上げた。
びゅっ と血しぶきが飛び散った。
「うがぁっ!」
男が肩口を押さえたが、すでにその肩から先は男の足元に転がっていた。
悶絶しながらその場に倒れこんだ。

「お早くお手当なされば生命には別状はござるまい」
そう言って足早に去っていった。

「すげぇ見世物だったなぁ」
野次馬達はまだ興奮冷めやらぬ様子である。

それを遠くで眺めていた眼を、当の丈之介は気づきもしなかった。

数日後再び丈之介の姿が見られたのは上野仁王門前町三ツ橋の傍近くであった。

「旦那ぁ精が出やすね」
遊び人風体の男が声をかけてきた。

少なくとも客には見えそうもなく、さりとて冷やかしでもない風の男に、
丈之介適当な愛想を浮かべた。

「まぁ旦那そんな顔をなさるこたぁありませんやね、先日の浅草成田様の喧嘩、
いやぁ恐れいりやした、お強いんでござんすねぇ」

「何!貴様もあの時の仲間か!」
と思わず刀の柄に手をかけた。

「おっとっとっと ご冗談を、ご勘弁んなすって!、
いえね!あちらのお方が旦那に会いてぇとおっしゃるもんですから」
と男の後ろの茶店に座っている身なりのきちんとした商家の主じ風の男を顎で指した。

チラと見やると目があった、その男は静かに会釈を返してきた。

「拙者に何の用だ?まさか傘の注文でもあるまいし」

「まぁ行ってみておくんなさい、それまでここはあっしが見ておりやす、
ナァにかっさらってなんか致しやしませんのでご安心なすって!」

「あい判った!」
丈之介は茶店の男の方に歩いて行った。

「お呼びだていたしまして誠に恐れいります」
男はいんぎんに頭を下げ丈之介を店の中に迎え入れた。

「身共に何の御用かな?」
丈之介の無愛想な言葉に、
「まぁまぁまぁ そう杓子定規に構えないで、(お~い酒を持ってきておくれ)
と奥に声を掛け、まずは落ち着き下さいまし、手前三の松平十と申します、
本郷は根津権現一体を束ねる請負を生業に致しております、
実は過日浅草成田様の武勇伝を手下から聞きまして、

ぜひお引き受け願えたらとこうして出張って参ったのでございますよ。
これまでにも何人かのお武家様にお願いいたしまして当たったのでございますが、
皆様返り討ちにあい、ほとほと困っておりました。

「俺に人を切れと申すのならお断りだ、痩せても枯れても俺は侍、

訳の分からぬ殺しは御免こうむる、ではごめん!」
と席を立とうとするその袖を握って

「ままままっ待って下さいませ、お話だけでも・・・・」
と引き止められ「実はこれまで多くの町家の人々が泣かされ続けておりまして、
何とかならないかと相談を頂きました。

まぁ結果は先ほど申し上げました通り、皆様返り討ちに・・・・・」

「さほどの使い手なのか?」

「そりゃぁもう鬼神か不動明王様の成り代わりと思えるほどの強さだそうで・・・・・」
ここまで聞くともう丈之介の心のなかに剣客の血がふつふつと湧きだしても
しかたのないことであった。

「其奴はそれ程に悪いやつなのか?」

「はい、お役人様も中々腰を上げてくださいません、
何しろ現場を押さえなければ取り押さえることが出来ないものですから、
結局被害にあった者の泣き寝入りでございますよ、そこでだんだんとお助け料も値が上がり、
今では五十両にまで値がつり上がってしまいました」

「何と五十両とは又法外な!」

「でございましょう?それでも今ではお引き受けくださる方が、
皆様このお話をいたしましたら逃げ腰で、
いやはや昨今のお武家様の不甲斐なさはもう・・・・・・」

そこまで聞いた丈之介、引き下がるわけにはいかず
「その話乗った!」

「おお お引き受け下さいますか、やれやれこれで私も間に入ったかいがあったという
ものでございますよ、誠にありがとうございます、それでは早速・・・・・・」
と、懐から紫のふくさに包んだ切り餅二つ

「二十五両あわせて五十両、お収め願います」
と卓の上に置いた。

「で、相手の名は・・・・・」
と聞き返す丈之介に

「そこまでおしりにならなくてもよろしいのでは?それとも名を聞いて怖気づくとか??」

「馬鹿を言え、俺とて武士の端くれ、面目にかけてもそのようなことは申さぬ!
あい判った、で期日は」

「明後日、場所は本所深川富ケ岡八幡前でお待ちいたしております」

この日、平蔵は清水御門の盗賊改方を出た直後から、何か重たい気配を感じていた。
刺すようなものでもなく、さりとて無害なものとはとても想えない。
ただ影のように離れずそれは続いていることに違和感を抱いていた。

永代橋を渡った頃からその気配は徐々に威圧的なものに変わり、
それも複数の散逸した嫌な感じが気になった。

いつものように、佐賀町から下之橋を東に取り、緑橋を渡ったあたりでまとまり始めた気配を
ズルズルと引きずりながら黒江橋、猪口橋へと流し、永大寺門前山本町を右に折れ
富ケ岡八幡の大鳥居を潜って(さてどうしたものか)平蔵は後背のまとまりつつある気配を
どう分散させるか思案した。
何しろ一対?名なのである。

右に曲がって木々の落ち葉が堆積した場所を戦いの場所として選んだ。
石畳では足音が読めない、だが落ち葉なぞもあれば小枝も散乱したまま、
さすればそれを踏んだ時の音で背後の居場所も読めると踏んだのである。

その目論見は的中した、背後から分散しつつ足音が時折の小枝を踏む音を残しながら
回りこむように平蔵を包み始めた。

(ひふうみぃ・・・・5つか)余程の手練でない限りこの状況では
一度に斬りかかるおそれはないな、平蔵ゆっくりと振り返った。

「餌に群がるありんこでもあるめぇし、お前ぇら、
俺を長谷川平蔵と知っての微行のようだのう、長ぇ道中ご苦労なこった!
一体ぇ誰に頼まれた!それとも意趣返しか?まぁそいつはどうでもよい、
獲物を抜いたらそっから先ぁ地獄の一丁目と覚悟してまいれ!」

そう言ってゆっくりと廻りの気配を確かめるように腰を落とした。
じわじわと気配の間合いは詰まっている。

刀に手をかけたその瞬間、いきなり背後から
「やぁ!!」
と突き進む足音がして上段から剣風が打ちかかった。

平蔵は左脚を大きく左側に踏み出しそのまま抜刀して横にはらった。
平蔵の残した右足につまずいて身体が泳ぎながら前かがみになった刺客の胸に
平蔵の一撃が食い込んだ。

「ぐへっ!!」
血反吐を吐きながら前のめりに打ち倒れた。

「つぎ~!」
道場稽古よろしく声をかけた。

「いやぁ!」

左右から一度に打ち込んでくる。
左脚を軸に右足を一気に引いて返す二の太刀で左側の刺客を胴から肩口に切り上げた。

「ぎゃっ!」
脇腹を切り裂かれて面を頭巾で隠した一団の一人が前のめりに打ち崩れた。

左へ飛んだもう一人の刺客に
「おい まだやるかえ?」
息を整えながら平蔵
明らかに頭巾の中の眼は狼狽を隠せないでいる。

「参れ!」

平蔵の気迫に飲まれるように乱れた太刀筋はまっすぐ平蔵に突き出された。
肩を少しよけながら刃の下をなめ上げるように太刀筋を外し、
上段からまっすぐに切り下げた。

「ぐわっ!!」

膝をがくりと落とし、落ち葉に刀を突き刺すように支えながら横倒しに倒れこんだ。
その一瞬を狙ったかのように、背後に鋭い気配を感じて素早く振り返った。
これまでとは全く違ったすさまじい刃風が襲ってきた。

体をかわしざま面割に太刀を振り下ろし飛び退いた。
刺客の隠していた頭巾が切り裂かれて面が現れた。

「ううんっ!・・・・・・もしや丈之介!丈之介ではないか?」
男は一瞬たじろいた。

「俺だ 長谷川平蔵だ!いや、本所の銕だ!」

「うっ!!」

「おい丈之介!貴様とは高杉道場仲間でよく悪さをしたではないか!
おぼえておらぬのか!?」

だが相手は額から血を滴らせながら、なおも間合いを詰めてくる。

「おい まてまて 何があったか知らぬが、お前ぇは村木丈之介だろう?
井関録之助や岸井の左馬を覚えておらぬのか・・・・・・」

だが男は無言でじっと間合いを詰める。

「話しても判らぬとは、やむをえん、参れ!」


平蔵が再び剣を深く構え直した瞬間、相手の目線が平蔵の肩に止まった次の瞬間「だぁっ!!!」
と勢いよく突き進んできた。

「ぬぅっ!!」

平蔵は右に姿勢をひねりながら脇から左肩に切り上げた。

「グワッ!!」
低い声を漏らして平蔵を追うように足元にあお向けに倒れた、
その胸に矢が深々と突き刺さっていた。

「ウヌッ!」
振り向くとすぐ向こうの木陰に弓を構えなおそうとしている男が見えた。

「おのれ!!」
平蔵はその場から左右に動きを変えながら突っ走った。

この場合の弓はもはや使いものにならないことをよく承知しているからだ。
敵は慌てて逃げ惑い弓矢を投げ捨てて抜刀してきた。

「あがいても無駄だ!観念せい!」
平蔵が刃を横に流すように構える。

敵は右八双に構え、いきなり足元の木の葉を足先で蹴上げた。
バラバラッ!と落ち葉や小枝が平蔵の顔面めがけて飛んできた。

思わずたじろき、袖で顔を塞いだその瞬間
「ダァッ!」
渾身の力を込めて真横に刃をはらった。

「うっ!」
平蔵は低い声を漏らした、太刀を持った右手で押さえた平蔵の左腕から血筋が流れてきた。

「おのれ!!」
平蔵は更に男との間合いを詰めて行き、腰を大きく後ろにひねった。

敵はそれを見て大きく太刀を振りかざした、その刹那平蔵は軸足を左から右にかえ
、左脚を左前方に踏み込みざま右脇をすり抜けるように太刀を右手に委ねたまま
左に大きく振りぬいた。

「げっ!!」
刺客は腹を押えながら前のめりに平蔵の右側を泳ぐように土手を転げ落ちていった。

平蔵はその太刀にずっしりとした手応えを感じていた。
急いで土手の下に戻ってみると、胸元に深々と矢を打ち込まれた丈之介が虫の息で倒れていた。

「丈之介!しっかり致せ、貴様俺を助けたのだな!」
その声にうつろに目を見開き、見えぬものを探すようにゆらゆらと瞳を動かせ、
ふっ と笑うように笑んで息絶えた。

「丈之介!丈之介!!」
平蔵は丈之介の瞳の動きに気付かなかった己を悔やんだ。

あの時一瞬丈之介の目線が平蔵の肩越しに移った意味が、今初めてわかったからである。

「無念!無念!」
平蔵は己の胸を幾度も幾度も刀の柄で打ち据えた。

弓矢を射掛けてきた刺客の面体を外したが、平蔵には記憶のほかであった。
平蔵は手ぬぐいを引き裂いて左の腕に巻きつけ、とりあえず止血を試みた。

小半時を少し回った頃、深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内の長屋に平蔵の姿があった。
手傷を負った平蔵の姿を、染は息の止まる思いで迎えた。

「長谷川様!そのお怪我は!」
その声に

「平蔵殿が怪我じゃと!」
奥で左内の驚いた声が飛び出してきた。

「何があったのか俺にもわからぬ、別れて以来20年近い時の流れは、
それぞれの生きる歯車をすり替えてしまったのであろう。

放蕩無頼の俺が火付盗賊改方、一方の丈之介は無頼の暗殺者へと変わっていた。
録之助は乞食坊主が性に合っていると言い、左馬之助は浪々に身をやつし、
恩人の高杉銀平道場は素浪人の集まるさびれ道場。

時の流れとは、まことからくりのごとく先の読めぬものにございますなぁ」

染の手当を受けながら平蔵、ポツリと呟いた。

「長谷川様にこのような事が起こると、染は胸が痛みます。
お命がけのお仕事と解ってはおりますものの、かようなことは嫌でございます」
染は涙を浮かべて平蔵を見上げた。

「わしを付け狙う者はいくらでもおろう、それを恐れておってはこの御役目あい務まり申さぬ。
身共とて生命はおしゅうござる、だがのう染どの、今身共が退けばこの江戸は千々に乱れよう、
盗っ人共や無頼の者共が横行するは火を見るよりも明らか、江戸の治安は誰かが守らねばなり申さぬ。
この平蔵にご指名のある限り、生命を賭してもご奉公致さねばなり申さぬ」

平蔵の毅然とした言葉に染は返す言葉もなく、絞るように染の肩を掴んだ平蔵の無言の言葉に
涙も拭わず見上げていた。

裏の万徳院圓速寺の庭に今年も見事な桜が咲いている。大川の風に運ばれて
ときおり花びらがこの長屋にも流れてくる。

「染どののように、いつもあでやかよのう」

平蔵は胸に顔をうずめている染の肩にハラハラと振りかかる桜を見飽きもせず眺めていた。
この事件のひと月あまり後、平蔵は深川北川町万徳院圓速寺そばの長屋を尋ねた。
桜もすでに翠の葉で屋根を覆うように輝かせていた。

「親父殿に精をつけてもらわねば・・・・・それには一番、深川名物鰻のマムシ!」
と平蔵が鰻飯を下げてやってきた。

「両国橋の広小路に美味い鰻屋がござってな!ぬくぬくをホレ!こうして・・・・はははは」
平蔵愉快げに染に差し出した。

「マムシとは、長谷川様はクチナワまでお召になられますの?」
と少々警戒気味の顔。

「やっ これはしたり、そうか染殿はご存じないか、このような飯は!
まむしと申してな、焼いて味付けした鰻を飯の間に挟んだ為に左様の申すそうな」

「まぁ驚きましたわ、長谷川様は何でもお試しになられるので、

このたびはくちなわまでお試しになられたのかと、うふふふふ」

「実はのう、この焼き加減がキモでござって、一度焼きたる物をどぶろくの熱燗と
醤油に数度潜らせた漬け焼きがみそでござるよ。

醤油は薄口ではのうて、江戸の濃口醤油に味醂、日本橋葺屋町の大野屋のタレ、
これでのうては・・・・・うん?如何がなされた?親父殿の姿が見えぬが?」

「父は少し前より少々風邪気味で、本日は臥せっておりまして・・・・」

「おお そいつはいかぬ、春の風邪は中々に面倒いそうじゃ、
それでは卵酒でも作ってしんぜよう!」

「あれっ!長谷川様は卵酒をお作りになられるので?」

「おっ 可笑しゅうござるかのう?、染どの まずは卵じゃ、それに砂糖と酒・・・・・
まずは卵と砂糖をこう混ぜっ返してよく溶かし、混ざったところで
熱燗をぽちりぽちりと流し込む、酒に卵を入れると白身が湧いて固まり、
まずうござる、酒はこうして・・・・・

ううんっ!これは又、中々の出来でござるぞ親父殿うんうん、
いかがでござる?この酒の香りに卵のまろやかさ、のう親父殿」

「いやぁ これはまこと中々に中々に旨うござるなぁ平蔵殿あははははは」
左内は声を上げる。

「で ござろう、ウム、俺としては中々の出来具合、
こいつぁちともったいのうござるなぁ親父殿」

「長谷川様!私にもそのお味見を・・・・・」

「ふむ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでござるぞ染どの、
のう親父殿、卵酒は病人のもの・・・・・・」

「あら それでは長谷川様はどうして?」

「それはこしれぇた者の特権でござるよ染どの うふふふふふ」

「まぁ憎らしい私も風邪を引いて見ようかしら」

「あっ それはいかぬ、それは困る、のう親父殿」

「何故でございます?」

「あ いやこれはその何んだ、うむ 親父殿の世話をしてくれる者がおらなくなるとこう、
ちと不便でなぁあははははははは」

「まぁ憎らしい、おふたりとも覚えておいでなさいまし」

「あいや 染どのの怒った顔が又ようござるのう親父殿、こうなまめかしゅうて、
桜の花もこうまで色めきは致さぬぞ」

「もうお二人共酔っておいでにございますか!」

「染どの、卵酒がこうも美味いとは、今日の今日まで思いもいたさなんだ、」

「まことまこと、身体の中にず~んと温もりが流れ込み、いやはやこれはたまらぬ美味さ!
もう1杯くださらぬか」

「おお何杯でも、まだまだござりますぞ」

「長谷川様!何かお忘れではございませぬか!」

「おっ はて、?おおっ!忘れておった、だがなぁ染どの、
本日はショウガはござらぬ故これまででござるようん!」

「長谷川様の意地悪!もう私にはおすそ分けはございませんので!?」

「さて、こいつは困り申したのう親父殿、これは風邪を引きたる者の飲み物ゆえ、

染どのにまわる余分がござるかのう、いかがでござる親父殿?」
平蔵と左内は染を肴に卵酒で気炎を上げているのである。

「お二人とも染はもう知りませぬ!」
とべそをかきはじめた。

「やややっ これは困った、親父殿、染どのを泣かせてしもうた、
ちといたずらが過ぎましたぞ」

「これ染、本気ではないぞ、冗談じゃよ冗談!」

「おおそうじゃ 染どのには鰻をたらふく食していただき、
精をつけてもらわねば、のう親父殿」

「いや、ちとお待ちくだされ平蔵殿、染に精をつけさせていかが致す所存?」

二人は顔を見合わせてにやにやと染の反応を楽しんでいる様子に

「もうお二人とも許せませぬ、この鰻、染一人で頂きます!」
そう言ってさっさとまむし弁当を持ち去ってしまった。

「あれあれあれ 平蔵殿せっかくのまむしを染にかどわかされてしまい申したぞ、
これはしたり、いや大事でござる、早う召し捕ってくだされ!」

「おお!相手がまむし飯だけに召し取れは、これはよいよい ふわはははははっ」
平蔵と佐内は腹を抱えて大笑い、

「うむ風邪も呆れて飛んでゆきおったぞ」
盃に桜の花びらがはらりと舞い落ちた宵の口であった。

拍手[0回]


鬼平罷り通る 7月第3号 「武士の一分」


 
京極備前守高久

本所深川の京極備前守下屋敷より長谷川平蔵にお呼び出しがかかった。


「平蔵、御役目とはもうせぬ故無理にとは申さぬ、が この話受けてはくれぬか。
名は明かせぬがさる大名家の内紛に関わる一大事なのじゃ、
わしのところへ相談があってのぅ、その大名家には世継ぎが皆早死して
誰一人残されておらぬ、その折町方より上がって居った側室に世継ぎが生まれた。


この度その顔見世に宿下がりが執り行われることに決まったのじゃが、
反対派の暗躍が画策されておるということで、警護の願いがわしの方に出された。


お家騒動は我らの関知すべき事柄ではない、が さりとて知らぬふりも出来ず、
ほとほと困り果てての相談なのじゃ、どうだな平蔵」


「ははっ!備前守様のお言葉、この長谷川平蔵身命をとしましても
必ずやご期待に沿う所存にございます」


「おおっ 聞いてくれるか!これでわしも肩の荷が下りる心地じゃ、頼むぞ平蔵!」


「ははっ!!」


(うむ 事はお家騒動に発展しかねぬ、かと言うてお役には当てはまらぬ故
これはわし一人で当たるしか無いな、何としても備前守様のお顔を潰しては
ならぬ)。平蔵は事の重大さを胸深く仕舞いこんで帰宅した。


「お頭 備前守様のお呼び出しはいかなる事で・・・・」
と筆頭与力の佐嶋忠介が言葉をむけたが・・・


「ふむ 内々の話ということで。此度はわしひとりで当たらねばならぬ、
済まぬがしばらくは皆の統括を頼む」
この平蔵の言葉の重さを佐嶋は瞬時に理解した。


「おまかせくださいませ」


「うむ 頼むぞ」


「ははっ!」

まさに阿吽の呼吸というか、平蔵が見込んだだけの事はあるこの頭脳明晰な
剃刀佐嶋忠介である。


その翌日から平蔵の姿はこの清水御門からも本所菊川町の役宅からも消息が
ぷっつりと途絶えた。


数日後平蔵の姿が確認されたのは、ひげもマメにあたらず、
さかやきは伸び放題の素浪人姿で神田鎌倉川岸あたりで見かけたと、
おまさから佐嶋に報告が上がっていた。


「で、お頭の形はどうであった?」
と佐嶋の意味深な含みの問に


「それはもう うふふふ」
と含み笑いで答えた。


「おいおまさ お前一人で合点をしても仕方あるまい、さほどのお姿であったか?」


「はい そりゃぁもうひどい格好でございまして、あれはどう見ても
ゴロン棒でございますよ佐嶋様」


「ふふふふ やはりおかしらはそのあたりから探っておいでなのだな」


一方平蔵は備前守より漏れ聞いた「登城は大手門より」と いう言葉を便りに、
諸大名のお家事情を探っていた。


その日の夕刻、日本橋南材木町の居酒屋に平蔵が姿を表した。
加古達の出入りもあるらしく、気楽に入れる店構えが目についた。


「入ぇるぜ」

平蔵は腰に落とした赤鰯を外しながら座敷に上がり込んだ。


古びた簾越しに浪人風体の男が酒を飲んでいるだけである。


「おやじ 何かあったけぇものをみつくろってくれ、それと酒を2本ほど・・・・」


しばらくして亭主が膳を運んできた。


「おっつ 何だえこいつは?」


「へぇ 巻繊汁でございやす」


「ほ~けんちん汁とな、こりゃぁまたあったまりそうだぜ!
しかもけんちんとは又妙な名前ぇだなぁ」


「へい 元は精進料理だとか、建長寺の坊様が作っていたとかで・・・・」


「なるほどそれでけんちんじるか、上手ェ事をいやぁがる、だがこの味・・・・・
 やっ!こいつは美味い」

思わず平蔵が声を上げたほどこの汁は1日の疲れを癒やすには美味かった。


「さようでござろう、拙者もこの味に惹かれて日参いたしておる」
と隣の簾越しに声が飛んできた。


「おお さようか、なるほどこの出汁が又素材とうまく馴染んで
旨味を引き出しおる」


「さよう 巻繊汁は仕立てる前が肝心で、大根・人参はイチョウ切りに、
ゴボウは皮を摺り落としてササガキにして水に晒しアクをとる。


里芋は皮をむき薄く輪切りにして塩でもみ、ぬめりを取り、軽くゆでておく。
コンニャクは半分に切って小口切りに致し、豆腐はふきんに包み水気を絞りぬく。


鍋に胡麻油をたらし込み、ニンニクをひとかけら・・・・
これがこの店のどうも秘伝らしい。


鍋を熱くしておき、此処に大根・人参・里芋・コンニャク・豆腐・
ゴボウの順に加えながら炒め、ごま油が馴染んで参ったならば昆布と
シイタケにて取りたる出汁を加える、煮立ったならば火を弱めて
アクをすくい取りながら柔らかくなるまで煮る、そこに塩・醤油・
酒を加えて味を整える。


とまぁざっとこんなふうに手間ひまかけて出来上がる」


「あっ 恐れいった!拙者もこっちの方にはちとうるさいと自負いたしておったが、
ご貴殿の講釈にはこれこの通り兜を脱ぎますぞ!」
そう言って平蔵杯を上げた。


「あっ いやこれはお恥ずかしい、実はこの講釈、この屋のおやじの常套句で
ござってなァあははははは」


「なるほど 左様でござったか、道理で油のよく回った話しぶりだと・・・・・
わはははは」


久しぶりに腹の底から平蔵は笑った。


「所でご貴殿はお見かけせぬが・・・・・」


「おお 通りかかって こう鼻が・・・・」
と平蔵鼻をヒクヒクさせた。


「なんと 身共も左様であった、ふむ同じ思いで誘い込まれるとは
おもしろき縁でござるな」


「いかにもさようで」


「拙者この先の小網町に住まい致しおります由比源三郎ともうします」


「おう これは申し遅れもうした、拙者に深川北川町に住まいおります
木村平九郎と申す者、以後見知りおきを願います」


「いえいえ こちらこそ以後久しゅうお頼み致す、
所でお見受け致さば我が身同様浪々の身と・・・・・」


あっ いやお恥ずかしい、このご時世武士の生きる世ではござらぬゆえ、
その日その日のにわかな稼ぎで糊口をしのいでおる有り様、
中々まっとうな生き方は難しゅうござる」
と刀の柄口をトンと軽く打ってみせた。


「もしかして 用心棒とか・・・・」


「まぁ悪巧みがなしと見えれば引き受ける、道中用心が張ったりかませて
稼げますわい」


「あいや これ又ご同業で わはははは、親なし子なし、主じなしと
3拍子の揃い踏みでこれ以上言うことはござらん、
まぁ気楽な家業と申しますかなぁ、又何処でかお目にかかることもござろう、
その時には盃なぞ酌み交わすのも、これ又乙と・・・・・」


「いや 全く、ぜひともこうなんでござる、美味い店とか、わははははは」


「いやぁそいつは又楽しみでござるなぁ、ぜひぜひ左様願いたい」
こうして意気投合したまま、その場は別れた。


平蔵はその足で深川北川町万徳院圓速寺そばの長屋に染千代を尋ねた。
「染どの、このような時刻に相済まぬ、なれど急ぎの用件にて許していただきたい」


「まぁ長谷川様 何というお姿で!」


平蔵の無頼の姿に驚きながらも
「そのようなお気遣いはご無用に願います、父上もあのように
喜んでくれておりますし、私も・・・・・」


「おお 平蔵殿 ようお越しくだされた!ささっとりあえずお上がりくだされ」
と左内が奥から出てきて招き入れる。

「親父殿 日頃のご無沙汰をお詫び申す」


「何を申される、他人行儀な、平蔵殿は身共にはまるで我が子のように・・・・・
あっ これはしたり、天下の盗賊改めの長谷川様を、平にお許しのほど!」


「何と、そこまで身共が事を、親父殿この平蔵今のお言葉誠に嬉しゅうござる。
今にして思えば、亡き親爺がそこにおるような懐かしさと温もりが
胸にこみ上げておりますぞ、まことまこと嬉しゅうござる」
平蔵は心の底からそう感じていた。


「長谷川様 所で急なお話とは」
と染が口を切った。


「おお そのことよ、親父殿のあまりの嬉しき言葉にとんと忘れるところで
ござったあははははは、
実はな、日本橋南材木町萬橋東詰の材木商平澤屋の内情が知りたいのだが」


「大店でございますね!」


「うむ そこの娘子の消息がしりたいのだ、どうも表立っての話は
伏されておるようで、我らが手では探れぬ、
誠に持って相済まぬがその辺りが判明致さば、
菊川町の役宅におる佐嶋と申す筆頭与力につないではもらえぬか?」


「長谷川様のためならば、お安いご用でございますよ、
早速にでも探って見ましょう、
お役に立てればこれ以上嬉しい事はございませんもの」


「済まぬ!このとおり、この格好を見られる通り事情あっての探索でな」


「でもまぁよくお似合いでおほほほほほ」
染は実に楽しそうに華やいだ笑い声を上げた。


「まんざらでもござらぬか?ちと気に入り申してなぁ、あははははは」


それから二日後おまさが平蔵のつなぎ場所神田の鎌倉町に現れた。

「細かい話はお会いしてということでございました、
それと京極様から急ぎの御用とか」
とおまさがつないできた。


急ぎ平蔵は深川北川町万徳院圓速寺に足を向けた。

「長谷川様!」
染は頬を高揚させて迎え入れた。


「で、何と・・・・」

慌ただしい平蔵の態度に


「どうやら平澤屋には娘ごがお大名の下屋敷に上がっている模様で、
そのご家中から近々里帰りがあるようでございます。
そのために平澤屋は人の出入りも厳しくなっているとの話がございました」


「おお やはり平澤屋であったか」
平蔵はこれで警護の道筋を組み立てることが出来そうである。


その夜、平蔵は久々に身なりを整え本所の京極備前守下屋敷を訪れた。


「平蔵 又その形(なり)は わはははは 、中々似合ぅておるぞ!
雑作をかけるのう」


「ははっ このような風体にて探索にあたっておりますが、
いや中々敵の姿が掴めず難渋いたしておりまする、
むさ苦しい姿をお目にかけ深くお詫び申し上げます」


「すまぬのう平蔵、そこ元にそのような姿までさせて。
だがな、事は重大じゃ。
その大名は細川越中殿じゃ、細川殿にはお子がおられぬ故肥後宇土藩より
養子を迎えることになった。 


そこへ和子の誕生というわけで、世継ぎ争いが起きてきたと言うことよ。
細川としては財政難を支えておる平澤屋も大事、
かと言うて政は急ぎ継がねば乱れの元と痛し痒しということだ。


此度の一件は、先ず無事に送り迎えを終わらすこと、
その後の内紛にまで我らが首を突っ込むことでもあるまい、
のう平蔵、無事に収めてくれ」


京極備前守の言葉は平蔵の重荷を少しだが和らげることが出来た。
問題は2日後に迫ったお宿下がりの時、所、道筋の戦略である。

翌日平蔵は備前守の添え書きを持ち日本橋新場橋向かいの細川越中守下屋敷に
出向いた。


一方由比源三郎はというと、口入れ屋の紹介で日本橋呉服町の料亭(菊屋)にいた。


「由比源三郎どのでござるな」
身なりの整った紋付袴の侍が3名で待ち構えていた。


「いかにも由比源三郎でござるが、お手前方はどこぞのご家中と
お見受けいたすが・・・・・」


すると、中でも上司らしき侍が
「その件については詮索ご無用に願いまする」
と切り返した。


「判り申した、まぁ身共のような痩せ浪人に頼み事といえば、
深い事情は知られたくない、それは当然でござろう。
で、手っ取り早く話の内容をお聞かせ願えまいか?」


「お引き受け下さるか?」


「話の中身にもよる、身共とてまだまだこの生命おしゅうござるによって
勝ち目のない戦は避けたいからのう」


「断るというなら!」
と若い侍が柄に手をかけた。


「まてまて まだ断ると申されてはおらぬ、のう由比殿」
と上司格の侍が若者を制した。


「いやぁ近頃の若い者は血気盛んと申すが、血の気が多くていかん、
心の乱れは気の乱れ、そこに隙が生じましょうぞ」
とグッと睨み返した。


その威圧的な気迫に押されて若者は立てた片膝を引き、柄から手を離した。


「申し訳ござらぬ由比殿、若い者はまこと血の気が多く事を急ぎたがる、
無礼をお許しくだされ、ところで頼みともうすは用心棒一人切っていただくこと、
それのみ」


「人を切れと申されるか、殺人は死罪!それを承知でのお頼みだな」


「いかにも!後の始末はこちらで致す故ご心配にはおよばぬ、
いかがでござろう50両と言うことでお引受くださらぬか!」


「何と一人切って50両とは安くはないなぁ、さほどの相手ということじゃな。
田宮流皆伝の由比源三郎、剣客としてこの上ない話し、お受け致そう」


「おおっ お引き受け下さるか!かたじけない、早速でござるが時、
所は後日当方より何らかの方法にてお知らせ申す、
ひとまず本日はこれにて・・・・・」


菊屋を出た3名の後をつけはじめたが、出てすぐに3手に分かれた。
(さすが藩名を明かさぬだけのことはある、参ったなぁ、
さてどっちを微行よう・・・・・・)


後の二人はそれぞれ、一石橋を渡るものと、
川筋を日本橋のほうに歩むものとに分かれた。


源三郎はひとまず上司格の男の後を微行始めた。

男はまっすぐに鍛冶橋御門を横切り尼丘橋を渡り西紺屋町から元数寄屋町の
小料理屋(みのや)に入ってしまった。


(むぅ ちょいと当てが外れたなぁ)源三郎は対処を案じた、 が
(待って見るか、どうせ時はたっぷりある)
とそばの茶店に腰を下ろし暫し待つこと小半時、先ほどの武士が出てきた。


急いで物陰に身を潜めると、その武士は数寄屋橋御門の方へ歩みだした。
幾度か後ろを確かめながら、怪しげな微行者がいないか確かめるふうであった。
やがて、辿り着いたところは細川越中守上屋敷。


(ふむ こいつは50両も嘘ではなさそうだ、あとは、連絡を待つばかりだなぁ)
源三郎は踵を返して小網町の長屋に向かった。


翌日口入れ屋から連絡があり、本日正午に菊屋にお越しくださいとのこと。
源三郎は頃合いを見て菊屋に上がった。


「由比殿、時と場所が判明いたした、先日も申した通り、
詳しくはお聞きくださるな、切る相手は籠に添うております用心棒ただ一人、
他はこちらで対処致す。


敵はおそらく最短距離を取ると思える、ならば越中橋を渡り、
江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って北に上った
和國橋たもとと言う道順でござろう」。


「あい判った。それ以後はこちらで塩梅致すゆえ おまかせあれ」


「何卒よろしくお願い申す、家名が懸かっており申す故
しくじりは断じて許されませぬぞ」


「判っておる、この由比源三郎痩せても枯れても田宮流を収めた腕
、滅多なことでしくじりは致さぬ」


「おおっ それを聞いて安堵いたした、よろしくお頼み申す、
これは約束の金子50両お収め願いたい」
と無地のふくさに包んだ切り餅1つを差し出した。


「かたじけなく頂戴仕る」
源三郎は包のまま懐へ収めた。


「ところで細川家のご家中も大変でござるなぁ」
と水を向けてみた。


「ななっ!何と申される!」
見る見る血相が変わった。


「あいやそこまでそこまで、それ以上の詮索は無用と心得てござる」
と相手を制して源三郎ニヤリと笑った。


一方平蔵はと言えば、幾度か下屋敷を出入りして、敵の動きや道中の道筋など、
丹念に手当を講じていた。

(俺が襲うならば・・・・・細川家下屋敷を出れば向かいは本材木町、
人通りもあり襲うには不都合。こちら側は九鬼式部・牧野豊前と
大名屋敷で人の通りも少なかろう、
さて、いかが策を用いるか・・・・・


越中橋を渡り、江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って
北に上った和國橋たもとが常道よのう)平蔵は腕組みしながら絵図を眺めていた。


翌日早く日本橋の細川越中守下屋敷を一挺の大名籠に供の女十名ほどと侍5名に
警護され出立した。


新場橋を西に渡り本材木町を北上、まもなく江戸橋が見えてくる、
天気も良ければこのあたりから西の方にお城を見つつ不二山(富士山)が眺められ、
絶景の場所である。


蔵屋敷を過ぎようとした時、稲荷社辺りに潜んでいたのであろうか、
バラバラとたすき掛けの侍が駆け寄り、籠の前後を固めた。

平蔵は素早く籠傍に駆け寄り、抜刀して身構えた。


「女性は離れよ、無益な殺生は望むところではない!」
武士団の一人がそう叫んだ。


女どもは我先にと稲荷社の方に逃げ去った。
残るは5名ほどと平蔵一人・・・・・・


その時暗殺者の中から平蔵の背後に飛び出してきた男があった。
気迫に振り向いたその顔を見て平蔵


「源三郎殿ではないか!」


「何っ!おっと これは木村さん、どうして又このような場所に!?」


「お手前こそ、何故に卑怯な闇討ちに手を貸すのでござる?」


「いや 身共は浪人一人殺れとの約束で・・・・・・」


「で いくら貰った?」


「おう 金子50両だが」


「俺も安く見られたものよのう、100両でも受ける奴はゴロゴロいるぜぇ」


「なななっ 何と100両! そいつは無念、で、籠の中身は何だ?」


「もうよかろう、出て参られい染どの」


平蔵の言葉に籠の天蓋が開き、扉が開かれ中から出てきたのは染。

籠を取り囲んでいた暗殺者の中から声が上がった。
「図られた!!此奴はお局様ではない、かくなる上は共々皆殺しに致せ!」


「おいおい 証拠隠滅かえ、そいつぁ乗れねぇ相談だぜ、おい源三郎!
お前ぇはどうする?」


「待った待った!俺は降りるぜ、お家騒動の巻き添えは一度で十分
かんべんしてくれ」


「きっさまぁ良くも裏切りを!」
そう言うなり取り囲んでいた侍たちが一斉に陣を敷いた。


「染どの、ひとまずあれへ!」
と平蔵が先に逃げた奥女中共の方へ顎で示した。


「何の長谷川様、染とて武家の娘、まして与力の娘とあらば武芸の一つも
心得ております」
そう言って平蔵の脇差しを引きぬいた。


「おっ これはまた!」
平蔵は顔をほころばせながら染を背にかばった。


ダァ!!と、我慢ならず一人の侍が平蔵めがけて振りかざしてきた。


ヌンッ! その男は袈裟懸けに刃の峰で肩口から叩き伏せられてグワッ!とうめいて
その場に無様に崩れた。


「殺すではない!」
平蔵の声に


「判っております」
と答えたのが源三郎。


「おいおい お前ぇ一体どっちの仕事をするのだえ?」
平蔵の軽口に


「お家を引っ掻き回す奴は大嫌いでね、俺もこっちが性に合っている」


「やれやれひでぇ奴だなぁ裏切り者とは、あははははは」


「全くで、このような場面を考えても見なかったよ木村さん、あははははは」


「細川家のお方とお見受け申す、どなたかは存ぜぬが、
身共は火付盗賊改方長谷川平蔵と申す、京極備前守様よりのお指図でまかりこした、
ご存念あらばお伺い致そう。


すでにお局様は昨夜の内に町籠にて平澤屋にお届け申した。
これ以上の無駄な争いは無用と心得るが・・・・・・・お引き上げなされい!」


平蔵のこの一言に襲撃者は一瞬たじろいた。


「やむをえぬ 皆引けい!」
主犯格らしい男の声に、各々刀を鞘に収め稲荷社の方に駆け去った。


その時後ろで低いうめき声がした。
振り返る平蔵の眼に脇差しを掴んだ源三郎の座した姿が眼に飛び込んできた。


「源三郎!何という早まった事をしでかしたのじゃぁ」


「長谷川様とも知らず、このたびは誠に持って・・・・」


「源三郎しっかり致せ!」


「すみませぬ、金子は家内と娘の永代供養代にと、
昨日肥後早川の覚法寺に送り申した」


「何故!何故腹を切らねばならぬ!」
出血多量で意識も薄れてきている源三郎を平蔵は抱きかかえた。

「武士の一分でござる長谷川殿」
そう言って息を引き取った。


「源三郎!源三郎!」
平蔵はこの僅かな時であったが、気持ちの清々しい時を共にした源三郎を


惜しんでやまなかった。


「武士さえ捨てれば生きる道もあったろうに、
何と侍の一分とはかくもむごいことを飲まねばならぬのか!のう染どの」


「長谷川様・・・・・・
染が平蔵の傍に寄り添った。


「染どの、此度は危ない目に合わせ申した、何卒許されよ、
染どのをおいて他に策もなく、まことにこの長谷川平蔵心を痛めながらの
選択でござった。


わしの命に代えても染どのを護り通すと親父殿に約束いたした通り、
その気持ちに嘘偽りはござらぬ」


「長谷川様・・・・・・
染はそのお言葉だけでいつでも死ぬ覚悟でございました」


その数日後、平蔵は京極備前守下屋敷に姿を表した。


「平蔵!此度の働き、いや実に見事であった、この備前心より礼を言うぞ」


「ははっ! もったいないお言葉、この長谷川平蔵何よりの歓びに存じまする」


「ところでのう平蔵、細川の件じゃが、肥後国宇土藩より細川立禮を養子を迎え、
財政の立て直しを図ることに相成った。
平澤屋はこれまで通り細川家に助力を致し、子は平澤屋の跡取りとすることで
決着が着いた、まずは目出度い。
それにしても手際の良さはさすが平蔵よのぉ、いかような手立てを致したのじゃ」


「ははっ おそらくは当日表、裏共にみはられていようと考え、
その前日密かに町娘に衣装替えを致し、町籠にて身共が荷を担いで付き添い、
裏木戸から霊岸橋を南下して湊橋を越え箱崎町殻永久橋を渡り、

更に東に進み松平三河守様下屋敷を過ぎ、川口橋を越えて堀田備中守様下屋敷を
北上し、濱町川岸から更に北上して、久松町榮橋を渡れば和國橋までは目と鼻の先、
何とか無事に平澤屋裏口にお入り願うことが叶いました。


どうやらそれが網から漏れたようにござります」


「なるほどのう いや大儀であった、盃をとらす近う」


「ははっ・・・・・・」


盃を拭おうと懐紙を出すのを

「ああ そのまま・・・・まこと御苦労であった」
と盃を受け取った。


平蔵は胸の詰まる思いで備前守を見上げた、
そこには信頼の証のように京極備前の笑顔があった。







画像入り「時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 


 



 


拍手[1回]

 


拍手[1回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/90/" /> -->

7月第2号 さくら散る頃




日本橋通り南詰めに当たる南伝馬町3丁目と新両替町を結ぶ京橋近くに、
こじんまりとした小料理がある、
どこと言って目立つほどのものは見当たらないが、
古い家に手を加えて温もりを殺さず、一歩入ると気の安らぐ拵えは、
中々並のものではないものを感じさせ、
この所平蔵はちょくちょくこの店に顔を出している。

「おお 本日もおでかけか?」

すでに馴染みになっている70を前にした、見るからに商家風の男と目を合わせ、
会釈する。

「お武家様もまた お出かけで?」
とにこやかな言葉が返ってきた。

「うむ どうもこのアサリ酒が癖になっちまったようでな あははははは」
頭を掻き掻き平蔵はその老人の隣座敷に座る。

「いや 私はこの煮込みが気に入りましてな、
ちょくちょく出かけて参るのでございますよ」。

「お武家様、いつものでよろしいので?」
と小女が茶を持って訪ねてきた。

「おお いつもの奴よいつものな ははははは、のうご主人」
と商家の主に眼を流す。

「ああ ごもっともごもっともあはははは」

「おまたせいたしやした、毎度ご贔屓に」
と亭主が酒と一緒に膳に乗せて運んできた。

「おお!来たぜ来たぜ!このアサリ酒が又旨い、
このアサリの焼いた磯の薫りと酒の絡みがこう何と申すか言うに言えぬ・・・・・」

「男女の仲・・・・」
と商家の男が笑いながら口を挟む。

「おう それそれ、あっ いやしかしそのぉ・・・・・」

「この年で、と あはははは、色にも仲にも色々とござって、
それがまたよろしいので」とにこやかに盃を干す。

「あいや 人には沿うても見よと申すが、これほどまでにアサリ酒が旨いとは
思わなんだ、のうご亭主、こいつは又何か工夫でもあるのかえ?」
平蔵の病気がまた出始めた。

「へぇ こいつばかりは木更津産が一番かと、塩水に入れて盲蓋をしやすと、
早々と砂を吐きやす、そいつを洗って開き、貝柱を切り離し、
たすきを切らないようにむきやす、両口に串を打って1日ほど干したものを
火で炙ったものを5ツ6ツ熱燗に入れ、ほんのしばらく置いて戴きやす。

それだけのことでございやすが、寒い時は熱燗が薫りもよく、
口当たりもよろしいかと。

御酒がお望みならば冷にしばらく浸けておきやすとこ
れも又酒の好みが増しますようで」

「ふむ なるほど、薫りを採るか酔を採るか・・・・・これも又楽しみ方よなぁ、
ところでご亭主、この葱の煮付けだが・・・・・わけあり根深かえ?」

「あはっはっは お武家様はまたお好きなようで、
ネギは1本から二又に分れるところから人文字草(ひともじぐさ)ともよばれやす、
熊手葱や砂村葱から工夫して、根深一本葱が作られやした、
これを千住葱と呼んでおりやす。

育つに従って根本に土をかけて白茎を長くする工夫で根の締まりもよく
煮崩れいたしやせん、アサリのむき身を塩と酒、醤油で薄味に仕立てた出汁で、
ネギの5分切りと一緒に手早く煮立てたものでございやす」。

こうしていつしか月も2ツ3つと明けた春なかば、そろそろ月も昇り、
ほろ酔いで火照る身体に川風が優しく触れてゆく。

「それではここで・・・・・」

「おお 又楽しみましょうぞ、そこ元は何処へ?」
と平蔵が尋ねた。

「はい 私はこの先の新両替町でございますので、すぐ先でございます、
お武家様は?」

「俺かえ 本所の菊川町よ」

「おお ではお気を付けられまして・・・・・」
と二手に分かれて歩き始めた。

京橋を半分渡りかけた時「ななっ 何をする!」鋭い叫びが平蔵の耳をかすめた。

振り返ると薄闇に数名の陰が見えた。

(いかん 何か事が起こったな)平蔵は足早に新両替町に踵を返した。

「待て待て!火付盗賊改方である」
そう叫んで駆け寄った。

3名の男に囲まれて商家の主が小脇差を構え相対していた。

「怪我はないか?」
平蔵の問に左腕を抑えながら「おかげさまで何とか軽い怪我で」
と主が答える。

「火付盗賊改方長谷川平蔵である、命のいらぬ奴は掛かってまいれ」
と叫んで抜刀した。

「ちぇっ!」そう叫んで主犯格の男が踵を返し、
それを合図のように残りの二人も刀を構えたまま後ずさりしながら逃げていった。

「おかげさまで危ういところを、火付盗賊改方の長谷川様で・・・・・
申し遅れました、手前は両替商の粟田屋吉右衛門と申します」

「うむ 立ち話もなんだ そこいらまで同道いたそう」

「長谷川様、私の店はここでございます」と吉右衛門が立ち止まったところは
新両替町1丁目のはずれであった。

「うむ 用心いたせよ」
そう言い残して平蔵は立ち去った。

それから数日後、いつもの様に小料理屋(かない屋)に顔を出したが、
この所吉右衛門の姿が見られないと聞き、平蔵は粟田屋を訪ねてみた。

出迎えたのは40半ばと見受ける女で
「旦那様はこの所お出かけを控えておいででございます」
と断りながら取次をした。

「これは長谷川様このような所へわざわざお運びいただき恐縮いたします」
と中庭を見渡せる縁でくつろいでいた。

「いや 何、この所姿が見えぬと店の主が申しておった故、
ちと先日のこともあり、気になり申してのぉ」

「これはまたご足労をありがとうございます」

「で、だなぁ粟田屋」

「はい 先日のことでございますな?」

「うむ そのことだが、何か心当たりはないか?」

「はい 家業が家業でございますから人様に恨みを買うことも些
少はございましょう。
時には厳しい取り立てもやむを得ない場合も生じます。

近頃は金子を用立てましても、それを踏み倒すお武家様などもございまして、
中々住みづろうなってまいりました」

「うむ 何処とも苦しい台所ゆえなぁ、このわしとてご同様なれば、
少々耳の痛い話ではある、そなたの屋号から、出は京の都かえ?」

「はい 全くその通りでございます。京は東山蹴上の出で、元は京都町奉行で、
代々筆頭与力を勤めておりましたが、私が勤番の夜押し込みに入られ
女房と娘が殺害されました。

結局事件は未決のままで、つくづくこの仕事に嫌気がさし、
元々武術よりそろばんのほうが得意でありましたので、
江戸に出てきてこのような家業に手を出した次第で誠にお恥ずかしい」

「なるほど左様であったか、道理で先夜の浪人相手に軽い怪我ですんだのも
納得が行き申した。
そのお手前の腰の業物も中々の物と・・・・・」

「おお さすがお目が高うございますなぁ、これは粟田口吉光でございます」

「身共の差料もその粟田口で国綱でござるよ」

「これはまた奇遇で!」

わしも二十歳すぎに親父殿が火付盗賊改方に任じられたおり同道致し、
しばらく京に住んでおった。
さようであったか、筆頭与力とはまた・・・・・・」

「しかし一人身は少々危のうござるなぁ、と申して下手に用心棒を雇うても、
こいつがまた・・・」

「いやいや  全く仰せの通りで、安全などという者は無縁の家業と存じます」

「ところで先ほど出迎えた女性(にょしょう)は・・・・・」

「はい あの(おせん)は私が心の臓の患い持ちでございまして、
雨の夜道で倒れていたところを通りかかって、その時の手際がよく、
かろうじて一命を取り留めました、それ以来こうして身の回りの世話を
焼いてもろうております」。

「ふむ さようか・・・・・・
まぁ何か事あらばわしを尋ねられるもよし、南町奉行の池田筑前守様を
尋ねられるもよかろう、親父の代からの古い付き合いだから遠慮はいらぬ」

「誠に持ってかたじけのうございます」

時々はこうして見回ろう、又例の所でお待ち申しておりますぞ」
平蔵はそうねぎらって辞した。

帰りがけの(おせん)の視線が妙に気にかかってはいたが、
それが悔いを残す事に繋がろうとは今の平蔵には解っていなかった。

しばらくは平穏な日々が続いたが、鉄砲町の文治郎が清水御門前の
平蔵の役宅にやってきた。

「おう 文治郎久しぶりだが、何か変わったことでもあったのかえ?」

「長谷川様新両替町の粟田屋をご存知で?」
と聞いてきた。

「うむ よく承知いたしておるが、何かあったか?」

「へい 殿様から長谷川様に申し伝えるようにと言伝が」

「何!筑前守さまからとな」
 
「へい さようで」

「で その言伝は・・・・・」

「先日土場の手入れで捕まえやした浪人の話で、
なんでも粟田屋の殺しを依頼されたが、
しくじり金に困って土場にいたところを御用になったようで、
その殺しの依頼が女とまでは吐いちまったそうですが
それ以上はどこの誰だか判らないようで・・・・・」

「あい判った、ご面倒をお掛けしたと筑前守様に伝えてくれぬか」
平蔵は今にしてあの小間使いの(おせん)の素振りが気になったことに気づいた。

「おまさを呼んでくれ!」
と同心部屋に声をかける。
しばらくしておまさがやってきた。

「おお おまさ、ちょいとすまねぇが新両替町の粟田屋におる(おせん)
を張ってはくれぬか、どうも動きに怪しいところが見受けられる、
特に浪人共との関わりが知りてぇ」

こうして平蔵の手のなかで動きは逐一見張られるようになった。

その2日後おまさが五郎蔵とやってきた。

「おお 五郎蔵も一緒かえ、相変わらず仲の良いことで わはははは」

「長谷川様、こいつはどうも、いえね ご指示通りおまさが女を微行て行きやした所
居酒屋で浪人二人と会ったということで、あっしも同道しておりましたので、
今度はその浪人の後を微行たのでございます。

ところが出てしばらくしたらそれぞれ別な方に別れたものでございますから、
それぞれを微行ることに致しました」

「一人は鐵砲洲十軒町の棟割長屋に帰りました」
とおまさ

「もう一人が何と築地の松平安芸守様下屋敷に入りました」

「何と浅野家下屋敷とな」

「へい あっしも少々驚きまして」

「うむ 粟田屋も、近頃は武家も踏み倒す輩がおると呆れておったが、
其奴も禄を離れた者かも知れぬな、引き続き見張りを頼む」

「承知いたしました」
こうしてあらすじが読めてきた。

その翌日平蔵の姿が新両替町の粟田屋そばの茶店にあった。
この辺りは両替に訪れる商家や、小金を借りる町家の人々の出入りもあり、
中々繁盛している。

粟田屋は近所での評判も利息はお定め通りで、
雇い人もない小商いながら信用が高く、武家屋敷からの出入りも多いと言う。

そのうち中から(おせん)が出てきた。

その後を五郎蔵が距離をおいて微行て行った。

その間にも客足は多々あり、人柄の評判が嘘でないこともよくわかった。

「長谷川様!女が戻りました」
と五郎蔵が戻ってきた。

「で相手は誰であった?」

「はい 先日の松平安芸守様下屋敷から浪人が5名ほど連れ立って出てきまして、
そのまま十軒町の長屋に・・・・・・
それっきり出てまいりませんので、ひとまずご報告にと」

「うむ 中間部屋でごろん棒を拾ったな、仕掛けは今夜か・・・・・」

「はい 左様のようで」

「よし、時は未だある、済まぬが役宅に手空きの者がおらぬか
行って連れてきてはくれぬか、俺一人でもと想うたが、
もし中の者に怪我でも出しては相済まぬでな」

「では早速」
と五郎蔵が出て行った。

茶屋のひと間を見張り所において、敵の動きを待った。
時は足早に過ぎ去り、それまでに五鉄の三次郎から差し入れの
ハマグリ飯の握りを腹に収めてじっと待つ。

「おかしら!このハマグリ飯はまた美味しゅうございますなぁ、
いつもは握り飯に新香でござますから、本日は又格別で、いつもこうな・・・・・」

「おい 忠吾、何を申すかお頭の前だぞ」
と沢田小平次が・・・・・

「あっと これはしたり口は災いの元と申しますから」
慌てて忠吾口を抑える。

「おい お出ましだぞ」
見張りに立っていた小林金弥が声をかける。

うっん!平蔵も仮眠から身を起こし身支度する。
向かいの粟田屋の引き込み口がわずかに開いた、暗闇で顔は定かではないが
(おせん)にまちがいはあるまい。

すると物陰から数名の者がバラバラと間口近くに集まった。

「それ!かかれ!」
平蔵の指令に「火付盗賊改方である、神妙にお縄につけ、
あらがう者あらば斬り捨てに致す」と呼ばわった。

「クソぉ!」
相手が4名とあなどってか、抜刀して挑みかかってきた。

忠吾の十手が弾き返され宙を舞った。

「あっ うぬ此奴」
と腰の刀を抜きに掛かったところを大上段から真っ二つに振り下ろされた。

ビ~ンと白刃がぶつかり合い、それは忠吾の頭のすぐ上で止められていた。
沢田小平次が一瞬の間合いで止めたものだ。

忠吾はその間に腰のものを抜き放ちざま横に払った一振りは
相手の右脚に鈍い音を立てて食い込んだ。

「ぎゃっ!」
うめき声を引きずりながら男はその場に打ち倒れた。

「殺してはならぬ」
平蔵の声に一同刃を返し峰で応戦する。

勝負はあっけなく着いた、何しろ忠吾を除いては皆手練の猛者ばかり、
適うはずもない。

わめき散らす(おせん)を捕縛していると、
中から吉右衛門が明かりを持って出てきた。

その場の情景から、(おせん)が手引きしたことは一目瞭然である。

「なななっ 何と!・・・・・」

「おう 粟田屋 起こしてすまぬ、少々の捕物でな、
また明日でも済まぬが役宅まで出向いてもらわねばならぬが、
本日はこれ以上の騒ぎもあるまいよ安心して休むがよかろう」

「長谷川様‥‥‥‥何とお礼を申し上げればよいか」

「ああ よいよい では又明日にでもな」そう言って捕縛した者を引き立てて
朝靄の中に消えていった。

翌日の取り調べで、鐵砲洲十軒町棟割長屋の浪人彦根十三郎と(おせん)は
馴染みで、十三郎の博打仲間が松平安芸守下屋敷の中間部屋の
土場仲間であったことも判明した。

(おせん)は、たまたま縁のあった粟田屋に入り込んだおり、
粟田屋が独り者であることからそこにつけ込んで粟田屋殺しを図ったが、
平蔵の邪魔で成就ならず、最後の一手にと押し込みを図った模様。

「長谷川様、何と人は虚しいものでございましょうか、
あれほど親切に世話を焼いてくれたものが、殺しまで企んでいようとは
世も末でございますなぁ」

「粟田屋 人の心には常に鬼も巣食うておるものよ、
良い行いをしておるときは此奴も身動き取れぬものらしい、
だがひとたび欲が絡めば鬼が解き放たれ、思いもかけぬ事をしでかす。
罪を憎んで人を憎まず、それが我らが目指すところだよ」

「愛染明王様のお姿でございますなぁ」
粟田屋は両手を合わせて平蔵を観た。

その数日後清水御門前の平蔵役宅に粟田屋が訪ねてきた。

「長谷川様過日は大変にお世話にあいなりました。
あの日以来、商いを閉めましてございます」

「ほほう それは又いかようなる訳がござるのかな?」

「ほとほと商いで生きることが嫌になりました、そのために
せめてもの亡くしました家内と娘への供養とおもうて、
これまでの借用証文はすべて焼き捨てましてございます。

そこでこの脇差し粟田口吉光、どうか長谷川様のお手元に収め置き頂けますならば、
これも生きる道が定まろうというものでございます。

それからこれは長谷川様にお世話になりましたる心からのお礼にと包み置きました、
何卒お納め願わしゅう存じます」

「あっ いやそのようなことは・・・・・」

「長谷川様、手前は商人、従いまして商人のやり方でしか御恩返しが出来ませぬ、そ
のところを何卒お汲み取りのほど、それに重ねまして厚かましきお願いをもう一つ、
これは私の部屋の奥にございます金蔵の鍵にございます、〆て千両程ございます、
これを長谷川様に使い道をおまかせ出来ましたらと」

「さようか・・・・・・
いや 相判り申した、お志かたじけなく頂戴仕る、
ところでこの先いかがなされるおつもりじゃ」

「はい この年でございますれば、生まれ故郷も懐かしく思えるようにも
なりました、京に戻り家内や娘の供養で時を過ごすのも侘びた生き方か・・・・・」

「うむ それも又良き過ごし方かも知れませぬなぁ、のう吉右衛門どの、
枯れる生き方を見つけられればようござるなぁ、
わしも枯れてゆきたいと何度想うたことか、だがまだまだこの御役目が
それを許してはくれぬ、あははははは」

平蔵は、今を盛と咲き乱れる八重桜の風に舞う姿が、
この別れを惜しんでいるように想えた。

この粟田屋から託された千両の金は、人足寄場の授産所施設として
生かされたことは言うまでもあるまい。

拍手[1回]


7月第2号 「鉄砲」


浅草三社祭


絶品!烏賊の鉄砲

春の夜風が程よく袖の中を抜けてゆく浅草三社祭
「びんざさら舞を見終え、残るは出店の冷やかしが忠吾の目的、運よくば「むふふふっ」
と鼻の下を少々長めに冷やかし始めた。

この三社祭は3月17・18日で丑、卯、巳、未、酉、亥、の一年おきが本祭。
諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、田原町、東仲町、並木町、茶屋町、材木町、花川戸町、
山之宿町、聖天町、浅草町、聖天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、
田町の18ケ町の氏子が担ぎ込む山車が大きな見どころである。

が、忠吾の見どころは違っていたようで、清水御門前の火付盗賊改方役宅に戻った忠吾、
「村松様!いつ行っても三社祭はよろしゅうございますなぁ、時に食い物がこれ又旨い。
私はいかのテッポウが気に入りまして、2本も食べてしまいました」と報告した。

「忠吾鉄砲は撃つものじゃ、まぁお前の鉄砲では茶屋女も落とせまいがのう」

「あっ 村松様それはあんまりなお言葉、この木村忠吾左様な経験は一度もござりませぬ」
とおカンムリの様子に、

「まぁよいわ!それより忠吾、イカのテッポウとはどのようなっものであった?」

「はぁそれはそれは美味しゅうて、私は2本も平らげたと先ほど」

「それじぁ そやつはどのような姿(なり)であった?」

「まぁ このイカを丸ごと竹串に刺してタレに浸けたものを火で炙ったもので、
中にゲソなどがつめ込まれておりまして、それはそれは香ばしく・・・・・
嗚呼今思い出してももうヨダレがそのぉ」

「忠吾、そやつはズケ焼き、別名をテッポウと言うやつじゃ」

「ずけやき? でございますか?」

「よくやられるのは古くなったイカを安く叩いて買い求め、
それを濃い目のタレに浸して焼き上げるやつでのぉ、まかり間違えば腹を壊す、
そこでイカに当たったと言われるところから、
ズケ焼きを裏ではテッポウと呼ばれるのじゃ、
それ下手な鉄砲数打てば当たると申すであろう。
お前も腹を下さねばよいがのう」

「まぁそれはないでしょう、これこの通りモリモリパクパク元気でございます」

「やれやれお前には何も通ぜぬ・・・・・・」

ところが翌日になっても忠吾は出所してこない、心配になり長屋を見舞うと
「村松様、やはり私はこっちの方は下手でございました」

「なに 忠吾、そっちの方はお前は名人じゃ、おなごは空打ちでも、
食い物はたった2発でそのざまじゃ」

「村松様ぁ それは村松様のお言葉とも思えませぬ、あいたたたたぁ」

この日は平蔵久方ぶりにのんびりと縁側に煙草盆を引き寄せ一服つけていたところへ・・・
「おう猫どのご苦労であった、で、忠吾はいかがであった?」

「はい まぁいつものことなれば、さほど案じることもござりません、
なにしろ食い過ぎで腹をこわすのはいつもの事、1日寝ておれば治ると
医者も申しておりました」

「おっ それはそれは わはははは」
平蔵も呆れてしまう。
「所でそのテッポウじゃが、真はどのようなものなのだえ?」

猫どの、すすすすっと膝を乗り出して、
「お頭、よくぞお尋ねくださりました」ともうすでに頭の中はその話しで溢れている様子。
「富山の氷見の名物にて鉄砲と申すものがございます。

作り方もそれぞれ各自に工夫がござりますが、氷見は立山の山並みから雪解け水が
流れ込みむ富山湾だからこそ魚類が旨い。

こう、深い湾に谷間があり、これを(ふけ)と呼ぶそうにござります。
ここに川の水と魚がぶつかるところがあり、これを(ふけ際)と呼んでおります。
スルメイカは刺し身などに向かぬ故おろそかに扱われることが多ゆぅございます。
それをうまく工夫したのが鉄砲でございます。

イカは焼くと少々縮む故それを見越した大きさを選ぶことがコツの一つで、
中身を抜いて綺麗に洗い、まちごうてもイカスミを潰さぬよう、
潰れたが最後そこら辺りも真っ黒になってしまいます。

イカのゲソを細かく刻み、小切りのワタを合わせ、玉ネギ、ニンニク、
ショウガを微塵切りにし、鉄鍋に酒を少々入れて、軽くこれに火を通します。

出来たなら、これに大葉の細切り、麹味噌、砂糖、酒でよく混ぜてイカ味噌をこさえ、
これをイカの胴に七・八分ほど詰め込み、楊枝で口を止めまする。

胴に切込みを少し加えて、味噌の味が染み込みやすく細工を施し、こうして、
まずは表裏を焼き、次に切り目にも砂糖、酒で伸ばした味噌を塗りこみ火で炙る。

パチパチとイカの表が弾け、ポンポンと身が膨れてくる、これと同時に味噌の薫りが・・・・・
楊枝を抜くとポンと音がする故これ、テッポウと名付けられたとか申します」。

「へへ~ぇ なるほど鉄砲とはウムウム面白ぇ」
どうやら平蔵興味を覚えたようすに、
「一つ今夜は氷見の鉄砲と参りましょうか」

「おう それは良いそれは良い、へへへっ これで酒が又旨い のう 佐嶋」

「これは何とも・・・・・はははは」
この男が酒豪であることは、平蔵の他に知る者は居ない。

その二日後、平蔵は忠吾を供に本所弥勒寺前の茶屋「笹屋」に寄った。

「おい おクマはいるけぇ」

「誰でぇおらを呼び捨てにする奴ぁ」
ブツブツ言いながら骨と皮だけの、まるで干物ように痩せこけた老婆が出てきた。

「あれっ 銕ッツアンじゃぁねぇけ!」
破れ鍋叩いたようなダミ声で飛びつかんばかりの喜びよう。

「なんでぃ 久しく顔を見せねぇでよぉ、銕っつあんも冷てぇじゃぁねえかい」

「おい お熊それが挨拶代わりかえ?」

「他に何があるってんだぃ」

「おかしらぁ」
と度肝を抜かれて忠吾。

「おや アンタもいたのかい、へぇ青瓢箪見てぇになまっ白くてよぉ、
お役に立つのかい銕っつあん」

「何だとこの婆ぁ」
いきなり生瓢箪と呼ばれて頭に血が上った忠吾。

「おい 忠吾よさねぇか、お前ぇの歯の立つ相手じゃぁねぇよ、彦十が持て余す奴だからなぁ」

「おんやぁ 銕っつあんアンチクショウの名前を此処で出す事ァねえだろう!」
と相変わらずの伝法な老婆である。

「お頭、まるで鬼婆ぁでございますなぁ、よくもこのようなところへお出入りなさいます」
呆れる忠吾に

「なぁに忠吾、鬼の平蔵が鬼婆ぁの所にいても可笑しくはねぇぜ、なぁお熊」

「あたぼうでぃ んで、銕っつあん今日は又何か用で来たのかい?」

「おうおう それそれその事よ、なぁお熊、お前ぇ聞いちゃァいねぇかい香具師の繁造」

「ああ この所しばらくぁ野郎の姿を見かけねぇなぁ」と言いながら茶を出してくる。
「アンタもいる(必要)かい?」

「おれはお頭のお供をしておる、したがって茶をもらうのは当たり前であろう」

「わかったよぉ けどお前さんはお足をちゃんと頂戴するからなぁ」

「っくくっ 口の減らない婆さんだな」

「当たり前ぇよ 口がへちゃぁ旨ぇ酒も呑めねぇじゃぁねぇか」

「おかしらぁ」

「忠吾やめておけ!こいつに勝とうと想うのが10年いや30年は早ぇぜ、わはははは」

「うううううっ おかしらまでそのように」
忠吾完全に切れた様子である。

「で、なんでぃ?繁のやろうがどうかしたかい?」

「うむ こいつの話では浅草三社祭があったそうだが」

「へい この17,18とござんしたよ、それがどうかしたのけぇ?」

「うん 大抵1度は本所の役宅に顔を出すんだが、今年はまだ顔を見せねぇ、
そんな奴ではないのだがなぁ」

平蔵のいぶかる言葉に
「そういやぁそうだなぁ、義理堅ぇ野郎だもんなぁ」
お熊も不思議そうに平蔵の話を聞いている。

「銕っつあん、ちょいと待っとくれよ、どこにも行っちゃぁいやだよぅ」
と皺くちゃな前掛けを外しながら出かける様子に

「おいお熊 お前ぇどこに行くつもりだぇ」
と念を押して尋ねた。
何しろ
「銕っつあんちょいと出かけて来るから店番頼むよぅ」
と、出かけたきり2日も帰らなかった前科がある。

「ああ ちょいとこの先の香具師の家さね」
言いつつ、もうひょこひょこと出かけてしまった。

「お頭、とんでも無い婆ぁでございますなぁ」
と忠吾の言葉に平蔵

「忠吾、あれで中々役に立つ、ああ見えても上は将軍様から下は在所のゴロツキまで、
およそ怖ぇものはねぇ、とうそぶくほどの度胸もある。
見た目以上に顔が広くて話が通る」

「そんなものでございましょうか」
忠吾はお熊婆さんにやられっぱなしで、ふんまんやるかたなしの面持ちでむくれている。

「銕っつあん 判った判ったよぉ、あいつの話じゃぁ繁造はこの所見かけねぇんで、
親方にたずねてみたら、どうも浅草の三社様で、店放り出して野郎フケちまったようで、
それっきり戻っていねぇってよぉ、どうしようよ、ねぇ銕っつあん」

お熊婆ぁは首の手ぬぐいで額を拭いながら平蔵の前に座り込み顔を見上げ
細い眼を更にショボショボさせていた。
「お熊 繁造は確か鉄砲が売りであったなぁ」

「ああ 野郎のは中々評判がよくってさぁ、だけんじょどうしてフケちまったんだろうねぇ」

「ウムその辺りをもう少し探ってはくれぬか」

「お上の御用ってぇんだねぇ、いいねぇ解ったよぅ銕っつあん、だから又寄っておくれだねぇ」

「あい判った、また出かけてまいるによって、よろしく頼んだぜぇ」

「あいよ!このお熊にまかしなってことよ!」
あれから5日が過ぎた。

本所菊川町の平蔵役宅に「銕っつあんはいるけぇ、笹屋のお熊が来たと銕っつあんに取次な!銕っつあんに会わせろやぁ、と薄汚い形(なり)のみすぼらしい老婆が長谷川様を訪ねて
まいっておりますが、いかが致しましょう」と門番が伺いに来た。

「何!お熊だぁ おう こっちに回せ!」
と平蔵ニヤニヤしながら待ち構えた。

「何でぇい おらの顔を忘れちまったのけぇ 能なしの門番だぜ」
とぶつぶつ言いながらお熊が裏から入ってきた。

「お熊よく来たなぁ」

「銕っつあん 判ったよぉ 判ったよぉ」

お熊は汗を拭き拭き平蔵の顔を見上げた。
「おお 朝早くからご苦労ご苦労、ところで何かつかめたようだのう」

「あたぼうよ!このお熊に抜かりがあるわけぇねえだろう銕っつあん!」

平蔵はこの伝法な口調には慣れ親しんで、ニコニコ笑いながら受け応えているが、
そばの佐嶋忠介の顔は苦虫を噛み潰した面持ちでお熊を睨みつけている。

「あれまぁ この旦那おっかねぇ目ぇしているけんじょ、大丈夫なのけぇ銕っつあん」
と佐嶋の気迫に驚いた様子である。

「お熊 これはな おれの懐刀で佐嶋と申してな、役宅一のおっかねぇお役人様だぜ」

「へぇ~ 道理でこの先(まえ)のうらなり瓢箪たぁ肝の座りが違うはずだよぉ」

「お頭、そのうらなり瓢箪とは・・・・・まさか」

「わっはっは その 通りよ、さすが佐嶋、まさにその通り忠吾よ」

「あっ やはり これは・・・・・」
と佐嶋もお熊の言葉に合点がゆくらしく頭を掻く。

「おめぇさん 話がわかるじゃぁねぇか 今度弥勒寺の笹屋に寄っとくれよねぇ、
ねぇ銕っつあん、いい男だもの えへへへへへへぇ」

「おいお熊 お前ぇいつになったらその気が失くなっちまうんだぇ?」

「銕っつあん そいつぁねぇだろうよぉ 女は灰になるまでってねぇ ねぇ旦那」
流し目を送られて、さすがの筆頭与力佐嶋忠介も無頼の者相手と違い、
この歯の抜けた干物のような老婆の毒気にはタジタジと見えた。

「繁造じゃけんどよぅ、親方の話だと三社様で向かいの出店の吉松が囲いを解こうとしたら
繁造がもう屋台でズケの仕込みをやっていたのをみて
「繁造さん早くから精が出るねぇ」
と声をかけたんだとさぁ、そしたら繁造の店の裏の桜の木の辺りから野郎が二人出てきて、
繁造を連れてどっかに行っちまって、それっきり帰ぇってこねぇってよぉ」

「では吉松は繁造を見ているのだな?」

「ンだどもそっから先が判らねぇ」

「よくやってくれた、ところでお熊!吉松はいまどうしておる?」

「親方の話じゃぁ次の縁日の仕込みをしなきゃぁなんねぇで、
今ん所は在所にいるんじゃぁねぇかい」

「あい判った、そこまで調べてくれりゃぁ大助かりだぜ」

「ほんとかい銕っつあん!お役に立てたんだねぇ えへへへへへへ」
お熊はしわくちゃの顔を更にクシャクシャにして佐嶋の方へチラと流し目を送り、
「旦那! 待っておりやすよぉ」

このオババの毒気に、さすが豪快な佐嶋忠介も声も出ず
「むむむむっ!」
とうなっただけ。

「あれまぁこの旦那 うぶじゃぁねかぁよぉ、それが又かわいいよぉ」
佐嶋忠介マジ切れ寸前である。

「松永はおるか?」
平蔵は個人的な事件ということで盗賊改めの事件扱いには出来ないので、
探索の名手を指名した。

「松永これに控えました」
と松永弥四郎が廊下に控えた。

「おう 松永個人的な探索でのう、すまぬが香具師の吉松を探してきてはくれぬか、
居場所は南本所中之郷瓦町と聞いておる、重要な手がかりを持っておるやも知れず、
心して当たってくれ」

「承知をつかまつりました」
松永はその場から南本所へと出向いた。

その夕刻鉄砲町の文治郎から
「権現様の裏の畑の中からヤクザ風の男の死体が見つかった」
と知らせがもたらせれた。

「文治郎 すまねぇが更に詳しいことが分かり次第ぇ知らせてくれねぇか」
と平蔵

「承知しやした長谷川様、なぁにねおっつけ詳しいことがわかると思いやすよ」
文治郎の言った通り翌日その男の身元が割れた。

「繁造という香具師のようでございます」
と文治郎からつなぎがあった。

「何と・・・・・・」
平蔵は虫の知らせが的中した時の嫌な気分で膝をついた。

この昼前に松永が香具師の吉松を伴って本所深川菊川町の平蔵が役宅に出向いてきた。
「おう 吉松済まなかったなぁわざわざ出向いてもらってよ」

「とんでもございやせん、ちょいと仕込みに出かけておりやして、遅くなりやしたへぇ」

「ところでなぁ吉松、お前ぇ三社様で繁造を見かけたそうなが・・・・・」

「へぇ よっく覚えておりやす、と言うのもあっしが三寸の囲いを解こうと出かけやしたら
奴さん、もう仕込みに入ぇっておりやして、真面目な野郎だと感心しやしてね、
それで声をかけたのでございやすよ、すると小屋の後ろから二人の男がいきなり出てきて
繁造さんをひっつかまえるように奥に生入ぇりやした、その一人は長包丁を挟んで
おりやした」

「で、そ奴らの人相は?」

「へぇ あまりに素早い出来事でしたので・・・・・・・」

「見てはおらぬのか?」
と平蔵無念そうに

「へぇ ですがね、あの顔は一度見たら忘れられませんやぁ、何しろこっち・・」
と言いながら左の頬を指先で上から斜め下に向かって口元まで引き下げた。

「刀傷かえ?」

「へぇあれぁ 長包丁でやられた痕とおもいやす」

「うむ よくぞ覚えていてくれた、礼を申すぞ、ご苦労であった、ただな 
少しの間用心いたせよ、繁造の躯(むくろ)が出た故な」

「ええっ!・・・・・・・まさか・・・・・・」

「うむ だがな、おそらくそのまさかであろうよ」
しかしこの平蔵の心配が的中した。

翌々日の朝、南本所の枕橋に吉松の死体が浮いているのを棒振りの魚屋が見つけた。

清水御門前の火附盗賊改方役宅に平蔵の姿があった。
「人別帳で左頬に刀傷のある奴を洗い出せ」
と留守を預かる同心に下知が飛んだ。

「おかしら!ございました!」
おそらく此奴に間違いございません。

「博打手入れのおり捕縛され、浅草人足溜まりに送られております
名は無宿者十三と記されておりますが、元はどうやら何処かの禄を食んでおりましたるようで、頬の傷はやくざの出入りで受けた刀傷と」

「よし、そやつを捜しだせ、で、捕縛された折の博打場は何処である?」

「はい 下谷の当在寺裏の小屋敷と記されております、この辺りは度々賭博が開かれております
ようで、何しろ寺が進んで場所を提供しておる所もあるよし、その売上の幾ばくかを寺に収める
ことで待ち方からの探索が入りにくい寺はよく遣われるようにございます」

「うむ だから寺銭と呼ぶそうな」
平蔵苦笑しながら寺社の目の付け所に関心の体である。

「五郎蔵を呼んではくれぬか」

その昼過ぎ大滝の五郎蔵がかしこまった。

「おう遠いところをすまねぇ、下谷あたりで大商いの博打がねぇか、探ってはくれぬか?
おれの勘ばたらきだがなぁ、この無宿者の十三はこの界隈がヤサの様に思えるのだ」

さすがに大滝の五郎蔵その行動力も素早いが手下の数も多いと見えて、
翌日には平蔵の元へ情報がもたらされた。

「どうやら下谷のご大身の下屋敷で一日おきに賭博が開かれるようで、
近々大きな賭場が開かれるという聞き込みがありました」

「おお、さすが五郎蔵だ、てか(手下)の動きが早ぇ
下谷と言やぁ上野不忍池、その辺りだとすると・・・・・・」

「下屋敷と言えば松平加賀守様か飛騨守様のお屋敷がすぐその先に」
と佐嶋忠介
「さすが佐嶋よく存じておるのぉ、何と言っても加賀藩下屋敷となれば、
出入りの者もその辺りでは上客と見たほうが良さそうだのぅ」

その日の内に五郎蔵とおまさの夫婦が松平飛騨守下屋敷に潜り込んで仕掛ける。
「こいつで、泳いでくれ」と財布ごと五郎蔵に手渡す。

「こいつはどうも・・・・・長谷川様・・・・・」

「五郎蔵 餌は大きけりゃぁ食いつきも早ぇ、後は任せる、ただし奴は元を正せば二本差し、
用心するにこしたことはなえぇ」

「へぇ承知いたしました」
こうしてやっと賽の目が転び始めたのである。

五郎蔵おまさの二人が最初に仕掛けたのは上野寺前町の松平伊豆守下屋敷・・・・・
だが、此処では目当ての十三は見えなかった。

翌日、今度は松平飛騨守下屋敷中間部屋。
丁方におまさが座り、半方に五郎蔵が陣取っての勝負。

終盤までにはおまさの方に分があったようで、半方の勝利となった。
客は寄せられたふうで、町人もいれば商人や見るからに博徒の身なりや町屋の御内儀もいて
丁半コマが揃うのにも賑やかであった。
一進一退の攻防の末、まさは目利きがよく、十両近くを稼いでいた。

さて、そろそろお開きというところで、おまさの隣で張っていた遊び人風体の小男が
「ねぇさん 、もっと稼ぎたくねぇかい?」
と話しかけてきた。

おまさは向かいの五郎蔵に目配せを送り
「おや、もっと稼げるところをご存知で?」
と男を見返した。

「まぁ此処じゃぁ何だから・・・・・・」

「ああ いいよ!」
おまさは換金を済ませて外にでる。

おぼろ月が雲を枕にぼんやり外界を眺めている。
「その稼げる場所はどこだい?」

おまさが口を切ると、植え込みの陰からぬっと陰が出てきた。
「その男の顔が月に照らしだされて、はっきりと左の頬に刀傷が」

「やはり出おったか、で 其奴は二本差しであったろう」

「へい まさしく長ぇのを一本差しておりやした」

「ふむ 間違いない十三だ!」
平蔵はこの長い事件の仕上げが見えてきた事に少し安堵の色を伺わせていた。

「で、明日、場所は上野七軒町松平大蔵の下屋敷、仲間部屋であるな!」

「へい 間違いございやせん、おまさも あっしもはっきりとこの耳で確かめておりやす。

「よ~し判った、明日はおれが出張ろう」

「エッ 長谷川様自らお出向きなさるので」

「うむ 敵は盗賊ではないし、かと言うて元は二本差も加わるやも知れぬ、
お前ぇ達二人に危ねぇ真似をさせては舟形の宗平父っつあんに申し訳が立たねぇからなぁ、
あははははは」

こうして三名が、翌日上野七軒町松平大蔵大輔下屋敷の仲間部屋に揃っていた。
なるほど前口上の通り昨日の客筋とは打って変わって大店の主や御内儀風の風体が
目立っている。

うむ こいつなら仕掛けてくる公算が強い。

おまさが胴元近くに座り一人挟んで平蔵が座った。
五郎蔵は半方の胴元寄りに席を占めた。

場も終盤を迎えたころ、末席に月代(さかやき)の伸びた無頼人が腰を落とした。
(やつだな!)平蔵はチラと眼を投げ、河内守国助を手前に引いた。

それを認めた五郎蔵がおまさに目配せした。
結局今夜もおまさの方が目が揃い、五十両近くの札が集まっていた。

「此処で差しの勝負を」
と おまさが口火を切った。

「しばらくお待ちを」
と一旦引き下がった胴元が
「お引き受けいたしやす」
と応え、定位置に着いた。

五郎蔵とおまさの一騎打ちという図式だ。

「賽の目を替えておくんなさい」
と、おまさがサイコロの交換を迫った。

「よぉござんす」
と新しいサイコロをおまさの眼の目に差し出した。

「確かめさせて頂きます」
とおまさ 一つ一つ確認して、
「そこの旦那間違いないかよく見ておくんなさいよ」
と一個づつ放る

「うんっ!」
その声に一同の目が五郎蔵の方に釘付けになった一瞬、おまさは残りのサイコロをすり替えた。

「五郎蔵はさも勿体をつけるふうに掌の上で幾度か転がし、
「へっ これでようございます、残りの物を」
とその賽の目を代貸しに回した。

「よく見ておくんなさいよ」
と残りの一つを五郎蔵にポンとおまさが放ってよこした。

「結構でございます」
と再びサイコロは代貸の手に。

「冠ります!」
見事な手さばきで壺を伏せた。

「丁!」
おまさが入る。

「半!」
五郎蔵が続けて入った。

「勝負!」
ゆっくりと壺が上げられたその瞬間
「その賽の目イカさまだ」
と後ろのほうから声が飛んだ。

「何ぃ!この賭場がイカサマをやっているってお言いなさるんで!」

「先程賽の目を検める時に、その女が賽の目をすり替えた」
その場がざわめいた隙にその男が貸元に近づき、

「金をもらおう!」
と刀を抜いて長火鉢にブスリと突き立てた。

悲鳴や逃げ惑う人々を尻目に、ガタガタ震える貸し元の手元に在る箱に金をつめ込ませ、
もう一人の小男がそれを抱え込んだ。

「おい いい加減にせぬか!」

その声に刀の柄に手をかけて浪人が振り返った。
平蔵は二尺三寸五分の河内守国助を手挟みながらゆっくり立ち上がった。

「ウヌ 邪魔だていたすか!」

周りの客は蜘蛛の子を散らすようにその場を逃げ出した。
胴元はとっくに腰を抜かしてひっくり返っている始末。

土場の用心棒は抜刀すら出来ず壁際に背中を付けて大きく見開いた眼を二人に向け、
行く末を見守る始末。

「抜け!」
平蔵は低く誘いをかけながら腰を落とした。

敵はゆっくりと抜刀しジリジリと大上段に振りかぶった。
平蔵、くっ と右脚を後ろに引いた。
さらに左足をゆるゆると引きながら、重ねて左脚を後ろに逃す。
もう一度その動きを見せかけた時

「やぁっ!」
と男が太刀を振り下ろした。

ガッ!と鈍い音がして太刀の切っ先が間仕切りの梁に食い込んだ。

その刹那平蔵の溜め込んだ刀が男の右脇腹から真一文字に食い込み
「ぎゃっ!!!!」
と一声、血しぶきと共に膝をつきそのまま前のめりに崩れ、
梁に食い込んだ刃が揺らめく明かりを受けて青白く光っていた。

寺銭箱をかかえたまま、小男は失禁してしまった。

「おい お前ぇ三社様で香具師を連れ出しこれを殺害、権現様の裏の畑に捨てたであろう」

「そそそそっ そいつをやったのは岸本の旦那で」

こうして加賀藩下屋敷の一件は解決したのである。

この日平蔵は愛用の粟田口国綱を河内守国助に変えていた、
これは中間部屋の天井が低いことを見越していた為である。

「おうそうだ!遊び金は返ぇしてもらうぜ!」
平蔵は胴元の金箱から十両を取り、
「残りはそれぞれ返ぇしてやれ」
と胴元に指図をした。

「あっしらはどのようなことに・・・・・」
胴元を始め代貸しなど賭博関係と見られる渡世人が首をうなだれる。

「おれはお上の御用で来ちゃぁいねぇから、獄門台だけは逃れられようぜ、
だがなぁ阿子木な真似だけはするんじゃぁねぇぜ」

「お武家様、かたじけのうございました、せめてお名前なぞお聞かせ願えませんでしょうか?」
代表格と見える初老の商人が言葉をかけてきた。

「俺かえ、俺の名前を聞いたら、お前ぇ達のそっ首、台から離れねばならなくなるが
それでも良いのか!」
とひと睨み。

「へへへへっ!」
その場に這いつくばって顔もあげられない。

「ご法度の賭博だってぇことを、忘れるんじゃぁねぇぜ、博打は商売だけで十分であろう、
このような事に身代掛けてやるもんじゃぁねぇよ」

「はははっっ!!」

「所で五郎蔵、おまさ、一体ぇお前ぇたちはどのように掛けたんだえ?、
元手が少しも減ってはいねぇようだったがなぁ」

「あはぁ それは・・・・・・」

「長谷川様、二人で賭けるときは丁半相対で座るのでございますよ、
どちらが負けても元手は残る、よきゃぁ増えるってぇ仕掛けでございます」

「それにしても賽の目のすり替えは大ぇしたものだ、アヤツが見ておらなんだら
誰も気が付かなんだ」

「長谷川様はいつ?」

「俺かえ おまさが初めの賽の目を放った時、こいつ仕掛けるなぁとな、わはははは、
それから代貸が壺を開けた時の顔よ」

「あっ やはり長谷川様の眼は眩(くら)ませませんやぁ、
おまさがね、時々奴さんに目配り送っておりやして、それにあわせて
野郎賽の目を転がしていたんでございますよ、ところが最後の奴だけは読み切れなかった、
で野郎慌てたのでございます。

全く女は流し目一つも獲物にいたしやすから・・・・・」

「おおおっ! 怖ぇなぁ五郎蔵!目で殺されちゃぁ浮かばれねぇや」

「ごもっともでははははは・・・・・」

「ちょいとお前さん、はははははは余計ですよ、長谷川様の前でそれを言うことは
ないじゃぁございませんか」

「おいおい 軍鶏の喧嘩なら五鉄で間に合うぜ、わははははは」
これが加賀藩仲間部屋事件である。

多くの藩邸下屋敷は諸大名が出入りすることもなく、留守居役の藩士数名と門番、
中間など極少数にて守護しているのが実情で、暇を持て余している、
そんな中では博打場が堂々と開かれている事が多い。

また大名屋敷と寺には町方は立ち入ることが許されないため、
そこを抜け目なく活用する寺社も多く在り、儲けの一部をご喜捨(きじゅ)という名目で上納させる、そのために寺銭(てらせん)という名前が生まれたほどで、
何処も腕と才覚のあるものがしぶとく生き延びる世の中のようである。



画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/

鬼平犯科帳 「薬食同源」http://www.mag2.com/m/0001625220.html/

拍手[0回]


7月第1号 霞糸




エソ(狗母魚・ハダカイワシ・トカゲ魚)

長い張り込みの末、やっと解決を見た日本橋呉服問屋田嶋屋事件の翌々日、
外は小雪混じりのどんより重たい朝を迎えていた。

本日は清水御門前の火付盗賊改方役宅同心部屋朝から賑やかな声が行き交っている。
どうやらその中心は松村忠之進のようである。

「良いか、忠吾この氷見うどんはな、越中は富山加賀藩御用達の高岡屋から
お頭に届いたものでな、上野七軒町松平加賀守様下屋敷の仲間部屋賭博事件を
未然に防いだ時のお礼にと加賀藩江戸藩邸よりの届け物だそうな。

我が国の三大うどんは讃岐に稲葉、この氷見と言われておる。
氷見うどんは、うどんに手延でヨリをかけながら竹掛け手縫いして、
油を塗らずこれを押しつぶした物を天日にて干したるもの、
そのために麺に気泡が入りこれがツルツルシコシコの元となる。

出汁は頭と臓物を取り除けたエソを焼き上げて骨と皮を取り除けながら身だけに致す。
それに炒ってすりつぶしたる胡麻、これに醤油を加え、隠し味に味醂や砂糖、酒を用いる。
このエソと言うやつ、普通に属するには外道ものにて、小骨多く手間の割に旨味がない
だが、出汁のもととなるとこやつ中々の物、人も物も使いようじゃぁ忠吾」

「そこで何故私をご覧になられますので村松様」

「まぁあまり気にするな!」

「そう言われれば尚更気になりますなぁ」

「そこでじゃ これらをよく混ぜて、丼に茹で上げたうどんを入れ、
ごまだしと刻みネギなどを乗せて熱い湯をかけ、これを混ぜ溶かしながら頂くというのが、
本日の胡麻出汁うどんじゃ。

この炒り胡麻と魚のすり身、此処がなんというても腕のふるいどころ、
胡麻の香りとエソの出汁加減、これを引き出す醤油の掛け合いに味醂、砂糖、
酒を忍ばせて出汁全体の味が引き立つように塩梅する、これは長年の修練の技が物を言う」

「あの~ 松村様、そのぉ 講釈が長引けばせっかくのうどんも冷めますのでは?」と。

「うむ さすが忠吾よく気がつくのう」平蔵の一言に忠吾この時とばかり鼻をうごめかせ
「あっ いえそれほどでもござりませぬ、うどんと申すものは出汁の熱さ加減を
この口元に運びながらふうふうと調節しながら頂くところに醍醐味がござります」

「忠吾お前の講釈が長引けばうどんも延びてしまうぞ」佐嶋忠介の言葉に、

「おうそうじゃそうじゃ では早速猫どの 頂くとするか」
平蔵すかさず合いの手を入れて丼を差し出す。あたりにぱ~っと湯気が立ち上る、
ゆがき上がったうどんの水気を切り、前もって湯で温められた丼に移し胡麻出汁を乗せ
葱を散らし「まずはおかしらから」と村松。

それを喉を鳴らさんばかりに眺める与力同心の眼を気にしながら平蔵ひとすすり・・・・・・

「う~~~~~ 旨い! こいつは旨い、この出汁の胡麻の香りが何とも言えぬ、
エソの絡みつくような濃さと醤油の絶妙なる味加減、さすが猫どのじゃのう!」

「いやぁお頭にそこまで申されましては、この村松忠之進少々こそばゆうございます」
と言いつつもまんざらではない顔の猫どのである。

そこに日本橋呉服町の呉服問屋(多嶋屋庄左エ門)が訪ねてきたと門番より取次が入った。

「むむっ 残念無念丁度よいところであったのにのう、まぁ皆遠慮せずやってくれ!」
そう言い残して後ろ髪をひかれる面持ちで平蔵は客間の方へ帰っていった。

その後を筆頭与力の佐嶋忠介がついて行く。
この佐嶋忠介、先の火付盗賊改方堀組、掘っ立て小屋とまで言われた堀帯刀より
借り受けた堀の懐刀、役宅における平蔵の側近中の側近である。

この少し前に話を戻さねばならない。
時は11月に入ったばかりでも、外は雪将軍到来と思えるほどの冷え込みようであった。

「おう これは田嶋屋どの、その後はいかがでござるかな?」
平蔵は以前この田嶋屋から店の保安に関して相談を受けており、
その後の事で参上したと見た。

「はい おかげさまで、ご指示通り蔵の鍵は毎日取り替えております」

「うむ それが一番、その順番を日々変えることで少くとも合鍵の複製から守ることも
できよう」と応えた。

「ところが長谷川様、先日のこと、いつものように鍵を変え、
ご指示通りその角度をまっすぐにしておきましたのに、
翌日見ますとかなりねじれておりました」

「ふむ それは ちとおかしゅうござるのう」
平蔵は腕組みをして考えるふうであった。
「たしかそなたの金蔵は寝所のそばであったな」

「はい 私どもが寝起きいたしております部屋の奥にございまして、
日常は朝の掃除が済めばそれ以後は誰も通ることはございません。
通れば私か家内に必ず会うはずでございますから、
喩え二人が留守であっても店の者がおりますのでその場合は奥に入ることは
ございません」

「なるほど・・・・・・しからば・・・・・・」
と平蔵何やら手文庫から奉書に包んだものを取り出し
「これを毎朝掃除が済んだ後、左右の柱に付けておき、
朝起きると同時にまずはこの物を取り除き、掃除の後取り付ける、
面倒であろうがそうすれば異常があるかないかは直ぐに判明致す」

「それは又何でございますか?」
といぶかしそうに手渡された奉書を見る。

「これはのぅ霞ともうして馬の尻毛を結んだものでござるよ」

「えっ 馬の尻尾で・・・・・・」
と半ば驚き呆れたふう。

「こいつをな!膝の高さくらいのところにツバで貼り付けるのよ、
少々のことでは剥がれ落ちぬ。もし誰かがその場を横切れば、
必ずこの霞は剥がれるつまり誰かがそこを越えたという事になる」

「なるほどしかし又馬の尻毛とは・・・・・・」

「こいつは細いが中々一本程度では見透けせぬもの、まずはお試しあれ」
と数本の毛を託した。

それから数日後、田嶋屋から使いの者が平蔵の元を訪れた。
書面によれば、異変が起こった由、ご見聞を賜りたくという内容であった。

平蔵は八鹿(はじかみ)の治助を伴って田嶋屋を訪れた。
「その時の鍵はどの鍵だぇ」
平蔵の問に用意してあったくだんの鍵を差し出した。
「治助! こいつをどう読む?」
とそのまま治助に回す。

「ちょいとご無礼を」
と治助は鍵を受け取り眺めていたが、
「長谷川様こいつは蝋型を取った後が見えやす」
と答えた。

「何!蝋型だと」

「へいそれも蜜蝋のものに相違ございやせん」

「何と・・・・・・」
平蔵はこの治助の目利きがそこまで読み取るとは想ってもいなかっただけに
(さすがに闇将軍と呼ばれただけの事はある)
と半ば呆れた顔で治助の次の言葉を待った。

「長谷川様、大抵ぇはカギ形を採る場合粘土を使いやす、
こいつは手頃で手がかかりやせん、ですが型崩れを起こしやすく
中々まともなものが出来ず、何度もすり合わせを致しませんと使い物になりやせん。

ですが蜜蝋はそのままだと型崩れせずきちんと取れやすので、
大抵の場合カギ型は一回で済みますので、錠前外しがいねぇときゃぁ
こいつが重宝ってもんで へい!」

「しかし、暖めねば使い物にはなるまい?」

「へい そこで型を採る奴は竹の筒に灰を入れやしてその中に小粒の火種を仕込みやす、
そいつにかざせば、ひいふうみいと数える間に柔らかくなり役に立つのでございますよ」

「何ともお前ぇたちのやることにそつは無ぇなぁ」
平蔵呆れてものが言えぬふう。

「店の者でここに近づけるのは誰だえ?」

「私を除けば・・・・・・掃除を致します下働きの(おさん)・・・・
でございましょうか」

「ふむ その(おさん)はいつから此処に奉公しておる」

「はい 口入れ屋の紹介でございましたが身元もしっかりいたしておりました故
雇い入れたのが五年前、ずっと私どもの身の回りの世話を致させておりますが、
これまで何一つとして粗相を致したことはございません」

「うむ 長いばかりが信用出来るものでもないが、掃除の合間ではチト無理があるのう」

「はい 時間が定まっておりますので、長くかかれば何か問題があると解ります」

「その通り、と すると、他には出入りのものもなく、うむ こいつは参ったなぁ」
「その他にこの数日出入りの者はおらなんだか?」

「あなた そういえば按摩さんが・・・・・」

「おお そう言われれば・・・いつも来てもらう座頭の芳ノ一さんが急な病とかで、
代わりの方がお見えになられました」

「その芳ノ一はどこに棲んでおる?」

「何でも上野の元黒門町と聞いております」

「そいつは何時頃から出入り致しておる?」

「もうこれも三年にはなりましょうか、流してくるのをお願いいたしまして、
それ以来日時を決めてお願いいたしておりますので、
こちらからお尋ねしたことはなく・・・・・」

「うむ まぁそのようなことは普通の出来事よな、さていかがしたものか・・・・・・」
さすがの平蔵もこれ以上・・・・・と
「おっ 所でその変わりに来たと申す座頭だがな、何か変わったところはなかったかな」

「はて ああ お茶の飲み過ぎで腹が冷えたので雪隠はどこかと聞かれましたので、
出たら右に行き突き当りを左に曲がった角にあると教えました、
案内を致しましょうと申しましたら、大丈夫だとおっしゃいましたので・・・」

「その時お内儀はどちらに?」

「はい 私は旦那様の代わりに丁場に詰めておりました」

「とすると、座頭がどこへ行ったかは不確かなわけでござるな?」

「はぁ そう言われれば少々長かったかとは今思えばそうとも言えますが・・・・・しかし」
ふ~っ、と深い溜息を漏らし
「とりあえずこの錠前は使わずに、他の物を回し使い致されよ」
と念を押して役宅に戻った。
「誰かある!」

「おかしらお呼びで」と松永弥四郎が座した。

「おお 松永、済まぬが上野の元黒門町に住まいおる座頭の芳ノ一の様子を
見て来てはくれぬか、遅くなるが済まぬ」

「ははっ」松永は早速出かけ、遅くなって役宅に戻ってきた。

「おかしら 探し当てましたる長屋に芳ノ一の死体が転がっておりました。
この寒さゆえさほどの傷みもなく検分致しましたるところ、細紐のようなもので首を」

「やはりそうであったか、あまりに話が出来すぎだと想っておったが・・・・・・
いやご苦労であった飯もまだであろうと用意いたさせておいた、
ゆっくり腹ごしらえを致してくれ」

「ははっ!ではお言葉に甘えまして」

「ではお頭はどのようにお考えでおられましたので?」
と筆頭与力の佐嶋忠介が言葉を出した。

「それだよ佐嶋!おそらく芳ノ一はカギ形を採った奴に殺されたと想わねばなるまい、
芳ノ一を殺して、代わりに田嶋屋に上がったということになろう。
さてそうなると話は振り出しに戻ったことになる。
あとはいつ、そやつが動き出すか田嶋屋を張るしかあるまいのう」

すぐさま日本橋の田嶋屋むかいにある蝋燭問屋丹羽屋の二階を借り受けた。
だが一向に目立った動きはない。

それからひと月、十二月も半ばにさしかかろうとしていた矢先、
日本橋小舟町の紙問屋伊場屋前の道浄橋で死体が上がった。

南町奉行所の死体改めで刺し傷のようであるところから槍か短刀のようなもので
殺害されたと想われると、ただ、座頭の紋付羽織を着ていたので
座頭であることが判明したそうでございますと、仙台堀の政七が平蔵に話した。

早速その似顔絵を借り受け田嶋屋庄左エ門に見せたところ
「間違いございません芳ノ一さんの代わりに参った座頭に相違ございません、
何より右の耳後ろに大きなイボのようなものがあり、
しきりとそれを気にしておりましたから」と証言した。

「またしても振り出しに戻ったどころか泥沼に入ぇったぜ」
平蔵のこの言葉は事件が長引くことを予想させた。

蝋燭問屋丹羽屋の二階に詰めている密偵や同心たちにも明らかに疲労の色が濃くなり始めた。
事は長期戦いもつれ込もうとしていた矢先、田嶋屋から役宅に知らせがあり、
またもや霞糸が切られていたと報告があった。

しかもそれまで何も変わることはなく、別段変わった出入りの者もないとのことであった。
さすがの平蔵も頭を抱えてしまった。
早速八鹿の治助を伴って再び詳細を調べさせた。

「長谷川様、確かに鍵に触ったようで、此処に細かい傷が見えます、
こいつは鍵を合わせても合わねぇものだから何度か挿し替えた時に付いたものと思いやす。
雨戸にもこじ開けたような傷跡がございやすし、ちょいとまだ湿り気も残っておりやす、
このお屋敷は改築か増築はされておられませんので?」
と聞いた。

「田嶋屋 その当たりはどうかな?」
と主の庄右衛門に話を回す。

「そのような事はございませんが・・・・・・あっ」

「んっ? 何か?」

「そういえばいつぞや塀がボヤを出し、その折板塀を修繕いたしました。
さしたる被害でもないので消し止めた後修復いたしましたので、
お役所にも届けずじまい、何しろ信用が一番の商いでございますから」
と少々身を小さくした。

「で、その時の塀を修理いたした大工はどこのものだえ?」
平蔵は僅かな希望を繋ぐように問いただした。

「南大工町の棟梁松五郎親方にお願いいたしましたら、手すきのものをよこして下さり、
ほんの五日ほどで元通りに、それが何か?」

「そいつだ!それしか考えられぬ」
平蔵はおそらくその時に細工を施したのではないかと考えた。
「治助!早速だがその塀を見てはくれぬか!」

しばらく主と茶を飲んで時を過ごした。
「長谷川様 見つけやした、綺麗に小細工が施されて中々見事なもので
普通だとあの仕掛けは見破れやせん」
と冷えた身体で戻ってきた。

「おう 済まねぇ!ご苦労であった、こっちに上がって先ず茶でも飲んで身体を温めろ、
話はそれからだ。

一息入れて身体も温もって来た頃合いを見て平蔵
「で、いかがであった?」

「へぇ そいつがね縦横三箇所ほど動かすとその板塀の数枚が外れる仕掛けで、
こいつは中々見事という他ありやせん、そりゃ手際の良さは並の大工じゃぁ
こうはいきやせんや、まぁ宮大工辺りなら出来るかも知れねぇ細工でございますよ」

これには平蔵どうにもならない様子である。

とりあえず、鍵は変えること庄右衛門に指図をし、当の大工にあたってみることにした。
ところが
「へぇ 確かに田嶋屋さんの仕事はあっしが受けやした、ですが、
丁度その頃こちらも他の仕事で手一杯ってぇところに流れ大工が雇ってくれないかと
入ぇって来ましたんで、普通なら口入れ屋を通してでないと雇いませんがね
、こっちも手一杯のところへ田嶋屋さんからのお話で、
こいつは断るわけにもゆかずと、思案橋、柱を削らしてみるとこいつがまた、
めっぽう腕がいいってんで田嶋屋さんの仕事を任せましたんで」

「で、そいつは今どこに居る」

「へぇ 何でも板橋宿にいるおふくろさんが急な病とかで、
しばらく暇を取らせてくれってんでそのまんま今の所帰ぇって来ておりやせん、
そいつが何か?」

どこまでも後手後手に回っていることへ平蔵はいら立っていた。

「奴らはこれで鍵が合わないことを知ったはずだ、次にどう仕掛けてくるか、
おそらく居ねぇと思うが板橋宿を当たってみるか」
平蔵の読み通り、板橋宿には該当する者の影も形もなかった。

「さて 佐嶋!そちが盗っ人ならば、この場合いかなる手を塩梅いたすかのう」

「さてこれは難しいご質問で はははは、何と致しましょう、先ず一つ、
奴らは事を元のところへ戻すでございましょう」

「うん おれもそう想う、で次の手だが残されたものは家に入ってからの事となるな」

「はい 然様にございます」

「鍵があてにならないと判った以上、打つ手は一つしか残されておりませぬ」

「仕掛けるのはこの数日と読んだ、寒い中を疲れておろうが皆で交代して
奴らの仕掛けてくるのを見張るしかあるまい」

平蔵の言葉に、詰めていた密偵や同心もやつれた顔を引き締めて望むことにした。

早速八鹿の治助によって仕込まれた仕掛けの先にあった込栓が抜け、
塀の上に仕掛けてあった垂木が大きく跳ね上がってその先に結わえてある凧の糸を引く
仕掛けが施されていた。
無論その先は向かいの蝋燭問屋丹羽屋の部屋に伝わるようになっている。

冬の空は雲ひとつ無く、天の川が手に取るように冷ややかに輝き、
煌々とした明るい夜であった。

小さな音でチリリンと鈴が鳴った!

「来たぞ!」
詰めていた与力同心が素早く飛び起きて現場に駆けつけた。

塀は大きく外され六~七名の黒ずくめの盗賊が雨戸に水を流し込み、
こじ開けて中に入ろうとしていたところであった。

「火付盗賊改方である、無駄なあがきはせず、おとなしくお縄につけばよし、
さもなくばこの場で切り捨てるがよいか!」と大声で叫んだのが沢田小平次
バラバラと盗賊方を取り囲んだ。

「構わぬ、抵抗するものには遠慮はいらぬ、切り伏せてしまえ!」
今度は与力の小林金弥。

庭木の間を巧みに使って逃げ延びようとする賊に、背後から筆頭同心酒井祐助が
躍りかかった。
騒ぎで気づいたのか部屋の中から明かりが灯り、
瞬く間に庭は隅まで見通せるほど明るくなった。

切り倒されたもの三名捕縛されたもの四名を数えた。

翌々日、清水御門役宅に田嶋屋の姿があった。

「長谷川様、誠に持ってこのたびは、おかげさまで何事も無く家人一同にも
傷一つなく事が収まりました、これもひとえに長谷川様の御助言あってのことと
この田嶋屋庄右衛門深くお礼申し上げます、これは些少でございますが
丹波屋さんのお宿代の足しにでも」
とふくさ包をさし出した。

「あ、いや このようなお気遣いはなく、我らが仕事でござる故」
と平蔵それを押し返す。

「これは困りました、丹波屋さんに始末のために上がりましたら、
すでにこちらから頂戴しているとのお返事にて、これの行く所がございません、
何卒お納めをお願い申します、事は何も起きておらず、
したがいまして町方にもご報告は致しておりません、
何卒!田嶋屋の信用をお護り頂けましたその気持ちでございます」
と一歩も引く気のないきっぱりとした態度に

「判り申した、ではかたじけなく頂戴仕る」
平蔵はそのまま脇に寄せた。

「ところで長谷川様どうして賊の押し込みが判明いたしましたので?」

「うむ それよそれ!そなたにことずけた霞糸、あの仕掛けを塀に仕掛けたのでござるよ。
あのおり同道致させし者の工夫にて、塀の内に霞糸を掛け渡し、
それが切られればそれにつないでおった端板がはずれ、
それによって塀上に仕掛けし垂木が倒れる、その先には凧揚げの糸が結わえてあり
その先は丹羽屋の二階の障子に結わえてあった鈴が鳴るという・・・・・・」

「ほぅ これは又たいそうな・・・・・・」

「いやいや簡単な仕掛けではあるが、はじめの糸が日中目立っては見破られる、
ただそれだけの細工でござるが、それをあの男が工夫してくれた、
それだけのことでござるあははははは」
平蔵の笑い声に、田嶋屋庄右衛門も楽しげに笑った。

「ところで長谷川様、この度の私どもの事件でございますが、
どのようないきさつがあったのでございましょう」
と問いかけた。

「うむ まぁこれは何処とて同じだが、色々と巡ってこれぞと想うところを
調べるところから始まる。
その中でまずはな、最初に田嶋屋に目をつけた、
それから出入りの座頭を見張り、決まった日時であることを確かめ
其奴から内情を探り出し、その後口封じのために殺害。

年末に金蔵は自ずと金が集まってくると踏んだわけだ。
また正月を新しい家で迎えたいという者も出てくる。
それに向けて建物などの仕上を急ぐ者が出るのを見越して大工を用意する、
これは目論見通り入り込むことが出来た、次は押し込みの細工をするために
塀にボヤを仕掛ける。
そこへ出入りのところから大工がやってきて仕掛け細工を施す。
ここまでは順調であった。

その次が蔵のカギ型・・・・・此処で最初のつまづきが出た。
やがて細工を解いて押し入るが、此処で初めてカギ形が合わないことに気づいた
そこで座頭と自分たちの関わりを消すためにニセの座頭は殺害して証拠を消した。
後は押し込み、主を脅して鍵を開ける。
「どうだ佐嶋?」

「ははっ 全くお頭のご推察通りでございました」

後から想えば単純な事のくりかえしであった。
だが単純だからこそ先手が打てなかったと言える。

「歯車がひとつ狂うとその後はどんどん別な方へ水も流れる、
が、所詮最後は大海原へ戻る。
始まりとお終ぇは間違うことはない。

それを導くのが此度の霞の仕掛けであった、あいつがなけりゃ今頃田嶋屋は
血生ぐせぇ事になっていたかも知れねぇなぁおお怖ぇ話だ、のう田嶋屋!」

「全くでございます、今思うても血の凍るような・・・・・」

「佐嶋!田嶋屋から皆に角樽が届いておる、持って行ってねぎろうてやってくれ、
此度はご苦労であったとな!そちも早う行って氷見のうどんを喰い逃すな!」

「長谷川様小雪が舞い始めました、もう師走でございますなぁ」
田嶋屋の言葉には事件解決の安堵の色がこもって聞こえた



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


6月第4号  ゆうれい坂始末記



この数日平蔵は後を追う微行のかすかな匂いを引きずりながら
市中見回りに出かけている。

目白の私邸に預けた崎森小四郎のその後を気遣い訪れた後、
ゆるりゆるりと蓮光寺を抜け、ゆっくりと駒塚橋に向かって、
うっそうと生い茂る本多丹下家と山名鏘之助家の森に挟まれた幽霊坂を下リ始めた。

黒田五左エ門屋敷から少し曲がりを見せ始めた時屋敷の塀脇の草叢から
一気に殺気が背にかぶさるように降りかかった。

両脇を同時に攻められ平蔵たまらずよろけた拍子に鼻緒がぷっつり切れた。
思わずのめりそうになったことが幸いして、初太刀をかろうじてかわすことが出来た。

いくら一刀流免許皆伝の平蔵とて一度に両脇を貫かれては避けようもない。
流れた二人が太刀筋を整える間に更に二人が背後から太刀風を浴びせてきたから
もうどうにもこらえきれず平蔵一転して、太刀筋道を避け、
起き上がりざま抜き胴を払った。

げっ!と重い声がして脚を切り裂かれた男がその場に倒れこんだ。
一瞬のたじろぎを見せた隙に平蔵、体制を整えて
「貴様らこのおれが長谷川平蔵と知っての狼藉だな!」
と一喝した。

相手の浪人者共は無言のまま更に間合いを詰めてくる。
「むぅ やむをえん手心は加えぬぞ!」
そう叫ぶと同時にもう片方の雪駄を脱ぎ捨てると見せかけて、
いきなり正面の男目指して蹴り上げた。

土埃とともに砂が顔にかかり、思わずたじろいたところを懐に飛び込んで、
正眼から真一文字に抜き払った。
胴を払われて脇腹から一気に血が吹き出した。

「まだやるかえ!」
平蔵の気迫に恐れたのか、仲間を気遣ったのか、
ほうほうの体で幽霊坂を転がるように逃げてゆく。

平蔵は泰然とした面持ちで懐の手ぬぐいを取り出し、
これを引き裂いて鼻緒をすげ替えた。

(一体ぇ何者であろうか?清水御門の役宅からこの数日付かず離れず
つきまとうこの一団の正体が見えないだけに、
平蔵の心中も穏やかではすまされない。

牛込水道町を抜け築地片町、門前町を左に折れて神楽坂を通って
牛込御門を抜け、九段坂を越えて清水御門役宅前にたどり着いた。

それから十日あまりの後、平蔵の姿は深川北川町万徳院圓速寺そばの
黒田左内宅に見えた。

「あっ 長谷川様」中からたすき姿のお染が出迎えた。

「お染どのはあいも変わらず美しいのう」
出迎える染を眩しそうに平蔵
「親父殿本日はうの字のつく日によってこいつを持参いたした。
暑気払いもあり、また精がつくと申す故、のうお染どの・・・・・」

「長谷川様いつもありがとうございます、
まぁこれはうなぎではございませぬか 父上!」

「これは又お気遣いをかたじけない」

「いや何、ちょいと冷めちまったので申し訳ござらぬが、
なぁに少しばかり浸け焼き致さばあたたまるそうで、
ホレこの通りタレも都合致して参ったあはははは」
平蔵は屈託なく笑い声を上げた。

なんとここは気配りをしなくても良い心の安らぎを
しみじみと感じる居場所だと平蔵はおもう。

「この ウナギはな、上方では腹開きにいたすが、
江戸では腹切りともうして意味嫌ぅて背開きに致すそうな」

「なるほどなぁ 左様な経緯もござるか」
左内は平蔵の見識の深さを改めて思っている。

「お染めどの、これはな、食べよいように串を打ち、
蒸銅壺(むしどうご)に並べて蒸し上げ
脂を抜いて柔らかくしたものを今度はタレをつけて焼き上げる、
いや中々に手の込んだもので、その分これ又酒が旨い!のう親父殿」

「あら またそのほうにお話が・・・・・・」

おっとっと こいつは禁句でござったなぁわははははは」

「まっ! 存じません!」

「ほれほれ又怒らせてしもうた、やれやれ何とかと小人はムニャムニャと
申しますからのう」

「おなごで悪うございましたね!」

「やっ いかん!火に油を注いだようで、
おおっ!染どのウナギがウナギが火事でござる」

「あれっ これは大変せっかくのウナギでございますもの、
そうは問屋がおろしませぬ」
と素早く鰻を外し無事炙り直しができた。

その間にも、平蔵
「ついでにな、しじみの砂出しした物を分けてもろうた。
しじみは何と申しても近江の琵琶湖産のセタシジミが旨い、
だが中々手に入らぬ、ついでヤマトシジミこいつは海と川の
まじりおうたところが一番、薄塩にて一時ほど吐かせた後、
水からこうして昆布の出し汁の中で煮立てるとよいそうな。

アクをすくい取りながら煮立てば味見をし、
白味噌を加えながらほどの加減を探さばよろしかろう・・・・・
うんうん!この程度が上でござろう。

仕上げは小葱をトントントンと小刻みに刻み、椀に注ぎ、
それに三つ葉か山椒の実を砕きたものか葉を細く切り椀に飾れば・・・・・・
おう出来たではござらぬか!やぁこれは又美味そうでござるよ親父殿
何しろ染どの手造りでござるからのう」

平蔵は渋扇をゆらゆら揺らせながら、左内が紅潮した顔で
しじみ汁をすすりこむのを嬉しそうに眺めている。

「うっ旨い!」
左内は顔をほころばせて更に汁をすすった。
「この鰻も中々でござるよ!酒々もすすんで元気が出ますぞ!」

「所で染どの、その後の桔梗屋はどのような具合かのう?」
と小声で尋ねた。
少し耳が遠くなった左内にはこの話は聞こえてはいない風で、
酒を飲み、箸を膳に預けてはジジミ汁に舌鼓をうっている。

「何でも木曾やが裏で動いているらしく、
お上の手ではらちがあかないために無頼の者を雇って
何かを目論んでいるような話が寄り合衆の話の端々に・・・・・・」

「やはりそうであったか」
平蔵は先日の目白の幽霊坂で刺客に襲われたのは、もしやと感が働いていた。

「まぁ恐ろしい!もし長谷川様に何かあらば私は・・・・・・」

「案ずるな染どの、過日は予期せぬ襲撃に後れを取ったが、
相手が判明致さばこちらも用心ができようというもの、案ずるには及ばぬ、
案ずるには・・・・・」
こうして十日ほどが過ぎた。

(そろそろ傷も治っていよう、動き出すなら今からであろう)
平蔵、このことを読んで清水御門役宅から出かけるときは表門から塗笠を下げて
一人で出かける。

やはりわずかに歩いたばかりで塀の影からじっとりと粘りのある気配が付いてくる。

そのわずか後ろをこれ又小野派一刀流の使い手、
「わしとてまともにやりおうたら勝ち目がないかも知れぬ」
とまで言わしめる沢田小平次が微行(つけ)ている。

九段坂を越え、田安御門を横切り三番町を抜け、市ヶ谷御門へと歩を進める。
伝馬町を通り、大木戸、中町、を過ぎ上町の重宝院の追分を左に折れた、
ここは高札場がありその先は千駄ヶ谷へと続く道である。
平蔵は立ち止まって塗笠を上げ廻りを見渡した。

すぐ左が土手になり見通しもよくここならば手頃な場所と踏んで仕掛けて待つことにした。
空は青碧と晴れ渡り真っ白な雲が浮いている
(寝て待つか)平蔵は土手に寝そべって誘いを仕掛ける。

傘を顔にかぶせれば、強い日差しは防げるし、眼を養うことも出来る、
しかも土手に響く足音もよく聞こえることを平蔵は知って仕掛けているのだ。

とととととっ と小走りに複数の足音が近づくのを聴きとめて
横においた和泉守國貞をひっつかんですっくと立ち上がった。

愛刀粟田口国綱よりわずかに大振りなこの剣を選んだのは
この広さでは気にすることなく振れるからであった。

さすがに選ばれただけのことはあって対峙しただけで殺気が動きを阻む。
「ひいふうみい・・・・・五つか・・・・・」
草履をゆっくりと脱ぎ捨てながら鬼献上をきっちりと締めた中に大刀を手挟みつつ
相手の動きを目で読む。

「だぁ!」
一人が待ちきれず大上段から真正面に振りかぶったまま一気に振り下ろした。
それを間髪左に捻って肩先に外しながら抜き胴で流れる体を真一文字に払った。

ぐへっ!その刺客が血反吐を吐いて土手下に転がっていった。

その時敵の後ろから微行いてきた沢田小平治が打ちかかった。

思いもかけない伏兵に敵の足は乱れて陣形が崩れてしまった。
「おかしら!」
沢田は叫びながら平蔵との背を一間ほど空けて正眼に構えた。
「おう 待ってたぜ!今日の奴らは過日の輩とは違ぅて中々の手練のもの、
決して油断はするでないぞ」

「心得てございます」
沢田はすでにたすきを掛けて袖さばきも巧みにしていた。

「おい 死にてぇやつからかかってきな、火付盗賊改方斬り捨て御免故容赦はせぬぞ」
平蔵の言葉が終わらぬうちに前の二人がそれぞれ八双と上段から打ちかかってきた。

平蔵は刃がまだ届く前に飛び込みざま胴払いで一人を切り上げた。
胸から顎を断ち割られてぎゃっと叫んでその場に転倒した。

返す二太刀めはもう一人の右肩先から袈裟懸けに和泉守國貞が肩口に食い込んでいた。
ぐえっ!!!刺客はブルブルと腕を震わせながら平蔵めがけて振り下ろそうとあがいている。

平蔵は返す三の太刀でそのまま敵の胸を貫き通した。
びゅっと血潮が吹き出して、刺客はひゅぅひゅぅと声にならない声を発し
うつ伏せに倒れこんだ。

振り向くと残りの刺客はすでに戦意喪失の状態で固まってしまっている。
平蔵が
「それほど死に急ぐことはあるまい、帰って主に申せ、
この長谷川平蔵いつでも相手になってやるとな、命が惜しくば江戸から去ることだな、
つまらねぇ意地を通して居座れば、必ずや捕まえて冥土の土産を持たしてやろうほどに、
こころしてかかってこいと申し伝えよ!」
と言い放った。

ゆるりゆるりと後ずさりした残りの二人は後も見ずに脱兎のごとく逃げ去った。
「沢田ご苦労であった!」
平蔵はこの長き一日を共にした沢田小平次にねぎらいの言葉を掛けた。

「おかしら 商人の金の力は計り知れませぬなぁ、
武士が商人に金で操られる世は何とも虚しゅ存じます」

土手の向こう十二社権現の方を陽が真っ赤に空を焦がしながら落ちてゆく。

「長かったのう・・・・・」
ポツリと平蔵がこぼした。

その深川北川町万徳院圓速寺そばの黒田左内宅・・・・・

「長谷川様 木曾やは江戸を引き払ったそうでございますね」
と平蔵に問いかけた。
「うむ もう江戸では商いは成り立たたぬであろう、
これ以上無謀なことは出来まい自滅が待っておるだけだからなぁ」

「ではこの深川も少しは暮らしよい町になるのでございますね。嬉しい!」
平蔵の横顔を熱い思いで見つめる染の顔がそこにあった。

拍手[0回]


6月第3号 俺の生き方

 
江戸本所相撲

辰巳芸者

     
世は(与力の付け届け三千両)と言われるご時世。
町の治安も乱れ、江戸詰方の目に余る行状に諸藩は町方で犯罪を直接取り締まる与力同心などに
まいないを送るのはごく普通の事であった。

事を穏便に図りたい、この内輪話しの姿勢は商人の間でも必然であり、役人とこれらの癒着は
黙認されていた。

本所深川一体は材木問屋が建ち並び、それを目当ての料理屋、居酒屋が雨後の筍のごとく
増し増えていた時代である。

南町奉行所本所町廻役与力黒田左内、本日もいつもの様に朝からのんびりとこの界隈を
流していた。

「喧嘩だ!喧嘩だ!!!」
バタバタと人が駆け寄ってゆく、まぁいつもと変わらない見慣れた風景である。

ここは本所二ツ目橋を南に渡ったところの弥勒寺門前、二十歳前の若者が数名の
遊び人風体の男どもに取り囲まれ抜刀している。

いずれも匕首を構えての真渡り、(こいつはいかん)左内は十手を懐から抜き出し
「南町本所見回り与力黒田左内である、双方とも獲物を収めよ」
と叫びながら駆け寄った。

その姿を見て
「クソォ!おぼえてやがれ!」
罵声を残して遊び人風体の男どもは逃げ去った。

「やれやれ また若様ですか・・・・・・
喧嘩も程々になさりませ、母上様が嘆かれましょうぞ」
とその若者を諌める。

その若者は左内を見ながら吐き捨てるように
「俺のことなどどうでもよいのだ!所詮俺は要らぬ子、何処で何をしようがお構いなしだ、
こんな世の中面白おかしく生きるのがどうしていけねぇんだ!」
と喧嘩仲裁でくすぶったままの気持ちを左内に投げつける。

見れば何日も着替えをした形跡もないひどい有様である。

「若様! 若様はご大身のお旗
本、我らと違ぅてご身分がございます、
それを軽んじてはなりませぬ」
と諭す言葉にも耳を貸す様子すら無く
「うるさいなぁ俺のことは放っといてくれ!お前には関係のないことだ!」

顔は土埃に汚れ袖口はほころびかけ、まるで野獣のような荒々しい姿でその場に座り込む。
「若様 人は皆それぞれ定めを持って生まれてまいります、
若様には若様の為さねばならぬものがこの世にございます故、
こうしておられるのでございますよ、それを見つけ出すために、
人は歯を食いしばって日々を過ごしております。

人は短い生涯をどのように生きたかではなく、生きた証を残すためにどう生きるか
それが最も大切なことでございますよ、日々喧嘩三昧に明け暮れてそれが見つかると
お想いでございましょうか?」

黒田左内の言葉はこの若者の中に少なからず小さな明かりを灯したようである。

若者の名は人呼んで入舟町の銕三郎 後の長谷川平蔵その人であった。

深川北川町万徳院圓速寺を東に、前の坂田橋を渡り緑橋を越えて千鳥橋を過ぎ、
北に進むと松永橋が見えてくる、それを西に曲がれば今川町仙臺堀の桔梗屋に着く、
その(桔梗屋)・・・・・・

「染ちゃん、又木曾やの旦那さんからご指名だよ」と女将の菊弥が手もみしながら
愛想を浮かべる。

「またでござんすか、嫌だねぇあんな嫌味な奴のお座敷なんか断っておくんなさいよ姐さん」と、染と呼ばれた黒い羽織を粋に羽織った娘が飲みかけのお茶を長火鉢の横に
(タン!!)と置いて応えた。

「そうも言ってられないんだよ、こっちも客商売なんだから、ね!
嫌でも相手はお大臣様ってわけだからさぁ」
どうやら懐にいくばくかの金を握らされているようである。

「後生だからさぁねっ! 嫌だろうけどお願いだよ!、
ほんのちょっとの間でいいからってことだからねっこの通り!」と両手をすりあわせて拝む。

「はん! 蝿じゃぁあるまいし、両手合わせて弁天様でも拝むような顔しないでおくれね!
こっちは気分がすぐれないんだよ!」
伝法な口調はこの界隈の芸者の気質。

何しろ吉原を相手取り江戸でも一番の岡場所がひしめく界隈であり、
その相手は相撲取りから木場の木遣り職人、荷船船頭、江戸市中から流れこんできた逸れ者、
半助なぞの博徒なぞあらゆる階層の者が集まり徘徊する南本所一体、荒っぽいのが
当たり前である。

口より先に手が出るほど喧嘩っ早いがからりとした男伊達が売り物である。

役人の目をかすめるために男勝りな名前を使い、羽織を掛けてのいでたちは
辰巳芸者と呼ばれるほど異種な存在であった。

この(染千代)桔梗屋では一番の稼ぎ頭、女将の菊弥も一目置いている存在である。

「ちょいとだけでござんすよ!」
と染千代は渋々二階へ上がっていった。
「お待たせいたしました・・・・・」
眉一つうごかさず客の顔をじっと見据ええてのあいさつ

「おう 染千代 よく来ておくれだねぇ!
ささっ まあまあこっちに座ってまずは注いでおくれ!」
派手な形(なり)で成金お大尽丸見えの材木商木曾やが待ち構えていた。

染千代は木曾やの左側に座り、扇子を胸元に納め徳利を捧げた。

「なぁ染千代 この前からの話し、考えておくれだろうね、悪いようにはしないから、
ねっ どうだい?」
蛇のような冷ややかな目つきで眼を少し流すように染千代を見た。

「旦那!この前のお話ならきっぱりお断りいたしました通り、
私には囲い者になんぞなる気は一切ござんせん」
徳利を膳の上に置いて、木曾やの顔を睨み返した。

「おまえさんそんな心得方でこの界隈を生きて行けると思っているのかい?」
と木曾や

「今度は脅しでござんすか!そんな脅しでなびかせようなんて、ははん!
男を下げちまいましたねぇ木曾やの旦那、この深川芸者の度胸をご存じないとは
所詮が田舎者、粋な遊びの一つも覚えて出直すんだねぇ」
と小気味のいい啖呵を切った。

「なななっ 何だと!甘い顔を見せりゃぁつけあがりおって、わしをなんだと思っているんだ」

「はん!ただの色ぼけ爺ぃじゃござんせんので?」

「おのれ、たかが芸者風情がなめたことを言いおって!
此処でわしの顔を潰せばどうなるか判っているのか、
明日からここら辺りじゃぁ生きて行けないことになるんだぞ」

「おや?さようでござんすか、ならやってみてもらおうじゃぁござんせんか!」

「お、おっ染千代!!」木曾やはよろよろ立ち上がり、
染千代を後ろから羽交い締めにして染千代の胸元に手を挿し込もうと伸ばした。

「何しやがんでぇこの唐変木!」
染千代の右手が珊瑚玉の一本かんざしに掛かった。

「ぎゃぁ」
と木曾やが悲鳴を上げて手を染千代の胸元から引きぬいた、
その右手から真っ赤な血がぷっと吹き出した。

「誰か来ておくれ!染千代が私を殺そうとかんざしで・・・・・・!!!」

染千代が急いで階段を駆け下りたところへ若い衆がずっと詰め寄った。
いずれも木曾やの用心棒である。

「どいとくれ!女を手篭めにしようなんて魂胆が許せないんだよ!」
染千代の気迫に一瞬たじろいたすきを突いて、だっ!と外へ飛び出した。

「あいつを逃すんじゃァ無いよ!」
右腕を手ぬぐいで抑えながらよろけつつ木曾やが下りてきた。

「だだだ、旦那ぁ!どうぞご勘弁を!」
とすがる女将を蹴たおして

「覚えておいで!明日から商いが出来ないようにしてやるからね」
と口汚く罵りながら出て行った。

この日平蔵は登城後昼を過ぎて清水御門前の火付盗賊改方役宅を出た。
「本日は本所に戻ろうと思う故、何かあらば本所の方へつないでくれ」
筆頭与力佐嶋忠介にそう言づてて表門から出かけた。

見廻るその前に南町奉行所に顔を出し、父宣雄が京都西町奉行職に就いたため
供をして京にいた頃知り合った池田筑前守長恵に目通りし、しばしの時を費やした。

それからゆらゆらと鍛冶橋御門を出て、炭町から弾正橋を渡り本八丁堀を突ききって
高橋を渡った。
東湊町を広大な松平越前守下屋敷を右に眺めながら、長埼町から銀町へ、
二ノ橋を渡り南新堀に出る。

豊海橋を越えて高尾稲荷前の大川をまたぐ永代橋を越えて渡りきったところが佐賀町、
右手には御船手組の御船蔵が見える。

これを左に取り、中の橋を北に進めば仙臺堀に架かる上ノ橋、その先の御船蔵を左に取ると
そこは万年橋・・・・・・いつも平蔵が通る道の一つであり、
この小名木川北詰を東に取れば高橋・新高橋を越したところに扇橋があり、
それを南に下れば石島町、平蔵の密偵小房の粂八が守る船宿”鶴や”があり、

小名木川を北にとって万年橋を渡り東へ取り俳人松尾芭蕉が(古池や・・・・)
と詠んだとも言われている芭蕉ゆかりの紀伊徳川家下屋敷裏を北に上がり猿子橋・
中ノ橋・北の橋・を横目に六間堀を進み、山城橋・松井橋に突き当たったところが竪川、

松井橋を東に折れ、松井町二丁目に架かる二ツ目橋を越えるとそのたもとに言わずと知れた
軍鶏鍋や五鉄が待ち構えているわけだ。

幼少の頃より駆けまわった、いわば平蔵にとっては目をつむっても行ける地域で、
多忙を極める平蔵にとってしばらくぶりの本所深川である。

時は大川が夕闇を少しづつ飲み始める頃となっていた。
永代橋を渡って千鳥橋を渡り仙臺堀に歩を進めていた時、
松永橋の方から駆け出して来た女とぶつかりそうになった。

「おっと!」

平蔵は素早く横っ飛びに避けて女をかわした。
みれば芸者の姿であるが、裾を左片手に持ち上げ、素足のままである。
そのうしろから

「野郎あそこを逃げていやぁがる」
大声で叫びながら見るからに遊び人風の男どもが尻からげで追ってきた。

「おい待て待て!」
平蔵は女を左手で背に回し、右手は刀の柄に掛けて男どもを制した。

「旦那ぁそいつをこっちにお渡しくだせえやし」
中でも少し格上と思える男がいんぎんに口を出した。

「おう これかえ?」
平蔵はチラと後ろを見るように眼を流しながら、あくまで阻止するふうに腰を落とし、
「話によっちゃぁ渡さぬでもないが・・・・・・のう女!」

「旦那ぁ・・・・・そんな!」
女は平蔵の背に右手をかけて少し力を入れた。

「おう 旦那此処は深川だぜ、野暮は言いっこなしでおとなしくそのアマ、
こっちに渡したほうがお為ってもんですぜ」
ドスを聞かせて格上と見える男が一足歩を進めた。

「まぁ待て待て わけも聞かずハイ左様でと差し出すにゃぁちょいと惜しい美形、のう」
と女を振り返りつつ 
「理由を言えねぇのかえ?ええっ!」
と平蔵も伝法な口調で亙(わた)った。

すると、中の一人が
「そのあま よりによって材木問屋の寄り合い頭にかんざしで傷を負わせて逃げやがった
ふてぇ奴、御託を並べずこっちに渡してもらおうかい、それとも何かい・・・・・・」
と片足を引いて懐に手を差し入れる。

「ほほう それとも何か?こっちで盗ろぅてぇ話かえ?」
じっと相手の動きを制しながら平蔵粟田口国綱の鯉口をプツリと切った。

「二本差しが怖くっちゃぁ鰻も食えねぇ!野郎やっちまえ!」
一斉に匕首を構えバラバラバラと左右に散り、二人を取り囲むようにジリジリ
その輪を狭めてくる。

平蔵、ゆっくりと女をかばいながら背に掘割を見据えて一歩二歩と下がった。
退路を断った形に、女は怯えたように平蔵の背中に寄り添う。

「少し離れておれ、その柳の陰に居ればでぇ丈夫だ」
平蔵、女をゆっくりと離しながら正面と左右に男どもを誘った。

これで最早退路はないものの、背後から襲撃されることだけは避けられる。
つまり女に災いが降りかかることだけは避けられたのである。

左横手に回った男が平蔵の脇を目指して匕首で一気に突きに入った。
体を間髪反らせて切っ先を泳がせ、男の足をすくったからたまらない、
そのまま目の前の掘割に飛沫を上げて飛び込んだ。

「クソなめたまねしゃがって!!」

今度は右から脇を固めた姿勢で打って出た
平蔵は腰だめにためた柄をつきだした。

「ぐえっ!」
悲鳴を上げて腹を抑え、その場に崩れ落ちた。

「ややややっ野郎!」

今度は一気に三人が匕首を構えて直して突き進んできた。

「懲りねぇ野郎どもだなぁ」
平蔵は粟田口国綱を鞘ごと抜き出しパパパッと叩き伏せ二名は
そのまま掘割に叩きこまれてしまった。

最後まで残っていた影がずいと前に出た。
(侍ぇ崩れだな、だがこいつは少しばかり出来る)

平蔵は女に
「下がっておれ」
と促してゆっくりと刀を腰に手挟みながら目で牽制しつつ一歩前に踏み出した。

その動きを見切ったように浪人は抜き打ちにすさまじい気迫で胸板めがけて突き出した。
ビィ~ンと刀のぶつかる音とともに平蔵の半分抜きかけたしのぎに火花が散り、
鋼の焦げる匂いがする。
(しのぎとは刀の肉厚の部分で、鎬(しのぎ)を削るとはこの部分が磨り減るほど
激しく争うという意味である)

平蔵は素早く刀を相手の鍔先に逃し、滑らすように刃を振り抜きざま返す刀で切り下げた。
(ぎゃっ)と悲鳴を上げながら男が右肩口を抑えた。

その腕にはもう剣はなかった、仄かな明かりに照らされた川縁に鈍く光を放って
刀を握った腕が転がり、血にまみれていた。

「おい 早く手当をせねば命取りになるやも知れぬぞ!」
と川から這い上がった濡れネズミに声を飛ばした。

「この礼は必ずやするぞ」
男は手ぬぐいを押し当てて、呻きながらその場を去ってゆく。

「危ういところを・・・・」
と頭を下げる女に

「ところでお前ぇ一体何があった?」
と尋ねた。

「どうってことはありませんのさ、女一人をものにするのに脅しすかしで出来ると
踏まれちゃぁ深川芸者の恥ってもんでござんすよ」
と、言い放った。

「気の強いおなごだのう、したが・・・とにかくその形ではどうにも格好がつかぬ、
籠を拾って・・・・・おい誰か籠を拾ってくれぬか!」
と、そばの店先に声をかける。

しばらくして町籠がやってきた。
「まだ奴らが見張っているやも知れぬ、どこまで帰ぇるんだい?近くまででも見張ってやろう、
おっと 送り狼なんてぇんじゃァねえから安心しなあははははは」

平蔵は遠くでこの光景を見張っている男たちの眼を感じ、そう聞こえよがしにかけた。

ゆらゆらと籠は南に下った深川北川町万徳院圓速寺そばで止まった。
「今夜はでぇ丈夫だと思うぜ、明日から難儀だがなぁ」
平蔵はそう言って裾を返そうとした。

「あのぉお名前だけでも・・・」
と、しおらしい口調が追いかけてきた。
「おれかい?ただのやさ浪人だよ、気にするこたぁねぇ、
戸締まりだけはきっちりやっておけよ」
と踵を返して菊川町の方へ歩みを進めた。

両手を合わす染千代の忍び香(誰が袖)の気配が闇の中に静かについてきた。

その翌日平蔵は昨夜のことが少々気がかりで、朝餉を済ませると
「ちょいと出かける」
と妻女の久栄に市中見廻りの支度をさせて表門から出かけた。

(いやどうにも心配なことだ、奴らがあのまま済ますわけはねぇ、
収めるところへ収めねばまたけが人が出るやも知れぬ)

そんな思いを巡らせながら、昨夜送り届けた深川北川町万徳院圓速寺に向かった。
伊予橋を渡り北ノ橋を越えて万年橋を過ぎ、大川の穏やかな流れを右に見ながら更に
下がって仙臺堀に架かる上ノ橋をまたいで東に取り、今川町にある料理屋桔梗屋を覗く。

店は昨夜の事件を忘れたかのように静かに戸締まりの中人の気配すらしない。
(うむ まだ店は開いてはおらぬか・・・・・・)平蔵はそのまま仙臺堀を川沿いに進み、
松永橋のたもとを南に折れて豊島橋を越えて千鳥橋を渡った。

その東側に油堀をまたぐ緑橋が架かっている。
往来する川船の慌ただしく行き来しているのを平蔵は眺めながら南下して坂田橋を越えた。
油堀に沿って進むと、万徳院圓速寺の大屋根が見えてきた。
その中ほどに目指す家がある。

ささやかな開き戸を開けるといきなり目の前に何者かが飛び出してぶつかりそうになった。
「おっと!」
叫ぶと同時に右に身を捩って衝突をかわした。

「あっこれは失礼を」

「いや こちらこそ急に開けてすまなんだ」
と互いに会釈をして顔を上げ
「あっ 昨夜の・・・・」

「おう変わりがのうてよかった」
それにしても・・・」
と平蔵

「それにしても?」

「いや何・・・・ははははは」
平蔵は頭を掻き掻きバツの悪そうな顔で素顔の女を見た。

「今日は出かけませんのでこんななりで」
と化粧っけのないハツラツとした笑顔がそこにあった。

「まぁお茶でも差し上げたいと存じますが、よろしいので?」
と前掛けを外しながら振り返った笑顔の口元から笑みがこぼれていた。

「父上! こちらの御方が昨夜私の危ういところをお助けくださったお武家様でございますよ」
と奥に声をかけた。

(やはり武家の出の者であったか)平蔵は少し得心がいった風に歩を進めた。
縁側に腰を下ろし咲き誇るささやかな庭の花々に目を細めていると、

「このような姿でご無礼仕る」
そう断って質素な風体の七十前と見受けられる老人がゆっくりと出てきた。

「これは・・・・・」
言葉に詰まった平蔵の顔を見ながら

「いやいやお気遣いなく、もう四年になりますかなぁ、無理がたたったのか、
身体があまり良くなく、長いお役を退いてこうして長屋住まいをすることになりました。

糊口(ここう=おかゆ、つまりほそぼそとした質素な暮らしぶりの意)をしのぐとは申せ、
昨今の町で中々おなごの仕事はございませぬ。

それでやむなく勧めもあって、昔習い覚えた芸事が役に立とうかと苦海に身を落とさせて
しもうたわけでございます、誠に持ってお恥ずかしい・・・・・」
とその家の主は平蔵の突然の訪問を快く出迎えた。

「何を申されます事やら、身共とていつ何時そのような境涯が訪れるやも知れませぬ。
生きてゆくとは真二つの道を日々選びながら過ごしておるように思いまする。
身共はこの界隈が懐かしゅうて時折見回るのでござりますよ」
平蔵塀越しに圓速寺の桜のあでやかな姿が大屋根を背にほころんでいるのを眺めている。

圓速寺には”め組の喧嘩”で知られる相撲取り四ツ車大八の墓がある、
またこの頃は江戸市中から運び込まれる膨大なごみや糞尿の捨場であったために
積もり積もったこれらが腐葉土となり肥沃な土地が形成されていた。

その寛文年間(1661~1672)に篤農家(とくのうか=熱心な研究家)が油紙を継ぎ合わせて
野菜の苗の上を覆えば成長が早まり、落ち葉やゴミの上に土を置いて種を蒔くと
芽が早く出ることを発見、この野菜の促成栽培法を工夫し普及させた松本久四郎の墓がある。

それに陸奥弘前藩家中千葉源左衛門の子で江戸市村座で長唄の立を務めたお座敷風長唄の
荻江節創始者荻江露友(ろゆう)の墓も残っている由緒ある寺である。

「見まわるとおっしゃいますと?」
奥から出てきて茶を勧めながら染が口を挟んだ。

「おおこれは失礼をいたした、まだ名乗っておらなんだ許されよ、身共は長谷川平蔵、
いやぁ昔この界隈はわしの庭でござってのう、特に南本所入江町辺りは懐かしくもあり
悲しくもある特別な所でござるよ」
と苦笑いをする平蔵に、それを聞いた老人が身を乗り出して・・・・・・

「もし・・・もし間違いとあらばお許しを・・・・・もしや幼少を銕三郎さまとは
申しませなんだか?」
と眼が一瞬輝いた。

「おっ 何故それを・・・・・確かに身共は二十歳前はその名前でござった。
だがそれをどうしてそこ元が」
と、今度は平蔵が驚いた。

「これお染、そなたが子供の頃よくわしが話していたであろう、入江町の暴れん坊・・・・」

「はい よく覚えております、あのお方がおいでにならなくなって入江町も静かになったが
寂しい町になったとよくこぼしておられましたので」

「そのお方よ、長谷川の若様銕三郎さまだよ、ほんに夢の様でござりますなぁ若様!」

「おいおい ちょっと待ってくれよ、先ず若様だけはやめてくれ、おれも見ての通りこの歳だ、
で そこ元は?」

「お忘れになられるのも無理はございますまい、幾度かお目にかかっただけのことで
ございますから、あの頃私は南町奉行所深川町廻り役与力を勤めておりました」

「なんと!あの時の・・・・・・忘れはしておらぬ、ふむもう二十年にもなるかなぁ、
あの頃のわしは、はぐれ鳥のように身も心もすさみ枯れ切っており、本所の銕、
入江町の銕っつあんと二つ名で呼ばれ、無頼の限りを尽くしておりもうした。

その頃そなたの父上がこの我が身を諌めてくれもうしたのだよ。
その言葉は今も忘れることはござらぬ、いやあの時の諌めがなくば
今のわしはおらなんだであろう、これこの通り、改めて礼を申しますぞ」
平蔵は深々と頭を垂れた。

「長谷川様もったいない!私も当時は商人や大名の抱え込みが嫌で嫌で幾度与力のお役から
逃がれようかと迷うたことか、商人や諸藩上屋敷からの付け届けを懐に
何事も見て見ぬふりをする同輩が情けなくて情けなくて、
ですが、せめて私だけでもまっとうにありたいと思う気持ちでこの深川を廻りました。

そのような中で長谷川様と出遇うたのでございますよ、その清々しい顔に苦しみの影を見た時、
何と哀しい眸(ひとみ)をなさっておいでだと想ったのでお声をおかけしたのでございます、
それが今や火付盗賊改方の長官にまで、こんなに嬉しいことはござりません、のうお染」

左内は溢れてくる涙を袖で拭いながら我が子の事のように喜びを表してくれる。

「はい このように輝いた父を久しく見たことがございませんでした、
長谷川様時折はこの家にもおみ足をお運び下さいませ、
どんなに父が元気を取戻しますことやら、ねえぇ父上!さようにございませぬか?」
と、染は目をキラキラ輝かせ、居住まいを正している父親を見やった。

「いや身共も何と申すか亡き親父殿に会ぅたような心地でござる、ぜひ又寄せていただこう」
平蔵、軽く受けながら
「ところで昨夜の事じゃが」
と、話を昨日の事件に振り向けた。

「はい 木曾やの件でございますね。」

「うむ、あ奴の用心棒の片腕も頂いてしもうたゆえ、何かうごめくやも知れぬ、
この所しばらくはすまぬがこの家(や)からあまり出ぬように、
奴らはこの家を存じてはおるまいのう?」

「はい 家までは誰にも教えてはおりませぬので」

「あい判った!その方は身共に任せていただきたい、片がつくまでの辛抱じゃ、
その間父御殿の看病をな!頼みおきますぞ」
そう言って平蔵は見回りに出かけていった。

深川仙台堀の桔梗屋に顔を出し、
「染千代のことで何かあらば火付盗賊改方長谷川平蔵が仲を取る故、
いつでも出かけてまいれ」
と伝言した。

その翌日清水御門前の役宅に北町奉行所の与力が訪ねてきた。
「こちらにお預かりの深川蔦屋内染千代の身柄をお引き渡し願いたい」
という申し出でございますが、いかが取り計らいましょうか?」
と筆頭同心酒井祐助が取り次いできた。

平蔵自ら玄関前に出張り
「ほう そのわけは何でござろう?」
と、平蔵立ったまま問い返した。

「木曾や殺害未遂の容疑でござる」
四十過ぎと思えるその男は朱房の十手を献上帯にたばさんだ八丁堀伊達の強面であった。

「うむ その件ならば確かに身共が関わってござる、で、木曾やの傷はいかがかな?
すでに痛くも痒くもござるまい、ならばこうお伝え願いたい、
火付盗賊改方長谷川平蔵の命を狙った男の右腕を切り落としたのはこの長谷川平蔵、
そのわしの命を狙わせたのは何処のものか存ぜぬが、こたびはこちらからそこ元の上司に
この件につきお尋ねいたしたく、近々推参つかまつるがそれでよろしいか?」
と、きっと睨んで返答を待った。

「ははっ!! その儀はそのぉお奉行には関わりなく、与力係にて・・・・・」

「馬鹿者!帰ぇって木曽やに伝えよ、何かあらばこの長谷川平蔵がいつでも出張るとな!」
平蔵のすさまじい剣幕にたじろいて

「ははっ!!恐れ入りました」
と、ほうほうの体で退散した。

こうして事件は一件落着。
染千代は今まで通り桔梗屋の看板を背負って、深川辰巳芸者の気風を背中に
今日も生きのいい啖呵を吐いている。

木曾やは袖にされた腹いせに染千代を襲わせたことが知れてしまい、
この界隈に姿を見せることはなかった。
無論密かに平蔵が流した流言(うわさ)話であろう。

それからちょくちょくと平蔵の姿をこの深川圓速寺界隈に見られるようになった。
その日は朝から明るく華やいだ声が一日中聞こえていたという。

「おられるかな?そこで出会ぅた棒手振(ぼてふ)りがコヤツを持っておった故、
下(さげ)て参った」
平蔵が何やら竹籠をお染に差し出した。頃は初夏の爽やかな川風がたもとを掬う六月

「まぁきれいな鮎」

「ウム早速骨酒でこう!1杯・・・・」
と、盃を空ける仕草を見せる。

「まぁ長谷川様ときたら、いつもお酒がついて回りますのね」
と楽しそうにお染が微笑んだ。

「春ともなればカジカの骨酒が最も珍味、じっくりと遠火にて焼き上げ、熱燗で蒸らして・・・・・いかんいかん思い出してしもうた、あははははは。

鮎はな!こうワタとウロを取り除き、塩少々を振り、こんがりと焼く、
大きめの器に鮎を入れ熱燗の酒を二合ほど入れてしばらく置く、
さすれば何ともこの薫りのよき、
まさに香魚と呼ばれるように得も言われぬ薫りがするのじゃ」
もう平蔵がその光景を目のあたりに見るが如き顔つきに、
お染は思わず「うふふふふっ」と笑った。

「可笑しいかえ?」
平蔵は真顔でお染の顔を見る。

「この鮎は年魚と申してな、一年でその生涯を終えるところからさよう呼ばれるそうじゃ。
己が一代にてすべてのことを成就致す、いやそこにまた新たな価値を見出だすのであろう。
我が身を振り返る時左様に終えることができようかとな、あはははは。
おうおう 親爺どのには骨酒があるがそなたには鮎雑炊も良かろうと思うてな・・・・・

こいつには頭、ワタ、ウロコをのけて洗い、三枚におろし、身と骨にかるく塩少々を振りかけて
焼くのじゃ、土鍋に鰹の出汁をとり、焼いた背骨を入れて少々煮出さば、骨を取り出し、
洗ぅて水気を切った飯を入れて再び煮る。

煮立ったらば鮎の身を乗せ溶き卵を回し入れて蓋をいたし、火を止め、
ちゅうちゅうタコかいなぁと六っぺん数えて蒸らすそうな。
むふふふふ どうじゃ美味そうではないか!これにな 紫芽(むらめ・赤しその双葉)や
三つ葉を飾れば出来上がり!いかがかな?我らはこっちの方・・・」
と 盃を空ける真似をして、
「そなたはこの鮎雑炊・・・・・」

「あら 私は骨酒を頂けないのでございますか?それは片手落ちと言うものでございますよ、
私とて武家の娘、酒々のいただき方も心得てございますのに、仲間はずれはひどうございますよ
ねぇ父上」と少々おかんむりの様子に、

「いやこいつばかりはのう親父殿・・・」
と助け舟を出すが、

「あっ おなごに飲ますにはもったいないと・・・・・」

「うっ 左様なことではござらぬが、いや困った!」

「あれ 何がお困りで・・・・・・」

「ふ~む 親父殿お染どのは酒々は強うござるか?」
再び左内に救いの手を求めたものの

「もしや長谷川様はこのわたくしがうわばみかと・・・・・まっ!それはあんまりな、
父上の仕込みもございまして少々は嗜みますが・・・・・」
染は口を一文字に結んで平蔵を見返す。

「うむ あれば一升でも二升でも嗜むとか・・・・・」わはははは

「ひどいことを!もう知りません」
と染は大むくれである。

そんな二人のやりとりを左内は団扇をゆらゆら揺らせながら目を細めて眺めている。
このような事があった後、染千代に幾度も見受けの話が持ち上がったものの

「私の心を動かせるほどのお人はただ一人、そればっかりはまっぴら御免をこうむります!」
ときっぱり断るので、やがてそのような話は立たなくなったと言う。

後に染千代は桔梗屋を始めとする界隈の芸子に習い事を教える事を生業にするようになり、
平蔵の元へもたらされる華やぎ界などの動きが、幾度も事件解決の糸口につながったと
言われている、その陰に染千代の働きがあったことは言うまでもあるまい。

お染の父親左内が七十を1つ2つ超えて天寿を全うしたおり、あたり構わず号泣したのは
平蔵であった。
無頼の平蔵を温かく見守り育んでくれた亡父長谷川宣雄の姿を重ねていたに相違いあるまい。

「人は何かを目的に生きてゆく、それを見つける為に人は生きている、どう生きたかではなく、どう生きるか!そこが何よりの大事」
左内の言葉は平蔵終生忘れない垂訓であった。

文化十四年十一月亀戸天神に木喰上人によって太鼓橋が落成、その時橋の形に結ぶ帯を
時の歌舞伎役者瀬川菊之丞が流行らせていたものをさらに発展させた形に考案して、
深川芸者が揃ってこれを締め、渡り初めをした事から始まった帯の形お太鼓結び、
これを工夫したのがこの染千代であったとか。

拍手[0回]


6月第2号 周防の風 ゆうれい寿司






この日も平蔵は単衣の擦り切れた長着の上に
洗いざらしの馬上袴を着けて市中見廻りの用意を始めた。

内儀の久栄は、この所平蔵がいそいそとこの支度を好むので、
どこか腑に落ちない風で「本日も目白でございますか?」
と問いただす。

「うむ ちと諸用があってな・・・・・」

平蔵はと見るとどこかウキウキとした紅潮が感じられる。

このような平蔵の態度は、平蔵が姑の長谷川宣雄に付いて
京へ上った時によく似ている。

「銕さま、都は江戸とちごうて華やぎの多いところゆえ・・・・・」
と、あちらの方を心配するのを

「拙の事は案ずるな」
と意気揚々と出かけ、浮き名を流したことも判っている。

袖に包んで、愛刀粟田口国綱ではなく、
鞘も剥げかけた赤鰯を差し出せば
「行ってまいる」
とそそくさと裏木戸を抜け出す。

実はこのところ面白い店を見つけたのだ、
名は(茶巾)ただそれだけのものだが、此処の茶がまたうまい。

「何ともこの味わいが旨い」
平蔵は久方ぶりの旨い茶に出会った。

「おやじ この茶は何処のものだえ?」
好奇心旺盛の平蔵納得がいかぬ様子である。

「へぇ、釜炒り茶と言いやして、茶は裏の畑で作っておりやす、
カカアが若くて柔らかい茶葉を摘み取りやす、
こいつは一芯二葉と言いやして、一本の芯に葉が二枚のものを
すぐに熱くさせた鉄鍋に入れてよく混ぜながら、
しんなりするまでかき混ぜやす。

しばらくすると青臭さが消えて良い香りに変わりやす。
そこで茶葉を出して風を入れながら冷ましやす。

そのあと葉を茣蓙(ござ)に振り拡げて水気を飛ばし、
茶葉を転がすようにしっかりともみますと水気が更に飛びます。

水気がなくなるまでこれを繰り返して、その後茶葉を揉みながら形をつけ、
摺り合わせて細く針のように仕上げ、光るようになるまでくりかえしやす。

「なるほどなぁ それでこの香りがまた格別なのじゃな?」

「へぇ鉄釜で煎られた茶葉は特に薫りがよろしゅうございやす、
それに又色目が綺麗で黄金色に輝くのが上質と・・・・・」

「う~む まさにその通りよ、この色といい香りと言い中々に至福の時じゃ」

「ありがとうございやす」

「ウムそれにな、この菓子、こいつが又旨い」

「ははぁ お気に召しましたでございやすか」

「うむ こいつは一体ぇ元は何だえ?
口当たりからは芋のようであるが・・・・・」

「あははは お武家様 よくお判りで、
そいつは芋を薄切りにしてカラカラに乾かし、
それを蒸かしてお天道さまに乾かしていただくんで」

「やはり芋であったか、それにしてもこの甘さは又・・・・・」

「幾日もお天道様に乾かしていただきやすと、
飴のような甘みが出てまいりやすこれをすりつぶして茶巾で包み、
形を整えやす」

「ふ~む それで絞った形が残るというわけだな、
それで茶巾か、わははははいや恐れいった、
それにしても茶と言い茶巾包と言い、中々に手間ひまかけた物よのう」

「お武家様 なんであれ、手間暇惜しめばろくなものにはなりませんや。
手間がかかる・・・・・・こいつぁいけません、
ですがね、手間ひまかける・・・こいつぁ先が楽しみで
それだけの値打ちが出ようってもんでございやすよ、

あっしはその手間ひまかけた末のものをお客様が楽しみ、喜んで下さる、
それを頂くのが一番の贅沢かと・・・・・・」

「おお こいつは良いことを聞いた、なるほどなるほど まさにその通りじゃ」

平蔵はこのどこにでもいるおやじの言葉が大いに気に入った様子であった。
こうして平蔵がこの茶店に寄るようになったのが今の経緯である。

「気をつけろい!」

罵声に振り返った平蔵の目の前を初老の男がよけながらべたりと
地べたに倒れこんできた。

「おい 大丈夫かえ」
平蔵はその男をかかえるように抱き起こした。

「これはどうも とんでもないところをありがとうございました」

「近頃の駕籠かき共はまるで神風みてぇで危なくてしょうがねぇな」

「全くでございますよ」
これがふたりの出会いの始まりであった。

見れば右の肩口が裂け、肌着が朱に染まってきた。

「おうこれはいかん 肩を怪我なさっておる、
これ亭主!水と、それから焼酎があればそれを、無くば酒だ!」

平蔵は亭主の持ってきた酒を、懐から手拭いを出し二つに裂き、
それに酒を振りかけ軽く絞って
「ちとしみるが我慢いたせよ」
男の襟元を押し開き傷口に押し当てた。

「おおっ」
思わず平蔵が驚きの声を小さく発した。

ううっっと声を殺し、歯を食いしばった後、ほっと息を抜いて
「お見苦しい物をお見せいたしてしまったようで」
男は苦笑いをしながら襟元を正した。

「いや 見事な物でわしも目の保養をさせてもろうた」

「お恥ずかしい、若い時分に粋がって彫ったもので、
いまじゃぁしわがれた姿に成り果てました、
この私のように・・・・・ははははは」
男は茶をすすりながら街をゆく人々の動きに目をやる。

「のう ご老人、わしはこの茶と茶巾が気に入って、
時折寄るのだが、いかがであろう?」
平蔵の問に
「ああ左様で御座いますな、私もこの茶が好きでこうして
時折出かけてまいります」

「いやぁ そうであったか、うむ 誠にこの茶は旨い」
平蔵も目を細めて茶を口にすすり入れる。

それから数日後、再びこの老人と出くわす。

「おおご老人 その後怪我の具合はいかがかな?」
軽く会釈する老人を見ながら平蔵が店に入っていった。

「お武家様その節は大変お世話になりまして、
おかげさまで傷もすっかり元通り、
ちと梵天様のシワが増えたようにございますが」

「わははははは さようか、梵天様とはいやなかなか」

「しかしなぁ 何で又梵天様なんぞを・・・・・」

老人は恥ずかしげに笑いながら
「私は周防長門の国厚狭郡中村の在でございます。
子供の頃から遊び下手で、ほとんど毎日近所の浄圓寺の境内で一人遊び、
そこには大きな公孫樹の木がございまして、秋ともなると葉が色ずき、
毎日ハラハラと舞い散ります。

公孫樹には男樹と女樹がございまして、
男樹は葉が真ん中から分かれておりますが、
女樹はこれが裂けておりません。

秋になるとたくさんの実が落ちこぼれてまいります。
落ち葉に折り重なったまましばらく致しますと異臭がいたしますので、
たいていは毎日清掃とともに取り入れます。

竹籠に入れてしばらく放置いたしますといやはやこれだけは言いようのない
異臭が漂うようになりますが、これを近所の小川の棒杭に引っ掛けておきますと、
水の力で綺麗に取れます。

それをお寺の境内に持ち寄って掃き清めた落ち葉に火を着けて
焚き火を致すのがほとんど毎日の事、そ
の焚き火にこの銀杏を放り込みますと、
しばらくしてパチンと実がはじけて淡い翠色の実が赤い衣を脱ぎかけて
飛び出してまいります、
これを拾ってふうふう言いながら食べるのが私ら子供の遊びでございました。

何しろ貧しい土地柄でございましたから、
稲刈りなどもハゼ掛けした後残された落ち穂を拾うて集めるのも
私らの仕事、一日掛けて拾えば結構な量になります、
それは皆で食べる芋粥の種になるのでございますよ」

「ほうほう!!」
平蔵は自分の幼少時代の遊びとはかけ離れたこの老人の子どもの遊びや
暮らし方にひどく興味をそそられたようであった。

「だがご老人 稲穂を拾うのは罪ではないのかえ?」
ついつい日頃のお努めが顔をのぞかせる。

「はい それは皆様お天道さまの取り分と申しまして、
貧しい者たちへの恵美(めぐみ)と思うておりましたようで」

「恵美とはまた美しい響きであるなぁ」この言葉に平蔵感無量の面持ちであった。

「そいつをどうやって遊びにしたんだえ?」
もう平蔵もその時のその場所のガキ大将になった気分の様に興奮して
膝を乗り出して老人の話を催促する。

「はい ひと掴みの稲穂を焚き火の上にかざして動かしますと、
パチパチと稲穂がはじけて、中から真っ白な実が覗きます、
これを手でしごいて集め、口に頬張るのでございますよ」

まだ青臭い米の薫りが何とも・・・・・・懐かしい思い出でございますよ、
はははははは」

「何と羨ましい話だのう、でその背中の梵天様はどうして
背負うようになったんだえ?

こいつは伺ぅてはまずいかのう、いやどうもこう好奇心が先走ってしもうて
相済まぬ」
と頭を掻き掻き笑いかける。

「いやいやそのようなことではございませんが、
その頃よく遊びに参っておりましたのが沖仲仕の親分の所でございました。
ある暑い日に
「坊!水浴びせんか」
と木陰にたらいを置いて子分衆に水を運ばせ、
たらいの中に私を入れて遊んでくれました、
その時に片肌脱いだ背中から胸にかけて梵天様が彫ってあったのでございますよ。

それを見た私に
「坊 大きゅうなってもこんな彫り物するんじゃ無いぞ、
おやごさんがかなしむでなぁ」
って言われましたがね。

周防長門の国は先が瀬戸内で魚介類はそれはもう手ですくうほどの
場所でございましたが、その親分さんにはお子がなく、
私が遊びに行くととても喜んで、私はその親分さんの膝の上が
親の膝のようなものでございますよ。

その御方は中国を股にかけた勢力をお持ちのお方でしたので、
そこいらの親分衆がよく集まっておりました。

そんな中で育ちましたので、いつのまにやら私も渡世の世界へ
足を踏み入れてしまい、まぁよろず揉め事承りみたいな事を
始めたのでございます」。

「てぇと何かい取り立てとか・・・」

「あっ いえ そのようなものではなく、貸し倒れとかその後のことを
うまくまとめる仕事でございますよ。
何しろたいていはそんなところには土地の親分衆がからんでおります。

そこでまとめ屋が必要になるのでございます。
双方をうまくまとめる仕事、これは親分衆には出来ません、
かと言って上辺だけで片付くほど甘いものでもございません。

そんな時子供自分から慣れ親しんでいた親分衆の出入りが
役に立ったのでございますよ」

「なるほど、子供の自分から顔が知られていれば、
いずれも仲間内みたいなものだわなぁ、
さすれば話もまとまりやすい・・・・・・
うん確かに確かに」平蔵納得の様子に

「まぁ私もお上のご法度以外は何でもやって来ました、
すれすれの世界で世渡りしてきたのでございますから、
その頃勢いに乗ってやっちまったのが背中のモンモンで、あははははは」

「それが又何故このお江戸に来ることになったんだえ?」

「あはははは まるでお取り調べのようでございますねぇお武家様」
男は笑って愉快そうに腹を揺する。

「いやいやとんでも無い、だがしかし、ご老人の話はいや中々に楽しい、
こう胸がざわめくほどでござるよ」
平蔵は老人の指摘が当たっていただけに慌てて話を反らせた。

「真締川の付け替え工事の利権に絡んで親分が闇討ちにあいまして、
まぁ親分の仇はどうにか討ち果たしましたが、
とうとう戒めを犯しての凶状持ち・・・・・・
で誰も知らないお江戸でこうひっそりと・・・・・・ははははは」
さみしげに男は笑った。

それから半年が瞬く間に過ぎた。

二人にとっては相変わらずこの茶店は憩いの場となっていた。

「一つ我が家においで願えませんかな、ここほどの旨い茶は出ぬとは
存じますが一つ碁のお相手でも一手ご指南頂ければありがたいことで」

「さようか、それも又目先が変わればなんとやらと申しますな」
平蔵乗ってきた。

「おさよ 今帰ったよ」
老人は声をかけて戸口を開けた。

「お帰りなさいませ」
中から華やいだ声が飛び出してきた。
まだ二十歳を回ったばかりと見える若女であった。

「おう これは!」
驚く平蔵に

「私もこの年で、身体も思うに任せません、
それで身の回りを世話してくれるおなごを雇ったというわけでございますよ。

近所では色好みのご隠居で通っておりますがな、
このおさよには好いた男が居りますのじゃ、のうおさよ!」

「あれ そんなぁ・・・・・」

おさよと呼ばれた小女ははにかみながら平蔵に座布団を薦めた。

「今日は何を作っておくれだい?」

「はい先日ご隠居様がお話しされていましたゆうれい寿司を作ってみようと」

「おうおう それは懐かしい、ありがたいねぇ」

「ゆうれい寿司?それは又奇っ怪な名前で何と申すか」
平蔵の好奇心もすでに上り詰めた面持ちである。

「はい 古くは酢飯に冬は柚子の絞り汁、夏場は青柚子の
絞り汁を入れただけの酢飯、これに仙崎あたりから運ばれてまいります
塩さばや干物、しおくじらなどを酢じめにして乗せたり致すようになりました。

今日はどのような物が出来ますやら、ははははあ 
楽しみでございますなぁお武家様」

ゆうれい寿司の出来るまで碁を打ちながら茶をすすり、
静かな時間がゆるやかに流れていった。

「おまちどうさまでした」
そう言って膳が運ばれてきた。

「ほう これは又何とも・・・・・」
四角に切り分けられた表はただの白酢飯に平蔵は
少しばかり意表を突かれた面持ちではあった。

「春ならばこの表に青柳の葉を二枚ならべて・・・・・・」

「わはははは 幽霊も出そうな・・・・成る程こいつは愉快でござる」

「はい この酢飯は白魚のエソをすり身にしまして、酒、醤油、
塩を合わせたすし酢にこのすり身を加え出来上がりで、
中に入れますゴボウや人参、油揚げに戻した山菜を混ぜて砂糖や、醤油、
酒、味醂で煮付けます。

昆布で炊きあげた白飯に先ほどのエソのすり身を混ぜ込んで酢飯を造ります。

この酢飯を三ッ割に取り分けて二ツにかやくを混ぜ込み、
下に芭蕉の葉や,葉蘭を敷いて、その上にこの酢飯を敷き詰め、
錦糸卵やおぼろを敷いて、その上に白酢飯を敷き、又詰めながら繰り返し、
数段重ねた上に白酢飯を重ねて、表に芭蕉葉や葉蘭を敷き詰めて蓋をし、
重石をかけて木枠を外し、目付板を置いてそれに合わせて包丁を入れます」。

「何と手のかかる仕事よのう」
平蔵はこの素朴な物にそこまで手を掛ける料理へのこだわりを感心していた。

「先の茶巾のご亭主がよく申しております、良いものは手間暇掛けねば造れないと」

「おうおう わしもそれをあの亭主からご教示頂いたぜははははは」

「さようで・・・・・まぁ早速お口汚しに」
と箸を取り上げた。

「うむ では馳走に相成るか!」
平蔵も箸を取り上げ口に運んだ。

「うむ この薫りは青柚子だのう、それにこの酢飯の具合がいや 
これはこれはまろやかで口の中で拡がる心地の良いこと、
これは一朝一夕で出来るものではござるまいわはははは」

平蔵ほとほと感服の体である。



帰り際老人が「こいつぁお口汚しのついでにお手間じゃぁござんしょうが
奥方様へのおみやげと洒落こんで・・・・」





「ほぉそいつぁまた・・・・」





「なぁに、ただの醤油でございますが、周防柳井津の甘露醤油でございますよ、
こいつぁ刺し身がよう合います」





そう言って持たされたのがさしみ醤油であった。





それから数日、又もや妻女久栄の白眼を横目に平蔵赤鰯をたばさんで出かけた。
すでに袷を着る頃となっていた。

「何!あのご老人が見えぬと?」

「へぇ この所一度もお目にかかっておりやせん」
おやじの返事に平蔵胸騒ぎを覚えた。

くだんの家に出かけてみると、すでに空き家の貸札がゆらゆらと
無表情に揺れていた。

近くのものに尋ねると、二日程前に押しこみがあってその老人が殺害された
という話しであった。

「で 若いおなごが居ったはずだが・・・・・・」

「へぇ それが不思議なことにその翌朝からぷっつり姿が見えねぇんで」

「くそ!!! やられた!」
平蔵は僅かではあったが腑に落ちない事があった。
それはゆうれい寿司を作った時の手際の良さであった。

「あれほど手際よく聞いただけで出来るものではない、
おそらくは昔作った覚えがあったからであろうよ・・・・・
のう佐嶋!そうは想わぬか?

俺はあの隠居が親爺と慕ぅておった沖仲仕の親分の仇を討ったと言っておったが、
もしかしたらそのやられた相手の遺恨返しであったのかも知れねぇなぁ・・・・」

お互い名を告げることもなくあえて名を知ることもないまま
心の隙間に流れた秋の風をいつまでも平蔵は忘れることはない。

平蔵には唯一の隠れ家であったあの茶巾をその後再び訪れることはなかった。

柳の裸枝がゆらりとひとつ揺れた。
「秋の風は心寂しいものだのぉ・・・・・・・」



拍手[0回]


徘徊 6月第1号


相模無宿の彦十 この上に猫さんはなく、
この下に猫さんは居ない・・・・・当たり役だったなぁ

此処は半蔵御門を真っ直ぐに西へ取った麹町九丁目
お店の名前を(大坂屋)という穀物商、主は五十がらみの優男で、
名を菊次郎という。

奉公人は十名ほどで、さほどの店ではない。
今朝も今朝とて朝餉8あさげ)を済ませた老人に、
丁稚がのれんを分けた間からこれもか細い体つきの腰を曲げた格好で
ヨイショと声をかけながら空を見上げた。

「ほな 行って参じます」
「へぇお気をつけて行っておいでやす」と店の者に見送られて、
杖をつきながらよたよたと半蔵門の方に向かって歩き始めた。

いつもと何の代わり映えもない一日の始まりであった。

この老人、名を久左衛門といい、上方でも同じ穀物を商っている。
大坂の店は長男の菊太郎が引き受けており、上方と江戸の両方で
更に商いを拡大しようという触れ込みでのことのようである。

そのために、この度江戸にも店を出すことになって、
次男の菊次郎が主を務めることになった。

あちこちの茶店に寄ってはしばらく休み、世間話をしながら
めぐるのが楽しみのようで、
ほぼ毎日朝出かけては夕方帰ってくるというのが日課のようであった。

先々の茶店でも居酒屋でも(ご隠居さん)で通っていた。
何しろすでに七十近くになると見えて、それなりに耳も少し遠い
多少は大きな声で話さないことには、馬の耳に念仏の例えのように、
仏様のような笑顔でニコニコ笑っているだけである。

立ち寄る店の者もすっかりそれには慣れてしまっているようで、
さほど気にもしていない。
それでも時には心配だからと一人手代がついてくることもあった。

そんなある日の出来事である。
「ご隠居さん本日もごきげんでございますね」
と茶屋の親爺が迎え入れる。

「はいはい今日は向かいの相模屋さんが又大賑わいでございますねぇ」

「へえへえ 本日は相模屋さんの荷物が届きまして、
それで人出が多いのでございますよ」

「はぁさようでございますかぁ いつもこの頃で?」

「へぇ 船の都合とかで毎月決まっているようでございますよ」

「はぁそりゃぁ又大事で・・・・」
と 人足の出入りを眺めながら茶をすすっている。

茶をゆっくり飲み、饅頭をつまみながら供の手代に
「ありゃぁ大変な荷物じゃなぁ清どん」
と声をかけた。

「ほな又寄せてもらいまひょ、おおきにごちそうさんでした」
老人は供の者を従えてよたよたと歩き出した。

こんなことが一年以上続き、すっかり馴染みになった店のものからも、
知りたがりやのご隠居様で通るようになった。
それほどこの老人は物を尋ねるのが好きなようである。

「こんな雨の中を、足元の悪いのにわざわざ・・・・」と 言えば、

「じっとしていると身体が生っちまってねぇ、雨も又風情があってようござんすよ」
との返事。

まぁ人は好き好き、こんな日は雨宿りの客くらいしかないものだから、
店の亭主も座り込んでの長話、世間話に花が咲くというものである。

「おや 雨の日でも荷物は運んでくるのだねぇご苦労なことで」

「そりゃぁご隠居さん、雨だろうが風だろうが荷役は待ってはくれませんやぁね、
ああして雨の日は人足の数も少なく、蔵まで運ぶには時がかかりまさぁ」

「ふ~んそんなに蔵まで遠いのかいなぁ」

「さようでござんすね、大黒様の鏝絵(こてえ)が見えるのが一ノ蔵、
弁財天が二ノ蔵と聞いておりやす」

「はは~ 鏝絵でっかぁ何ですかそれは」

「あれまぁ ご隠居さんもご存知ねことが・・・・・ははは。
鏝絵は左官が壁を塗る時にコテで絵をかいたものでございやすよ、
漆喰は貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作るそうで、色目には色土や岩、
貝殻から松脂(まつやに)のススまで、何でも使うそうで、
特におめでたい絵柄は大切な蔵や土蔵に飾るようでございやすよ」

「はぁ~そいつはまた豪気な話で・・・・・」
呆れた表情でキセルに煙草を詰めてぷは~っと気持ちよさそうに
雨の向こうの喧騒を眺めている。

「おやおや清どん、今日は又荷車がひいふうみい・・・・
五つも並んでおるによって、荷が雨に濡れたら大変だすなぁ」

「左様でございますなぁ大旦さん!あの荷は何でおまっしゃろか?」

「ああ あれは堅魚でございやすよ、荷函に字が書いありますやろ、
今のじぶんは土佐物が多く、四国沖の物が出回ります、へぇ」

「へ~堅魚でっかぁ、あの出汁にする」
とご隠居さん興味津々で言葉を引き継ぐ。

「へぇ 堅魚とか松魚とか言うそうで、土佐から阿波、紀州、駿河、
伊豆、相模から安房、房総、上総、陸奥と最後はなんと蝦夷まで行くとか、
で、それぞれ捕れる時期が変わるそうでございやすよ」

「へへ~それにしてもご亭主どん、よう存知でんなぁ」

「そりゃぁもうご隠居さん、しょっちゅう相模屋さんの大旦那から
聞かされますんで へぇ」
「特に堅魚はあっしらには縁のねぇもんでござんすがね、お武家様や大店、
はては将軍様までこの堅魚で出汁を取るのが一番とかで、
そりゃぁ大層な値段で売れちまうそうでござんすよ」

「ほっほっほっそれじゃぁあのお店はおぜぜがぎょうさん貯まるばかりでんなぁ」

「さいですなぁ あっしらにやぁ関わりござんせんですがね、
まぁそれで蔵が二つも三つも並ぶってぇこってござんしょうね、
はぁ何とも羨ましい話でござんすよ」
亭主はそう言って新しい茶を出してきた。

それからひと月あまりが流れた。
「おやご隠居さん、お久しぶりでございやしたね」
と茶店の亭主。

「おおっ これはこれは 何ね ちょいと身体をこわしたもんで、
ひきこもりぃだす。
やっとお天道さまの下を歩けるようになりましてん」

「そりゃぁ又難儀でございやしたねぇ」

「おや ご亭主どん 向かいのお店がえらい騒がしいようだすが・・・・・」

「へぇ 何でも昨夜お店に盗っ人が入ったとかで、
今朝からお役人様方が色々と出入りされておりまして、
あちこち聞いて回っておられますようで」

「さいですかぁ、そりゃぁ又大事っちゃ、のう小吉どん」

「でどないな様子だす?」

「それがでんね、何でも朝方押し込みがあって大旦那やおかみさん、
番頭さんなど主だった奉公人が皆目隠しの上に猿ぐつわまでされて、
今日入る荷のための為替金100両と、この月のお店の売上などが
盗まれたそうでございやすよ」

「やれやれ 何とお気の毒なこって」
と相変わらず美味そうにキセルをふかす。

「わてらも気ぃつけとかんとあきまへんなぁ清どん」

「ほんまでっせぇ大旦さん、江戸はきついところでおますなぁ」

ところがこのような事件がこのところ頻発した。
狙われるのは荷が入る前日か、その前日・・・・・・
判でしたように似通っており、町方だけでなく火付盗賊改方にも
この話は舞い込んできた。

「うむ 近頃では珍しい押し込みではあるなぁ」
平蔵は昨今頻発している急ぎ働きの悪辣(あくらつ)な手口に
胸の悪くなる思いであったから、余計にそう思えたのかもしれない。

「小林!お調書をもう一度洗いなおしてみよ、他に手すきの者は
被害のあった店に出張り、更に詳しく、落ち度なきよう聞き取ってまいれ、
ああそれから近所で不審なものや話などなかったかそれも忘れるでないぞ!」
と命じた。

その数日後密偵や同心などが聞き取りしたお調書が集められた。
筆頭与力の佐嶋忠介をあたまに、盗賊方の主だった面々が
清水御門前の役宅に集められた。

平蔵は大きな紙を広げ、そこに日時、場所、時刻、店の内容、
奉公人の規模、被害額など判る限りを書き出させた。

ところが面白いことに忠吾が気づいた。
「おかしら、どうも先ほどから私めが担当いたしております不審なもの、
あるいは特定の者の中に知りたがりやのご隠居とか申すものが度々見えまする」

「何ぃ!」
平蔵の顔が一瞬引き締まった。
「忠吾 其奴は一体何者だえ?」

「はぁ 何でも久左衛門とか申すようでございますが、
皆は知りたがりやのご隠居様と呼び親しんでおるようにございます」

「うむ 知りたがりやとはちときになるのう・・・・・」
これはいつもの平蔵の感ばたらきにすぎない。

「よし!とりあえずそちはその知りたがり屋のご隠居を・・・・・
おおそうだ、伊三次とあたってみてくれ」

「ははっ!」
木村忠吾は早速密偵の伊三次を清水御門前の役宅に呼びつけ、
事の次第を告げ、話が出ていたお店を回らせることにした。

数日後忠吾は平蔵の報告書を持ってやってきた。

「おかしら 例の知りたがり屋のご隠居の身元が判明いたしました」

「おう ご苦労ご苦労 で、 お前ぇはその間何を致しておった」

「はぁ?」

「これ忠吾 お前はこの俺の眼が節穴だとでも想っておるのか?」

「はぁ~一体何のことでござりましょう」
と、とぼける忠吾ではあったが

「馬鹿者!お前ぇが一切を伊三次に背負わせて、
昼日中から茶屋に出入りしておることを知らぬとでも思うたか!
此度の事を何と心得ておる忠吾!」

「ははっ!!!!!何ともその、あのぉ・・・・・」
忠吾は廊下に頭を擦り付けてなお顔の埋もれるほど低頭した。

「忠吾、わしはなぁお前ぇに茶屋通いを致すなと申したことはない、
だがそれも時と場合を考えるであろうと想うたからじゃ、
その俺の気持ちをお前はいかように想うておる!」

「ははっ 申し訳もござりませぬ、親の心子知らずとは
誠に持ってお恥ずかしく・・・・・」

「もうよいわ! で、いかように判明いたした?」

「はい 伊三次の申すには、この知りたがり屋のご隠居は
麹町九丁目に大阪屋と申します穀物商の隠居だそうでございます。

名を久左衛門と言い、1年と少し前に上方からこの江戸にやってきて
商いを始めたそうに御座います。
商いの方も手堅くやっておるようで、店の評判もなかなかよろしいそうにござます」

「ふむ こたびはちとわしの想いと外れたのう・・・・・・・
だがどうもこう、歯に何かがはさまったような、
う~ん いやさっぱりと致さぬ、ふむ」

平蔵、腕組みをしたままじっと目を閉じて、散逸した駒を頭のなかで組み替える、
そのような面もちである。
「他に駒が見つからぬか・・・・・・
「もう一度そこいららあたりを更に深く探るように伊三次と、
おう彦十にも左様申し付けておけ、それとな、忠吾程々に致せよ」

「はっっ!!!!」

平蔵はこれまで被害のあった店を中心の探索から、
知りたがり屋のご隠居の徘徊先を洗いなおしてみることに切り替えた。

平蔵の部屋に拡げられた絵図面には、このところ立て続けに被害にあった店の
印が記されてあった。

「どうもこの目の端がぴりぴりするでなぁ」
と筆頭与力の佐嶋忠介に話した。

被害の範囲が一定の広さから出ていない、要するにどこからであれ、
1日かかって歩ける範囲に集中していることが平蔵のピリピリに
つながっているようである。

したがこの範囲内に在る商家といえば、まるで途方も無い数に登る、
何かに的を絞らねば・・・・・・・
だが、その何かが判らぬ・・

ほころびとは想わぬ時に見つかるもので、日常ではさほど多く目にすることではない。
この度の事件も想わぬところからその糸口が見えてきた。

伊三次が相模の彦十を伴って麹町の大阪屋の隠居、
通称知りたがり屋のご隠居を微行すべく店の斜向かいの建物陰で待ち構えていると、
それらしい風体の品の良さそうな老人と共の者が出てきて
店先で何やらふたことみこと言葉を交わして歩き始めた。

「彦十さんあれが例のご隠居さんだ、後に付いているのが手代の清吉ですぜ」
と伊三次が顎で指す。

「ふ~ん あの野郎かい 銕っつあんの言っていなさる野郎は・・・・・」
彦十はさほど気にすることもなく漠然とその老人を眺めた。
通りがかりの者がその老人に挨拶を交わした、その後供の者が振り返りながら
世辞を言ったようだが・・・・・

「あっ!」
彦十が小さく驚きの声を漏らした。
「伊三さん、確か清吉って・・・・・」

「ああ そうだよ、清吉ってえんだ」

「清吉ねぇ・・・・・・」
彦十は何かをつなぎ合わそうとするように首を傾げたまま集中している。

「あれっ 珍しいじゃござんせんか、彦十のとっつあん考え事をするってぇのは」

「おいちょいと待ってくれよ、あの顔どこかで見たんだよなぁ」
彦十は伊三次のからかい半分の言葉を制しながら記憶の糸を
浮かび上がらせようとしているふうである。

「まぁそいつは歩きながらでも思い出せばいいや、
それより長谷川様のお言いつけ通り、後を微行けなきゃぁ」

「おっとがってん承知之助」
彦十も頭を切り替えたらしく、ひょこひょこと微行を始めた。

「う~む どうもねぇ・・・・・」
彦十はそれほど前をゆく若い男にひっかるようである。

いっ刻程後を尾行(つけ)たとき、浅草の柳原同朋町にさしかかった所で
茶店に立ち寄った。
いつものようで、いっぷくふかしながら、
出された茶をすすり浮世話しでもしている風情である。

両国橋を抜けて左に曲がり、柳橋を潜った所で一双の川船が荷揚げを始めた。
上げたところは川向うの平右衛門町、その向こうは浅草御蔵が続く蔵前である。
しばらくして隠居主従は立ち上がってまた歩き始めた。

「とっつあん、あっしはこのまま奴の後を微行やすんで、
とっつあんは先ほど奴らが何を話したか、茶店の親爺に探りを・・・・」

「がってん承知!任せてくんねぇ」
と掌を叩いて茶店に向かった。

「とっつあん 茶代だ!」と伊三次が気を利かす。

「へんっ!オイラだって茶代くらいは持っているよう伊三さん、
後は任せな、それより・・」
と首をひょいとしゃくって先立った主従の方を見やる。

「任せねぇ」
伊三次は素早く後をつけはじめた。

「おう ご苦労であった!」
本所菊川町の長谷川平蔵役宅で報告を待ちわびていた平蔵が
キセルをふかしながら畳縁に腰掛けて庭の紫陽花の色移りを眺めていた。

「で、 彦 いかがであった!」
平蔵は相模の彦十の収穫に期待をしていた様子であった。

「それがね銕っつあん、どうにもこうにも、あっしは伊三さんと分かれて、
野郎が何を聞いたか喋ったか、そこんところを探ろうと茶店に入ぇりやした」

「おうおうそれでどうした」
平蔵はその先を聞きたくてウズウズしているようである。

「ところがドッコイでござんすよ、なんてぇこたぁねえありきたりの世間話でね、
へっ面白くもおかしくもねぇや」
と、彦十、あてが外れてようでふてくされている。

平蔵もその返事に少し腰砕けを感じつつも、一日中歩き回された
この元老盗の働きをねぎらうように言葉を返した。

「なぁ彦十 お前ぇは世間話に聞こえたやも知れぬがな、
そんな普通の話の中に思わぬ者が潜んでおる、
いやさ、老獪になればなるほどその辺りの仕掛けは巧妙でな、
それがわかっちゃぁお前ぇおしまいだぜ」

「へぇ~そんなもんでござんしょうかねぇ、
野郎(今日は又弁財船でも入ったのかねぇ、川船が幾双も寄せて、
お向かいは賑やかで、とか何とか平右衛門町の船着場の様子を
供の男に話していたそうで。

一瞬平蔵の顔色が変わった。
「なにっ 弁財船だとっ!!  むむっ ぬかったわ そいつだ!
彦十そいつが奴らの狙いだったんだ、でかしたぜぇ えへへへへへへ 
う~むでかした!」

狐に包まれたような顔で彦十
「ててて銕っつあん いったい何がどうなっちまっているんで?」
とひょうきん顔で問い返したものだ。

「彦 川だよ 川が絵解きの糸道だったんだ」

「へっ? そいつぁ一体どのような仕掛けで・・・・・」

「仕掛けも糞もあるか 大坂屋は上方にも店があると申したな」

「へい 江戸の方はその出先と聞きやした」
と答えたのは朝熊の伊三次

「そいつだ !そいつよ、うむこいつを見逃しておったゆえ
的がひとつ絞り込めなんだ」平蔵の目にメラメラと炎が立ち始めた。

「伊三次 奴らは結局そのまま店に戻ってのではないかえ?」

「あっ 長谷川様よくまぁお判りで、全くその通りでさぁ、
野郎その後はまっすぐ横山町を抜けて大伝馬町から本町と抜け、
途中何度か茶を飲みに立ち寄りやしたが、
それもちょいの間の一休みってぇところで、常盤橋を右に折れて
鎌倉河岸から一橋御門、俎坂橋をわたって九段坂を越え
お堀端一番町から麹町のお店へ戻りやした」

「ふ~むやはりそうであったか、よし、押し込みは今夜か遅くとも明日と読んだ、
早速手すきの者共を集めるよう手配いたせ!」
平蔵は同心筆頭の酒井祐助に下知を飛ばし、奥に引こうとした時

「てててっっつあん いや長谷川様!思い出しましたよ」
彦十がどんぐり目をむいてのりだした。

「何だ えっつ 彦十 素っ頓狂な声を出しおって!」
平蔵は振り返りながら彦十の驚いた顔を見た。

「あいつぁ牛尾の・・・・・」

「何だその牛尾の何とやらは」
平蔵は彦十の記憶をたどる顔を覗き込むように再び尋ねた。

「確か牛尾のえ~っ何とかぁ・・・・・」

そこへ駆けつけた五郎蔵が
「相模の そいつは牛尾の太兵衛じゃぁござんせんか?」
と言葉を挟んだ。

「そそそっ そいつだぁ」
彦十はシワだらけの顔を余計しわくちゃにして目を輝かせる。

「誰だその牛尾の太兵衛ってぇのは」

「牛尾の太兵衛と申しやすのは遠江の国山名郡金谷宿牛尾郡の出とか、
駿河、遠州、伊勢が奴のおつとめのようで、岡部の宿で呉服屋を商っていたとか。
ただ中風になって子分どもは散り散りと聞きやしたが・・・・・」

「そいつだよ五郎蔵さん、その一人泥亀の七蔵とよくつるんでいたやつ、
名前はおぼえてねぇけど間違いございやせん」

「急ぎ牛尾の太兵衛のお調書を捜しだせ」
平蔵はこの事件に王手をかける面持ちでてぐすねした。
だがいっ刻過(た)ってもお調書は見つからない。

「こうなったら是非もなし、おそらく奴らは船を使うに違いない
、川筋を厳重に見張るよう、それと押し込み先が知れぬ今、
麹町の大阪屋の動きを張るしかあるまい、皆心して臨め」

その夜半平蔵の指揮のもと火付盗賊改方の面々が麹町九丁目の
心法寺門前に集結していた。

「おそらく奴らは四ツ谷御門辺りから川筋を取って速やかに
目的地に進むに違いない、これまでの被害におうた店の近くには
必ず水路が通っておる」
平蔵のこの読みは的中した。

暁の九ツ(午前0時)を回る頃、ひたひたと人の足音が暗闇に聞こえてくる。
遠くで犬がけたたましく吠え、静けさを破った。

(来る!)

平蔵は四ツ谷御門に向かう一団の前に立ちはだかった
「火付盗賊改方長谷川平蔵である、おとなしく縛につけ!
」と呼ばわり、廻りを提灯が囲んだ。

塀際から掲げられた高提灯の中で、無言の気迫がせめぎ合った。
黒装束の一人が、ゆらり・・・・・前に進み出て、平蔵の前に腰を落とし、

「お手向かいはいたしません」
とその男は静かな口調で、しかし毅然とした態度であかあかと照らしだされた
平蔵の顔を見上げた。
それを見た他の者も黙って座り神妙である。

一味は総勢十名、残された者は、かの知りたがり屋のご隠居を含め三名が
大阪屋店内で捕縛され、川船で控えていた二名も逃れることはなかった。

「それにしてもおかしら、何故川筋が怪しいとお思いになられましたので」
沢田小平次がまず口火を切った。

「うむ あれか、ほれ、彦十が拾うてきた船荷の話しよ、
あのおやじの話題は何だったえ?」

「そういえば荷車がどうのとか船がどうのと・・・・・・あっ!」

「その通りよ、奴はそれぞれの店の前でその月のいつ、
どの時刻にどのくらいのものがどのような形で運ばれるかを
丹念に探っておったわけだ、
そいつを一年も掛けて調べるたぁこいつははぁ何とも用心深い奴らよ、
さすが牛尾の太兵衛の手下どもだ、いやそれにしても長い捕物になったが、
こうして皆の者の苦労が実ったってぇことだ、目出度ぇ事だ。

「もうひとつ、これはぜひともお伺いいたしたきことが・・・・・」
と沢田小平次

「うむ 何だ?」平蔵はゆっくりと沢田を振り返った。

「はい お頭は何故奴らが押し込みに入る日時がお判りになられましたので」

「おお そいつか それはな、上方訛りであったことからよ、
江戸の商人と違ぅて時価もの取引を致さぬそうな、江戸は金座で金が通り相場、
だが上方は銀だそうな、そこで品物を受け取る時銀と金の交換が必要になる、
そこで上方の商人が編み出したのが為替という換金方でな、
こいつは前もって金を両替商に持ち込み為替に交換しなければならねぇんだ」

「あっ 判りました、つまりはそのための金が前日に手元に在るということで、
それを判断するのが荷物の運び込み日時・・・・・」

「さすが沢田 鋭い指摘じゃ、その通り、だが此度はその上を行く事が起こったのだ、
何故奴は船荷がつく日にちを前もって判って、それを確かめに見聞に行ったと想う?」

「はぁ~そこまでは」

「そこだよ、上方で商いを致しておるという話しであったなぁ」

「はいそのようで」

「そいつだ、上方に出入りする船を見張っておれば、いつどこへゆく為の荷物か
見聞きできるであろう?東回りの千石船だ、風待ち潮待ちで時もかかろうよ、
それを飛脚便などで知れば前もって中身を知ることが出来、手を打てるという、
うむ さすがに牛尾の太兵衛の流れを汲む盗っ人、読みが深ぇってことだな」

「時の流れというもの、時に面白ぇ物を生み出しちまうものらしい。
紙切れ一枚ぇが小判と同じ仕事をやってのける、
こいつぁお釈迦様でも気が付かねぇことだったろうよ」
平蔵は時の流れを身にしみて感じているようであった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座   http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平覚悟







春もようようにして、曙もゆるやかに江戸の町を包む弥生の頃となった。
本所深川から永代橋を渡り南町奉行所へと歩を進める平蔵の後ろを
つかず離れず微行する気配を感ずるものの、
その気迫の薄さが平蔵には気になっていた。

稲荷橋から中の橋を通り八丁堀をまっすぐ西に向かい真福寺橋を
渡ったところの稲荷社にさしかかった所で、いきなりその気配が後ろから
追いかけるように平蔵に飛びかかってきた。

「鬼平覚悟!」

「なに!」
少々のことでは驚くこともない平蔵だったが、この度だけは一瞬戸惑った。

腰を捻り一の太刀をかわして愛刀粟田口国綱の柄に手をかけて驚いた。
(何と子供ではないか!)
あまり突然の展開に平蔵は面食らった様子が見て取れる。

二の太刀がまっすぐ平蔵の胸を目指して突き進んでくるのを
慌てて鍔口でかわしながら
「待て待て!確かにわしは長谷川平蔵だが、子供に命を狙われる筋合いは持たぬ、
何か間違ぅてはおらぬか?」
穏やかな言葉で相対に話しかけた。

「間違うはずもない、先に小塚原でさらし首にかかった元会津松平家藩士
崎森勇四郎が嫡男崎森小四郎、父の仇、長谷川平蔵覚悟!」
これにはさすがの平蔵もたじたじとなった。

「まままっ 待て待て!」
鍔先で押し戻しながら平蔵、相手の柄中を掴んだ
「問答無用!」
と再び激しい気迫が平蔵を押し返そうと迫った。

「やむを得ん」
平蔵はその手をひねり倒して刀を取り上げた。
見ればまだ10を出たばかりのような幼い顔である。

「離せ!離せ!さもなくばこの場にて殺せ!」
と喚くばかりのこの身柄を、さていかにしようと平蔵思案顔である。

騒ぎを聞きつけて野次馬が集まってきた、何しろ稲荷社と言う場所からも
人が集まりやすい所、まずい所で又このような・・・・・・・
平蔵はひとまずこの子供の帯を掴んで稲荷社の後ろに連れて行った。

「まず訳を話せ、わけもなく仇呼ばわりされるのはちと合点がゆかぬ故な」
すでに覚悟をしたのか、その小さな刺客が少しおとなしくなった所で
平蔵は言葉を引き出そうと石垣に腰を据えた。

「お前もそこに掛けたらどうだ?」
押し黙ったまま立ちすくんでいる幼子に声をかけた。
やがて少年は黙ったまま石垣にもたれるようにしながら平蔵を睨み据えた。

「のう わしはいかなるわけがあってそなたの仇となるのか聞かせてはくれぬか?」
穏やかに話しかける平蔵に、危険を感じないと判断したのか
口ごもりながらぽつぽつと口を開いた。

話を聴き終わった平蔵は、予想だにしなかった展開に深い戸惑いを見せた。
「のう小四郎とか申したな、お前は父御の仕事を存じて居ったのか?
どうして小塚原の獄門にかかったかその訳を存じておるのか?」
と言葉を選びながら気分の高揚が収まるのを待つように話しかけた。

「私は何も存じません、ただ父上をさらし首にした相手が鬼平と呼ばれる侍だと
聞かされたまでのこと」

「で 母御はいかが致しておる」

「母は三年前に病に倒れそのまま亡くなりました」

「そうか・・・・・・それは又大変であったろうな」
平蔵はこの幼子の置かれた立場や境涯を追うような目つきで眺めている。

「父上は何故獄門台に上がらねばならなかったのでございます、
何故殺されねばならなかったのでございます?」

「そうか、何も聞かされてはおらなんだか、いや そうであろう、
言えるはずもなくつらかったであろうな、
だがな小四郎、お前の父上は盗賊の仲間であったのよ」

「嘘だ!あの優しい父上が盗賊などあろうはずもございません、
騒ぎに巻き込まれたか何かで、きっと間違いに相違ないのです」

「うむ 俺とてそう思いたい、だがのう、あの日は長きに渡った探索の末
掴んだ押し込みの現場であった。
そこに居合わせた者達にどのようないわくがあったにせよ、
わずかに残された者の自白にて、これまでに押し込んだ商家の者は
常に皆殺しとなり、凄惨をきわめたそうな。

こやつ以外に捕縛された者は殆ど無く、刃を向けて歯向かいおる者共は
皆切り伏せられ打ち倒された。
おそらくその中にそなたの父御もおったのであろう」

「嘘だ!そんな話は嘘だ!うそだぁ・・・・・・・」

泣き崩れてゆく小さな身体が震えているのを平蔵は抱きかかえながら
かける言葉がないことをどれほど無念に想ったか知れない。

会津松平といえば明和4年(1767年)財政再建を担っていた藩主
井深主水が俸禄や借財問題から藩放棄事件を起こしたことで知られていた。
この時俸禄を離された浪人の中にこの小四郎の父も含まれていたのあろう。

禄を離れた武士が生きてゆくにはこの時代あまりに平穏すぎる。

剣術で食べて行ける時代はもう終わり、才覚一つを元手にのし上がってくる時代である。
江戸に流れ着いた食い詰め浪人のたどる道はさほど多くはない、
女と違って身体を張ることも出来ず、さりとて力仕事や町方に混じっての
下働きなど武士のこけんに関わるから、余程のものでない限りは無理な時代である。

多くの者が商家の用心棒や博打場の用心棒と殺伐とした時代を背景とした
生業が生まれたのも否めまい。
小四郎の父親が悪の道に手を染めてしまったのも、
家族を養わねばならない男の意地であったのかもしれない。

今の世の中、侍らしく生きるとは何と虚しい生き方なのか・・・・・・・
平蔵の脳裏にこの時の記憶が薄らぐことはなかった。

平蔵は思案の末嫡男辰蔵のいる目白台に預けることとした。
これには二つのねらいがあった。

一つ目は辰蔵に責任を持たす役目、もうひとつは言わずと知れた
この小四郎の行く末である。
目白台には若党の井上武助、用人松浦与助、下女のおさわなどがおり、
おおらかに育つ環境があると見たのであろう。
だが、この目論見は見事に外れるのである。

平蔵と違って剣の腕よりも色道にはその能力を発揮する辰蔵、
いつのまにやら良き仲間に小四郎も染まってゆくのであるが、これは又後々の話。

ひとまずこの事件は目白台で事は収まったかに見えた。

だが、平蔵の心中は波立ったまま静まることがなかった。
(おれはこれまで幾人、人を切り倒したであろうか?外道極悪と呼ばれるも、
相手は人の子・・・・・鬼でも畜生でもない)。
それを想った事は一度たりとも考えたことはなかったからである。

この崎森小四郎の出現はこの後の平蔵の行動によって形となってゆく。
寛政元年(1789年)時の老中松平定信に建言して、
加役方人足寄場が誕生するのである。

別名石川島人足寄場の名で知られている、軽犯罪者や浪人などの
自立支援厚生を目的とした画期的な施設である。

平蔵はこの加役方人足寄場をも拝命、寄場お役を御免になるまでの
2年間を盗賊改めとの2足のわらじで務めた。

長谷川平蔵44歳のことである。

悪を犯さねば生きてゆけない事実と一旦人の道からはみ出した者が
正業に戻る難しさを平蔵は身を引き裂かれるほど痛く感じていた。

「人の中には鬼が巣食うておるもの、その鬼を退治するのも
これ又鬼でなければあい務まらぬ、内なる鬼を呼び覚まし、
我も又鬼となろう」
これが長谷川平蔵の死ぬまで変わらない覚悟であった。

この事件以後、平蔵は更に読書に熱が入るようになった。
その分「忠吾ついてまいれ」
という場面が大幅になくなったことは木村忠吾の寂しいところではあった。

だがこの木村忠吾ただの飾り猫では収まらない。
目白台の若様長谷川辰蔵の師匠ぶりを発揮・・・・・・
辰蔵からは「私の良き理解者」と言われる・・・・・・・

左様色道にかけての話しであることはいうまでもあるまい、
その横にいつのまにやら崎森小四郎が控えて来るのはもはや時間の問題であった。

市中見廻りの途中を「木村さん!」と声が聞こえてきた。

振り返る木村忠吾の顔はすでに目尻が下がり始めている。
言わずと知れた長谷川平蔵の嫡男目白台の辰蔵のいつも変わらぬ声であったからだ。

「これは若様!」

「嫌だなぁその若様はやめてくださいよ、辰蔵、辰蔵殿で結構ですよ。」

「左様でございますか、では早速辰蔵殿拙者に何か御用でも」

「いいなぁいいなぁその響きが何とも、こう私も木村さんと同等の
大人に扱われたようで、いやぁいいなぁ」
単純に辰蔵は忠吾の言葉の響きに喜んでいる。

「辰蔵殿、ところで拙者に何か?」

「あっそうだ、木村氏 チトお願いごとがござるのですが・・・・・」

「はぁ何でございましょうや?」

仲間内や平蔵からも、うさ忠うさ忠と呼ばれ慣れている忠吾だけに、
木村氏と呼ばれて忠吾も少し舞い上がったようであった。

「実はそのぉ、この近くで安く遊べるところはないものかと
こいつと話していた所で・・・・」
と振り返るその先には安倍、市川の悪友が揃って控えていた。

「アッ!これはまたまた皆様おそろいにて、
うふふふふ これから出陣という訳でござりますな」

「そそそっ そのようなところでございますよ、
所で木村氏、先ほどの話でござりますが・・・・」

「はいはい!しかと承っておりまする・・・・・が・・・・・」

「が?」

「左様! 軍資金はお持ちで?」

「無論のことでござります、巣鴨の叔父上からしっかりと
(遊びも修行の内じゃぁ)と・・・・・」

「それならばご心配ご無用、むふふふふ。
この木村忠吾メにおまかせあれ!」
と太鼓判を押すのだから平蔵の心配もうなずける。

「この近くにある(やぶさめ)はチト面白うございますよ」

「やぶさめ?あのご神事の・・・・・・」

「左様 あれはいかなるいでたちでおりまするか?」

「うーん 馬にまたがり矢をいかける騎射・・・・・・
アッそうかぁ さすが盗賊改方の中でも、この道は他に出るものなしと
聞こえた木村氏、いやぁなかなかでござるなぁあははははは」

ここまでくればもう手の施しようもない。

「ささっ 善は急げともうしまするによって・・・・・
ああ そこのお二方もどうぞどうぞ、むふふふふふっ」
木村忠吾すでに鼻の下は錠前も掛けられぬほど伸びきっている。

親の心子知らずとはよく言うが、お頭の心も知らぬ者もいたのである。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鍋に入ぇったか・・・・死ぬも地獄生きるはなお地獄




舟形の宗平・大滝の五郎蔵
 
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。


襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。


被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。


しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。


この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。


だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう


そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。


特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。


だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。


「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」


平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。


「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。


すでにふた月を無意味に流してしまっている。


「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。


ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。


「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。


「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。


書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。


だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。


表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。


「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」


「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」


「何?船が消えただと?」


「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」


「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」


「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」


「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」


「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。


「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」


「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」


こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。


「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。


「何! でたかっ!」


「で 何処であった」


「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」


「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」


「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」


「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。


「忠吾!!」


佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。


「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!


どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」


「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。


「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。


船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」


平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。


だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。


それからほぼ1年目の12月初旬


江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。


あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。


「そいつは一体ぇどういうこった?」


平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた


「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・


どうも大口の掛取りができなくなったようで」


「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・


なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」


「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」


「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」


平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。


不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。


「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」


それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。


「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」


その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。


「おおお おかしら これこれこれっ!」


「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」


「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」


「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」


「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。


蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」


気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」


「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・


左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。


そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。


本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて


「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」


と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。


「あっ!千成の・・・・・・」


「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」


「それでお前さん、今もおつとめを?」


「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」


「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」


「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」


「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」


「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」


「何だって!・・・・・・」


宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。


あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。


「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」


「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。


「そうそう そう言うこった! 
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」


「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。


「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」


九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。


「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。


「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」


九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。


「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」


まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に


「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」


何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で


千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。


判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」


「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。


こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」


「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」


「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」


「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」


「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」


「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」


「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。


まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。


まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。


「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」


明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。


おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。


ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。


「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。


ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。


その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて


「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。


「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」


平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。


翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。


「なんだ  申してみよ!」


「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。


平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、


「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」


「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」



「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」


「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。


店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。


だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。


船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。


何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・


でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」


「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」


「はははははっ 
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」


「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。


「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」


「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」


「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」


「ご冗談を!」


「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」


げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、


「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」


「義理があると申すのだな」


「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」


「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」


こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。


その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。


そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。


お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」


あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。


「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」


「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。


治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。


何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。


「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。


「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」


平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。


「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」


「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」


「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」


「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」


それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。


治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・


「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。


「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。


しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。


「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。


「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。


長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」


こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。


その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。


盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。


 



絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/



拍手[0回]



舟形の宗平・大滝の五郎蔵
 
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。


襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。


被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。


しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。


この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。


だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう


そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。


特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。


だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。


「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」


平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。


「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。


すでにふた月を無意味に流してしまっている。


「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。


ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。


「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。


「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。


書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。


だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。


表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。


「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」


「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」


「何?船が消えただと?」


「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」


「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」


「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」


「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」


「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。


「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」


「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」


こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。


「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。


「何! でたかっ!」


「で 何処であった」


「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」


「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」


「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」


「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。


「忠吾!!」


佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。


「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!


どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」


「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。


「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。


船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」


平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。


だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。


それからほぼ1年目の12月初旬


江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。


あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。


「そいつは一体ぇどういうこった?」


平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた


「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・


どうも大口の掛取りができなくなったようで」


「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・


なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」


「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」


「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」


平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。


不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。


「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」


それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。


「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」


その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。


「おおお おかしら これこれこれっ!」


「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」


「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」


「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」


「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。


蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」


気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」


「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・


左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。


そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。


本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて


「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」


と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。


「あっ!千成の・・・・・・」


「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」


「それでお前さん、今もおつとめを?」


「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」


「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」


「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」


「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」


「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」


「何だって!・・・・・・」


宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。


あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。


「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」


「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。


「そうそう そう言うこった! 
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」


「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。


「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」


九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。


「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。


「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」


九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。


「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」


まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に


「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」


何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で


千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。


判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」


「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。


「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。


こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」


「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」


「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」


「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」


「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」


「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」


「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。


まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。


まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。


「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」


明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。


おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。


ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。


「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。


ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。


その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて


「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。


「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」


平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。


翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。


「なんだ  申してみよ!」


「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。


平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、


「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」


「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」



「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」


「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。


店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。


だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。


船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。


何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・


でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」


「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」


「はははははっ 
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」


「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。


「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」


「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」


「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」


「ご冗談を!」


「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」


げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、


「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」


「義理があると申すのだな」


「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」


「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」


こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。


その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。


そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。


お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」


あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。


「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」


「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。


治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。


何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。


「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。


「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」


平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。


「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」


「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」


「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」


「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」


それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。


治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・


「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。


「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。


しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。


「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。


「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。


長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」


こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。


その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。


盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。


 



絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」  http://jidaigeki3960.sblo.jp/



拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/81/" /> -->

鬼平罷り通る  5月第2号 深川万年橋


深川万年橋



「おたみちゃんじゃぁないかい?」

ここは本所深川永代橋を北に7町程上がった万年橋たもとである。

声をかけたのは50がらみの渋い男、見るからに商人風の風体である。

振り向いたのは少しやつれては見えるが、ほっそりとした小面の町下の女・・・・・・

「えっ?」後ろから追いかけてきた言葉に身を少し傾けて振り返る

「あっ やっぱりおたみちゃんだ」

「あれ? もしかして長さん?」

「久しいねぇ 突然行く方知れずになってしまって、もう何年だろうね」
男は女の傍に寄りながら遠い思い出を探るようにおたみを見つめた。

「あれはお父っつあんが商いに失敗して、取り立てから逃れるために夜逃げした時だから
30年は過ぎたかしら・・・・・」
おたみと呼ばれた女は懐かしげに過去を思い出したような風情で空を見上げた。
真っ青な空に筋雲が刷毛で引いたように一筋深川の空をよぎっていた。

たもとの茶店に腰を下ろし、出された茶をすすりながら
「そうだったのか・・・・・私はおたみちゃんの姿が谷中から突然消えたので
神かくしにでもあったのかと、随分心配したもんだ」
おたみに長さんと呼ばれた男が茶を口元に運びながらおたみの横顔を見つめる。

この男長次郎はおたみとは同郷の谷中天王寺そばにある百姓町屋の生まれであった。
当時おたみの二親はろうそくや数珠などを店先に並べろ小商いをしていたが、
山師っ気があり人のよいところが裏目に出て、度々騙され、
とうとう夜逃げを余儀なくされた経緯(いきさつ)があった。

「長さんはあれからどうしたの?」
おたみは長次郎の横顔にそう問いかけた。

「俺かい、おれはおたみちゃんが消えた後丁稚奉公に出たのさ、
奉公先は北本所の吾妻橋たもとの中郷竹町にある呉服屋(結城屋)
ちょうど前を竹町之渡しがあって、大川を登り下りする船が色んな所から
出入りしていて賑やかなところだよ。

「ずっとそこに?」

「そうだなぁ お店(たな)に奉公に上がった頃は大旦那がいらして、
そりゃぁとても優しい方だった。
俺みたいなはなたれ小僧にも、お店が終わって夕餉(ゆうげ=夕食)を済ませたら、
大旦那様が自ら手習いとそろばんを教えてくださった。
丁稚小僧でも末は店の一つも構える心構えが大切だといつもおっしゃって、
そりゃぁ上下無く教えてくださったもんだ。
おかげさまで俺も今じゃぁ番頭を勤めさせて頂いているんだ」

「へ~ 偉いんだぁ」
おたみは嬉しげに長次郎を見あげた。

「俺の話ばっかしで、おたみちゃんはどうしていたんだい?」

「あたし・・・・・・あたしは・・・・・・」

おたみは返事をつまらせてじっと目の前に流れる大川を上る川船を眺めていた。
「長さん、船を見ているとゆらゆら揺れる姿が何だかこれまでの生きた証のように
見えるわねぇ」

ふと漏らすおたみのかすかな震えを帯びた言葉に、長次郎はおたみのこれまでの人生が
あまり楽しい思い出がなかったことを感じ取った。

「長さん女将さんや子供さんはいるんでしょう?きっと素敵な人なんでしょうね」
おたみは足元の日向にそっと足を伸ばしてその影をゆらゆら揺らせた。

「俺が40になった時、大旦那様が(そろそろ身を固めて、さらに商いに精を出せばと
薦めてくださって、同じ呉服屋(那賀屋)さんの下働きをしていた
(すず)と言う娘と縁を結んだのだがね、5年後の流行病であっけなくあっちに逝っちまった。
 
子供もいなくて、それ以来俺はお店の離れに棲むようになって、
今じゃぁ大旦那様も亡くなり、後を継がれた若旦那の後見役も兼ねた気楽な身分さ」

「そう それは寂しいわね・・・・・」

「おたみちゃんはどうなんだい?おたみちゃんの器量だ、
きっといい旦那と巡り会えたんだろうね」
長次郎は少しさみしげなおたみの顔色を読むように振り向いた。

柳が川風に揺られて草緑の風を爽やかに運んでくる。

「あぁ 気持ちがいい・・・・・・」
おたみは長次郎の話をそらすように風が頬に触れるのをいつくしむように眼を閉じた。
鬢のほつれがゆらりと流れてキラリと光った。

こうしておたみと長次郎が会瀬(おうせ)を重ねるようになって1年が過ぎた。
これまでに長次郎がおたみの口から聞いたうちでは、おたみも18で商家に入ったが、
5年たっても子が授からず石女(うまずめ)と呼ばれて、散々いじめられ、

挙句逃げ出すように家を飛び出し、東橋から大川に身を投げようとしたところを、
通りかかった花川戸の香具師の元締めに助けられ、
そこで下働きをして生き延びたという。

その頃の仕事が助けになり、今はよろず承り家業の看板を出すまでになったと言う事であった。

よろず承りとは、今で言う何でも屋、引っ越しから買い出し、
部屋の掃除からおさんどんまで困り事全般引受処という漢字である。

何しろ江戸は女が極端に少なく、箱根の関所でも「出女に入り鉄砲」
と言われるほど江戸から出ることを厳しく戒めていたことでも判る。

いわば男尊女卑どころか実際は全くその逆で、
一度女房に逃げられたら再び女房を持つのは至難の業、
この時代をしたたかに生き抜いていたのも実権を握っていたのも実は女であった。

髪結いの亭主なんてのは、まさに男のあこがれの姿である。

まぁそんなことは横に置くとして、おたみは仕事の内容次第で人足手配をやっていた。
これは花川戸の香具師の元で培った人脈が物を言ったわけだ。

こうして時折この万年橋のたもとの茶店で会うのが、
二人にとって一番のやすらぎであり心やすまるひとときでもあった。

今は本所深川千鳥橋を渡ったところにある堀川町に間口2間のささやかな店(千鳥屋
)を構えている。
近所の者からも千鳥屋の姐さんと親しまれているおたみであった。

このところ度々外に用事を作っては出かける大番頭に結城やの主人藤二郎は首をかしげ、
「長さん今日はどちらまで?」
と意味深な顔でにこやかに笑う。

「へぇ ちょいとそのぉ」

「まぁ時には腰を据えてお店のまもりもやってくれないものなねぇ」
と笑うほど、この長次郎はよく外出をするようになっていた。

夕餉の食事をしがら
「この頃の長さんはどうも様子がおかしいね!
何処かにいい人でも見つけたんじゃァないかねぇ、
それならそれで私も死んだお父っつあんに嬉しいご報告が出来るってものさね」
藤二郎は女房のお静にそう話していた。

どうにも気になって仕方のない藤二郎は、長次郎が出かけたその後を丁稚に微行させて、
本所深川の万年橋たもとの茶店で女と親しげに話している長次郎を目撃して報告した。

その日も夕刻に店に戻った長次郎に「長さん好いたお人がいるみたいだねぇ」
と誘い水を向けた。

「えっ 旦那様は何でそのような事をご存知で?」
長次郎は一瞬驚いて藤二郎之顔を見た。

「あんまり長さんが度々出かけるもので、店のものも女房のお静も気になってね、
それで今日はお前さんの出先に小僧をつけたのだよ」

「やれやれ それは又申し訳もございません、
旦那様にまでいらぬ気遣いを致させましたようで、長次郎深くお詫び申し上げます。」

「おいおい長さん、私は嫌味を言っているんじゃぁ無いんだよ、
それどころか長さんにいい人ができてくれたらこんなに嬉しい事はない、
出来ればここらで身を固めて暖簾分けでも出来れば、
私は死んだお父っつあんとの約定が果たせるってもので、
これでやっと肩の荷が下りるというおめでたいことじゃァないか」

「旦那様・・・・・」

「私はね、小さい時から長さんを兄さんみたいに想って育ってきたんだよ、
それは長さんもよく知っているだろうね。おとっつあんからいつも聞かされる言葉は
「長次郎を見習え」だったのさ、時にはシャクでもあったし悔しくもあった、

でも長さんが私に与えてくれた気持ちの優しさはいつも寂しい一人ぼっちの心を
温かく包んでくれたものさ。

長さんの女将さんが流行病(はやりやまい)で亡くなった時は、
私も自分のことのように悲しかった、
それだけに長さんがもう一度女将さんを迎えてくれればこんなに嬉しい事はないんだよ」

「旦那様・・・・・・そこまでこの私のことを」

「あたりまえだよ、私が近所の子供にいじめられていると、
いつも長さんが身を張ってかばってくれた、ひどい時は体中アザだらけになって、
鼻から飛び散った血を拭いもしないで私の前で仁王立ちにかばってくれた、
今もはっきりと覚えてますよ」

あははははは 「そんな時もございましたねぇ・・・・」

「そうだよ、今でもこの店にとっては長さんは大黒様みたいなものだよ、
でもね、そんな長さんにいい人がいるなんて知ったからには
、これはお赤飯で祝わなきゃぁねぇお静」

「その通りでございますよ、まだまだ男盛りの長さんだもの、
旦那様に暖簾を分けて頂いて、新しい店を出されればこんなに喜ばしいことは
ございませんよ」
お静も心から長次郎の事を案じていただけにこの小僧の報告に心が踊っていた。

それから半月あまりの時が流れ、柳もめっぽう色艶を増し、
流れる風にも涼しさが感じられるようになっていた。

長次郎がおたみの店に姿を現したのはその頃であった。
店の用事で南八丁堀の呉服問屋(あかね屋)に出かけたついでに立ち寄ったものだ。

おたみも突然の長次郎の訪問を驚きを交えて喜んだ。
「ちょっと待っててくださいね、この手配が終わったら手が空きますので」
そう言っておたみは出入りの男衆に指図をし、帳面つけを終えて戻ってきた。

「今日は良い所に来てくれたわ、出入りの棒手振り(流し商い)が
生きのいい甘鯛が手に入ったからともってきてくれたので、
それをさばこうと思っていたところだから、ね!食べていけるでしょう?」
と水屋の方に消えた。

女の城にしては殺風景な居間で長次郎はおたみの用意した酒肴を膝前に、
キョロキョロと辺りを見廻した。

「いやですよ長さん!そんなにジロジロ辺りを見回さないでくださいな、
何だか裸の自分を見られているようで・・・・・・」

「ああ こいつは済まなかった、久しく女っ気のない生活だったもんで、
それにしてもおたみちゃんは・・・・・・」

「女っ気が少ないって思っているんでしょう」
おたみは笑いながら手料理を運んできた。

「いやそんなつもりじゃぁ・・・・・でも確かにそう言われればそうかなぁ」

「あっ! やぁね こう見えてもまだまだあたしは女を捨てたわけじゃぁありませんからね!」

「やぁこりゃぁ一本取られましたよ」
長次郎は苦笑いしながら杯を取り口に運んだ。

「こうして女の人を前に酒を飲むなんて久しくなかったからどうもいやぁ
こりゃぁバツが悪くて・・・・あはははは」

「あたしだって、嫁に行った先でも姑が何でも仕切ってたので、
二人で御膳を囲むなんてことはなかったし、ふたりきりの生活はなかったから、
そうねぇ確かに気まずいことは判るわ」
おほほほほ、と顔が耀いた笑顔で心のなかから楽しいという思いがにじみ出ていた。

「甘鯛はね京都ではグジっていうんだって、白身で脂肪が少なく、
水っぽさがないのがいいんですよ。
中でも静岡の興津白甘鯛は美味しいと評判なんですって

身が柔らかいので薄塩で身を締め昆布シメにして刺し身にしますのさ、
身を千切りにして酒で表を拭いた塩昆布とおろしワサビで昆布がしっとり
馴染むまで挟んで置いておき、しばらくしたら昆布を細く切りそろえ
塩と酢橘を振って頂くのが一番美味しいそうですよ。

その間に松川造りを、こちらは皮と身の間に旨味があるので3枚におろして
ハラスをそぎ落として小骨を抜き取り、皮の表に晒を掛けて煮え湯をかけますのさ、
すぐに水に浸して熱を取り晒で水気を吸い取らせ、切りそろえて器に盛る、
それだけのことですけど・・・・・」

「ううん 旨い!この皮目が又綺麗で歯ごたえもよく、なんといっても甘い!
おたみちゃんの気持ちが現れているようだよ」
長次郎は家庭料理の温もりを初めて味わったようである。

「ねえねえ このお汁はどぉ?」
待ちきれないようにおたみは次々と料理を並べる。

「おたみちゃんも食べなよ、俺一人食べるのは気が引けて気が引けて・・・・・」

「まぁそんなぁ あたしはこうして手料理をこしらえて、
それを美味しそうに食べてくれる長さんの顔を見るのが一番嬉しいし幸せなんですよ」
とそそくさと水場に戻る。

「おたみちゃん この汁も美味いねぇ!」

「ああ それはね甘鯛の潮汁といって、お酒で拭いた昆布を土鍋に入れて
しばらくつけ置きしてから出汁を取るのよ、
煮立つ前に昆布を取り出し、アラに煮え湯を掛けて血合いや余分なものを流すの、
綺麗に取れたら昆布出汁に身とお酒を入れて少し弱めの火で煮立つ寸前に
弱火にするのがコツかなぁ。

アクは丁寧に取り除かないとせっかくの色目が壊れちゃうから、
身に火が通ったら塩で味を整えて香りつけに醤油を垂らすの、
仕上げは柚子の皮二欠け三欠け・・・・・・

は~いお待ちどうさま、甘鯛の鯛めしですよ、
これはね、ウロコを落として臓腑を抜き綺麗に洗って水気を取り、研いだ後、
少し上げざるにして水気をとったお米を土鍋に入れて、
昆布出汁やお酒、薄口醤油にみりんを入れて、甘鯛を乗せて炊きあげるの。

仕上げはお酒を振りかけて、なべに水気を絞ったフキンを掛けて蓋を閉め
少し蒸らしを入れると出来上がり!ねっ!」

「うん、こいつもおいしい 香りもいいし・・・・・・けど・・・」
と途中で言葉を濁した長次郎に

「けど何よ?」

「うん 毎日これだと大変だぁ、作るだけで日が暮れちまう」

「だからあたしの商いが成り立つのよ」

「そうか そうだよなぁ、おたみちゃんは頭がいいからなぁ」

「それは関係ないわよ、これも私を拾ってくれた花川戸のお頭のおかげなのよ」

この温もりを大切にしたい、そう想ったのは長次郎だけではないようだ。

「ねぇ 長さんまたいつでも来てくださいな、こんなに楽しい時を過ごせたのはほんと 
初めてよ」
おたみは心の底からそのように思っている。

「うん また寄せてもらうよ」

「約束よ 指切りげんまんしようよ!」

「よし 指きりげんまん 嘘ついたら針千本飲ます!!指切った!」あはははははは
初夏の香りが大川から上がってくる静かな、そして幸せなひとときであった。

数日後おたみの元へ長次郎が訪れた。
手に鍋を提げている。

「なぁに鍋なんか下げて・・・・・」
おたみはおかしそうに笑った。

「昨夜相生町の軍鶏鍋(しゃもなべ)や五鉄と言う所で寄り合いがあって、
そこで食べた軍鶏の臓物鍋が実に美味しかったので主の三次郎さんにご無理を言って
こうして鍋を借りてきたというわけさ、なぁに二人で食べにゆけば済むことだけど、
おたみちゃんとふたりきりで囲むのが俺には一番の楽しみなんでね、

そんな話をしたら、三次郎さんは快く胸を打って(ようがす、どうぞお持ちになすって)
と鍋を用意してくださったのさ」

「まぁ長さんったら可笑しな人!」

そう言いつつもおたみも楽しげに夕餉の支度にかかった。

「こいつはねぇ新しい軍鶏の臓物と新ごぼうのササガキと一緒に
出し汁で煮ながら食べるのが一番!、暑い時にふうふう言いながら流れる汗を
拭い拭い食べる、その後ひと風呂浴びる、こいつがもう堪らないんだよおたみちゃん」

長次郎はまるで子供のように目を輝かせておたみの反応を確かめる。

「何だか聞いているだけでもう あたしなんか鳥肌が立っちゃう ほら 見て見て!」

そう言って腕をまくってみせた、そこには一筋の傷跡が・・・・・・

慌てて隠そうとするおたみ
「おたみちゃん 苦労したんだね、おれがおたみちゃんを探し続けてさえいれば
そんなことまでおたみちゃんを追い込むこともなかったろうに、
ごめんよほんとにごめんよ・・・・・」

おたみはその場に泣き崩れた。

「実はねおたみちゃん、今日は旦那様からお許しを得て俺は暖簾を分けてもらえる事になり、
お店の場所も決まったんだよ、旦那様のご紹介でね南八丁堀に一軒お店を出させ
ていただくことになったのさ、
そのお祝いにとこうして軍鶏鍋下げてやってきたってわけさ」

「まぁほんとに鍋釜下げってって言うけれど、可笑しい!どんな顔して二つ目から
歩いてきたのかしら、うふふふふふ」

おたみはその長次郎の姿を想像して楽しそうに笑った。

その翌月、ここ南八丁堀5丁目角に呉服屋(笹乃屋)が店開きの準備にかかっていた。

無論この店は長次郎が暖簾分けしてもらった呉服店である。
店の前でかいがいしく男衆に指図しているのはおたみであった。

長次郎は最後のご奉公にと結城屋の集金に出かけていた。

夕方近くおたみは夕餉の支度を整えて、明日から始まる長次郎との新生活に
胸を膨らませていた・・・・。

だがいつまで待っても長次郎の姿はこの新所帯に現れることはなかった・・・・・・

翌日朝、本所菊川町の長谷川平蔵役宅に番屋から通報があり、
深川の御厩川岸で昨夜辻斬があり50がらみの男が殺害されたということで、
早速筆頭同酒井祐助ほか数名が駆けつけた。

懐に残されていた掛取り証から北本所の中郷竹町にある呉服屋
(結城屋)の者であることが判明した。

どうやら懐の集金した金子を狙っての辻斬であった。

「銭金を盗むのは理由(わけ)もあろう、だがなぁ、幸せまで盗むのは誰にもありはせぬ!
許せねぇ、だがそいつをひっ捕らえたとて、盗みとられた幸せは、戻っちゃぁ来ねぇんだ、
あまりに不条理ではないか・・・・・・

のう酒井!虚しすぎるぜ  胸が痛んでいかぬ、せめて盗人を捕まえて・・・・・・
辛ぇだろうなぁ・・・・・・」

平蔵は役宅の庭に咲き誇っている梅花ウツギの白さが残された女の哀しみに重なって目に染み、
時折吹いてくる優しさを伴った微風に目を閉じたままいつまでも佇んでいた。



絵図入り 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平罷り通る 5月第1号 「赤い糸」



結城紬


長谷川様やっとご注文のお仕立て物が出来上がりまして、

と上州屋が持参した袷に袖を通しながら平蔵
「ウムこれはまた着心地の良い、中々仕立てが良いと見ゆるのう、
わしはちと右腕が長うござっての、それがちゃんと合わせておる」

「はい 仕立てましたのは手前どもの針子の中でも一番の腕前にて
過日お屋敷にて長谷川様に着尺を合わせましたる者でございます」

「うむ 仕立て上がりというものは、どうもどことなく肩が張って
叶わぬのだが、此度のものはそれがなく初めから着馴染みた着心地で、
おう中々うむ よいよい」

「恐れいります、お着物は着込まれた結城紬でございますが」
「うむ 俺の親父殿から下りてきたものだがな、親父殿もその親父殿からの
下がりものじゃと言うておったわ」

「さようでございましょう、特に結城は幾代も着込まれて初めて
その真価が出ると申します。

茨城の結城は絹川(鬼怒川)と呼ばれるように、
絹の生産が盛んでございました。

元々は屑繭をほぐしまして綿の状態から紡ぎ直し致します、
煮繭(しゃけん)と申しまして、マユを重曹を加えた湯で
一刻(2時間)ほど煮込みまして、柔らかくしたものをたらいに移し、
ぬるま湯の中で5つ6つを拳にて広げながら重ねて1枚の真綿袋を作ります。

この時、中のサナギが生きたまま煮たものを(生き掛け糸)と申しまして、
艶のある丈夫な糸になります。

真綿をのしたものを更に拡げて、端から糸を引き出します、
この時指先にツバをつけてヨリをかけながらまとめ糸に致します。

特に女ざかりの物はツバに粘りがあり、照りの有る良い糸が紡がれると申します」

「ほほ~女ざかりとはこれまた上々 う~んなるほどのう、
中々粋なことを申すものじゃな」

「はい そのようで、これをくくります、カスリは絵図面にあわせて
墨をつけたところを綿糸でくくってゆきますが、これは男手でなされるようで、
始めからおしまいまで一人で為されます、人が変われば染も違うてまいります故・・・・・

括(くく)り作業も少ない所で80亀甲から200亀甲まであるそうでございます」

「ほう、その亀甲とはどのようなものかのう?」

「それは一反の一幅に80の模様が入ったものを80亀甲と呼びますので、
200亀甲ともなりますとかすり模様が400となり、
一反では10万箇所にもなり、手の早い男ででも数ヶ月はかかるそうにございます」

「なんと 数ヶ月も手間ひまかけたものか・・・・・」

「結城は甘撚りのために、織る前にノリを付けます、そのために
織り上がったものを湯通しいたしまして糊を落とし、
仕立てに入ります、これが中々の作業で、
もっぱらこの作業のみ行う商いがあるほどでございます」。

「いやいや さような手間ひまかけたものをこうして我らは
着ることが出来るのでござるなぁ」

平蔵は結城紬の温もりがそこからも伝わってくるような面持ちで渋く燿く袖を眺めた

ところでその‥‥何と申したかなこのお針子は?」

「はい 私どもは(おさえ)と呼んでおりますが、本当の名前は明かしてくれませぬ」

「なんと 本名ではないのかえ?」

「はい 何でも昔好きおうた男が居たそうでございまして、
その男が佐渡から帰ってくるのを待っておると申したそうにございます」

「佐渡だと?てぇ事はよほど重てぇ罪を犯したことになるが・・・・・・」

「なんでも人を手に掛けたとか・・・・・・」

「ふむ いつごろの話だえ?」

「もう5年になりましょうか・・・・・・」


さて、その頃に時を戻さねばならない。
師走を控えて江戸の町も慌ただしさが日増しに色濃くなり始めた12月も終わりの頃
昌平橋を渡った神田明神前の金沢町の呉服店(黒姫屋)の
戸口を開けた丁稚が門口で震えている子供がいると主の清兵衛に報告した
ことが事の発端である。

何はともあれと店の中に入れて風呂を沸かし体を温め、
店のものと一緒に朝餉をすまさせた。

半年ほど前に同じ年頃の娘を流行病で亡くしたばかりの夫婦には、
まさに神様からの授かり物にさえ想え、そのまま育てることにした。

ただ、身にはお守りひとつ持っておらず、名を聞いてもただ泣くばかりで、
それではととりあえず亡くした娘の(おさえ)で呼ぶことにした。

それからの5年程は他人も羨むほどの可愛がりようであった。

だが、おさえが拾われて5年目の12月半ば、清兵衛夫婦に子供が授かったのである。

それまで我が子と思い育ててきた娘よりも実の我が子が可愛くなるのは
何時の世にも変わらぬ事のようで、年がいってからの授かった子供だけに
溺愛も一段と激しく、その分おさえに対して手のひらを返すが如き扱いに
なっていったのは自然の成り行きだといえよう。

「おまえを拾うてこれまで育て恩を忘れるんじゃァないよ!」

女房の(お妙)はおさえに事あるごとに口やかましく言うようになった。

子供が泣いたりむずがったり、挙句は子供が自分たちになつかないのは
おたえがそうしているのではないかと、おたえの子守の仕方が悪いと
折檻する始末、それも身体の見えないところを責めるものだから
そんなことは誰にも気づかれない。

おたえの背中と言わず足と言わず、外から見えないところはアザだらけであった。

寝床についた時から翌朝食事が終わるまでがおたえの唯一の慰めの時でしかなかった。

そんなある日、朝からぐずる子供に手を焼き、
又もやおさえに八つ当たりする女房のお妙。

その場にいたたまれなくなったおたえは、いつも子供を背負って
行く近くの神田明神の門に腰掛けて泣いていた。

まだ10才を出たばかりの子供である。

そこへ通りかかった20そこそこと想われる男が
泣いているおたえに腰の手ぬぐいを渡した。

おさえはもうこの男をここで見かけるようになって半年近くになっているので、
あまり警戒する様子もなく手渡された手ぬぐいで涙を拭った。

男はそのおさえの顔を見てにっこり微笑んだ。

おさえは男に名前を聞いたが男は黙って微笑むだけであった。

この男をよく見かける近所の女の話では、どうも口が聞けないようであった。

ただ定職は無いもののこまめに働くところから薪割りや水汲みなど
力仕事に皆重宝して使っているようだが、
棲んでいる場所も定かではないようである。

実はこの男、名を与助と言い奉公先の主から暴行を受け、
争った挙句主に怪我を負わせ逃亡した時、
主の枕金庫から金子が少々無くなっていたと番頭より届け出があった、
そのために厳しい取り調べがありその際の拷問で口が聞けなくなったようである。

そんな与助の気持ちがおさえには唯一の気の安らぐひとときであったのは
当然といえば当然であったろう。

あるときおさえは与助に
「あたしが15になったらあんたのお嫁さんになってあげる、
その時あたしの本当の名前を教えてあげる」と話した。

与助は黙って静かに微笑みを返した。

それを遠くで眺めていた黒姫屋のおかみお妙が、
「こんな薄汚い奴といたんじゃぁ娘に何をするかわかったもんじゃァない、
お前もお前だよこの島帰りのろくでなしと話をするなんてとんでもないことだよ」

と平手打ちでおさえを攻めた、驚いて泣き叫ぶ娘に
「お前のおもりが下手くそだから娘が変になっちまったじゃぁないか!」
と再び手を上げた。

それを与助がおかみの腕を握って押さえつけた。

「何すんだよこのゴロツキが、汚らわしいその汚い手をお離し!」
おかみはかんしゃくを起こし、「奉行所に訴えてやるから覚悟おし!」
と、毒ついて背中におわれた娘を奪い取るように引き剥がして帰っていった。

その夜おさえが再びおかみのお妙にいじめられたのは言うまでもあるまい。

折檻の激しさは店の者が陰で見ていても怯えるほど凄まじいものであったと言う。

翌日与助はお妙の訴えで捉えられ、
町奉行所の門前で100叩きにあい、放免となった。

その3日後黒姫屋に明け方押し込みがあり、黒姫屋夫婦が殺害され、
番頭の話では手文庫の100両あまりが盗られていた。

店の奉公人は奥の離れに皆休んでいたために朝まで何も気ずかず、
丁稚が戸を開けようとして戸が開いているままになっていることに気づき、
その報告をするために主の部屋に番頭が出向いて事件が発覚したと
町奉行所に届けがあった。

奉行所は先日のおかみの訴えを元に与助を捕縛、
拷問の末与助が恨みを持ってやったと自白、佐渡送りになった。

奉行所では与助とみ知り合いであったおさえが手引をしたのではないかとも疑り、
おさえも捕縛されたが、店の奉公人がおさえと同じ部屋であったために
疑いは晴れお解き放ちになった。

与助が拷問によって自白した事を知ったおさえは取り調べに当たった
奉行所与力の帰りを待ち伏せて与助の取り調べの再考を願い出た。

無論一旦決まった事件を蒸し返すことなど出来るはずもなく、
押し問答の中で、はずみからおさえは与力の首を与助のくれたかんざしで刺してしまった。

幸い一命は取り留めたものの、事の重大性は殺害の意思があったと断定され、
おさえは殺人未遂で石川島寄場送りと決まった。

上州屋は話を続けた。「それから2年の歳月が流れまして、
おさえは再犯の恐れなしという事と、
行状すこぶるよろしいと言うことで1年早く釈放された後、
深川のひょうたん長屋に棲みついたそうにございます。

寄場の中の授産所で読み書きや針仕事を学んで、
それが今のおさえの生業になって生きたと申しておりました」

「おお 加役方人足寄場がお役に立てたか・・・・・
何とも嬉しい思いだのう」
平蔵は自分が老中に言上して、石川島に軽い咎人や無宿者を収監し仕事を与えて、
出所厚生の基盤を築いた。

その結果がこうして花開いたことに少なからず喜びを見出したのである。

ところで上州屋、先程の押し込みの件だがな、確か黒姫屋ともうしたな?」

「はい 間違いございません、神田明神前の金沢町でございます」

「フム確かどこかで読んだような・・・・・・

おい誰かある!」

「おかしらお呼びで!」と筆頭同心酒井祐助が控えた。

「おう 酒井、定かではないのだがこの春ひっ捕らえた急ぎ働きの事件で
神田の押しこみ事件の控えを探してはくれぬか」

「ははっ 早速に!」

しばらくして「おかしら!ございました。
神田明神前金沢町呉服屋黒姫屋押し込みのお調べ書でございます」

「おお すまなんだ!
のう酒井そちも覚えてはおらぬか、
忠吾めが出会い茶屋で拾うてきた話が糸口で奴が捉えて参ったこそ泥、・・・・・・
このお調べ書ではあぶはちの千六と書かれておるが」

「はい たしかそのような名前で、
捕らえた忠吾がクモでのうてよかったと申しておりました。」

「はははっ!虻蜂取らずよのう 忠吾めそこまで読みおったか!わはははは。
うむ、やはりそうであったか、のう伊勢屋、先ほどの与助の話だが、
どうやら下手人は他に居ったようだ」

「何と申されます?では与助は下手人ではなかったと・・・・・」

「うむ これは奉行所の勇み足のようだのう・・・・・・」

「何とも酷い話で・・・・・・
長谷川様なんとか与助の身の証を立てることは出来ないもので?」

「あい判った!明日にでも奉行所に出向き冤罪であることを証し、
その与助とやらを佐渡より呼び戻そうではないか、お上とて人の子、
まして採決間違いとなれば文句も出まい」。

翌日平蔵は奉行所に出向き、事の次第と盗賊あぶはちの千六の
聞き取りお調べ書きを提出。

与助の冤罪はこうして晴れることになった。

それから2月あまりの歳月が流れ、長谷川平蔵のもとに一通の書状がもたらされた。

「何と・・・・・・・」平蔵は深い溜息を漏らして空を見つめた。

平蔵は伊勢屋にお針子のおさえを伴って役宅に出向くよう指示を出した。

翌日伊勢の主がおさえを伴って清水御門前の火付盗賊改方役宅に出向いた。

「おさえと申したな、そなたの仕事はいや実に良い、
ほれこうしてわしは気に入って毎日着させてもろうておる、
ところでな、昨日佐渡のお山より与助のことで返事が参った」

その言葉を聞いておさえは目を輝かせて膝を乗り出した。

伊勢屋から与助が冤罪であった話を聞いて、
密かに本日の知らせに胸も高鳴っているのであろうことが平蔵にもよくわかった。

「おさえ・・・・・・
与助は昨年暮れに労咳で倒れ、そのままもう戻っては来れぬそうだ、
最後までお前が与助に渡した神田明神のお守りを離さなんだそうな、
誠に相済まぬ、お取り調べにもっ
と深く当たればよかったものを、
誠に無念でならぬ・・・・・」
平蔵はおさえの顔を見ることが出来なかった。

おさえは平蔵から渡された与助に持たせたお守りを握りしめ、
声を殺してその場に崩れ落ちた。

この哀しみは声さえ奪うほどの重さであることを平蔵は胸にたたんでいた。

「罪を憎んで人を憎まず、のう伊勢屋、人が罪を犯すのではない、
世間や人が罪を犯させるのだ、
その罪を誰が裁けよう、俺とて罪を犯してはおらぬと言い切れるものではない、
人はみなそれなりに罪を犯し、その重さを胸に仕舞いこんで生きておるものよ、
だがそれをせねばこの世も又地獄、誰かが為さねばならぬ辛ぇ仕事だと想わぬか?

皆それなりにわけがあって道を誤り外道の道に進んでゆく、
その裁き場所を間違わぬよう我らとて心を引き締めて当たらねば、
こたびのおさえのような事件は無くならぬ」鬼と呼ばれる平蔵の頬を
止めどもなく涙が流れていた。

後に市中見回りの途中立ち寄ったとおさえの元を平蔵が尋ねたことがあった、
無論これは口実で、その後のおさえを案じての平蔵の優しさである。

「ところでおさえ お前ぇの本当の名前ぇは何てぇ言うんだぇ?」
と水を向けたが、おさえはただ笑って
「あたしの名前は忘れました」と小さく答えたそうだ。

おさえ15歳の春の出来事であった。

拍手[0回]


鬼平まかり通る 4月第4号 うぐいすの谷渡り


筆頭与力佐嶋忠介

「下等改めと町奉行からもやゆ揶揄されて、俺は火付盗賊になどなりとうなかった。
元の御先手組でいたほうがよっぽどましだ」

下谷金杉町の居酒屋(ちろり)は岡野の居宅のある竜泉寺町からほど近いこともあり、
よく立ち寄る店である。

酔い潰れて居酒屋の土間に座り込んだ同心岡野清三郎、
どうにも手のつけようもないほどにめいてい酩酊している。

「旦那又喧嘩ですかい?その挙句がいつもこうなんだからいけませんやぁ」
「俺はなぁこの太平の世の中、
お先手組なんてぇ今じゃぁなんの用もないお役所で日々のんびりと暮らしていてえんだ、
解るか親父それが何で火付盗賊なんてぇ嫌われものに

この身を預けなきゃぁならねえぇんだ、えっ!クソいまいましい!
見ろよ十手を見せて(火付盗賊改方だ)っていやぁ、皆ビクビクしやぁがる、
その陰でなんて言ってるか知っているかぁ!

下水の蓋だとよ臭ぇ者にフタをする御役目だとさ。
お陰でお前ぇたちの暮らしが守らているってぇのにその言い草は無ぇだろうええっ!
おまけに俺はうちつと内勤め、
日々同心共の報告をしたためる面白くも何ともぇ毎日と来ている。」

「判った判ったよっく解りましたよ旦那、
ですから今日のところはもうお帰りになったほうがよろしいんでは」

「何だとぉ 家に帰れというのか、家に帰りゃぁ帰ったで
クソ面白くも無ぇ女が冷ややかに出迎えるだけの毎日だ!

姑は姑で見栄ばかり張りやがって、俺が火盗改だと言ってくれるなとよ!
あのおやじ義父め!何が旗本でぇ今じゃぁお上の穀潰しじゃぁねぇか」

すでに眼が据わっている岡野を見て、
「やれやれ又岡野の旦那だぜ、又いつものようにざまぁないやね、
お旗本とはいえ3人目ともなれば、あそこまで駄目になっちまうのかねぇ、
上の旦那はたいそうご立派なお役だと聞いちゃぁいるが・・・・・
可哀ぇそうに冷や飯食いはつらいねぇ」

その場に居合わせた旗本奴風体の男が声をかけてきた。
「ねぇ岡野の旦那ぁ酒で憂さ晴らしもなんですがね、
ちょいと面白ぇとこへでも行ってみやせんか?」

「何だぁ 面白ぇところとは何だぁえっ!
この世に面白ぇところなんざぁあるもんけぇ、
どいつもこいつも腹ン中でベロ出しながらロクでもねぇ
御託ばかり並べやがって・・・・・・・

「旦那行きましょうよあたしがご案内しますからさ!」

「女!お前が相手をするってぇんだな?」
「はいはい私がお相手いたしますよ」

「よし!そうと決まれば断るわけにも行くまい、参るぞ何処えでもなぁ」
岡野はよろよろと身体を起こしたが、
ろれつも中々回りにくいほどの酔いたんぼうである、
男に肩を貸してもらいながら店を出て行った。

「大丈夫かいなぁあんなゴロツキ奴の口車に乗りなさって」
店の亭主も少々気になる様子であった。

女と二人の旗本奴に伴われてどこかの居酒屋に入ったまでは覚えている、
だが記憶はそこまでで、後はぷっつり途切れている。

頭が割れるほど痛い、飲み過ぎも度を越すとこのザマだ、
どうにも辛い、それにしても静かだな?

此処は一体どこなんだ?あたりを見回すがとんと覚えのない場所である。
ぼんやりと障子越しに明かりが見える、
目を細めて焦点をゆっくり合わせながら今の居場所の情報を読み取ろうとして、
手が滑っていることに気がついた。

(んんっ?!)みれば右手が真っ赤に染まっている・・・・・・・
ゆっくりと身を返すと、背中沿いに誰かが倒れている、
「おい!」揺り起こそうとしたその者の胸から真っ赤な血潮が
噴き出しているのが薄闇でも観えた。

「んっ!!」・・・・・・
まさか・・・・いや覚えはない、この顔も場所も・・・・・・
一体何があった?

めまぐるしく意識を振り絞りながら状況を把握しようとするが、
記憶が途絶えたままでどうにもならない。

とにかくこの場を離れなければ・・・・・・・
人間というものはこのような時必ずと言ってよいほど同じ行動に出るもので
グラグラする頭を振りながら神経を集中しようと柱に捕まり身体を引き上げる
脇差しの血糊を拭い、鞘に収めてよろけながら外にでる。

(ここはどこだ?)
店の出入口につかまって見渡すと遠くにどこかの寺らしき大屋根が観える。

広い道に向かってふらつきながら歩を進めると、
そこは見覚えのある下谷坂本町のようであった。
寺や寺院がひしめき合うように立ち並ぶところをいつも通るのですぐに判った。

とにかくひとまず家に帰り、ひと風呂浴びねばどうにもならぬ・・・・・・
血と泥にまみれた格好はひど酷いものであった。

「また朝帰りでございますなぁ・・・・・・」
冷ややかな女房の声を背に岡野は水を被り気持ちをシャンとさせようと
風呂場で何度も水を被った。

まだ昨夜のことが飲み込めない・・・・・・
人を殺めた記憶もないし、あの居酒屋に行った記憶が定かではない。
解せぬ!死んでいた奴は一体誰なんだ?

俺とどんなかかわり合いがあったというのか、
どんな経緯で殺めねばならなかったのか・・・・・

岡野は衣服を整え清水御門前の盗賊改めの役宅に向かった。
九段坂をさしかかった時

「あのぉ~お武家様」と声をかけてきたものがあった。

「何物だお前は」怪訝そうな顔の岡野を覗きこむように
「ゆんべは大変なめにお逢いなさいやしたねぇへへへへへっ」

「誰だ貴様は!」

おっと!そのままそのまま・・・・・
油断すりゃぁこっちもついでにバッサリじゃかないやせんからねぇ旦那」

男は間合いを計りながら一定の距離を保つ。
「それにしてもゆんべの旦那はひどく酔ってなさって、
覚えていらっしゃらねぇんじゃぁねえかってね?」
男は誘うように脇道の方へ下がってゆく。

「貴様何を存じておる!」
岡野はその男の後をついて行く格好になりながらも何かを探りだそうとしている。

「何?岡野が出所していないと?」
木村忠吾からの報告を受けて佐嶋忠介は平蔵にそのむね旨を報告した。

「ふむ それで岡野の屋敷では何と申しておる」

「はぁ それが何とも冷ややかなもので
(いつもの気まぐれ、どうぞお構いなきよう)との返事に、こちらが戸惑いました」

木村忠吾が頭を掻きながらそう報告してきたものだ。

それにしてもおかしら・・・・・
忠吾は同輩の岡野の行動が近頃荒れていることは
薄々感づいていたようで「なにか起こさねばよいがと案じておりましたが、
まさか行方不明とは・・・・・」

「おいまだ行く方知れずと決まったわけではないぞ」
平蔵は腕組みしながらじっと眼を閉じている。

「おかしら、岡野の探索に手を回したいのではございますが、
町奉行より先月のお手配引き継ぎにて上方の大盗賊天野大蔵一味が
江戸に向かった形跡があるとのうわさもあり、

此処で探索を分散させるわけにも参らず、いかが致しましょうや?」
佐嶋忠介は困り果てて平蔵の指示を仰ぐ。

「五郎蔵の話では天野大蔵は蛇の平十郎や葵小僧を育て上げた浪人崩れの盗賊で、
そのやり口は凄惨きわ極まりなく、
むごたらしい殺しを平気で犯す悪党とのことだのう」

「はい そのように聞き呼びます」。

「とにかく今は密偵も手一杯であろうし、与力、同心力を合わせて
奴らの動きを探り当てねばなるまい、それが先決ではないかのう」・・・・・・

平蔵もこれ以上密偵や同心達に過剰なおつとめをしいる事には胸が傷んだ。
そうこうしているうちに事件が起こった。

しかも火付盗賊改方が回った後を舐めるように数カ所で同時に勃発した。
まるで小手試しのように目立たないところから炎が上がった。

探索や見回りの情報が漏れている、
まさか・・・・・・平蔵の胸中にそんな火種がくすぶり始めてきた。
「岡野の足取りはつかめたか?」
平蔵の問に木村忠吾は
「それがそのぉ 全くといって掴めませぬ、
あれ以来家にも戻っていない様子で、
さすがの御内儀もあきれ果てておる様子にございました」。

「むむむむむうっ」平蔵の険しい顔が忠吾を震え上がらせた。

重苦しい空気が火盗改の役宅に満ち満ちている。
そんなよどんだ空気の中に岡野の姿を見かけたという密告があった。

「どこだ!」
佐嶋忠介はその情報の出どころを確かめるよう筆頭同心の酒井祐助に下知した。
出処はすぐに知れた。

しかもその出処は岡野清三郎の出入りしていた居酒屋(ちろり)の亭主からであった。

「いえね、今朝ほど岡野様が印籠を此処に落としたようなので
もらってくるように頼まれた使いのもんだと言いやして
遊び人風の男がやって参ぇりやして、

確かに岡野様の印籠はお預かりいたしておりやしたので
渡しやした。お預かりいたしやしたおり、岡野様が
(これを取りに来る奴がおるかも知れぬ、
その時は面倒でもご亭主その者の後を微行てくれ、

決して深追いはするな!遠くで様子が分かる程度で良い、
その後そのことを火付盗賊に伝えてくれ)と申されやしたので、

早速娘のおきよに後をつけさせました」
そばから娘のおきよが
「岡野の旦那様は男連れで、お侍に囲まれるように路地の奥に消えてゆきました」

「で、どこらあたりだ?」
「へぇ 坂本町の養玉院のあたりでございます、
その奥の沼のそばの家にお入りになられました」

「早速その辺りをくまなく探索せよ」
佐嶋忠介の声にも少し力が湧いているようであった。

坂本町を東に入った突き当りに沼があり、
更に向かいは小屋敷などが立ち並び、賑を見せている場所であった。

その傍らにひなびた居酒屋のようなたたずまいの家が見えた。
反対側の沼のはずれにある空き家の土塀の陰に
身を潜めた小房の粂八の姿が見えたのはその後すぐであった。

翌日もその又翌日も交代で密偵たちが二人一組で昼夜なく張り込んだ。
その日は朝から雨が降り止まず、見通しは極端に落ちた。

だが、その雨の中を利用して家の外から動きが見え始めた。
一人二人と三々五々入る人影が増してきた。

「長谷川様にお知らせを!」
五郎蔵が伊三次に指示を出す。

「動きが出始めやしたね頃五郎蔵さん」粂八が口を切る。

「実はね粂さん、この家を張ることが決まった時、
長谷川様が妙なことをお言いなさってね、
おれにもとんと見当はつかねぇんだが、
とにかくお言いつけ通りあの家を見張ることだよ、
ほんの些細な事も見逃しちゃぁならねぇ、
これが長谷川様のお言いつけよ」

「何でござんしょうねそいつは・・・・・」

粂八にもおまさにも全く理解できない様子である。

周りはだんだんと夕闇が迫り始め、人の出入りもそろそろ終わりかと想われた。

「今日はこれでおしまいかねぇ」

そんな話をしていると、沼の方に人影が現れ何かを沼に捨てたように見えた、
人影はもう判別がつかないほどではあったが、
何かを捨てたことだけは水音で確かである。

「粂さん!これまで何日も張っているが、こんなことははじめてじゃぁないかい?」

五郎蔵の言葉に粂八も
「確かに・・・・・」

じゃぁこいつが長谷川様がおっしゃった気を配るってぇ奴?」

「違ぇねぇ、すまねぇがこのことを急ぎ長谷川様にご報告してくれねぇか」
五郎蔵の顔が引き締まっている。

それから二刻(四時間)あまりが過ぎた頃、
平蔵を始め火付盗賊の面々が駆けつけ、
蟻の這い出る隙間もないほどにその居酒屋を取り囲んだ。

月は満天に昇り明々と沼にその姿を映し込んでいた。
「家の前後を固めた捕り方に
「かかれ!」平蔵の号令が闇夜を切って飛んだ。

大槌を振りかざして酒井が戸を叩き壊した。
「火付盗賊改方長谷川平蔵である、神妙にお縄につけ、
さもなくばこの場にて切り捨てる」
と大声で呼ばわった。

「クソぉ!」あちこちで叫びと悲鳴や罵詈雑言が飛び交い、
月夜の明かりだけの交戦が始まった。

素早く盗賊方により明かりが長押などに打ち込まれ、
外には高張提灯が掲げられた。

ぎゃ!グヘッ!
切り伏せられ、あるいは十手で骨を打ち砕かれて悶絶する声にならない声が
飛び交う混戦の様子ながら次々と捕縛や打ち倒された者が外に転がり出て来た。

「きさまぁ岡野清三郎!」
木村忠吾が外に飛び出した男を追って飛び出してきた。

それを認めた平蔵が
「忠吾!岡野はわしが命じ、奴らの懐に飛び込んでくれたのよ、

岡野ご苦労であった、それ!残りのものを残らずひっ捕らえよ」。

こうして今までどうしてもしっぽさえ掴めさせず、
上方から江戸に向かってその名をはせた名うての大盗賊天野大蔵は
平蔵によって切り伏せられ、この地を朱に染めて果てたのである。

斬り合いが始まって小半刻(三〇分)、やっと元の静けさに戻った。

「おかしら!これは一体どのような訳がござりますので」
木村忠吾が平蔵に詰め寄った。

横から佐嶋忠介が
「忠吾、お前も天野大蔵が上方よりこの江戸に入るという町奉行よりの通達は
存じておったであろう、

だがなぁそれ以外何の手がかりもなくこの狂気じみた獣を
江戸に入れる事はいかにしても避けたい。

盗賊改めとしては手をこまねいておるわけにはいかんのだ、
それでおかしらより岡野清三郎に白羽の矢が立ったというわけだ」

「天野大蔵の事は我らもよく承知いたしており、
市中見廻りでもそれとなく眼は光らせておりました」

忠吾は憤懣やるかたなしと、鼻の穴をふくらませてふくれっ面の面持ちである。

「そこでだ、岡野に因果を含めてこの大事なお役を隠密裏に与えたのだ。
お前ぇ達だと顔が効きすぎておる、どこで面が割れるやも知れぬでな、
岡野の腕と知識に頼っての隠密行動であった。

相手が引っかかるかどうかは5分と5分、不案内の土地で仕事やらかすにゃぁ
何が一番大切だと想うかえ?土地カンであろう?

そこで岡野の仕事を逆用させるという戦法に打って出たのさ」

「と言うことは、岡野様の帳面つけ・・・・・
成る程岡野様ならば市中見廻りの刻限なども承知しておりますゆえ・・・・・・
あっ そういう裏がござりましたか」
忠吾もやっと納得がいった様子である。

「そこで下谷の居酒屋(ちろり)での度々の大芝居よ、
美味ぇ事に相手が乗ってくれたまでは良かった」

「はい そこからが問題だと考え、前もって亭主に印籠を渡し、
これを受け取りに来る奴があらばそいつの後をつけてくれるよう頼んでおきました」

「それよ!それがこの度の糸口になったと言うわけさ」。

「しかし岡野、そちを取り込むにはどのような手口を用いたのだえ?」
平蔵は岡野がいとも簡単に仲間にならされた手口に興味があった」

「それがおかしら、私を酩酊させ、その後で殺人の芝居を打ったのでございます」

「おいおいちょいと待てよ、人殺しとな?」

「はい それが又手の凝った芝居でございまして、犬か何かを殺ったようで、
その血を私の脇差しに塗りつけ、
傍に見知らぬ男が血まみれになって転がっておりました。
無論そいつの血も犬の血でございましょう、

私はこれが奴らの仕掛けだと勘付いて、芝居を続けたのでございます」。

「な~るほどなぁ、道理で殺しの話が町方にも届かぬはずだわい。
死人が出れば仙台堀の政吉からつなぎが来るはずだからのう」

「えっ おかしらはそこまでお手配済みで・・・・・・」
と忠吾

「忠吾 人の上に立つということはそこまで気配り無くば、
あい務まらぬものよ裏の又裏それを読み取ることが最後の詰めにつながると言うものだ」
佐嶋忠介の言葉に忠吾、深く納得の様子である。

「で その後はいかが相成った」

「はい 翌日お役宅に出所いたそうと九段坂にさしかかったおり
小者から声をかけられ、私が昨夜仲間に口論の末手にかけたと申すのでございます。
其奴の始末は済ませてあるので心配はいらないと、
その代わりちょいと手伝ってほしいことが・・
とこれが引き込みの手口でございました」。

「ふむ よくある手だなぁ、だがお前の事は相当探ったはずだぜ」

「そのために、あちこちで喧嘩をふっかけ、
酒を喰らいそれなりに仕上げておりましたので」

「うーむ よくぞ耐えてくれた、父御にもさぞや迷惑をかけたであろうのう、
申し訳ないとこう長谷川平蔵が申して居ったと伝えてはくれぬか?」

「いえ それがでございます、
義父どのは、私が火付盗賊になったことを無念に思っているような節がございます」

「さようか・・・・・・」
平蔵はその言葉の意味をよく承知している。
盗賊改めには今以上の立身出世はないのである。

「すまぬなぁ岡野 お内儀もそなたの働きをいずれは判る時がまいろう、
さんざんの悪口雑言を流してくれるほど器が大きければよいのだが・・・・・」

その翌日岡野が息せき切って役宅に出所した。
「おかしら!家内に此度の一件の顛末を話しましたら態度がガラリと変わりまして、
それはそれはよく仕えてくれます、

大盗賊を相手によくぞお勤めを果たされましたとそれは
まぁ今までとは天と地の開き、あはははははは、
おまけに義父どのも(手柄であった、岡野家の面目が立った)
とあちこちに話しておるようでございます」

「ほほう 雨降って地固まるの例えではないか、
いやいや誠に祝着至極!」平蔵もその嬉しさは格別の思いで聞いた。

かつて自分の義理の母親に邪険な扱いを受け放蕩無頼を続けた思いがあったからである。

のどかな春の日差しが役宅の庭にも満々と満ち、
どこからかうぐいすが鳴きながら飛び去った。

ほ~鶯の谷渡りか・・・・・

「はっ?あっ おかしらもまだまだ元気でござりますな」
と控えていた忠吾が口を入れる

「忠吾、そちの申しておるものとはちと違うのだな」

「はぁ何がでございましょうか?」

「忠吾お前は少し心構えが間違ぅておるようじゃな、
うぐいすわな、己の縄張りに鷹なぞが入り込んだおり
巣のあり場所を悟らせないために警戒の声で移動しながら遠くへおびき寄せるのよ、
これを鶯の谷渡りと申すのじゃ、」

「えっ さようで・・・・・・私は又・・あの・・・」

「フム であろうよ!お前はな」

「あっ おかしら、只今のお言葉は少々そのぉ何と申しますか魚の小骨のような響きが」

「おう 判っておるではないか、いやそちも中々修行の甲斐があったと言うか 
わはははは何とも情けないと申すか いやはや わはははは」

「おかしら・・・・・そのわはははは更にこの木村忠吾の胸に・・・・・・

「おい忠吾 岡野はのう、己が隠密同心であることを奴らに悟らせないために
我が身も家名の立場も振り捨てて大芝居を打ったんだぜ、

何事も大声で喚くほど真から離れるものよ、それを吟味する力を養わねばのう!」

「ははっ!真に仰せのとおりかと存じます、
ところでおかしら此度の首尾をいずこかにて喜び合いとうございますなぁ」

「はははっ こ奴め、そういうところだけには目が届きおる、
あい判った!何しろ大物を釣り上げたのだからな、
よしおしはら鴛原の九兵衛のところへ繰り込もうではないか!」

「えっ!あの芋酒の・・・・・
よろしゅうございますなぁ、その後が更にお楽しみでふふふふ」

「おい忠吾 お前ぇ随分と嬉しそうではないか!」

「だって おかしら!芋酒とくれば九兵衛も申しておったではござりませぬか
(今夜はもう岡場所へなと繰り込んで白粉くせぇのでも抱いてみるかぁ
なんて勢いも出てねぇ!)
いやぁ あの親爺の口車に乗っかってみとうございます」

「やれやれお前ぇはどうしてもそこに落ち着かねばすまぬようだのう」
「はぁ かたじけのうございます」
「・・・・・・・・・・」

拍手[0回]


4月2号 なめろう 鬼の居ぬ間に



忠吾は谷中いろは茶屋事件以来市中見廻り区域を新宿方面に振り変えられ、
しばらくはおとなしくしていた。
が、
さよう が、である。

おとなしくしていては忠吾のなおれ・・・・・
と言うわけでもあるまいが、
牛込弁天町の宗参寺の門前近くにある
新しい出会い茶屋をしっかり確保していた。

今日も今日とて見回りの途中をこの(けころ茶屋よしみ)に潜り込んで油を売っている。

昼間の客だから、まぁお忍びという事は承知で、
女将もうるさい詮索もなし、
女もあっけらかんとしたもので、

キセルの吸口を忠吾に向けながら気だるそうに
「ねぇ あたし眠たいわ、昨日の晩の客がしつっこくてさぁ、
あんまり寝てないのよぉ」
と背中を向ける。

「おい それはないだろう、俺は金を払ってこうしてお前のために通っているんだ、
もう少しは気を使うことは出来ないのか」
少々むくれ気味に忠吾は女を仰向けに起こす。

「だからお願いって言っているじゃァないのよぉ」
大の字になって天井を睨みながらうそぶく女に忠吾は少々持てあまし気味のようで
「なぁ もう一度だけ もう一度だけでいいから・・・・・・いいだろう!」

「早くしてね!」
女はふてくされながら忠吾のなすがままに知らぬ顔である。

これじゃぁまるでカエルの面にションベンだ!
忠吾は味気なさに、それでも払った分は取り戻そうと頑張ったようである。

ひとときほどして茶屋を出た所で、小雨が降りだし、
やむなく済松寺門前に雨宿りするはめになった。

「くっそう!何が春雨だ!あ~あ こんな時はいい女に出会って
「あら 忠さま雨が・・・・・
とか何とか相合傘でむふふふふっ!
どこかでしっぽり濡れて・・・・・・」
あ~あ 市中見回りかぁつまらねぇなぁ。

そこへ少し年増の女が寺の中から出てきた。

忠吾は、ちらっと見るでもなくその女を目で追った。

すると女が寄ってきて
「嫌な雨でございますねぇ」
と忠語の眼を流し気味に見た。

ぶるぶるぶる!
と忠吾は心の身震いを覚えた。
(いい女だなぁ少々増の女だが、
それが又この雨の中色めき立っていや中々・・・・・)
すでに目尻は下がっていたのかどうか、
「お武家様はどちらまで?」
と艶然とした恵美で忠吾を見た。

「わしか?飯田町まで帰るのだが、お前はどこまで帰るのだ?」
と 問い返した。

「この雨は当分止みそうにもありませんねぇ、
ねぇお武家様この先にちょいとした店がありますのさ、
そこで濡れたお召し物も乾かしがてら一休みはいかがでしょう?
1杯お付き合いくださいましな」
と忠吾の袖を引くように誘いをかけてきた。

ここまで誘われて断る忠吾ではなかった。

「さようだなぁ それもよし!よく見ればそなたも中々の美形、
美しいおなごの誘い水を断ってはこの木村忠吾男がすたるというもの、
よし!さよういたそう!」
と大見得を切ったものの心の中はもう天にも昇る心地、
相合傘でいそいそと向かった。

「奥を借りるわよ」
と声をかけてかつて知ったるふうに奥の部屋に上がる。

「ここはよく来るのか?」忠吾の・・・
いや盗賊改めの癖というか習慣というべきか、踏み込んだ問をした。

ふふふふふふと笑って
「あら 気になります?あたしの知り合いがこの近くで
それで教えてもらっただけで、初めてですわ」
と含み笑いで応えた。

夕刻間近とあって、ついでに飯でも食って帰ろうかと
「美しいおなごに酌をされつつの腹ごしらえも悪くはないなぁ」
と、
忠吾は飯の注文も出す。
「今日はなめろうでございやすが、それでよろしいでござんしょうか?」
と亭主が声をかけてきた。

「なめろうかぁそいつは良い、それにしてくれ」
さっそく熱燗が出され、
勧められるままに忠吾は盃を空けた。

なめろうとはアジ・サンマ・イワシ・トビウオなどを3枚におろし、
味噌・ショウガ・シソなどを乗せ、そのまままな板の上で細切れに
粘り気が出るまで細かく叩く。

ホタテやアワビの殻に詰めて焼くのをさんが焼きと言い、
飯の上に乗せてお茶や出し汁をかけたものを孫茶と呼ぶ、
元は漁師のまかない飯である。

(ゆっくり飯を済ませ、酒も程々、今からしっぽり濡れて程よい時刻、
後は役宅に帰るだけだ)
忠吾は程よく酒も廻り、ほのかに肌の色も桜色に染まりかけた女の
首筋から胸元にかけての色香に眼を投げつつ、
これから先の出来事に思いをはせ・・・・・

(ドカリ)と前のめりに倒れこんでしまったのは忠吾。

「お武家様 お武家様!」
揺り動かされてぼんやりとした頭で意識で首をもたげた。

そこには亭主の顔が・・・・・・・

「ううんっ?何だぁ~どうしてお前が此処に!女はどうした!?」
忠吾は現状がまだ飲み込めず亭主に問いただした。

「とっくにお帰りになりやした、お連れ様はお疲れのようなので
もうしばらくそっとしておいてくださいな」
 と、あっ それからお代はお武家様から頂くようにとのことでございましたので、
よろしくお願い致します」

「何!帰った!? うううううう!くそ!やられた!」

忠吾は女の話が今更良く出来ていた事にここにきてやっと気がついた様子である。
「金か!・・・・・」
と懐に手を入れて・・・・・・・・

「しまった!やられた!無い無い無い!金が無い」

「お武家様ご冗談を!」
亭主が忠吾の袖を掴んで酔の覚めた忠吾の顔を覗き込む。

「冗談ではない!それどころか大切な十手までもやられた!」
忠吾は顔面蒼白になった。

(おかしらに何と申し開きをたてよう、
いやそれどころか腹かき切ってお詫びしてもおっつかないことを起こしてしまった)

胡散臭い顔で忠吾を見る亭主に
「俺は盗賊改め同心である」
と吐き捨てるように名乗った。

今度は亭主がたまげた。
「火付盗賊のお役人様で・・・・・・
解りやした、本日のお代は後日ということにさせていただきやす」
と切り出した。

「亭主!それよりも先ほどの女だがな、此処へはよく来るのか?」

「いえいえ 本日が一見のおかたでございやす」

「と 言うことは、どこの誰かも判らぬのだな!」

「はい 全くさようで・・・・・・」

忠吾は途方に暮れた。

(おかしらにバレずになんとか女を捕まえる算段をせねば・・・・・・)

師走に扶持米の代金を落とした気分よりももっと輪をかけた
悲惨な心持ちで店を出た。

「忠吾どうした、そんなに青い顔をして、腹の具合でも悪いのか?
うさぎ饅頭の食い過ぎではないのか?」

同心の心配そうな声も忠吾の耳にはまるで他所事の様に聞こえるばかりであった。

それから半月ばかりが逃げるようにすぎさったが、
一向にあの女の足取りは掴めないまま、いささか呑気者の忠吾も困惑の究極である。

(事件はふりだしに戻れ、そこに必ずつながるものが残されているものだ)
平蔵の日頃の口癖を思い出した忠吾、くだんの店に出向いた。

忠吾の姿を見て「アッお武家様!」
と、亭主が寄ってきて
「実は先日女がやってきて、旦那のことを聞かせてほしいと言いやすんで、
盗賊改めの旦那だと教えやしたらポンと2朱をくれやした」

「何!あの女が来たのか!、
で どこに住んでるか聞いたであろうな?」

「へっ?何故でやす?あっしには関わりのねぇこって」

「このぉ!」
忠吾は亭主の胸ぐらを掴みあげて拳を振り上げた、だが

「あっしに振り下ろされやしてもわっしはなにか悪いことをしたって
おっしゃいやすのならそれもしかたがございやせん、けどねぇ旦那ぁ」

むむむっ!忠吾は振り上げたゲンコをブルブル震わせて真っ赤な顔で
「おのれ おのれ!!!!」
と 喚くしかなかった。

その数日後、四谷塩町1丁目の小料理屋「音羽屋」に賊が入ったと
清水御門前の火付盗賊改方役宅に届けがあった。

知らせを受け取ったのは筆頭同心酒井祐助であった。

酒井の聞き取りでは、店の者の話だと
「火付盗賊改方だと名乗られ、朱房の十手を見せられたので
潜戸を開けたら目だけを出した数名の盗賊が押し込み、
いきなり殴り倒され、寝ていた家人3名も縛り上げられさるぐつわをされ
手文庫にあった金子30両程が盗まれていた。

あっと言う間の出来事で、盗賊の人相も皆目見当もつかない状況であった。

火付盗賊改方役宅ではこの話で持ちきりのところへ、
朝の挨拶に立ち寄ったものだから、木村忠吾は仰天して立ちすくんでしまった。

「忠吾が出所致さば即刻部屋に来るように」
と平蔵からのお達しが出ており、
酒井が
「おい忠吾お頭がお部屋に参れとのお言葉が出ておるぞ」
と同心部屋に控えていた。

「どうした、やけに顔色が悪いぞ、まぁとにかくおかしらの元へ早く行け!」
と背中を叩いた。
よろよろっと忠吾は腰が砕けたかのようによろめき、
顔面蒼白で平蔵の部屋前に両手をつき
「木村忠吾ただいま参りました」
と震えながら小声をかける。

「おお 忠吾か・・・・・」
平蔵の重たい声が忠吾の身をすくませた。
「忠吾、確かそちの持ち場は牛込方面であったよな」

「ハイさようにございます」

「忠吾!そなたの十手を持っておろうな!」

「ははっ ・・・・・・アノ・・・・・そのぉ・・・・」

「持っておるのだな!」

「はぁ‥‥‥‥‥‥実は・・・・・・」

仕切りの戸がグワッ!!と開き、怒りの形相で平蔵が立ちはだかっていた。

「ははっ~~~~面目次第も」

「この大馬鹿者!貴様のしくじりがこの火付盗賊改方を窮地に
追い込んでおることを承知いたしておるのか!」

平蔵のかつて無い激しい言葉に木村忠吾はつまみ上げられたオケラのように
両手を頭の上であわせながら床板に顔を押し付けて震えている。

「忠吾!何故だ!何故だ!火付盗賊改方同心ともあろうものが、
何故かようなことにあいなったかわきまえておろうのう!」

平蔵のすさまじい剣幕に忠吾は為す術もなくただただ頭をこすりつける以外なかった。

「おかしら・・・・・・」

横に控えていた佐嶋忠介が小声で平蔵をなだめる。

(むむむむっ!)
平蔵は思わず大きな声になったことをいかようにすればよいか言葉をつまらせた。

「ところで佐嶋、十手の出どこは判ったが、相手がこれでは皆目見当もつかぬ、
急ぎ密偵共を集めことの重大さを知らせ、皆で手分けして探索に当たれ!
よいな 他言無用だぞ!」
そう言って平蔵は戸をピシャリと閉めた。

そしてその障子の向こうから
「忠吾!腹を切るでないぞ」
と言葉が続いた。

「おかしら・・・・・・・・」
忠吾はあふれる涙を拭うことも出来ずその場にうずくまっていた。

それからひと月あまり立った梅雨のまえぶれか、
あじさい色の煙の中で事件は起こった。

小石川の船河原橋たもとにある小料理屋(田嶋や)に賊が入った。
手口が同じ所からも、過日の一味であることは調べるまでもない。

どうにも打つ手が無い、証拠らしきものを何一つ残さず、
あっという間の押しこみである。

このたびは町奉行所に届けがあり、
事の重大さが町奉行のところにまで露見してしまった。

仙台堀の政吉がこの情報を平蔵に持ち込んだことから火盗改に判明した事件であった。

その後2月あまりの間に立て続けに3件の同じような手口で押し込みが発生。
いずれも小商いの店が襲われている。

それからまもなく、老中若年寄京極備前守高久下屋敷に呼び出された平蔵は、
大構えの門をくぐりながら、ふっと振り返り
(再びこの門を潜って表に出ることはないかも知れぬ)
と深くため息を残し、取次のあないされるままに屋敷内に入った。

京極備前守は正座したまま懐に両手を預けて眼を閉じたままである。

「長谷川平蔵お召により参上つかまつりました」
低頭したまま面を上げることも出来ない。

「平蔵!此度の1件、単なる物盗りだけでは済まされぬ、
そちは言わずともよく判っておろうが、事は十手を使っての物盗り、
お上のご威光にも差し障りが出よう、何か方策は考えておろうな」

「ははっ この長谷川平蔵が腹を召せばすむことならば即座にこの場にて
腹は切る所存で出向いてまいりました。しかし、
それでお上のご威光が戻るわけではござりませぬ。

この一命を賭してでも解決いたし、そのあとにて備前守様のご裁断を仰ぎたく、
何卒もうしばらくのご猶予を頂戴いたしたく存じます」

白装束姿の平蔵を見て
「あい判った、老中や町奉行からも厳しい批判が噴出いたしておる、
だがなぁ平蔵、そちをおいて他に誰がこの厄介な問題を引き受けるものがおろうか、
わしも此度は腹を決めてお上に言上いたした。

そのつもりであい努めよ、決して早まるではないぞ、頼むぞ平蔵!」
京極備前はそう言い残して座を立った。

低頭したまま平蔵は、流れる涙を畳が吸い込むに任せて胸の熱いまま
動くことも出来なかった。

だが、平蔵の思いをよそに密偵たちの必死の探索や聞き込みも、
全く霞の上の出来事のように影すらつかむことが出来なかった。

平蔵と筆頭与力の佐嶋忠助は絵図面を開いて、
これまでに届けのあった被害者の場所や店、奉公人、被害額など詳しく書き込んでいた。

そこに浮かび上がったものは常に同じ条件が揃っていたのである。

「のう 佐嶋!こいつは少々変だと想わねぇか、
押し込みに入られているところは皆小料理屋や小商いの茶屋ばかり、
おまけに被害額はその場で即座に手に入ぇる小金と来ている。

こいつぁ大掛かりな仕掛けなどなく、行き当たりばったりと見るがどうだな?」

「確かに・・・・・おかしらの申されます通り、
計画的と言うには稼ぎが少のうございます。

おまけに小料理屋や茶屋など店構えも小さく、
従いまして中に詰めている人数も限られたものばかりと見受けられます」

「ウム まさにその通りよ、
こいつぁ俺達が抜けておったやも知れぬ、
早速町方より被害の届出書を借り受けてまいれ、
それとな、
この間に料理屋などに連れ込まれて懐をやられた者がいないか、
それも解るだけでも聞き出してくれ。

ついでにだが、女に誘われて懐をやられたものの被害届があらば、
其奴の身元も確かめておけ。

う~む 確かにうかつであった」

平蔵の顔に暗闇の中にも遠くにささやかな明かりの見えたことを
読み取ることが出来た。

届けのあった被害者の聞き取り書から、
本人のお店(たな)の名前と主の名前が書きだされた。

「よし、明日から俺とお前でこの店の主から聞き取りをいたそう」
そういった平蔵の顔はどこか安堵の色が浮かんでいる。

翌日から二人の聞き取りが始まった。
無論与力・同心にも隠密の行動である、
これは木村忠吾の立場を配慮してのことであり当然であろう。

それから数日後には情報が集まった。

それによれば、賊は3名で、一人は女のようであり、
左の目尻にほくろがあることが判明した。

他の一人は上背もあり、
がっしりとした体躯からもこの中では頭分のようであること、
残りの一人は痩せ型で、甲州訛りがあった。

連れ込まれて懐をやられた数名の物の口からは確かに左の目尻にほくろが
あったことが一致している。

その日遅く再び密偵たちにつなぎが届いた。

「遅くからすまねぇ、集まってもらったのは外でもねぇ先にあった十手を
小道具に使った押し込みの一件だがな、
明日からお前ぇたちにこいつらの条件で聞き取りをやってもらいてぇんだ。

聞き取り先は牛込・四谷・小石川あたりの小料理屋で、
一見の客で男連れで立ち寄った女を当たってくれ、
左の目尻にほくろのあるのが特徴だ。

沢田はこれまでに被害のあったお店(たな)の主に、
このほくろの女がおったか確かめてくれ。

おそらくはこいつが決め手になるだろうから、心してかかってくれよ、
頼むぜ、そしてな、こいつが大事の一番だが、
もし其のような女連れがあったというおたながあらば後日十手を見せて
お上のご用と言ぅて店を尋ねる奴があらば、決して店を開けるではない、
そやつらは盗人だと言い含めておけ、そうして近くの番屋にすぐ届けるように
申し渡しておけ」

平蔵の言葉に密偵たちは気の引き締まる思いで耳を澄ましていた。

数日が瞬く間に過ぎ去った。

その間にまた一件押し込みがあった。
町方からも盗賊改めに非難の矛先が向いたことは当然のことであったが、
平蔵は自分の胸一つに納め、盗賊改めとして表立っての騒ぎは控えていた。

その日は日差しも高々と上がり、川風も無く重苦しい時ばかりが流れていた
7月も半ばに差し掛かっていた。

密偵たちの昼夜を問わない聞き込みの成果が見えてきた。

真っ黒に日焼けして見る影もないおまさの肌から汗が滴り落ちていた。

「長谷川様、どうもその女は(おかじ)という名のようで、
内藤新宿法善寺前の小料理屋にしては少々大商いのおたな都留屋に
幾度か客連れで寄ったそうで、
店の者もよく覚えていたそうでございます」

「なに!女の身元が判明いたしたか!おまさよくやった!
いやよくやってくれた!でかしたぞ

おそらくは奴らもそろそろ潮時と読んでいるのであろうよ、
其の都留屋ともうしたな、奉公人は何名ほどかな?おまさお前ぇのことだ
そこんところも・・・・・」

「はい そのところはまかないの話しによりますと、
主人夫婦と番頭それに板場の板長の四名が寝泊まりをいたしておりまして、
後は通いだと申しておりました」

「それだ! 大商いの割に寝泊まりは少人数、こいつは押しこむにゃぁ
好都合ってぇもんだ なぁ!よしそこに的を絞って昼夜交代で見張れ!
わしも出向こう、ああ五鉄の三次郎に差し入れの手配も頼んでおこう、
済まぬが早速五郎蔵や彦十にもかようわしが申していたと伝えてくれ!
暑いさなかをすまぬのうおまさ」

「長谷川様、まさはそれが仕事でございます、では早速つなぎを」
と、おまさが裏木戸を開けて出て行った。

その夜からおまさに彦十、五郎蔵に粂八、それに伊三次が応対で昼夜見張りを続けた。

それから二日目の夜、軒にさげた風鈴の音が絶え間なくなり続ける夜半動きがあった。
法善寺脇の小間物屋上総屋一兵衛宅の店の二階が雑貨の置き場になっているのを
無理を言って借り受けていたが、
少し斜向かいではあるものの都留屋の店はよく見える。

「五郎蔵さん 起きておくんなさい!」
粂八の声に五郎蔵が大きな体をむっくりと起こした。

「動きが出たかね粂さん・・・・・」

「へぇこう暑くっちゃぁ寝てもいれやせんや、風鈴の音がやんだので
風も止まるかとひょいと外を覗きやしたらこの月明かりでさぁ、
人影の動く気配がしやしてね目を凝らしてい見ると三人の影が都留屋の戸を
叩いているじゃぁござんせんか、もう子の刻なんで店の者はとっくに休んでおりましょう、
そこをついたようで、店の中に入って行きやした」

「わかった!おまささんは彦十の親父っつあんとこのことを
すぐに長谷川様におつたえしてくれ、伊三さんは残って、
向かいのおたなを見て来てくれまいか、その後長谷川様に報告を頼みてぇ、
俺は長谷川様のお言いつけ通り奴らの跡をつけて行く先を突き止める、
お前ぇさんは俺と一緒にきて、奴らの逗留先をつき止めたら長谷川様につないでくれ、急げ!」

4名が上総屋の店の陰に潜んでいると、都留屋から3人の姿が出てきてそのまま
内藤新宿をへて甲州街道の方へと向かっていった。

五郎蔵と粂八はひっそりとその一行の後を粘りながら微行(つけ)ていった。

一行が足を止めたのは下高井戸宿の曹源寺裏手の奥にある百姓屋であった。
落ち着く先が決まった所で粂八が清水御門前の役宅に走った。

下高井戸から清水御門の役宅まで片道三里の道を粂八は駆けた。

役宅ではすでに出かける用意の整った平蔵や佐嶋忠助が控えており木村忠吾の顔も見えた。
平蔵一行が下高井戸に到着したのはすでに日がゆるやかに昇った頃である。

相手は3名ということもあり、捕り方もなく平蔵以下少数の手勢で廻りを固めた。
寺の奥まった場所なので、普通には人の通りも無い、

「どうだ 動きはないか?」平蔵の登場に五郎蔵は安心した風で

「へい 昨夜以来全く出入りもなく、廻りを確かめやしたが裏から逃げた様子もございません。今朝ほど男が一人井戸端に出て水を組んでいたようでございますので、
まだ中はそのままと存じます」と報告した。

「おおご苦労であった!、奴らが動きを始める前に打ち込もう、
佐嶋は忠吾と五郎蔵達で裏手に回れ、残りの者は家の前を3方から囲むように
包み込んで逃さぬように打ち込みをかける、いそげ!。

表から平蔵が戸を蹴破って打ち込みをかけた、おまさと彦十、それに粂八、
伊三次が両翼で睨みを効かせ、横からの逃亡を監視する体制であった。

ドン!と大きな音とともに戸が打ち倒され、
「火付盗賊改方長谷川平蔵である!
神妙に縛につけばよし、手向かい致さば切り捨てる!」
と 語気も鋭く飛び込んだ。

まさか盗賊改めが打ち込もうとは予想もしなかったらしく、
抵抗する暇もなくあっという間の捕縛劇は終焉を迎えた。

平蔵の見込み通り女達は旅支度の真っ最中であった。
下高井戸の番屋に連行され、軽く平蔵の取り調べを受けた後翌日
清水御門前の火付盗賊改方役宅の庭に引き据えられた。

立会は与力筆頭同心佐嶋忠介と同心木村忠吾の2名であった。

「おかじとか申したなぁ、お前ぇこの男の顔に見覚えはねぇか?」
と渋扇で忠吾の方を指し示した。

「旦那 男なんてどれもこれもおんなじで、みな鼻の下が長うござんすよ、
特にこの旦那は簡単に私の誘いに乗りましたのさ、それがまさか
火盗のだんなとは・・・・・
ははん!ご時世もおしまいでござんすね」
と木に竹をくくった返答に
「んんっ き、きさま!」忠吾が思わず腰を上げた。

「控えい!お取調べ中である」
佐嶋の重く響く声に忠吾はしぶしぶと腰をおろした。

「おい女!お前の申す通り、男はおなごに弱ぇものよ、
だがな その男がなくちゃぁこの世は成り立たぬ、お前ぇもそうであろうが、
この世のからくりはどちらが上でも表でもない思い様でどっちにでもなっちまうものよ。

だますほうが悪いのか騙される方が悪いのか、
のう お前ぇは騙す方に回っただけのこと、
この男は見ての通り人のよいのが表看板故に騙される方に回っただけの違ぇで
罪としちゃあぁ可愛いものだぜ、
だがな!流れ働きとは申せ盗人に上も下もねぇ
行く先は定まっておろう、
少なくとも閻魔様のお見逃しはねぇぜ、
おれも鬼と呼ばれた火付盗賊、手加減はせぬ故覚悟いたせ

厳しい詮議が待ち構えておるからな、お前ぇがこれまでにたらしこんだ男が
己の行く先を踏みにじられて追われた者や店を畳んだものもおる、
その難儀を想えば簡単に口を割るんじゃぁ面白くもおかしくもねぇ
世間を騒がせ人身をかき回した報いを今から覚悟して待つのだな。

死罪には致さぬ。

その言葉を聞いて取り調べ中の3名の顔にほっと安堵の色が浮かんだ。

「だがな!それより苦しい余生が待ち構えておるぜ、それを今からじっくり
生涯に亘って噛みしめるが良い!
佐渡はさしもの閻魔様も逃げ出す所だそうな、
何しろ無事に帰ぇった者がおらぬでな」

平蔵は歯をくいしばって睨み返すおかじを見下ろしながら、
「佐渡の金山(おやま)は男も大勢居るゆえお前ぇも色香で困ることはあるめぇ
、せいぜい励むがよかろう、
最も何日持つかはお前ぇ次第だがなぁ己の報いをしっかり受けろ!」

平蔵の突き放す言葉に打ち捨てられた枯葉のごとくその場に崩れてゆく。

こうして長い苦労の末の事件は解決した。

平蔵は軍鶏鍋屋五鉄の2階に集まった密偵たちにねぎらいの宴を設けた。

「こたびは皆に心配ぇをかけた、
暑い最中昼夜を問わねぇお勤めはさぞや大変であったと、
この長谷川平蔵改めて礼を申す」平蔵は深々と頭を下げた。

「長谷川様!!」
密偵たちはこの平蔵の気持ちが痛いほどよく判っている。

この御方のために、この御方だからこそ犯罪者という名を
背中に背負っているにもかかわらず何も変わらず扱って下さる、
この方に出会わなければ先の盗賊同様、
佐渡の土になる定めだったのかもしれない。

一同は顔を見合わせ、改めて平蔵の嬉しそうな横顔を見つめた。

「ううん 美味ぇぜ!さぁ早く盃を干さねぇか ええっ!
いやご苦労であったなぁ」

この場に木村忠吾の顔が見えない、これも平蔵の気遣いである。

だがこの平蔵の思いも、当の忠吾はいかように受け止めているのであろうか?

それから半月も過ぎないうちに、
木村忠吾の顔は雑司ケ谷西青柳町の出会い茶屋(たむら)にあった。

「おさき!お前に逢いとうてこうして御役目の途中をぬけだしてきたのだぞ」・・・・・

拍手[0回]


秋刀魚は目黒に限るのう忠吾 4月第1号



村松 お頭 棒手振りの辰五郎がお頭にと
   三陸の秋刀魚を持参いたしております

鬼平 おお そいつはありがてぇ  どれどれ
   おう 辰五郎三陸の秋刀魚とは又、久しぶりじゃァねえか

辰五郎 殿様 こいつが中々手に入ぇらねえもんで
    今朝ほど猫印飛脚で届きやしたんで
    久しぶりに殿様に召し上がっていただこうと

鬼平  すまねぇすまねぇ 気ぃ遣わせたなぁ

辰五郎 とんでもねぇ いつもうちのカカアがご厄介になっておりやす

村松  お頭 秋刀魚は生サンマよりもこの氷漬けが宜しゅうござります
    生サンマは陸揚げされて魚河岸から大卸、仲買と周る間に
    生きが落ちてしまいまする

    三陸物はとれた先から氷漬けに致しますので
    鮮度が保たれておりますんで、眼の色もギラギラとほれこのように

忠吾  あれ! お頭、秋刀魚は目黒に限ると申しますが・・・・・ 

鬼平  忠吾 それはな 小話の世界よ

忠吾  は~小話でござりますか

鬼平  なんだ お前ぇは知らなんだか
    在る殿様が目黒まで鷹狩りに出かけたんだがな
    お前ぇの様なそそっかしい供の者が弁当を忘れちまった

忠吾  アッ!なんでそこに私めが引き合いに出されますので

鬼平  まぁ良いではないか例えの話だ

忠吾  いえ 何と申されましても例えであれこの木村忠吾そこまでは!

鬼平  あい解った  ンでだなぁ その時何やら美味そうな香りが漂うてまいった
    殿様が「この匂いはなにか」と仰せになられたので
    供の者が「これは下衆魚で秋刀魚と申すもので、
    とても殿様に差し出せるものではござりませぬ」と申したそうな。

    しかし腹が減った殿様は「このようなときにそのようなことは言っておれぬ」
    と、秋刀魚を持ってこさせた。
    ところがそいつは隠亡焼きであったために、脂が乗ってそりゃぁ美味かった

    それから 殿様は秋刀魚が食べたくなり、「秋刀魚を所望じゃ」
    と家来に調理させたが、油や小骨も全て取り去った秋刀魚は
    姿も崩れて皿に載せることも出来ず椀に盛りつけて出した

    それを食った殿様は「この秋刀魚は何処から参ったものか?」
    と尋ねたら、家来が「芝浜より取り寄せましたるもので」
    すると殿様は「ウムやっぱり秋刀魚は目黒に限る」・・・・・

忠吾  はは~~~~ 中々よく出来ておりまするなぁ

村松  秋刀魚の一番旨い食べ方は、何と言っても炭火焼き
    それも紀州の備長炭で、なおかつナナカマドを極上と致しまする
    ナナカマドは七度カマドに入れても灰にならぬと言われるほど
    火持ちも宜しい

鬼平  さすが猫どの、奥が深うござるのうぅ

村松  なんのなんの  この備長炭は紀伊の国田辺の備中屋長左衛門が
    発祥と聞き及びまする。
    特に備長炭は炭琴と呼ばれる如く、金気の音がするほど焼きが深いとか
    されば中々に火が着き難うござります
    従いまして、長七輪に黒炭にを入れましてこれに火を点けまして、
    その周りに炙るように備長炭を載せ予熱致しまする
    四半時足らずで火の着いた黒炭の中に入れます、

    しかし、備長炭は爆ぜますゆえ金網を七輪に被せ
    しばし遠巻きに養生いたしまする

鬼平  おいおい 然様に面倒なことを致さねばならぬのかえ?

村松  当然でござりまする
    手間暇を惜しんで良い料理など生まれは致しませぬ

鬼平  いや こつぁ一本取られたな

村松  この村松忠之進 お頭のためならこの程度の手間なぞ
    骨惜しみいたしませぬ

鬼平  こいつはすまぬ  猫どのの気持ち 
    この平蔵いつも手を合わせておるぞ

村松  お頭にそこまで思って頂けておれば 
    やる気も起ころうと言うものでござります
    やがて備長炭が白くなり始めましたら
    秋刀魚を網に載せる頃合いでござります

    この備長炭には遠赤外線が発しまするゆえ、
    ゆっくりと焼きあげるのが秘訣でござりまする

鬼平  おいおい猫どの 講釈はそれぐれにして
    食わしてはくれぬか?

村松  お頭 それだけでは片手落ちになりまする
    突き合わせには大根 それも普通の大根ではなく
    練馬大根が宜しゅうござります
    コヤツは少々辛味が強うござりまして
    タカジアスターゼとか申す消化酵素が豊富でござります

    コヤツが秋刀魚の油を中和するという次第で
    昆布と鰹で煮だしましたる濃い目の出し汁
    ここに薫りつけの酢橘なぞ絞り込み

鬼平  おいおい猫どのこれ以上は待てぬ
    まるで拷問ではないか
    火付盗賊の拷問よりも恐いぜ

村松  ではまずは食しながらということで

鬼平  おうおうそれで良いそれで良い  あ~たまらねえなぁ

 

拍手[0回]


鬼平犯科帳 薬食同源 3月第3号



夜見世



鬼平 「千住女郎衆は、碇か綱か、今朝も二はいの船とめた」
   とか申すそうじゃのう忠吾 お前ぇの ほれ ! 
   これが居った谷中はそちの持ち場であったのう


忠吾 お頭 ! 
   それはすでに決着が付いております
   今の私めは、御役目第一と日夜駆け回っておりまする


鬼平 まぁそういきり立つな
   益々怪しく想えてくるではないか


忠吾 そそそっ そんなぁ


鬼平 ところでのう忠吾 
   人間というやつ、遊びながら働く生きものさ
   善いことを行いつつ、知らぬうちに悪事をやってのける
   悪事を働きつつ、知らず知らず善いことを楽しむ
   これが人間だわさ


忠吾 お頭・・・・・・


鬼平 覚えておるであろう !  網切の甚五郎


忠吾 料亭大村事件でござりますな


鬼平 彼奴をお縄にするきっかけを作ったのが鴛原(おしはら)の九兵衛


忠吾 あの 芋酒屋の・・・・


鬼平 ああ 九兵衛のいもなますは天下一品だぜ


忠吾 村松様が嘆かれましょう


鬼平 おお そいつはうかつであった  
   猫どのは別格じゃ・・・・・と 言うことにしておけ


忠吾 仰せのとおりに
   ところでお頭本日は何処へお供に


鬼平 な~に 「いせや」にちょいとな

忠吾 いせや と申しますと
     板尻の吉右衛門・・・・・


鬼平 フム その通りよ
   この度の九兵衛の働きでわしも九死に一生を得た
   そこで「いせや」の親爺と俺とで九兵衛に店を出さすことになった
   本日はそのお披露目というわけさ


   芋酒はな、皮を剥いた里芋を小さく切り
   これを熱湯に浸し置き、ぬめりが取れたら引き上げて
   すり鉢で摺り、ここへ酒を入れる、それを燗にして出す
   こいつは精がつくらしいぜ忠吾
   芋酒をやったら、一晩で五人や六人の夜鷹を乗りこなすなんざぁ
   理由もねぇとよ


忠吾 おおっ お頭! それは真で!


鬼平 おいおい 忠吾 眼の色が変ぇっているぜぇ
   まぁまぁ 落ち着け忠吾
   で、 お前ぇにもそのイモナマスを食わせてやろうと思うてな


忠吾 いもなます で、ございますかァ
   私めは 出来ますれば芋酒のほうが、このぉ~


鬼平 はしかい奴め!


九兵衛 これは長谷川様


鬼平 おう 父っつあん こいつに芋酒を出しいてやってくれ
   俺は芋ナマスでよいぞ


忠吾 お頭 !! 


鬼平 おうおう 気にするな
   だがな あとは知らんぞ なぁ父っつあん


九兵衛 へぇ
    木村様
    まぁ 出来るまでの間 芋ナマスでも食いながら
    飲んで食っておくんなせいその内、
    今夜はもう岡場所へなと繰り込んで
    白粉くせぇのでも抱いてみるかぁなんて勢いも出てねぇ! 


忠吾 おおぅ そうなるか!


鬼平 そうさなぁ 最も役に立つか立たねぇか
   そいつはお慰みってぇもんだよなぁ


九兵衛 へへへへへ 最もで


忠吾 ククククッソぉ~
   いけ好かぬ親爺だなぁ
   クソ おかわりもう一杯


鬼平 旨ぇだろう そいつが腰を抜かすから 
   俺はやらんのだよ忠吾 わはははは


   父っつあん おもんは寄るけぇ


九兵衛 時折来やす
    「あのお侍さんどうしていなさるかねぇ」って
    長谷川様の事を・・・・・


鬼平 さようか
   人は皆一枚脱げば、何も変わっちゃぁいねえさ
   俺もお前ぇも なぁ父っつあん


九兵衛 長谷川様・・・・・・



週刊連載 鬼平犯科帳外伝    http://onihei.nari-kiri.com/

画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/


                                                                    

拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 川越うどんと唐桟 3月2号


唐桟織り

旅支度の平蔵が本所2つめの軍鶏鍋や五鉄に現れたのは
秋の色香が野山を染め始める頃の夕刻であった。

「あっ こりゃ 長谷川様」旅姿の平蔵に驚きながら出迎えたのは相模の彦十

「おう 彦 おまさはいるけぇ」そう言いながらかって知ったるで、
さっさと二階へ上がってゆく。

「へぇ 先ほどけえって参ぇりやしたが、又今日はどんな御用向きでござんしょう」
と相模の彦十、平蔵の顔を見上げる。

「な~に 過日忠吾の手柄で墓火の秀五郎をお縄に致したであろう」

「へえへぇ 例の・・・・・」

「そうよ(人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、
人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている)
そう言いおった兇賊よ

「へい よっく覚えておりやす、あの 木村様が、そうとも知らず
菱屋のお松に入れ込んで、そのお松をひいきにしていた男が
10両をお松に与えたってぇ話でござんしょう?」

「そこまで知っておったか、人の口には戸は立てれれぬというが、まさにのう」

「へぇ 何しろ当の木村様が最後までお気づきにならなかったそうで、
笑っちゃぁいけやせんがね、ついその・・・・・へへへへへ」

「武州粕壁の小川屋でやつを捕縛いたした折、お松の話をしたらな、
奴め(そんな酔狂もございましたか)と、さすがひと頃は血頭丹兵衛の懐刀と
呼ばれただけの男、度胸もすわっておったよ」

「へ~ さようでございやしたか、ところで本日のご用向きは」

「おう それよ、おまさを呼んではくれぬか」

「長谷川様 どんな御用でございましょう」平蔵からの名指しである、
事件ならともかくも、別に何も耳にしていないものだから、おまさも戸惑いつつ控える。

「何な ちょいと川越まで足を伸ばしてみたくなってのう」

「川越でございますか?」おまさはますます判らない様子で平蔵の顔を見る。

「ウム 先程から彦十と話しておったのだが、お前ぇも存じておろうが、
川越の旦那・・・・・」

「あの~墓火の秀五郎・・・・・・」

「まさに そいつよ、そいつの事をふと思い出してな。
ちょいと川越がどのような所か、この目で見てみてぇと思い立ったまでのことよ。

それがな、思わぬネタを拾ってきたのよ、忠吾めが良く懐に致しておる
芋せんべいになる芋、こいつの出処が川越であったのよ」

「まぁ~木村様の好物の・・・・・うふふふ」

「であろう?儒学者の青木昆陽先生が小石川薬園にて始められた甘藷が、
川越で作られており、芋は紅赤種で皮も赤く中身は黄味でほくほくして甘味が多く、
九里より旨い十三里と申す焼き芋、いやなんとも忠吾でなくとも旨い、
わしは別名金時ともいわれる焼き芋が気に入ったあはははははは」

「墓火の秀五郎が褒めて居った(いせ清)のうどん、
こいつを一度食ってみたかったのもあるがな、ははははは。

何しろ芋をすり込んだ芋うどんは、芋の薫りがほのかに残り、
昆布と干ししいたけの出汁に黒酢を隠しており、
刻み大葉と大根のすり下ろしに刻んだ赤唐辛子こいつがが又色っぺぇ」。

「銕っつぁん 話だけとはちょいとその罪ってぇもんでござんすよ」

「彦十おじさん 長谷川様に!」

「おっといけねぇ 口は災いの元とくらぁね」彦十あわてて口を抑える真似をする。

「でな おまさ、お前ぇにと思うてのぉ、てえしたもんじゃぁねえが 
土産よ、いつもお前ぇにゃぁ何かと世話をかけるによってな」
平蔵はさげた荷物を解いて渋を引かれた帖紙(たとうがみ)
に包まれた物を取り出しおまさに手渡した。

「もったいない長谷川様 まさは・・・・・・」

「おっと そこまでそこまで・・・・・なぁ彦 」

「全くでさぁ、さすがの長谷川様も、まぁちゃんには頭が上がらねぇ」

「俺は弱みなどねぇぜ なァおまさ」

「おほほほほほ」

「やっぱり無理かぁ」

こいつはな 川越で織られておる唐桟だ、うどんを食いに入ェった向かいが
機屋でな、まぁついでということよ」照れくさそうに頭をかきながら、
だが楽しそうな顔である。

「さすが銕っつあん 言い繕うところがにくいね」

「おいおい彦 そうではない そうではないぞ、いや参ったなぁ」

「判っておりやすとも 長谷川様、へへへへへ、それにしてもねぇ まぁちゃん」

「おい彦十!久栄には内緒だぜぇ、おなごは恐ぇからのう」

「まっ! 私も女でございますよ長谷川様」
おまさは藍の地色に浅葱の細縞と黄土の縦縞の柔らかな縞木綿を胸に抱え、
その温もりをいとおしそうに抱きしめた。

「なぁに、俺にとっちゃぁ盗人酒場の10かそこいらのおまさ坊だよ」

庶民にとって着物を新調できる時代ではないこの時期、
おまさの日頃の働きにも、なかなか労ってやれない平蔵の気持ちであった。



時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 3月1号 女賊別伝




この日同心木村忠吾は市中見廻りの途中雨に降られて少々腐っていたが、
少し前を歩く女の後ろ姿に目を奪われた。

傘をさし、片方の手で裾を少しばかりからげた姿が何とも色っぽい。

スッキリと切れ上がった小股が、赤い襦袢にからみつくように踊る
(むふふふふふ・・・・こんな色っぽい後ろ姿はきっといい女に違いない)
自分勝手に妄想を重ねながら木村忠吾は女の後をつけてゆく。

(こんな時はしっぽりとさしつさされつ「忠さま おひとつ・・・」
なんて、悪くないなぁ、お前もどうだい、

あら 今度は口移しにいただこうかしら・・・・・)むふふふふふっ

ここは小石川伝通院前を背に南にまっすぐ下る安藤坂、
白壁町辺りを過ぎ、右に安藤飛騨守屋敷の高く長い塀があるあたりで
まっすぐ下りて小石川龍門寺門角を曲がれば別當龍門寺牛天神があり、
少し手前が桑名屋橋となる。

折しも梅雨の入間、偲ぶようにあじさい色の雨が降りしきっている。

雨宿りのつもりか女は角の菓子屋に入ろうとした。

忠吾は素早く女の前に回り「御役目がらちと尋ねたいことがある・・・」
と懐の十手をチラリと見せた。

無論これは忠吾のハッタリで、なんとか女を口説こうとする
思いつきにほかならなかった。

だが、事は一転 事件はここから始まったのである。

「おお怖い!」と言いつつもしなだれるように胸乳を忠吾の腕に
すり寄せ押し付けながら、上目遣いにしっとりと見上げた。

(ぶるぶるぶる・・・)忠吾の眼は下がるだけ下がり、
もはやこの女の色香に飲み込まれてしまっているようすである。

「ねぇ旦那、雨も止みそうにもござんせんし、
こんなところじゃぁなんですから、奥に入ってそれからって言うことに
なさいましよ」と流し目に店の奥を示す。

「よし、あい判った!」忠吾は女のさそいに安々と乗り、
(まずは手始めに・・・うふふふ)と気分はもうあらぬ方向へ勝手に飛ばし、
自ら進んで奥に入った。

こうなると女郎蜘蛛の糸に絡められるのは時間の問題であろう。

後ろからついてきた女が心張り棒で一撃したから堪らない、
ガツッ! 鈍い音とともに忠吾の体が前のめりに土間に倒れこんだ。

「早くこいつを穴蔵に押し込めておしまい」鋭い語気で女が奥に向かって叫ぶ。

「何んでぃこいつは」と言いながら40がらみのでっぷり太った男が
のっそりと現れ忠吾をずるずる奥に引き込んでいった。

この京菓子屋井筒屋の主は井筒屋徳右衛門と言う。

元は近江国、高宮の出身という触れ込みで15年ほど前、
(近江落雁)と名づけた京菓子を売りだした。

その主人徳右衛門が死んだのは10年ほど前だが、
60を越えた徳右衛門が死ぬ半年前に女房を迎えていて、
今もそのままこの京菓子井筒屋はその女房が引き継いでいる。

だが、店を切り盛りしているのは番頭の勝四郎、
年は40を回った頃で小太りでありながら、身のこなしは軽やかである。

「よござんすか!」とふすまの向こうから声をかけた。

「勝さんかえ、こっちにお入りなよ」と女はキセルを煙草盆に預けながら
声をかけた。

お頭!先ほどの奴郎は一体ぇ何でござんす」と奥の土間を指さした。

「あたしにも合点がいかないんだけどね、伝通院を出た頃から
ずっと後をつけてきて、いきなり十手をちらつかせて
「お役目柄ちと尋ねたいことがある」と言われて、
まさかとは思うけど身なりからもお上の御用を承っている者としか思えない。

もしやあたしの素性を探索中であったらと、ここまで誘いこんだということさ」
ふっ とキセルを空ふかしして、ごろりと向き直った。

「まさかお頭がここで男をくわえ込むとは想えねえし・・・・・・」

「若い男なら大坂屋のあいつでいいよ」

「しかしお頭も今度ばかりは ひどくあの若いのにご執心のようでへへへへへ」

「ああ 若い男の体はこたえられないもの、おまけにあの男は
私が初めての女だそうな。
そりゃぁ可愛いものさね、初(うぶ)っていうのはああいうのを言うんだろうね、
お陰であたしも後をひいちまってるところだよ、だがね・・・・・・」

「始末をつけるんで?」

「そうだねえぇ・・・・・・もう1日だけ、最後の楽しみをさせてからにしようと
思っているのだがね」 

「やれやれ お頭の男狂いにも参っちまいやすね」勝四郎は舌打ちしながら、

所で穴蔵のやつはどうしやす?いっその事バラして土左衛門にでも・・・・・」

「その前に、どこまで探索の手が伸びているか探りださなきゃぁ
こっちもいつ火の粉が飛んで来るかわかったものじゃないよ、
土蔵の2階へ引き上げて傷めつけておやり」

それからの数日忠吾は拷問に耐えていた。

「お前がお上の御用をつとめていることは承知さ、
どこまでこっちの手の内を知っているんだえ?素直に吐いたほうが
お前の為になろうというものじゃないか」

猿ぐつわをかまされ、両手を後ろ手に縛られたまま忠吾は土蔵の床に転がっていた。

女が忠吾の前に廻り、片膝突いて忠吾の顔を手で抱え上げた。

裾前がバラリとはだけ、真っ白な素足が蹴出しの薄影の中に消えるのを
忠吾はゴクリと生唾を飲み込んで見とれた。

「どこ眺めてんだよう!」女の平手打ちが飛んできた。

「着流しということは手前ぇ町奉行所のものじゃぁねぇな」
勝四郎が忠吾の前襟を掴んで首根っこを締めあげた。

忠吾はただ睨み上げるだけで、それ以外の反応を見せない。

「お頭、と言うことは、こいつ火盗・・・・・・・・」

「冗談じゃぁ無いよ、こんなひょろひょろして、女とみりゃぁ
鼻の下を伸ばす奴が盗賊改め?はんっ!だとしたら、
盗賊改めも落ちたもんだねぇ、話さなくていいよ!
その代わり悲鳴も上げるんじゃぁないよ、

そのくらいの根性はあるんだろうねぇ えっ! 
お願いですからと言うまで痛めておやり」女はそう言って下に降りていった。

それからひととき勝四郎の殴る蹴るの責め上げ方は、息つく暇もないほどで、
猿轡(さるぐつわ)の上からも漏れる声は、生半可な攻め方ではない事が伺える。

気を失い、ぐったりした忠吾をそのままま放置して勝四郎も階下に降りていった。
しばらくして気がついた忠吾、何という事はない
例のものがもようしてきたのである。

バタバタと床をかかとで打ち続けた。

ハシゴの引っかかる音がして「うるせぇな、静かにしやぁがれ」と
勝四郎が上がってきた。

顔を真赤にしている忠吾を見て、それと察し
「なんでぇそこんところの小窓にでもひっかけな!
飛べばのもんだがなぁ へへへへっ」

股間を蹴り上げられて腫れ上がっているのを承知の嫌味であった。

手をほどいてもらい、やっとの思いで用を済ませた忠吾に
「どうでぃ ちったぁ話す気になったけぇ」と胸ぐらをつかまれた。

眼をむいて睨み返す忠吾の喉へ鋭い蹴りの一撃が食らわされた
「げふっ!!」忠吾は激痛にもんどり打ってつっ伏した。

「口を割らねせんなら、しゃべることもいるめぇよ、
そこいらにいい子でねんねしてな」

明けて3日目の朝である。

夜半になっても帰宅の報告がなされない
「まぁ、あいつの行状から言えば一晩や二晩の無届外泊は
取り上げるまでもなかろう」と
同心筆頭の酒井祐助は筆頭与力の佐嶋に報告をあげなかった。

それが三晩となり、(もしや・・・・・・)と
佐嶋から平蔵に報告が上がった。

「何ぃ 三日もつなぎがないというのは、いかに忠吾といえども
御役目を忘れるものではあるまい。
急ぎ密偵共を呼び出し、火急のつなぎを取れ」
珍しく平蔵は心の乱れを感じた。

「忠吾も火付盗賊の端くれ、いつなんどきであれ、
そのための覚悟は出来ておろうと存じます」と筆頭与力の佐嶋忠介が口を切る。

(やつだけは死なせとうない・・・・・・)
平蔵の心のなかに大きな不安が秋の叢雲のごとく吹き上がってくるのを
抑えようもなかった。

浅草観世音境内では、梅雨の晴れ間とあって久しぶりの人々が
大勢集まって賑わっていた。

密偵のおまさが参詣を済ませて元来た参道へ道を取ろうとした時
「や おまさちゃんじゃァねえか」と声をかけてきたのが瀬音の小兵衛であった。

「瀬音のお頭・・・・・まぁお久しぶりでございますねぇ」

「やっぱりおまさちゃんだね、見違えちまったよ」

この瀬音の小兵衛、おまさの父親 鶴(たずがね)の忠助とは昔なじみで、
平蔵がまだ本所の銕と二つ名で暴れまわっていた頃からの付き合いである。

「おまさちゃんお前さん 幸太郎のことはしっていなさるねぇ」

「ええ」

幸太郎は瀬音の小兵衛のただ一人の子供であった。

小兵衛が40を過ぎた頃、浅草今戸の料亭(金波桜)の女中をしていた
気立てもよく、よく気の利く女にすっかり夢中になり
その(おしま)と世帯を持ってしまった経緯はおまさも忠助から聞いていた。

しかし、産後の日立ちが悪く女房おしまはあっけなくこの世を去ってしまった。
取り残された小兵衛は忠助の口利きで下谷広徳寺門前の数珠や
名倉屋太吉が幸太郎をもらってくれることになってひとまず安心となったが、
その2年後に名倉屋に男の子が生まれた。

そんなわけで幸太郎は立花町のある乾物問屋大阪屋伊之助方へ奉公に出された。

足を洗って岡部の宿へ引きこもる前に、よしみの盗賊福住の千蔵に
「陰ながら、幸太郎の事を見ていてくれ」と頼んだ経緯があった。

「さようでございましたか、私もお父っつあんがなくなってからは、
本所から出てしまい、幸太郎さんの事はちっとも知りませんでしたけれどねぇ」

この前岡部の宿で福住の千蔵さんが「お前さんの息子が
とんでもねぇことになっている、「幸太郎さんの奉公している大阪屋さんへ
狙いをつけた猿塚のお千代が、色仕掛けで・・・・・

そうと知らない幸太郎さんがまんまとお千代の手練手管に
取り込まれちまって・・・・・」って聞かされて、
わしはたまりかねてお江戸に出てきたってわけなんだよ、

こんな薄汚い年寄りだ、お店の前をうろついたんじゃぁ眼にも
つこうってもんで、お頼みってぇのはこの事で、
どうかおまさちゃん一つ幸太郎の事を引き受けてくれちゃもらえないかい」

これが平蔵にもたらされた別の一件であった。

平蔵もおまさもこの小兵衛の件は昔なじみとあって盗賊改めとは
無縁の件であり、二人だけの探索ということで行動が為された。

この時、忠吾は納屋の屋根裏で嬲(なぶ)られ拷問に耐えながら
瀕死の状態であった。

忠吾は飲まず食わずでもうすでに4日は過ぎ、脱糞と小水で
狭い屋根裏は悪臭がただよい、すでに意識も朦朧としてきている。

(このままでは・・・・・・)萎えそうになる意識を奮い立たせて
忠吾は下帯を抜きあげた。

(この下帯を誰かが見つけて異様に想えば・・・・・・・)

儚い望みではあった、だが何もしないのは更にはかないと想ったのである。

這いずりながらようやく小窓に寄り、下帯を格子に括りつけた。

その向こうに川をはさんで牛込の小屋敷の家並みが雨の中ぼんやりと
霞んで観えた(叫んだとて届くはずもない・・・・・)
再び忠吾は意識を失った。

一方おまさは幸太郎が奉公している乾物問屋大阪屋伊之助宅を見張っていた。

夕刻籠が1丁呼ばれ、幸太郎らしき男が乗り店を出て行った、
その後をつけて行った先は上野池之端の出会い茶屋(ひしや)であった。

そこへもうひと籠が着いて、少し年増には観えたものの、
中々艶っぽい女が出てきた。

これが福住の千蔵から聞いていた猿塚のお千代と睨んだおまさは、
ひととき半ほど後に出て来た2丁の籠の後をつけた。

途中から籠が別々に別れために、お千代の方をつけ、
行く先が小石川別當龍門寺牛天神まえの金杉水道町で降りるのを見届けた。

空には月が輝き、梅雨の雨に洗われた空は碧々と雲ひとつなかった。

やれやれと踵を返そうとしたおまさの眼に納屋の2階から妙なものが
ぶら下がっているのが観えた
(何かしら?)いぶかしく思いながら平蔵の待つ上野池之端の出会い茶屋
(ひしや)に向かった。 

「おう おまさ ご苦労であった、で何か変わった様子はなかったかえ?」

「はい 長谷川様のお見込み通り2丁の籠が出ましたので、
幸太郎の方は帰るところは大阪屋と踏みまして、もうひとつの籠をつけました」

「ふむ で、行く先はつかめたのであろうな」

「はい 小石川の牛天神前の京菓子や井筒屋に入るのを見届けました、
しばらく張っておりましたが、その後店の戸を閉めた模様なので
急ぎ帰ってまいりました」

「そいつはご苦労であった、で 他に変わった様子はなかったかえ?

「そういえば妙なことが一つ・・・・・・」

「何妙なことだぁ?」

「はい 隣の納屋の2階の小窓からなにやら白い晒のような物が
下がっておりました」

「何!晒しだぁ・・・・・・・くくくくくくっ 
おい!でかしたおまさ!そいつはうさ忠だぜ、
奴めまたもや下帯に救われたか うわははははは」

 
木村様・・・・・でございますか?」

「ほれ 深川、蛤町の海福寺門前の茶店(豊島屋)の一本うどん事件よ」

「あっ そういえばあの時も・・・・・うふふふふ」
思わずおまさも笑ってしまった。

「こうなると相手は猿塚のお千代と判明いたした、
どうにも俺たちだけでは手が足りぬ、急ぎ籠に乗って役宅へ行き、
手すきのものを差し向けてくれそれまで俺はここにおる。

急げ、彦十と粂も駆り出してここへ連れてきてくれ」

やがて東の空が白白と明け始めた7ツ頃、雨支度を整えた定六が
井筒屋から小石川金杉の通りへ現れた。

「長谷川様、あの男でございます」陰で張っていたおまさが声をかける。

「よし、お前たちは奴の後を追え、他の者は井筒屋から出てくるものあらば
離れてから捕縛せよ、俺が戻るまで決して打ち込んではならぬ」
平蔵はそう指示しながら彦十おまさや粂八の後を追った。

こうして根岸の里の大捕り物は無事に終え、馬で取って返した平蔵指揮のもと
井筒屋に打ち込んだ。

猿塚のお千代は平蔵の顔を見るや道中差で自らの喉を一突きに自害して果てた。

隣の納屋の2階から木村忠吾が救出されたのは言うまでもあるまい。

「やれやれ 忠吾!お前はまこと下帯に縁があるとみえるなぁ、
今度からは下帯に名前ぇでも書いておくと良かろうぜ、
すぐにお前ぇと判るからのう、いや下帯を解くのは程々にいたせよ、
まぁせめて出会い茶屋あたりで止めておくこったなぁ あはははははは」

「おかしら それはあんまりなぁ・・・・・・」

忠吾は殴られ蹴られて顔を風船のように腫れ上がらせたまま、
更にふくれっ面でぼやくのであった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 


拍手[0回]


鬼平犯科帳外伝 2月第3号 富山のべっ甲


うさ忠 こと木村忠吾

芝・神明の菓子舗〔まつむら〕で売り出している
〔うさぎ饅頭(まんじゅう)〕そっくりだというのである。
芝明神前の名物うさぎ饅頭に顔つきだけでなく、
甘みもほどほど、塩味もほどほど。

いくつ食べても腹にたまらず、何よりも一個一文は安い、
毒にも薬にもならん娑婆塞げ(しゃばふさげ=生きていても
何の役にも 立たず,ただ場所をふさいでいるにすぎないこと。
また,そのような人、ごく つぶし)ということだ。
と酒井に言われ、同輩たちに(うさちゅう・うさちゅう)と言われている。

ここは清水御門外の火付盗賊改方長谷川平蔵の役宅

夏場の暑気を少しでも和らげようと妻女久栄が同心部屋の軒に下げた
釣り忍が翠の葉を精一杯伸ばし、時折の風にゆらゆらと揺れ、
風鈴の音が軽やかに流れている。

そこには珍しく非番をこの同心部屋で潰している木村忠吾がいた。

庭から流れ込む微風は涼しいと言うには程遠く、
バタバタと扇を揺らしながら忠吾は暇にあかして鼻毛を抜いている。

「ねぇ村松様 このように暑い日はお役宅のほうが涼しいかと
思い役宅に参りましたが、何処も同じ あ~ぁ 暑うござりますなぁ、
私は汗かきゆえ その こう 股ぐらも汗をかきましてたまりませぬ
」と前をはだけた股ぐらに風をバタバタ送りながら憮然としている。

「忠吾 その暑いさなかを、わしはこうして皆のためにゆうげの支度をと
朝からかまどの番をしながら立ち働いておる、文句を言うではない。

おかしらはこの暑いさなかにも市中見廻りにお出かけなさっておられる、
それに引き換えお前はどうじゃ!役宅でただゴロゴロ寝転がって
グタグタ文句を言うておるだけではないか」

「お言葉がですが村松様、本日はこの木村忠吾非番にていかように
過ごそうとも勝手気ままでございます」と少々村松の言葉が気に食わない様子。

「だがな 忠吾!おかしらはいつが非番じゃ?お頭が(本日は非番じゃ)と 
仰せられたことがあろうか?」

「・・・・・・・・・それは・・・・・」

「であろう、おかしらは我らには何も申されず、日々お役に励まれ
下々の者の暮らし向きにまでお心を痛めておられる、
そこでわしはせめてもの気持ちで、暑気払いにとべっ甲を作っておるのよ」

「べっ甲でござりますか!それは又いかようなるもので・・・・・」
食い物とおなごには目のない木村忠吾、聞き逃すはずもない。

「まぁこいつをちょっとつまんでみるがよい」
村松忠之進は何やら妙なものを忠吾に手渡した。

「何でござります?このわけもわからぬ物は」と言いつつ、
村松の勧めるままにひとつまみ・・・

(ぶっ!)「これは又何でござります、味も素っ気もない
ぼそぼそしただけの妙なものでございますなぁ」と、いかにも不味そうに

「忠吾 それはカンテンともうしてな、海に漂うておるテングサで
工夫したるものよ、味も素っ気もないからこそ、
こちらの想うように味付けが叶う、良いカンテンほど味も素っ気もない物よ、

そもそもカンテンは京都府伏見の旅館『美濃屋』の主・美濃太郎左衛門が、
戸外に捨て置いたトコロテンが日中は融け、夜間には凍結したる物が
日を経て乾物になっていた物を発見した。

これにてトコロテンをつくったところ、前よりも美しく
海藻臭さも無いものができた。

そこで黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、
精進料理に良いと言われ、隠元は「寒空」や「冬の空」
を意味する漢語の寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、
寒天と命名したそうな」

「はぁ~さようでございますか、なれど私は講釈よりも
出来上がったものの方に興味をそそられます」

「さもあろう お前は食い物とおなごには特に興味があるからの」

「むむむっ 村松様、まるでおかしらのようなお言葉、
それではこの木村忠吾がまるで御役目をないがしろにしているふうに
聞こえまする」

「はぁ~違うておるか?」

「そこまで言われますと少々 とは申せ、おかしらもお目こぼし
くださっておられます事ゆえ」

「そこよ お前がその辺りから盗人のねたを拾うてくることもある故、
おかしらも我らもあまり小言は申さぬであろう」

「確かに・・・・・・」

「このカンテンはな、伊豆のものが上等と言われておる。
採取したるテングサを砂浜にひろげ、ときおり淡水を注ぎて
十数日ほど干しいたさば、薄黄色のさらしテングサとなる。

貝殻、砂その他を取り除いたあとこれを水に浸し、
柔らかくしたものを水車でつき、流水にさらして塩分、色素を除く。

テングサのみではあまりに硬すぎるのと、
テングサが高価なため同じような海藻を配合するのだがな、
これが肝となる、普通には2:8とか4分6と申すそうな。

熱湯にテングサを入れ、酢酸少量を加え、2刻半煮出す。
これを濾して上澄みの1番を取り、絞り汁にこれを混ぜ
器に移して固まらせし物がトコロテンとなる。

角カンテンはこれを1寸5分の太さに切り分け、
高さ1間ほどの防風壁を設けて棚を作り、
そこへむしろを敷いて2晩かけて凍結させる。

これが一晩だと変質いたし、数日過ぎるとこれまた
腐敗いたして使い物にならぬ。

ここまで出来たものを陽に当て、氷結いたした氷を溶かし
水分を取り除き、更に数日晒して出来上がる、
誠に手間暇のかかる奴じゃ」と忠吾をちらりと見るが・・・・・・

「村松様の講釈を聞いておるだけでもうこの木村忠吾意欲を削がれます」

「お前は何をやっても続かぬからのう」

「あっ それは何かの間違いでござります、
私めはそのように申されますことにトンとおぼえがござりません」

「まぁよいよい おかしらはそれも解った上でお前を使ぅてくださるのだからな」

「さようでございますか?私はいつもおかしらが市中見廻りのおりには
(忠吾忠吾)とお引き回し下さるものですから、
お気に入られておるものと想うておりました。

先日も(忠吾ついて参れ)と仰せられて、谷中に・・・・・・うふふふふふっ」

「やれやれ お前には叶わぬ、親の心子知らずとはよくぞ申したものよ」
村松忠之進半ばあきれ返っている。

夕刻平蔵は役宅に戻ってきた。

「おかしら お疲れ様でござりました。

本日も日差しが高うございまして、さぞやお疲れの事と存じます、
そこで暑気払いにと」

「おお さすが猫どの、そこまで気を使ってくれておるか いやすまぬ」
平蔵は村松の気遣いを労いながらも
「所で猫どの その暑気払いをこう なんだ 早いとこ食いてぇものだなぁ
ええっ!本日の献立は何だえ?」

「はい トコロテンの摺り胡麻和えに、べっ甲、
食後にカンテンのわらび餅を用意いたしております」
甘いものにも目のない平蔵の痒いところに手の届く村松の気遣いを
平蔵はよく心得ている。 

「へへへぇ カンテンにトコロテンかえ、こいつぁひと風呂浴びて
さっぱりした後の1杯ぇが、又楽しみだわい、
早速ひと風呂浴びてまいろう」と、そそくさと湯殿に消えた。

しばらくして平蔵が部屋に御内儀の久栄ともどもくつろいでいるところへ、
村松忠之進、いそいそと酒肴を運ぶ。

「おお 久栄 来たぞ来たぞ、猫どのの心尽くしの暑気払いじゃ。
うむ どれどれ・・・・・・
う~ん 深水にて冷えたトコロテンにさっぱりとした酸味、
これに柚子胡椒のピリリと辛い旨味がからみ、
ごま油と摺りゴマの香りが な~るほどのう、
きゅうりの歯ざわりと程よく口の中で・・・・・う~ん さすが猫どのじゃ」

「もう一品 こちらはべっ甲と申しまして、富山の名物でございます。
寒天は四半時ほど水に浸し、卵は割りほぐしておきます。

鍋に手でちぎって硬く絞った寒天と水をいれて火にかけ、
煮溶かしましたる物に出し汁・砂糖・醤油・塩少々を加え、
火を止めてから卵を糸が引くように流し込み、
ぬらした型に流して冷やし固めまする」。

「それがこいつだな!」

平蔵はまるで子供のように頬をほころばせて次のひと椀に箸を伸ばす。

「へへへへぇ こりゃぁまた色目も良いが、味も格別  
うむうむ 久栄そなたも早ぅ食してみるが良い、
カンテンの適度な歯ざわりがこう 何と申さばよいか、
口の中でとろりと溶ける、その時の出汁のこう 何と申すか 
うむうむ 打ち水をしたる後の草木の色艶、爽やかさとでも申すかのう、
適度の硬さにしょうが汁の風味が涼しさを招いてくれる、誠に甘露じゃなぁ」

「殿様、わたくしはこちらのわらび餅が好物にて、気になりまする」
と久栄は深水で冷やされた皿に盛られたわらび餅に食指を伸ばす。

「はい 奥方様のお好みではないかと存じまして、
カンテンにて工夫いたしてみました物、お気に召さばこの村松忠之進
整えた甲斐がござります」

「ほうほう どれどれ いや うむ・・・・・
おお!この黒蜜が曲者じゃなぁ、程よくきな粉とあい混じりおうて、
葛とは又違ぅた感触が成る程成る程・・・・・・・

いやぁさすが猫どのにかかると何の変哲もないカンテンが
かように変化いたすとは、いやいや全くこの平蔵兜を脱ぐぜ。

これを至福と申すのであろうなぁ、良き部下を持ち、良き妻女殿に恵まれ、
こうして美味きものにも恵まれる、のう久栄! 
そう想わぬかえ」平蔵はしみじみと今のこのひとときが愛おしく想えてならなかった。

月は満々とみちて空を彩り、隅々まで晴れわたって碧々と清らかに拡がっていた。
(チリン)と釣忍が鳴った・・・・・・

「夜風か・・・・・・・この静けさと穏やかさがいつまでも続けばよいが」、
ポツリと平蔵は箸を置いて漏らした。
  

拍手[0回]


俺を試すか! 2月3週号


平蔵が懐刀と呼ぶ筆頭与力 カミソリ佐嶋忠介


おかしら、昨日私めがしたためましたる錣(しころ)十兵衛のお調書でござりますが、
お頭ならばいかがなされるかお聞かせ願えませんでしょうか?

「何ぃ 忠吾、そちはこの俺を試そうとてか!」

「えっ 滅相もござりませぬ、私はただ・・・」

「ただ? ただ何とした!!」

「いえ 私の調べましたる事につき、おかしらのお考えが承りたく・・・・・」

「だからそれがわしを試すと言うことであろう。
忠吾!人の意見を参考に伺うおり、さような物言いはことの内容を比べようという
働きがあるからじゃ、それがどうして解らぬ」

「ははっ!! 誠に持って面目次第もござりませぬ」

「もしもわしの申すことがそなたと違ぅておった場合、いかがする所存じゃ、
有り体に申してみよ」

「ははぁっ この木村忠吾ただただ恐れ入ってござりまする」

「もう良い 下がってよし」

「はは~~~っ」

木村忠吾はコメツキバッタのごとく床に頭を擦り付けながら引き下がった。

「のう佐嶋、これまでの(しころ十兵衛)の手口じゃが、
忠吾の調書に加える事があるかの?」

「はっつ 今のところ別段書き加えることは御ざりません、
こたびの忠吾の調書はよく出来ておると存じます」

「ふむ さもあろう、だから奴め鼻を高うして俺の意見を求めたに相違あるまい」
あれさえなければのう・・・・・・」

「はははは 全くでござります」佐嶋忠介もよく心得ている。

「所で佐嶋、十兵衛の獲物はやはりシコロか」

「はい これまでの調ベ書きにて、奴のやり口であろうと想われます
幾つかのお店(たな)に残されましたる押し込みの手口が共通しております。

たとえ土蔵であろうが土間であろうが、シコロを使っての破り方」そこから
錣の十兵衛とあだ名されておるそうにございます」

「シコロとは又 はぁ~何時の世まで透破が世間を騒がせるのかのう。

御政道が間違ぅておるとは想わぬが、正しいとも俺には言えぬ。
下々の者が有りてこそ、初めてお上がなりたつであろうに、そこんところが
お上にはわかっておらぬ。

富むものが貧しきものを助けてこそ御政道、だが、今の世の中貧しきものが
富むものから手段を選ばず強奪いたしおる、これでは盗人社会は収まらぬ、
のう佐嶋 そうはおもわぬかえ?」

「おかしらの申されます通り、誠に今の世の中不条理に満ちております」

「わしも筆頭老中松平越中守様に進言いたし、可役人足寄場の設置を
お赦しいただいた。

だがな いくら悪人をひっ捕らえても浜の真砂と五右衛門が言いおったように、
盗人は減る様子とてない。

八代様が享保の改革にておつくりあそばした小石川養生所とて、
いまや博徒の根城とかしておるとか。

お医師も薬代をごまかし、私腹を肥やすなぞと巷の噂は消すことも出来ぬ、
俺には何が正しくて何が間違ぅておるのか、その判断を決めかねることもある」

「おかしら・・・・・」

のう 腹が減って死にそうなものが飯を望むどこが悪いのじゃ、
生きるとはまさに其の所であろう、生きるために盗みを働く、
これは確かに悪いことではある、
だがな、その一人一人が生きておるから御政道は保たれておる、違うか佐嶋」 

「さようでございますな、今の世の中何が不足しておりましょうか、
厳しく取り締まるよりその不足したるものを与えることが罪人をなくす方法
と心得ますが」

「しかり しかり まさにそこ元の申すとおり、俺はそのために加役人足寄場に
授産所を設け、寄場人足は水玉の着物を着せ、一年を過ぎるごとに水玉の数を減らし、
釈放前には柿色無地の衣服を着せ、施設の外での仕事、町への買い物を許し、
手に職を付けさせ、作業にあたっては其の収益を施設の運営にあて、

一部を労働の代価として当人に与え、出所後の暮らし向きを立て直す機会を願ごうて
作った。

読み書きを教え神道を学ばせ、これを収めたる者は釈放して世のお役に立てる。
それが俺のすべき答えであった。

だがなぁ一度悪に染まった者は、中々元には戻れぬものよ、
いくら本人がその気であっても、世間がそうは見てくれぬ、そこに
俺はぶちあたっておるのよ。

人とは何と寂しいものか、罪を犯す物が悪いのではない、罪を侵させる世間も悪い、
俺はそう想うのだがな、いやどうも俺の想うように事は運ばぬ。

飢饉で田畑が荒れ、年貢を取れねばお上が立ち行かぬ、
では何がはじめに悪いのであろう、
こいつばかりは いやぁこの俺にも皆目判らぬ。せめて罪を憎んで人を憎まず、
そのように想ぅてはおるのだがなぁ、近頃の盗っと共の急ぎ働きを見ると、
其の気持ちも揺らいでしまいそうじゃ。

雑草というやつ、踏みつければ踏みつけるほどたくましくなる。
その芽を刈り取ってもすぐさまより以上に力を増して生えてきおる、
力任せに引き抜いたとてわずかでも根が残っておれば、一夜の雨でよみがえる。

あれが火盗よと町方からは煙たがられ、庶民からは鬼とやゆされ、老中からまで
過剰と非難を浴びる。

俺に代わって誰かが収めてくれれば、俺はいつでもお役を降りる。
斬り捨てお構いなしはご法度なれど、いちいち詮議立ていたさば、
いやどうにもたちゆかぬ場合もある。

世の中に生かしておいてもどうにもならぬと想うた時、俺は切り捨てる。
備前守さまもそのところをお判りくださり、我らの為したる行いをかぼうてくださる。

おれとて立身出世は嫌いではない。
町奉行にでも昇進いたさば、どれほど久栄も俺も楽になるか、のう・・・・・・

だが、今俺がここで踏ん張らねば誰が代わりにおろう。
お前達が自由に動くにゃぁ多くの手下がいるであろう、
密偵を手足のごとく動かすにぁ金子もかかる、
その苦労を備前守様は影でお手元金をくださり、我らの働きを助成くださる。

なぁ佐嶋、この御方のためならば、俺はこの生命捨てても惜しいとは想わねぇ、
庶民が暮らしよい世の中を一日も早く創りてぇ・・・・・・」

弓張の残月が雲間に浮かんで、江戸の町をじっと照らしている。
時すでに師走に入ったある日の出来事であった。



画像付き 時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/

拍手[0回]


平蔵暗殺 2-2


 



 

 その日平蔵の姿は神田橋御門の鎌倉川岸にあった。


夕刻より平蔵は清水御門役宅の裏から、
ぶらりと気晴らしに出かけたその最中に事は起こった。


平蔵が思いつきで出かける事はよくあり、別段変わった行動ではない。


その時々で行く先は気分次第ということは多々あるものの、
目的もなくというのがいつもの事。


十二月に入って、さすがに冷え込みも厳しくなり始め、
夕刻ともなると日差しの失せた道は底冷えを運んでくる。


(ちょいと寒くなってきたな)懐に両手を入れて、
(さて本日はどの道筋を選ぼうか)と塗笠を上げて見る先に
いつも立ち寄る居酒屋の明かりが目に入った。


(うむ ちょいと引っ掛け温まって帰ろう)


「いらっしゃいやし」


「おう いつもの奴を二本程持ってきてくれ、
それに何か適当にみつくろってな


この居酒屋は伊丹の丹醸柱焼酎の剣菱を出していた。


このすっきりとした辛口の男酒が平蔵の好みに
合っていたのであろうか。


「きょうの酒肴は何だえ? おう たたき牛蒡か」


「へぇ 大浦牛蒡が手に入りやしたもので、
藁束で泥をこすり落として、すりこぎ棒で軽く叩いて
筋離れさせやす、こいつを一寸五分ほどに切りそろえて
鍋に酢を少々、煮上がったものを取り上げて、


白ごまをホウロクで炒り上げてさましたあとで
すり鉢にて軽く摺ります。


酢に味醂、昆布とカツオの出し汁に塩少々を入れて
煮立てたところへゴボウを入れて汁気を飛ばし、
ゴマを加えて和えます。


「ウム いやなんだなぁ この牛蒡の香りとゴマの香りの
程よい絡み方がふ~ さすがに上手ぇ、
火の落とし所が肝だな?」


「恐れいりやす お武家様にかかっちゃぁ叶いませんや」
そんなやりとりをしながら徳利が二本あいてしまった。


「おう 済まぬもう一本持ってきてくれ、程よく体も温まり
夜道もこれだと大丈夫であろうからのう、ところで親父女房の
(おふじ)の顔が見えぬが・・・・・」


平蔵の言葉を聞いた親父の顔が一瞬戸惑いを見せたのに平蔵は気づいた。


奥から追加の酒を運んできた親父に「うむありがとうよ 
お前ぇも1杯ぇどうだ?」と盃を向ける。


「ととととんでもねぇ!」亭主の語気の強さに平蔵はますます
疑念を抱いた。


「さようか、まぁ無理には勧めるめぇ」と盃を出した。


亭主の得利を持った手が小刻みに震えている。


「おい お前ぇ熱でもあるんじゃぁねえか」と、
おやじの額に手を当てつつ盃を干した。


「いえ 熱などございやせん へぇ」そう言って
そそくさと奥に引っ込んだ。


しばらくして「ぐへっ!!と表の方で声がした。


「親父 お前ぇ酒に何を仕掛けた!   ぐはっ!!」
何かを吐くような音とともにドウと倒れる音がした。


そのあと奥のほうで「ギャッ」と言う悲鳴が二度ほどして
静まり返った。


火付盗賊改方長谷川平蔵暗殺を外部に漏らすまいと
町奉行も盗賊改めも隠密裏に動いたのは言うまでもあるまい。


もしこれが巷に流れるようなことあらば、
この時とばかり盗賊どもが暴れまわるに違いないからだ。


そうこうしている間にも時は瞬く間に流れ去り、
江戸の町を雪が白く染めてゆく頃となった。


どこから漏れたのか、(長谷川平蔵死す)の風評が立った。


明けて睦月半ば、東に砺波(となみ)平野、
西に金沢平野の広がりを見せる倶利伽羅峠に綱切の甚五郎一党が
金沢に向けて越そうとしていた。


峠の頂上付近にポツリと地蔵堂が建っている、
その縁に腰掛けて握り飯をつまみながら、
「それにしてもお頭、平蔵の最後があまりにもあっけねぇんで、
ちぃっとばかりがっかりしやしたねぇ、
もっと骨があると想っておりやしたもんで」


「だがよ、これで俺は兄貴の敵が討てたんだ、
お前ぇが平蔵の動向を探り、決まって帰り道は行きつけの
(かどや)に立ち寄ることを突き止め、平蔵の先回りをして、
女房に短刀突きつけて亭主を脅し、


酔って警戒心をなくした頃合いを見計らって酒に毒を仕込ませ、
奴に飲ませたそのあとお前ぇは亭主と女房を刺し殺して
ずらかったわけよなぁ」


「そのとおりでさぁ、見たら野郎血へどを吐いて
くたばりやがったんだぜ、 ざまぁ見ろってんだ。


半年もかけて平蔵の動きを見はった甲斐があったってぇ事よ、なぁ!」


その言葉の終わらないうちに、


「誰が血反吐を吐いてくたばったってぇ言うんでぇ」
藪から棒に地蔵堂の中から声が飛んで来た。


何ぃ!!」驚いて甚五郎が振り返った。


地蔵堂の扉が観音開きに開け放たれ、旅姿の男がぬっと現れた。


「誰だ 手前ぇ」


「お前ぇの手下(てか)に毒を盛られた長谷川平蔵よ」


「てめぇ死んだはずじゃぁ・・・・・・」
 
予期もしない平蔵の出現に、甚五郎は残忍な眼をいっぱいに
見開いたまま持っていた水筒をとり落としてしまった。


「残念だったなぁ網切の甚五郎、あの時俺は親父に
(女房のおふじの顔が見えねぇが)、と聞いたら、
亭主の返事がこわばった。


そのあと酒を運んできたので「お前ぇもどうだと勧めたら、
いつもなら盃を受けるのに、そん時ばかりは手を振って断りやがった、
こいつは何かあるなと勘づいたってことよ。


そこで俺は亭主に(熱でもあるんじゃァねぇか)と
ヤツの額に手を当てて目線を防ぎ、その隙に盃の酒を
俺の懐紙に飲ませたってぇ寸法だ。


お陰で女房殿に着物がシミになったと小言を食らっちまった。


それから先は、その手下(てか)の後を密かにつけ、
お前ぇの盗人宿を探り当てたのよ。


だがいつまでたってもお前ぇは現れねぇ、
しかもそいつらが一人づつ別々に出たまま帰えってこねぇ、
そこで九兵衛が申しておった、
お前ぇたちがここを通って江戸に入ぇったってぇ事を思い出してなぁ、


昨日からこうして待ち伏せておったのよ、今にして思えば、
そいつが俺のとどめを刺さなかったのが運の尽きってぇことだなぁ」


「けど 俺が見た時にぁ確かに血反吐を吐いて・・・・・」と
野尻の虎三


「おうさ お陰で掌の傷がこうして残っておるわ、
酒をこぼして血を少し溶けば、おめぇ、
結構な血反吐に観えるんだぜぇ へへへへへっ!
俺のからくりが引導代わりよ、網切り甚五郎、
この倶利伽羅峠がこの世とあの世の渡し場と観念いたせっ!」


「くくくっ 糞野郎!!」


甚五郎は道中差を引き抜きざま平蔵に襲いかかった。


「甚五郎!手前ぇだけは俺が手で地獄に送ってやる、
なぶり殺しにしても飽きたらぬ奴、きさまなどどのような
死に様であろうと地獄の閻魔様とて手加減はしねぇ、
これまで貴様が手にかけてきた人々の恨みを思い知れ!!!」


平蔵は河内守国助を腰だめのまま一気に甚五郎の顎から頬にむけて
切り上げ、二の太刀で右腕を切り落とし、
さらに三の太刀で残る左腕を切り落とした。


甚五郎は顎を打ち砕かれて物も言えず、
ひざまずいたまま形相凄まじく平蔵を睨みながら仰向けに 
ドスッ と崩れた。


数日前から降り続いた雪は甚五郎の両腕から吹き出す血潮を
音もなく吸い込み、辺り一面まるで真っ赤な花が咲いたように観えた。


「地獄花を咲かせやがったか」
平蔵は河内守国助をビュッと血振りして鞘に収めた。


あまりの出来事に腰の砕けた野尻の虎三と文挟の友蔵は、
その拍子に雪に足を取られもんどり打って転げたところを
沢田小平次と小林金弥によって逃さず打ち倒された。


倶利伽羅峠は金沢平野をはるか下に見下ろしたもやの中、
白くけむっているばかりであった。


数日後、清水御門前の平蔵の役宅に京極備前守より
「下屋敷に出ませい」という通達があり、
平蔵はこの度の事件の引責を言い渡されるであろうと与力、
同心たちに伝えて出所した。


かみしも姿の正装での出所である。


平蔵より事後報告を聞いていた備前守が
「筆頭老中よりそちのやり方に対して引責を求めて参った、
さすがのわしもこれ以上逆らい切れるものではない」
其の言葉に平蔵は腹を切る覚悟を決めており、
白装束の上に着衣しての正装であった。


「わしはなぁ平蔵(今の世の中長谷川平蔵を置いて
他に誰にこのお役が務まりましょうか、
おられるならば即刻お申し出くだされ)と 
言ってやったらばな、誰も一言も申さなんだ、はははは 
さぁ近う寄れ盃を取らす」


「ははっ!!」
感慨無量の面持ちで杯を飲み干し、
懐より懐紙を取り出し盃を拭おうとするを、


「そのままそのまま・・・・・」


「ははっっ!!」


「いやご苦労であった」平蔵はこの備前守の言葉に
心から救われた面持ちであった。


役宅に戻った平蔵を与力、同心全員が打ち揃って出迎えた


裏庭には密偵たちがこれも全員揃ってかしこまり平
蔵の無事を待っていた。


「お前ぇたちにも心配をかけたなぁ、ありがとうよ」


誰も言葉を一言も発せなかった、
ただただ涙のあふれるまま平蔵を迎えた。


いつの間にか雪が音もなく降り始めていた。


「雪か・・・・・・この世の地獄も極楽も
みんな消せるものならばなぁ」


平蔵はそのまま立ち尽くしていた。



時代劇を10倍楽しむ画像入り講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 




拍手[0回]


拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/70/" /> -->

平蔵暗殺 2-1 あぶりだし 2月第1号


  筆頭与力佐嶋忠介


過去に大村事件で浅手ながらも平蔵の左肩を切り裂いた急ぎ働きの凶悪犯、
網切の甚五郎が江戸に入ったと言う噂は、馬蕗(うまぶき)の利平治から本所菊川町
の平蔵が役宅にもたらされたのは、江戸の町も師走に入り、
どことなく慌ただしい気持ちになる頃であった。


それから数日後、長谷川平蔵が三十日の逼塞(ひっそく)を申し渡されたと言う
噂が盗賊仲間のうちに広まった。


逼塞とは当時の武家や僧侶に対し不始末ありと
の理由で申し渡される刑罰の一つ、門を閉ざし、昼間の出入りを禁じる軽くて
三十日、重い時は五十日という決まりである。

出処は上役である南町奉行所が、長谷川平蔵の取り締まりに行きすぎ多々あり、
上役である奉行所への風当たりも強くなる一方、このようなことは、
江戸を預かる奉行所としては、誠に遺憾である。


というのが事の発端のようではあった。

庶民を守るものが庶民に不安を与えることは如何なものか。


幕閣にもその意見を声高に述べるものも現れ、京極備前守も抑えきれず、
このような処置になったと言うのが大筋の見方のようである。


清水御門前の役宅は門を閉め、門番も中に入ったまま人の出入りの気配も全くなく、
不気味なほどだと谷中三崎町の法受寺門前の花屋鷹田(たかんだ)平十の耳にも
達していた。


この男、鷹田の平十は品川の上郎上がりの女房おりきと暮らしており、口合人を
十五年もやってきた盗賊の間では名の知れた男である。

そこへ網切の甚五郎の配下、野尻の虎三から、腕の立つ助っ人をお頼みしてぇと
網切の甚五郎からの口合話が持ち込まれた。


断るわけにもいかず、さりとてこの網切の甚五郎の悪どい評判はいやというほど
聞かされている。



なまじの助っ人では務まりもしまいし、第一この網切の甚五郎のやり方が気に入らなかった。

盗人にもそれなりの仁義というものがある。


(殺さず・犯さず・貧しき者からは奪わず)せめてそれが盗人にも三分の理だと
思っている平十は困り果て、同じ口合人の本所相生町で表向き煙草屋を営んでいる
舟形の宗平に困り事を持ち込んだ。

この舟形の宗平は初鹿野音松の盗人宿の番人をしていた頃平蔵に捕縛された経緯が
ある男である。

宗平が少しばかり年上ということもあり、「お願い致します、舟形のどうか私を
すけておくんなさい。



いやね、あっしだってこんな急ぎ働きのおつとめなさる網切のお頭の持ち込み話しは
出来ればお断りしたいのですが、その後のことを思うと、女房のおりきに
類が及ぶんじゃァないかってね・・・・・

困り果てて相談をと言うわけさ、何とか・・・どうにかならないかねぇ」
ほとほと困った様子で差し出された茶をすすっている。


「平十さん、ご覧のように私も年で、今じゃぁ気質の煙草屋で何とか暮らし向きも
溜息ほどだが続いております、だからと言って、昔はご同業のよしみってぇものもありますから、
どうでしょう間に入る人をご紹介することでこの場を繋ぐってぇことは出来ないものでしょうかね?」


宗平はそう断って平十の顔を見た。

「分かりました、これでやっと私も肩の荷が下りたような気分でございますよ、
所でその仲立ちのお方は何とおっしゃるのでございましょう?」

馬蕗の利平治さんと言います。
元は上方にいなすった頃は高窓の久五郎お頭のなめやくを受けていたお人さ」
宗平はじっこんの間柄でもある馬蕗の利平治を仲介役に薦めた。


「上方で、さようですか、ならば間違いもございませんでしょう、
何しろ網切のお頭の所業はこの道では知らぬ者とておりますまい。

血なまぐさい事では盗人仲間でさえ一目も二目も置いているお人ですからねぇ、
これで私も今夜から枕を高くして休むことが出来ます、ほんに ほんにありがとうございます」
平十は涙を流さんばかりに喜び、幾度も幾度も宗平に両手を合わせて伏し拝んだものだ。

翌日、本所石島町の船宿(鶴や)に平十の姿があった。

「もし、ちょっとお伺いをいたします、こちらに馬蕗の利平治さんはおられますでしょうか?」


出迎えた小女は「どのようなご用事でございましょう?」と怪訝な顔で問い返した。

「相生町の舟形の宗平さんより、こちらにお伺いするよう伺ったもので鷹田の平十と申します」


小女は「ああ それならばどうぞお入りなさってくださいまし・・・・・」と
言いながら丁場の方をチラと見やる。

先ほどまでいた主の粂八の姿は見えず、丁場の机の横にそろばんが立てかけてあった。

小女は客を二階へ案内し、茶を運んできた。

程なくそれらしい男が部屋を訪ねてやってきた。

「鷹田の平十さんで?・・・・・馬蕗の利平治でございやす」と 色黒のこの男、
まさに馬蕗(ゴボウ)の様に顔も手足もひょろ長く、(なるほどその名が表している)と
平十は一人合点したものである。

丁度その頃鶴やの奥座敷、主の部屋に小房の粂八の姿があった。

押し入れを開け、中にはった粂八は隠し階段を引き下ろし、静かにゆっくりと登っていった。


この部屋は、鶴やの持ち主で伊予の大須藩士森為之介のものであったが、
平蔵を付け狙う暗殺者金子半四郎の兄を切り倒して脱藩したのちに、
密かに身を隠して営んでいた店である。

平蔵と岸井左馬之助と居合わせた事件にて、暗殺者から身を隠す暫くの間預かっているもので、
その間に粂八が部屋を改造し、盗み見が出来るようにした小部屋である。

当の森為之介はすでに江戸に女房と二人して戻り、この鶴やの料理人として復帰しており、
時折平蔵をしてうならせる料理の達人でもある。

話はそれたが、馬蕗の利平治と鷹田の平十との会話は当然粂八がすべてを聞き、
又顔の確認もしてのけたのは言うまでもあるまい。


この平蔵暗殺計画の一部始終はその翌日粂八と馬蕗の利平治によって平蔵の耳に達していた。

網切の甚五郎はかつて向島の料亭(おおむら)の奉公人を含む二五人を惨殺して、
平蔵を待ち構えていた「大村事件」の張本人であり、平蔵に父親の土壇場の勘兵衛を
殺された恨みを持ち、執拗に刺客を放つなど、幾度も平蔵は窮地に追い込まれていた。

この網切りの甚五郎が舞い戻ってきたという事は平蔵に計り知れない威圧を与えた。

その 甚五郎が平蔵の暗殺目的に江戸にまたもや舞い戻ってきたということは尋常ではない。

(余程の覚悟であろう、それならばこちらとてそれ相応の手立てを講じねば
再び大村事件のようなはめに落ちるやも知れぬ)平蔵は深い溜息をついた。

(俺だとて、親を殺されれば事の善悪は別にして相手を憎むであろう、
それに関して甚五郎の気持ちは解らぬでもない、だが仇を打つということで
関係のないものにまで手を下すことは人間のやることではない)。

馬蕗の利平治に紹介された浪人大崎重五郎を鷹田の平十が訪ねたことも
すでに平蔵の耳に達していた。

だが、それ以後ぷっつりと網切りの甚五郎の足取りが途絶えてしまった。

いつ又あの網切りの甚五郎が江戸市中を恐怖のどん底に陥れるかと想像するだけでも
身の毛がよだつ思いである。

何としても捕まえねば、これ以上やつをのさばらす訳にはいかぬ。



平蔵は密偵たちを軍鶏鍋屋の五鉄に召集した。

翌日夕刻、清水御門前の長谷川平蔵役宅は大門が閉ざされ、
門番までも引きこもって全く人の気配が消えてしまった。

長谷川平蔵逼塞(ひっそく)の噂はこうして市中に拡がったのである。

平蔵としてみれば、この度の甚五郎の目的が我が身の暗殺であるなら、
それを逆手に取れば良いという考えに至ったわけである。

一日中張り付くことよりも、時間を決めて行動するほうが相手にわかりやすく、
その間密偵たちも休息をとれるし、都合が良いであろうと考え、
その旨を京極備前守に密かに書面を持ってお伺いを立てた、
当然使者は筆頭与力佐嶋忠介である。


佐嶋仲介は平蔵に借り受けられるまでの間、同じ御先手組頭堀立脇の筆頭与力であった。

このような経緯から平蔵の役宅が逼塞の沙汰がおりた事となった。




時代劇を10倍楽しむ講座  http://jidaigeki3960.sblo.jp/ 


 


拍手[0回]

 


拍手[0回]

" dc:identifier="http://onihei.nari-kiri.com/Entry/69/" /> -->