本日も下谷三丁目にある提灯店(みよしや)に伊三次の姿があった。
馴染みの(およね)は伊三次が二歳から十歳まで
岡崎の油屋に奉公に出されるまで育ててくれた関宿の宿場女郎(お市)の娘である。
本人同士はそれを知らないが、ふたりとも何故かウマが合い、
半ば夫婦同然の間柄で、平蔵が「お前ぇおよねに惚れてるな?何なら女房にしろ。
おれが世話を焼いてやってもいいぞ」・・・・・
「女房かぁ・・・・・およねをねぇ、そらぁ出来ねえ相談じゃねえが、
とても俺一人じゃ持ちきれねえやな」
まぁそんなわけで、この二人一体どうなるのか・・・・・・・
そのおよねが「ねえねえ伊三さん、
この所しょっちゅう上がっているチュウさんだけどさぁ」
「チュウさん?誰でぇそいつぁ?」
「ほら!よく伊三さんとも会っているあのお武家さん!じゃぁないのよぉ」
「木村の旦那?」
「そうそうそれそれ、そのチュウさんじゃぁないかなぁ」
「それがどうかしたのか?」
「相方のおたみちゃんに出来ちまったようでさぁ、
あたしに相談があったんだよぅ」
「出来ちまったって、あのあれかぁ?」
「そうその アレよぉ」
「そいつぁ嘘じゃぁあるめぇな!」
「だって伊三さんに嘘ついたってなァンにも得なんかありゃしないもん」
「だよなぁ」
「ウン だよ!」
「けどよぉ、相手が木村様だってぇどうして分かるんあぁ」
「だってこの所ずっと通い続けてるしさぁ、
それにおたみちゃんがちゅうさんって、そう言うんだもの・・・・」
「そうだよなぁ・・・・・・
よし判ったそれとなく木村様のお耳に入れておこう」
まぁそんなわけでこの話はいつのまにやら密偵たちの耳にも・・・・・
さすがと言えばさすが地獄耳の粒ぞろいだけの事はある、が
当の忠吾こと、木村忠吾にはまだ届いていないから当事者の忠吾、
本日も市中見廻りにかこつけてのお忍び。
「おいおたみ、今日は又ずいぶんと愛想が良いなぁ、
そんなお前が好きでたまらぬ」
「あれ 本気に取りますよぉ」
「おお 本気で取れ取れ、お前のためなら親も要らぬ名誉も要らぬ、
お前だけが居てくれればそれで良い」
「あれ 本当で?」
「当たり前だ、俺とお前の仲ではないか!むふふふふふふ、
だからもう一度・・・」
「あれまぁ チュウさんも(も、である)お好きですねぇ、
アレぇいやぁぁぁぁ・・・・・」
夕方近く菊川町の火付盗賊改方役宅に戻った忠吾に
「おい忠吾このたびは命中したそうだのう」
と同心の一人がニヤニヤ笑いながら耳打ちした。
「何がでございましょう?」
狐につままれた顔で忠吾きょとんとしている。
「またまたおとぼけ忠吾どの、そうやってこれまで何人泣かせたことやら、
さすが捕物よりもそちらのほうが上手うござるなぁ」
「何ですかその、そちらのほうとは、この木村忠吾一向に解せませぬ」
と少々お冠の様子に
「密偵共も風のうわさでお前の行状はお頭にも筒抜けだと想うがなぁ」
と今度は意味深な言葉に忠吾
「誰がそのようなわけのわからぬ噂を聞いてお頭に告げ口したのでございます?」と、ものすごい剣幕である。
「木村さん、下谷の提灯店(みよしや)をご存知で?・・・・・・」
と、同心の小柳安五郎
「あっ あぁあぁ 見回りの中にそのような場所もあったと
記憶いたしておりますが?」
「あっ さようで、ところでそこには
(おたみ)と申すおなごがおるそうですが、ご存知ではございませんか?」
「うっ そういえば伊三次の馴染みの何とかと申す女は存じておりますが、
はてさて・・・・」
「あはぁ さようでござりますか」
「それが何か?」
「まぁこれはあくまでも風のうわさと言うやつで、
真偽の程は定かではござらぬ、が」
「が?」
「左様 が、でござる」
「何ですかその歯に物の挟まったような物の言いようは」
忠吾、かなりかっちんと来た様子に
「おい その辺りでやめておけ」
と沢田小平次が口を挟む。
「何ですか沢田さんまで・・・・・面白くもござりませぬなぁ」
「忠吾 本当にお前には何も心当たりはないのだな!」
沢田の毅然とした言葉に忠吾
「ない・・・・・とは申しませぬが、はぁまぁ在るような無いような・・・・・」
「忠吾!お前も男ならば少しは己のやったことに責任を考えても
良いのではないか!」
「はぁ?責任でございますか?一体何の責任でございましょうや?」
「なぁ忠吾、このことはすでにお頭もご存知のこと、
知らぬはお前だけかも知れぬぞ」
「沢田さん、それは又一体どのようなことをお頭はご存知だと申されますので?」
「忠吾、お前その下谷のけころ茶屋(みよしや)のおたみをまこと知らぬのか!」
「はぁ、まぁ幾度かは伊三次に誘われて・・・・・」
「要するに知っておるということだなその(おたみ)を」
「その事が何か?」
「お頭が案じておられる」
「えっ おかしらがぁ・・・・・・・」
忠吾言葉を失いほどの驚きようである。
谷中いろは茶屋事件以来、平蔵には全く信用のない忠吾にとって、
再びのこの降って湧いた話は心中穏やかではない。
そこへ
「忠吾は戻ったか?」
と言う平蔵の言葉が流れてきた。
忠吾真っ青になりながら
「おかしら 木村忠吾ただいま町廻りより戻ってまいりました」
と報告を上げた。
「忠吾、ご苦労であった、でその後どうじゃな?」
「はっ その後でございますか?何のその後でございましょうか?」
「チュウちゃんちょいと耳を貸してはくれぬか」
平蔵の意味深な笑顔に忠吾尻の方が何やらムズムズ・・・・・・
「あっ はぁ・・・・・そのぉ 何とも・・・・・・」
「忠吾 此度は目出度い、とは申せ、お前も御家人の末裔、
右から左とはゆくまい、まぁ親戚一同の手前、どこかに住まいなぞ構えて、
まずは相手を住まわせてはどうじゃ?
聞けばまもなく年季も開けると言うではないか」
「はぁ 年季でございますか?一体どこの誰の・・・・・・
で、ございましょうか?」
「忠吾!」
突然の平蔵の激しい語気に忠吾は這いつくばって後ずさりを始めた。
「忠吾!そちは下谷の茶屋おんな(おたみ)を存じおろう!」
「ははっ!」
「そちがお役めを抜けだして茶屋にしけこんでおることは皆承知じゃ、
だがなぁそれだけなら良い、時には気晴らしも必要だからなぁ、
だがな、事がそれ以上進んじまった今、先の手当を講じねばなるまい、
お前ぇは一体どう致す所存なのだぇ?」
「はぁ 一体私は何をどのように致せばよろしいので?」
「馬鹿者!(おたみ)の事に決まっておろうが」
「はぁ ですから、その(おたみ)と
この木村忠吾とどのような関わりがござりますので?」
「おい うさぎ いい加減観念しろよええっ!
聞けば(おたみ)は出来ちまったってぇ話ではないか、
さすればこの始末如何がするつもりか、それを聞いておる」
平蔵は半ば呆れ顔で忠吾を見つめるが、忠吾も話の中身がまるで空っぽ。
(お頭は一体何のお話をなさっておられるので)
とその場の空気が読めず戸惑っている。
「なぁうさぎ お前は(おたみ)に心当たりはないと言うのかえ?」
平蔵の言葉に忠吾
「いえ 無いとは申しませぬが、それが・・・・・」
「おいおい まこと知らぬは亭主ばかりなりかぁ、
のぅチュウさんや!その(おたみ)は腹に子ができたそうな」
「はぁさようでございますか、それは又目出とうございますなぁ、
この後如何するのでございましょうか」・・・・・・
「チュウさまや、その相方はそちだそうじゃが?」
「えええええっっ!!まさかまさかぁ」
「そのまさかだから皆も案じておるのよ、それがまだ解らぬのか?」
「そそそそっ それは困りまする」
「おうおう 困るのはそちだけではないわなぁ、
この話を聞けばおまえぇの親戚の者共が何と言い出すか、
覚悟の上のしでかしであろうなぁ」
「めめめっ滅相もござりませぬ、(おたみ)とは、ただ客と言うだけの」
「この大馬鹿者!何事であれ、やれば出来るのも当たり前ぇのこと、
それを承知で通うたのではないのかえ?」
「滅相もござりませぬ、ただ行きずりの・・・・・」
「手慰みと申すか!」
「あっ いえ そのぉ・・・・・・」
「ええぃ はっきり致せ!」
「ははぁっ!誠に持って申しわけもござりませぬ」
忠吾、機織りバッタよろしく頭をぺこぺこさげるばかりである。
「まぁ嫁を持つ前に手前ぇの跡取りをこさえちまったんだ、
痩せても枯れても御家人のお家柄、捨てるわけにもいくまいし、
さりとて囲い者にするほどお前ぇの俸禄は余裕もなし、フム。
まぁこの広いお江戸におなごは僅かしかおらぬ、
その気になれば働くところもあろうよ、
その辺りはわしが手を貸さんでもない。
(おたみ)の年季が明けるのをまって、どこぞの長屋でも見つけ、
まぁそれから考えればよかろう。
どうじゃぁ 親父になった気分は?」
「はぁ 手前が父親でござりますか?はぁ 何ともこう・・・・・」
「でも まだ私にはその(おたみ)の腹の中の子が私の子であるという
確信がござりませぬ」
「うむ まぁ初めはそのようなものよ、何しろ己にはその確信がないからのう。
その点おなごは己の子と言う確信がある、こいつぁ大きな開きだよのう」
「忠吾どの、おなごは殿方次第で変わるもの・・・・・・
とはいえ、忠吾殿はおなごでお変わりになられるかも・・・・・おほほほほほ」
「奥方さま!それはあまりなお言葉、この木村忠吾も男でござります」
「おお よくぞ申した、それでこそ男じゃぁ、が しかしいかがいたすか、
ここが思案のしどころじゃぁのう久栄」
「はい 殿様」
[0回]
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この(忠吾親父になる)の噂は瞬く間に広がり
「口の軽いのは私ばかりではござりませぬなぁ」
と、忠吾をも安心させるところとなった。
それからの忠吾はお勤に励み
「これまでのあ奴は一体何だったのでござろう」
と言わしめるほどの変貌であった。
非番になると、朝からいそいそと支度をして出かけ、
夜遅く帰宅する、鳩ポッポの忠吾と新しい名前を頂戴するほどである。
およねも伊三次もこの木村忠吾の献身ぶりには舌を巻くほどのもので、
「ありゃぁ仏様がどこかを間違ってしまったんじゃぁござんせんかねぇ」
といささか呆れ顔で伊三次がこぼした。
数ヶ月が瞬く間に過ぎ去り、いよいよ(おたみ)の年季が明けることになった。
(木村様のおめでた事とあっちゃぁ、俺達も黙っちゃぁすまされまい)
密偵たちや五鉄の三次郎も一肌脱いでの資金の捻出。
「お前ぇたちがそこまでやるのに、俺がやらねぇわけにもいくまいぜ」
と平蔵も一口乗った。
お陰で下谷の金杉下町万徳寺裏の十軒長屋に棲家も見つかり、準備万端整った。
「こんなにまでして頂いて、どうして私のために?」
と(おたみ)は驚くばかり。
「それもこれも、生まれてくるやや子のため、
おたみは心配しないで元気な子供を生むために精をつけてくれれば良い」
せっせと通う忠吾はもうまんまオヤジ顔である。
「木村様どうしてここまで?」
「良いではないか、俺とお前の仲、いらぬ気遣いは無用というもの、
お前はただ黙って皆の好意を受けておれば良い」
「でも あたしは・・・・・」
「ホレ!それがいらぬ気遣いと申すもの、ゆっくり休んでおれば良い、
おまさも時折覗いてくれるそうだから、何も案じることはない!」
忠吾の毎日はこうして(おたみ)で始まり、(おたみ)で終わる。
「あの忠吾がここまで変わろうとは、はぁお釈迦様でもご存知あるめぇ
うわっはっはぁ」
と平蔵も半ば呆れながらも(あの癖が治ってくれればよいが)と思っていた。
そんなこんなで時は又もや瞬く間に過ぎ去って、
いよいよ(おたみ)の腹も突き出して臨月も真近かと想えた。
その数日後(おたみ)の隣の住人(おしま)がそれに気づき、
慌てて産婆を呼んだ。
亭主の作次がおよねにご注進に及んだところから、
一気にこの事は盗賊改めの中で広がり、平蔵や同心達の耳にの入ることとなった。
「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」
伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。
当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。
「木村様ぁ」
「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」
「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」
「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」
「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」
「(おたみ)がどうした?」
「ですから生まれそうなんでござんすよ」
「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」
「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」
「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」
「ですから先程から・・・・・・」
「で(おたみ)は今どこにいる?」
決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」
「判った!すぐに行くから待っておるように」
「へぇ判りやした」
伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。
すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。
「木村様は?」
「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」
「で?」
「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」
「それは良うござんしたねぇ」
奥から慌ただしい物音と声がした。
「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。
「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。
「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」
「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」
「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に
「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。
「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。
しばらくうめき声が聞こえていたが、突然
「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。
「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。
「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。
「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。
「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。
「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。
「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・
「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」
やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。
「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」
「どこが?」
と粂八。
「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。
「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。
まぁ賑やかなものである。
そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。
「うまれやしたぜ!」
と伊三次
「どっちだった!!」
「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。
「俺に似ておるか!」
「そりゃぁまるでそっくり!」
「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」
「一同?????・・・・・・」か?
まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。
「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」
「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」
「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」
「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」
「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。
それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。
その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。
忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。
その数日後のことである。
「ててててててぇへんだぁ!」
伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。
「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。
「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」
「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。
「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。
「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」
「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。
「伊三次をこれへ!」
「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」
「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて
「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」
「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」
平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、
おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」
「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」
とやり返した。
「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」
その数日後
「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」
「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」
「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」
「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」
「あっ さようか ふ~むさようかのう」
「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」
「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」
「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」
「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」
木村忠吾健在なりであった。
画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
[1回]
「こいつはてぇへんだぁ、早く木村さまにお知らせしなければ・・・・・」
伊三次があわてて忠吾の町廻りの受け持ちである下谷を探しまわった。
当の忠吾といえば、のんびりと茶屋で団子を片手に茶を飲んでいた。
「木村様ぁ」
「何だ伊三次こんな時にこのような場所で油売っていて良いのか?
全くお前というやつは・・・・・」
「それどころじゃぁござんせんよ、生まれるんでさぁ!」
「何が?又猫かぁ、全くお前たちは猫が好きだからなぁ、
程々にしておけよ、あいつのションベンは雨が降ると臭くて叶わぬ、
鼻を摘んでもどうにも逃れるものじゃァない」
「違いまさぁ 猫じゃァござんせん、(おたみ)でございますよ」
「(おたみ)がどうした?」
「ですから生まれそうなんでござんすよ」
「(おたみ)のところに猫は居なかったがなぁ」
「じれってぇなぁ (おたみ)がもうすぐ木村様の子を産みそうでございやすよ」
「何ぃ!(おたみ)がおれの子を生みそうだと!何故それを早く言わぬ!」
「ですから先程から・・・・・・」
「で(おたみ)は今どこにいる?」
決まっているじゃァござんせんか、下谷の十軒長屋に、
今頃は産婆も来ているだろうし、おまささんも駆けつけていると想いやすよ」
「判った!すぐに行くから待っておるように」
「へぇ判りやした」
伊三次はあたふたと下谷の(おたみ)の住む十軒長屋に駆け戻った。
すでに産婆は待機しており、おまさが産婆の指示で湯を沸かしたり
産着を整えたりと忙しく立ち働いていた。
「木村様は?」
「おう 見つけてこのことをお知らせしたぜ」
「で?」
「急ぎ立ち戻るからと伝えてくれと」
「それは良うござんしたねぇ」
奥から慌ただしい物音と声がした。
「早く来ておくれ!」
産婆の声が障子越しに飛んできた。
「伊三さんお湯お湯!」
おまさは伊三次にそう指図を出し障子の向こうに飛び込んだ。
「あいよ お湯だぜ、丁度人肌の温もりだと想うぜ」
「伊三さん、アンタいいご亭主になれるよ!」
「そうかなぁ・・・・」
と言いつつ中を覗こうとする伊三次に
「アッここからは男はダメでござんすよ」
と、ピシャリと戸を閉められてしまった。
「ちぇっ 何でぇ結局男はどこまで行っても判らずじまいじゃぁねぇか」
とぼやいている。
しばらくうめき声が聞こえていたが、突然
「おぎゃぁ!」力強い産声が聞こえてきた。
「やったぁ!」
その場に居合わせた伊三次や五郎蔵、それにいつのまにやら粂八と
相模の彦十までが雁首揃えて手もみしていた。
「どっちでぇ」
五郎蔵が待ちかねたように奥に声をかける。
「おまえさん大きな男の子だよ」
とおまさの弾んだ声が返ってきた。
「やったじゃぁねぇか!男だってよぅ」
彦十が鼻先をすすり上げて五郎蔵を見返す。
「今度は五郎蔵さんとまぁちゃんの番だなぁ、へへへへへっ」
彦十は涙顔をクシャクシャにしながら身を乗り出している五郎蔵に声をかける。
「へぇ こいつばっかりはどうにもならねぇ」
五郎蔵頭を掻き掻き眼は障子の向こうに張り付いたまま・・・・・・・
「判るねぇ判るねぇ、こいつばっかりゃぁ男一人じゃぁ為せねえからなぁ」
やっと障子が明けられて、丸々と太った赤ん坊が真新しい産着にくるまれ、
おまさに抱き抱えられて初のお目見えと相成った。
「へへへへっ 木村さまにそっくりじゃぁござんせんかぁ」
「どこが?」
と粂八。
「ほれほれこの目元の下がっているところなんざぁ
まんま木村様ダァあははははは」と彦十。
「とっつあん、そいつは言い過ぎってもんだぜ」
と五郎蔵。
まぁ賑やかなものである。
そこへ木村忠吾が駆け戻ってきた。
「うまれやしたぜ!」
と伊三次
「どっちだった!!」
「へい かわいい男の子でござんすよ」
と五郎蔵。
「俺に似ておるか!」
「そりゃぁまるでそっくり!」
「どれどれ!うむ まこと良い男ぶりじゃぁなぁ」
「一同?????・・・・・・」か?
まぁそんな一騒動もあって、やがてその事は菊川町の平蔵の元へももたらされた。
「そうか!男であったか、こいつはでかしたなぁ忠吾」
「左様でございますよ忠吾どの、ほんに本日はおめでとうござります」
「あっ いやぁ何そのぉ・・・・・ありがとうござります、
この木村忠吾本日の出来事生涯忘れませぬ、ぬわっはっはっは!
いやぁ男でござるよ男で!あはははははは」
「まぁ忠吾殿のかようなお顔は初めて拝見致しました」
「うむ 久栄の申すとおりじゃぁ、これで忠吾もやっと一人前になったかと思うと、
わしも少し安心できそうじゃ」
平蔵も心から喜んでいる様子である。
それから産後の肥立ちと言われるように、二十一日が飛ぶように流れた。
その間忠吾はもとより、密偵仲間も手すきを見ては下谷の長屋を見舞っていた。
忠吾の勤務ぶりも目覚ましいものがあり、平蔵をして
「つきものでも落ちたか!」
と言わしめる程の豹変ぶりに役宅の中も空気の流れが変わったようであった。
その数日後のことである。
「ててててててぇへんだぁ!」
伊三次が菊川町の役宅に裏口から飛び込んできた。
「何事だ!」
同心の沢田小平次が伊三次を制した。
「(おたみ)の姿が見えねぇんで!」
「何っ!」
驚いたのは沢田一人ではなかった。
「何事!」
同心部屋の騒動に平蔵が思わず立膝を起こした。
「おかしら!伊三次が申しますに、下谷十軒長屋
の(おたみ)の姿が見えぬそうにございます」
「なんと!」
平蔵は一瞬その言葉を信じられぬ様子で腰を落とした。
「伊三次をこれへ!」
「おい 伊三次一体ぇどうしたって言うんだえ?ゆっくり話して見ろ!」
「長谷川様 今朝ほど下谷の(およね)のところに(おたみ)がやってきて
「長い間皆様にお世話になりましたが、やっとチュウさんのご奉公が明けて、
晴れて信濃に帰ることが出来るようになりました。
これまでの皆様の御恩は生涯忘れません、よろしくお伝え下さいませ。
と挨拶に寄ったそうで、そん時男連れだったので、
およねのやつがその人は誰なんだい?と、 聞きやしたら、
あたしと一緒に江戸にご奉公に上がっていた信濃の国の高島の出で
名は忠助と言ったそうで・・・・」
「何だぁ 高島の忠助だぁ????????」
平蔵は頭をポンポン叩いて「
どこでどう 間違ぇたかは知らねぇが、こいつは又大笑いだぜなぁ伊三次!、
それにしても同じチュウ助でもこれぇぁ天と地
はっ!お釈迦様はご存知だったのかも知れねぇぜぇ、
おお!おなごは怖ぇなぁ、男なんてぇホントのところは皆蚊帳の外で
一体誰の子やら判ったもんじゃぁねぇなぁ」
「殿様!殿方のなされた結果がすべての始まりでござります、
我らおなごはただそれを受けるのみ、
身に覚えなくば何を恐れることがござりましょうか?」
とやり返した。
「おお クワバラクワバラ!それにしても忠吾のやつ、
何と言えば良いかのう・・・・・・・」
その数日後
「おお忠吾、まことこのたびは人違いだったそうだが、
それにしてもお前ぇはよくやったのう」
「はぁ おかしら一体何のお話しでござりましょう」
「うっ うっうんうん ほれ下谷の(おたみ)・・・・・」
「ああ アレでございますか、
さて身共には何のことやら始めから身に覚えのないことでございまして」
「あっ さようか ふ~むさようかのう」
「長谷川様ぁ おみねのやつがね、ちゅうさんは懲りないわねぇって」
「何だぁ 又虫がうごめきはじめおったのかえ や
れやれ少しも治ってはおらぬわ、アレは何だったのであろうかのう」
「さようでございやすね、お天道さまの気まぐれとか・・・・・」
「違ぇねぇ そうとしか俺には想えねぇ、いやまったくだ、
奴があのままだと、お天道さまは西からら上がらねばなるまいと
こりゃぁきっと想ったんだぜあははははは」
木村忠吾健在なりであった。
画像付き 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
[1回]
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京極備前守高久
本所深川の京極備前守下屋敷より長谷川平蔵にお呼び出しがかかった。
「平蔵、御役目とはもうせぬ故無理にとは申さぬ、が この話受けてはくれぬか。
名は明かせぬがさる大名家の内紛に関わる一大事なのじゃ、
わしのところへ相談があってのぅ、その大名家には世継ぎが皆早死して
誰一人残されておらぬ、その折町方より上がって居った側室に世継ぎが生まれた。
この度その顔見世に宿下がりが執り行われることに決まったのじゃが、
反対派の暗躍が画策されておるということで、警護の願いがわしの方に出された。
お家騒動は我らの関知すべき事柄ではない、が さりとて知らぬふりも出来ず、
ほとほと困り果てての相談なのじゃ、どうだな平蔵」
「ははっ!備前守様のお言葉、この長谷川平蔵身命をとしましても
必ずやご期待に沿う所存にございます」
「おおっ 聞いてくれるか!これでわしも肩の荷が下りる心地じゃ、頼むぞ平蔵!」
「ははっ!!」
(うむ 事はお家騒動に発展しかねぬ、かと言うてお役には当てはまらぬ故
これはわし一人で当たるしか無いな、何としても備前守様のお顔を潰しては
ならぬ)。平蔵は事の重大さを胸深く仕舞いこんで帰宅した。
「お頭 備前守様のお呼び出しはいかなる事で・・・・」
と筆頭与力の佐嶋忠介が言葉をむけたが・・・
「ふむ 内々の話ということで。此度はわしひとりで当たらねばならぬ、
済まぬがしばらくは皆の統括を頼む」
この平蔵の言葉の重さを佐嶋は瞬時に理解した。
「おまかせくださいませ」
「うむ 頼むぞ」
「ははっ!」
まさに阿吽の呼吸というか、平蔵が見込んだだけの事はあるこの頭脳明晰な
剃刀佐嶋忠介である。
その翌日から平蔵の姿はこの清水御門からも本所菊川町の役宅からも消息が
ぷっつりと途絶えた。
数日後平蔵の姿が確認されたのは、ひげもマメにあたらず、
さかやきは伸び放題の素浪人姿で神田鎌倉川岸あたりで見かけたと、
おまさから佐嶋に報告が上がっていた。
「で、お頭の形はどうであった?」
と佐嶋の意味深な含みの問に
「それはもう うふふふ」
と含み笑いで答えた。
「おいおまさ お前一人で合点をしても仕方あるまい、さほどのお姿であったか?」
「はい そりゃぁもうひどい格好でございまして、あれはどう見ても
ゴロン棒でございますよ佐嶋様」
「ふふふふ やはりおかしらはそのあたりから探っておいでなのだな」
一方平蔵は備前守より漏れ聞いた「登城は大手門より」と いう言葉を便りに、
諸大名のお家事情を探っていた。
その日の夕刻、日本橋南材木町の居酒屋に平蔵が姿を表した。
加古達の出入りもあるらしく、気楽に入れる店構えが目についた。
「入ぇるぜ」
平蔵は腰に落とした赤鰯を外しながら座敷に上がり込んだ。
古びた簾越しに浪人風体の男が酒を飲んでいるだけである。
「おやじ 何かあったけぇものをみつくろってくれ、それと酒を2本ほど・・・・」
しばらくして亭主が膳を運んできた。
「おっつ 何だえこいつは?」
「へぇ 巻繊汁でございやす」
「ほ~けんちん汁とな、こりゃぁまたあったまりそうだぜ!
しかもけんちんとは又妙な名前ぇだなぁ」
「へい 元は精進料理だとか、建長寺の坊様が作っていたとかで・・・・」
「なるほどそれでけんちんじるか、上手ェ事をいやぁがる、だがこの味・・・・・
やっ!こいつは美味い」
思わず平蔵が声を上げたほどこの汁は1日の疲れを癒やすには美味かった。
「さようでござろう、拙者もこの味に惹かれて日参いたしておる」
と隣の簾越しに声が飛んできた。
「おお さようか、なるほどこの出汁が又素材とうまく馴染んで
旨味を引き出しおる」
「さよう 巻繊汁は仕立てる前が肝心で、大根・人参はイチョウ切りに、
ゴボウは皮を摺り落としてササガキにして水に晒しアクをとる。
里芋は皮をむき薄く輪切りにして塩でもみ、ぬめりを取り、軽くゆでておく。
コンニャクは半分に切って小口切りに致し、豆腐はふきんに包み水気を絞りぬく。
鍋に胡麻油をたらし込み、ニンニクをひとかけら・・・・
これがこの店のどうも秘伝らしい。
鍋を熱くしておき、此処に大根・人参・里芋・コンニャク・豆腐・
ゴボウの順に加えながら炒め、ごま油が馴染んで参ったならば昆布と
シイタケにて取りたる出汁を加える、煮立ったならば火を弱めて
アクをすくい取りながら柔らかくなるまで煮る、そこに塩・醤油・
酒を加えて味を整える。
とまぁざっとこんなふうに手間ひまかけて出来上がる」
「あっ 恐れいった!拙者もこっちの方にはちとうるさいと自負いたしておったが、
ご貴殿の講釈にはこれこの通り兜を脱ぎますぞ!」
そう言って平蔵杯を上げた。
「あっ いやこれはお恥ずかしい、実はこの講釈、この屋のおやじの常套句で
ござってなァあははははは」
「なるほど 左様でござったか、道理で油のよく回った話しぶりだと・・・・・
わはははは」
久しぶりに腹の底から平蔵は笑った。
「所でご貴殿はお見かけせぬが・・・・・」
「おお 通りかかって こう鼻が・・・・」
と平蔵鼻をヒクヒクさせた。
「なんと 身共も左様であった、ふむ同じ思いで誘い込まれるとは
おもしろき縁でござるな」
「いかにもさようで」
「拙者この先の小網町に住まい致しおります由比源三郎ともうします」
「おう これは申し遅れもうした、拙者に深川北川町に住まいおります
木村平九郎と申す者、以後見知りおきを願います」
「いえいえ こちらこそ以後久しゅうお頼み致す、
所でお見受け致さば我が身同様浪々の身と・・・・・」
あっ いやお恥ずかしい、このご時世武士の生きる世ではござらぬゆえ、
その日その日のにわかな稼ぎで糊口をしのいでおる有り様、
中々まっとうな生き方は難しゅうござる」
と刀の柄口をトンと軽く打ってみせた。
「もしかして 用心棒とか・・・・」
「まぁ悪巧みがなしと見えれば引き受ける、道中用心が張ったりかませて
稼げますわい」
「あいや これ又ご同業で わはははは、親なし子なし、主じなしと
3拍子の揃い踏みでこれ以上言うことはござらん、
まぁ気楽な家業と申しますかなぁ、又何処でかお目にかかることもござろう、
その時には盃なぞ酌み交わすのも、これ又乙と・・・・・」
「いや 全く、ぜひともこうなんでござる、美味い店とか、わははははは」
「いやぁそいつは又楽しみでござるなぁ、ぜひぜひ左様願いたい」
こうして意気投合したまま、その場は別れた。
平蔵はその足で深川北川町万徳院圓速寺そばの長屋に染千代を尋ねた。
「染どの、このような時刻に相済まぬ、なれど急ぎの用件にて許していただきたい」
「まぁ長谷川様 何というお姿で!」
平蔵の無頼の姿に驚きながらも
「そのようなお気遣いはご無用に願います、父上もあのように
喜んでくれておりますし、私も・・・・・」
「おお 平蔵殿 ようお越しくだされた!ささっとりあえずお上がりくだされ」
と左内が奥から出てきて招き入れる。
「親父殿 日頃のご無沙汰をお詫び申す」
「何を申される、他人行儀な、平蔵殿は身共にはまるで我が子のように・・・・・
あっ これはしたり、天下の盗賊改めの長谷川様を、平にお許しのほど!」
「何と、そこまで身共が事を、親父殿この平蔵今のお言葉誠に嬉しゅうござる。
今にして思えば、亡き親爺がそこにおるような懐かしさと温もりが
胸にこみ上げておりますぞ、まことまこと嬉しゅうござる」
平蔵は心の底からそう感じていた。
「長谷川様 所で急なお話とは」
と染が口を切った。
「おお そのことよ、親父殿のあまりの嬉しき言葉にとんと忘れるところで
ござったあははははは、
実はな、日本橋南材木町萬橋東詰の材木商平澤屋の内情が知りたいのだが」
「大店でございますね!」
「うむ そこの娘子の消息がしりたいのだ、どうも表立っての話は
伏されておるようで、我らが手では探れぬ、
誠に持って相済まぬがその辺りが判明致さば、
菊川町の役宅におる佐嶋と申す筆頭与力につないではもらえぬか?」
「長谷川様のためならば、お安いご用でございますよ、
早速にでも探って見ましょう、
お役に立てればこれ以上嬉しい事はございませんもの」
「済まぬ!このとおり、この格好を見られる通り事情あっての探索でな」
「でもまぁよくお似合いでおほほほほほ」
染は実に楽しそうに華やいだ笑い声を上げた。
「まんざらでもござらぬか?ちと気に入り申してなぁ、あははははは」
それから二日後おまさが平蔵のつなぎ場所神田の鎌倉町に現れた。
「細かい話はお会いしてということでございました、
それと京極様から急ぎの御用とか」
とおまさがつないできた。
急ぎ平蔵は深川北川町万徳院圓速寺に足を向けた。
「長谷川様!」
染は頬を高揚させて迎え入れた。
「で、何と・・・・」
慌ただしい平蔵の態度に
「どうやら平澤屋には娘ごがお大名の下屋敷に上がっている模様で、
そのご家中から近々里帰りがあるようでございます。
そのために平澤屋は人の出入りも厳しくなっているとの話がございました」
「おお やはり平澤屋であったか」
平蔵はこれで警護の道筋を組み立てることが出来そうである。
その夜、平蔵は久々に身なりを整え本所の京極備前守下屋敷を訪れた。
「平蔵 又その形(なり)は わはははは 、中々似合ぅておるぞ!
雑作をかけるのう」
「ははっ このような風体にて探索にあたっておりますが、
いや中々敵の姿が掴めず難渋いたしておりまする、
むさ苦しい姿をお目にかけ深くお詫び申し上げます」
「すまぬのう平蔵、そこ元にそのような姿までさせて。
だがな、事は重大じゃ。
その大名は細川越中殿じゃ、細川殿にはお子がおられぬ故肥後宇土藩より
養子を迎えることになった。
そこへ和子の誕生というわけで、世継ぎ争いが起きてきたと言うことよ。
細川としては財政難を支えておる平澤屋も大事、
かと言うて政は急ぎ継がねば乱れの元と痛し痒しということだ。
此度の一件は、先ず無事に送り迎えを終わらすこと、
その後の内紛にまで我らが首を突っ込むことでもあるまい、
のう平蔵、無事に収めてくれ」
京極備前守の言葉は平蔵の重荷を少しだが和らげることが出来た。
問題は2日後に迫ったお宿下がりの時、所、道筋の戦略である。
翌日平蔵は備前守の添え書きを持ち日本橋新場橋向かいの細川越中守下屋敷に
出向いた。
一方由比源三郎はというと、口入れ屋の紹介で日本橋呉服町の料亭(菊屋)にいた。
「由比源三郎どのでござるな」
身なりの整った紋付袴の侍が3名で待ち構えていた。
「いかにも由比源三郎でござるが、お手前方はどこぞのご家中と
お見受けいたすが・・・・・」
すると、中でも上司らしき侍が
「その件については詮索ご無用に願いまする」
と切り返した。
「判り申した、まぁ身共のような痩せ浪人に頼み事といえば、
深い事情は知られたくない、それは当然でござろう。
で、手っ取り早く話の内容をお聞かせ願えまいか?」
「お引き受け下さるか?」
「話の中身にもよる、身共とてまだまだこの生命おしゅうござるによって
勝ち目のない戦は避けたいからのう」
「断るというなら!」
と若い侍が柄に手をかけた。
「まてまて まだ断ると申されてはおらぬ、のう由比殿」
と上司格の侍が若者を制した。
「いやぁ近頃の若い者は血気盛んと申すが、血の気が多くていかん、
心の乱れは気の乱れ、そこに隙が生じましょうぞ」
とグッと睨み返した。
その威圧的な気迫に押されて若者は立てた片膝を引き、柄から手を離した。
「申し訳ござらぬ由比殿、若い者はまこと血の気が多く事を急ぎたがる、
無礼をお許しくだされ、ところで頼みともうすは用心棒一人切っていただくこと、
それのみ」
「人を切れと申されるか、殺人は死罪!それを承知でのお頼みだな」
「いかにも!後の始末はこちらで致す故ご心配にはおよばぬ、
いかがでござろう50両と言うことでお引受くださらぬか!」
「何と一人切って50両とは安くはないなぁ、さほどの相手ということじゃな。
田宮流皆伝の由比源三郎、剣客としてこの上ない話し、お受け致そう」
「おおっ お引き受け下さるか!かたじけない、早速でござるが時、
所は後日当方より何らかの方法にてお知らせ申す、
ひとまず本日はこれにて・・・・・」
菊屋を出た3名の後をつけはじめたが、出てすぐに3手に分かれた。
(さすが藩名を明かさぬだけのことはある、参ったなぁ、
さてどっちを微行よう・・・・・・)
後の二人はそれぞれ、一石橋を渡るものと、
川筋を日本橋のほうに歩むものとに分かれた。
源三郎はひとまず上司格の男の後を微行始めた。
男はまっすぐに鍛冶橋御門を横切り尼丘橋を渡り西紺屋町から元数寄屋町の
小料理屋(みのや)に入ってしまった。
(むぅ ちょいと当てが外れたなぁ)源三郎は対処を案じた、 が
(待って見るか、どうせ時はたっぷりある)
とそばの茶店に腰を下ろし暫し待つこと小半時、先ほどの武士が出てきた。
急いで物陰に身を潜めると、その武士は数寄屋橋御門の方へ歩みだした。
幾度か後ろを確かめながら、怪しげな微行者がいないか確かめるふうであった。
やがて、辿り着いたところは細川越中守上屋敷。
(ふむ こいつは50両も嘘ではなさそうだ、あとは、連絡を待つばかりだなぁ)
源三郎は踵を返して小網町の長屋に向かった。
翌日口入れ屋から連絡があり、本日正午に菊屋にお越しくださいとのこと。
源三郎は頃合いを見て菊屋に上がった。
「由比殿、時と場所が判明いたした、先日も申した通り、
詳しくはお聞きくださるな、切る相手は籠に添うております用心棒ただ一人、
他はこちらで対処致す。
敵はおそらく最短距離を取ると思える、ならば越中橋を渡り、
江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って北に上った
和國橋たもとと言う道順でござろう」。
「あい判った。それ以後はこちらで塩梅致すゆえ おまかせあれ」
「何卒よろしくお願い申す、家名が懸かっており申す故
しくじりは断じて許されませぬぞ」
「判っておる、この由比源三郎痩せても枯れても田宮流を収めた腕
、滅多なことでしくじりは致さぬ」
「おおっ それを聞いて安堵いたした、よろしくお頼み申す、
これは約束の金子50両お収め願いたい」
と無地のふくさに包んだ切り餅1つを差し出した。
「かたじけなく頂戴仕る」
源三郎は包のまま懐へ収めた。
「ところで細川家のご家中も大変でござるなぁ」
と水を向けてみた。
「ななっ!何と申される!」
見る見る血相が変わった。
「あいやそこまでそこまで、それ以上の詮索は無用と心得てござる」
と相手を制して源三郎ニヤリと笑った。
一方平蔵はと言えば、幾度か下屋敷を出入りして、敵の動きや道中の道筋など、
丹念に手当を講じていた。
(俺が襲うならば・・・・・細川家下屋敷を出れば向かいは本材木町、
人通りもあり襲うには不都合。こちら側は九鬼式部・牧野豊前と
大名屋敷で人の通りも少なかろう、
さて、いかが策を用いるか・・・・・
越中橋を渡り、江戸橋から荒布橋を越え、堀江町を突っ切り親父橋を渡って
北に上った和國橋たもとが常道よのう)平蔵は腕組みしながら絵図を眺めていた。
翌日早く日本橋の細川越中守下屋敷を一挺の大名籠に供の女十名ほどと侍5名に
警護され出立した。
新場橋を西に渡り本材木町を北上、まもなく江戸橋が見えてくる、
天気も良ければこのあたりから西の方にお城を見つつ不二山(富士山)が眺められ、
絶景の場所である。
蔵屋敷を過ぎようとした時、稲荷社辺りに潜んでいたのであろうか、
バラバラとたすき掛けの侍が駆け寄り、籠の前後を固めた。
平蔵は素早く籠傍に駆け寄り、抜刀して身構えた。
「女性は離れよ、無益な殺生は望むところではない!」
武士団の一人がそう叫んだ。
女どもは我先にと稲荷社の方に逃げ去った。
残るは5名ほどと平蔵一人・・・・・・
その時暗殺者の中から平蔵の背後に飛び出してきた男があった。
気迫に振り向いたその顔を見て平蔵
「源三郎殿ではないか!」
「何っ!おっと これは木村さん、どうして又このような場所に!?」
「お手前こそ、何故に卑怯な闇討ちに手を貸すのでござる?」
「いや 身共は浪人一人殺れとの約束で・・・・・・」
「で いくら貰った?」
「おう 金子50両だが」
「俺も安く見られたものよのう、100両でも受ける奴はゴロゴロいるぜぇ」
「なななっ 何と100両! そいつは無念、で、籠の中身は何だ?」
「もうよかろう、出て参られい染どの」
平蔵の言葉に籠の天蓋が開き、扉が開かれ中から出てきたのは染。
籠を取り囲んでいた暗殺者の中から声が上がった。
「図られた!!此奴はお局様ではない、かくなる上は共々皆殺しに致せ!」
「おいおい 証拠隠滅かえ、そいつぁ乗れねぇ相談だぜ、おい源三郎!
お前ぇはどうする?」
「待った待った!俺は降りるぜ、お家騒動の巻き添えは一度で十分
かんべんしてくれ」
「きっさまぁ良くも裏切りを!」
そう言うなり取り囲んでいた侍たちが一斉に陣を敷いた。
「染どの、ひとまずあれへ!」
と平蔵が先に逃げた奥女中共の方へ顎で示した。
「何の長谷川様、染とて武家の娘、まして与力の娘とあらば武芸の一つも
心得ております」
そう言って平蔵の脇差しを引きぬいた。
「おっ これはまた!」
平蔵は顔をほころばせながら染を背にかばった。
ダァ!!と、我慢ならず一人の侍が平蔵めがけて振りかざしてきた。
ヌンッ! その男は袈裟懸けに刃の峰で肩口から叩き伏せられてグワッ!とうめいて
その場に無様に崩れた。
「殺すではない!」
平蔵の声に
「判っております」
と答えたのが源三郎。
「おいおい お前ぇ一体どっちの仕事をするのだえ?」
平蔵の軽口に
「お家を引っ掻き回す奴は大嫌いでね、俺もこっちが性に合っている」
「やれやれひでぇ奴だなぁ裏切り者とは、あははははは」
「全くで、このような場面を考えても見なかったよ木村さん、あははははは」
「細川家のお方とお見受け申す、どなたかは存ぜぬが、
身共は火付盗賊改方長谷川平蔵と申す、京極備前守様よりのお指図でまかりこした、
ご存念あらばお伺い致そう。
すでにお局様は昨夜の内に町籠にて平澤屋にお届け申した。
これ以上の無駄な争いは無用と心得るが・・・・・・・お引き上げなされい!」
平蔵のこの一言に襲撃者は一瞬たじろいた。
「やむをえぬ 皆引けい!」
主犯格らしい男の声に、各々刀を鞘に収め稲荷社の方に駆け去った。
その時後ろで低いうめき声がした。
振り返る平蔵の眼に脇差しを掴んだ源三郎の座した姿が眼に飛び込んできた。
「源三郎!何という早まった事をしでかしたのじゃぁ」
「長谷川様とも知らず、このたびは誠に持って・・・・」
「源三郎しっかり致せ!」
「すみませぬ、金子は家内と娘の永代供養代にと、
昨日肥後早川の覚法寺に送り申した」
「何故!何故腹を切らねばならぬ!」
出血多量で意識も薄れてきている源三郎を平蔵は抱きかかえた。
「武士の一分でござる長谷川殿」
そう言って息を引き取った。
「源三郎!源三郎!」
平蔵はこの僅かな時であったが、気持ちの清々しい時を共にした源三郎を
惜しんでやまなかった。
「武士さえ捨てれば生きる道もあったろうに、
何と侍の一分とはかくもむごいことを飲まねばならぬのか!のう染どの」
「長谷川様・・・・・・
染が平蔵の傍に寄り添った。
「染どの、此度は危ない目に合わせ申した、何卒許されよ、
染どのをおいて他に策もなく、まことにこの長谷川平蔵心を痛めながらの
選択でござった。
わしの命に代えても染どのを護り通すと親父殿に約束いたした通り、
その気持ちに嘘偽りはござらぬ」
「長谷川様・・・・・・
染はそのお言葉だけでいつでも死ぬ覚悟でございました」
その数日後、平蔵は京極備前守下屋敷に姿を表した。
「平蔵!此度の働き、いや実に見事であった、この備前心より礼を言うぞ」
「ははっ! もったいないお言葉、この長谷川平蔵何よりの歓びに存じまする」
「ところでのう平蔵、細川の件じゃが、肥後国宇土藩より細川立禮を養子を迎え、
財政の立て直しを図ることに相成った。
平澤屋はこれまで通り細川家に助力を致し、子は平澤屋の跡取りとすることで
決着が着いた、まずは目出度い。
それにしても手際の良さはさすが平蔵よのぉ、いかような手立てを致したのじゃ」
「ははっ おそらくは当日表、裏共にみはられていようと考え、
その前日密かに町娘に衣装替えを致し、町籠にて身共が荷を担いで付き添い、
裏木戸から霊岸橋を南下して湊橋を越え箱崎町殻永久橋を渡り、
更に東に進み松平三河守様下屋敷を過ぎ、川口橋を越えて堀田備中守様下屋敷を
北上し、濱町川岸から更に北上して、久松町榮橋を渡れば和國橋までは目と鼻の先、
何とか無事に平澤屋裏口にお入り願うことが叶いました。
どうやらそれが網から漏れたようにござります」
「なるほどのう いや大儀であった、盃をとらす近う」
「ははっ・・・・・・」
盃を拭おうと懐紙を出すのを
「ああ そのまま・・・・まこと御苦労であった」
と盃を受け取った。
平蔵は胸の詰まる思いで備前守を見上げた、
そこには信頼の証のように京極備前の笑顔があった。
画像入り「時代劇を10倍楽しむ講座 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
[1回]
[1回]
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舟形の宗平・大滝の五郎蔵
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。
襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。
被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。
しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。
この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。
だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう
そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。
特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。
だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。
「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」
平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。
「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。
すでにふた月を無意味に流してしまっている。
「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。
ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。
「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。
「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。
書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。
だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。
表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。
「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」
「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」
「何?船が消えただと?」
「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」
「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」
「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」
「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」
「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。
「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」
「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」
こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。
「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。
「何! でたかっ!」
「で 何処であった」
「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」
「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」
「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」
「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。
「忠吾!!」
佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。
「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!
どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」
「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。
「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。
船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」
平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。
だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。
それからほぼ1年目の12月初旬
江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。
あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。
「そいつは一体ぇどういうこった?」
平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた
「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・
どうも大口の掛取りができなくなったようで」
「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・
なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」
「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」
「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」
平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。
不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。
「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」
それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。
「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」
その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。
「おおお おかしら これこれこれっ!」
「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」
「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」
「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」
「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。
蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」
気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」
「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・
左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。
そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。
本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて
「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」
と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。
「あっ!千成の・・・・・・」
「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」
「それでお前さん、今もおつとめを?」
「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」
「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」
「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」
「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」
「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」
「何だって!・・・・・・」
宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。
あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。
「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」
「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。
「そうそう そう言うこった!
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」
「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。
「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」
九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。
「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。
「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」
九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。
「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」
まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に
「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」
何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で
千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。
判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」
「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。
こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」
「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」
「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」
「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」
「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」
「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」
「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。
まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。
まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。
「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」
明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。
おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。
ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。
「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。
ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。
その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて
「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。
「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」
平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。
翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。
「なんだ 申してみよ!」
「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。
平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、
「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」
「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」
「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」
「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。
店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。
だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。
船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。
何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・
でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」
「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」
「はははははっ
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」
「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。
「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」
「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」
「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」
「ご冗談を!」
「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」
げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、
「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」
「義理があると申すのだな」
「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」
「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」
こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。
その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。
そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。
お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」
あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。
「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」
「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。
治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。
何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。
「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。
「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」
平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。
「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」
「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」
「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」
「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」
それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。
治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・
「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。
「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。
しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。
「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。
「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。
長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」
こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。
その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。
盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。
絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
[0回]
舟形の宗平・大滝の五郎蔵
時は12月半ば、朝晩の冷え込みは地から背筋を這い上がって
首根っこを押さえつけられたようなゾクゾクする寒気である。
襲われたのは八町堀東に流れる亀島川、この亀島橋の架っている
富島町一体を占める豪商田嶋屋忠左衛門宅に押し込みが入った。
被害は膨大なもので千両箱二つが消えていた。
しかも盗賊が入ったことさえ家人の誰一人気付かず、
数日後に主の忠左衛門と大番当が合鍵を下げて
商品を出しに行って判明した。
この田嶋屋は水路を巧みに使っての北前船を多く所蔵し、
商いも手広く千石船での交易は海産物から各地の様々な物産にも
手を伸ばし、その財力を武器に大名家への貸付から
日銭貸しにいたるまでの両替商いと表の評判もあまりよろしくないものの、
裏での厳しい取り立てはかなりのものであった。
だが財力で幕閣への付け届けによりことが公になることもなく、
その懐はますます太るばかりであったろう
そのような折のこの盗賊騒ぎは、町衆からはやんやの喝采を
送るものも後を絶たず、火付盗賊改方としては面目丸つぶれの
非難を浴びたのは又当然であろう。
特に幕閣からは厳しく、日頃は温厚な京極備前守もその勢いに
押しつぶされるほどで、
「一刻も早くその盗賊を捉え断罪致せ」
との下知が平蔵に下った。
だがいくら調べてみても、盗んだ糸口も手口も一切が不明のまま
時だけが無情に流れていった。
「何としてもこの事件は解決せねば・・・・・・」
平蔵は目を覚ます度にこの事件のことがムクムク頭をもたげて、
気分がどうにも湿っぽくなってしまう。
「どうにもならぬのか!」
声を荒らげてみても返ってくるのは虚しい返事ばかり。
すでにふた月を無意味に流してしまっている。
「何故だ?何故何も証拠らしきものも見つからぬ?」
平蔵はこの謎解きに没頭するものの一向に拉致のあかないことが
更に迷いに拍車をかけることになっていた。
ところが驚いたことにその田嶋屋に再び賊が入り込み
千両箱がまたも二つ消えてしまったと番所から届けてきた。
「何だと!」
あまりの出来事に平蔵は言葉が続けられなかった。
「これほどの大胆な仕事をやってのけられるのはそう何人もおるまい、
思い当たる盗人盗賊を洗いざらい書き出して見よ」
平蔵は木村忠吾らに命じて、大仕掛けな仕事がやってのけられ、
おまけに未だ捕縛を逃れているものの名を書き出させた。
書き上がったものを筆頭与力の佐嶋忠介をはじめ主だった面々が
手分けして手口や内容を検めるも、又これも何の手がかりも出て来ず、
悶々とする日々を否応なく過ごしていた。
だが吉報は想いもかけないところからもたらされた。
表向き船宿鶴やを任されている小房の粂八が持ってきた。
「おい粂や、その妙な野郎ってぇのは一体ぇ何者なんだえ?」
「それがでございますよ長谷川様・・・
直接あっしの耳に届いたネタじゃぁござんせんが、
家の出入りの船頭が小耳に挟んだところによりやすと、
ついこの前の田嶋屋の押し込みがあったと想われる夜明けに
船が消えていたってぇ野郎がおりやしたそうで」
「何?船が消えただと?」
「ふむ 解せぬな、まさかつなぎが悪く流されたと考えられぬか?」
「長谷川様、少くともこいつらはそれで飯を食っているんでございますよ、
そこまでとぼけちゃぁこいつぁおまんまの食い上げでございますよ」
「ふむ 確かにお前ぇの言うとおりだとするとだなぁ・・・・・・」
「確か田嶋屋は亀島川に在ると申したな」
「ははっ 確かにその通りにございます」
と筆頭同心の酒井祐助が応えた。
「よし密偵共に至急江戸の川筋で不審な船を見かけなんだか探索させよ、
粂 お前ぇにゃぁその話を持ってきた船頭に更に詳しい話がないか
問いただしてくれぬか」
「判りました、早速奴らの仲間にも声を掛けて畝を盗まれた野郎や
船が見つかった奴がいねぇかあたってみやす」
こうして新たな展開が砂にしみるように静かにしかし確実に動き始めた。
「長谷川様出やした!」数日後粂八が息せき切って役宅の駆け込んできた。
「何! でたかっ!」
「で 何処であった」
「へい それが何と下谷の山王社近くの葦の茂みに巧みに隠されていたそうで、
たまたま川釣りのご隠居が鐘ヶ淵の方から上ってきて人のいない川船が
茂みから面出しているのを見つけたそうで、その船頭が茂みを探しやしたら
後2杯隠してあったそうで」
「すると奴らはその辺りで上陸したということも考えられるな」
「へぇ 千住の大橋を渡りゃぁ千住掃部宿から水戸街道、日光街道、
奥州街道と足が伸ばせやす」
「はぁ~ 上手いところに逃げ込んだものだなぁ」
と木村忠吾が思わず漏らした。
「忠吾!!」
佐嶋忠介の鋭い語気に慌てて口を抑え「誠に不謹慎な発言何卒
お許しくださいませ」とペコペコ平蔵に頭を下げた。
「全くお前という奴は、おかしらのお気持ちを少しは察するという事は
出来ぬのか!
どれ程この事件にお頭の立場が危ういのかお前はまだ判っては
おらぬようじゃな」
「誠に恐れ入るます!!!」忠吾はまるで機織りバッタのように
腰をかがめては両手をこすり合わせる。
「ったく お前ぇと言うやつは・・・・・
それよりも粂八の話からも判るであろうが、早速に千住大橋辺りを
くまなく探索いたせ。
船が3杯ともなれば20名は下るまい、そのような数のものが動けば
いかになんでも目立つは必定、廃寺から百姓屋など手当たり次第に探索いたせ」
平蔵はこの動きを逃すまいと即座に与力、同心、密偵全員に下知した。
だが事はそこまでで盗賊の足取りはぷつりと途絶えた。
それからほぼ1年目の12月初旬
江戸の町で妙な噂が聞かれるようになった。
あの豪勢を誇った田嶋屋に陰りが見え始めたというのである。
「そいつは一体ぇどういうこった?」
平蔵は噂を拾ってきた伊三次に言葉を向けた
「へい そこんところがどうもあっしにも合点がいきやせんが・・・・・
どうも大口の掛取りができなくなったようで」
「何だと 掛取りが出来なきゃぁお前ぇ・・・・・・
なるほど貸した金が取り立て出来ねば金は回せず、
ふむふむ資金繰りが苦しくなるわけだのう」
「へぇ そのようで、元々あのように大商いで手を広げておりやしたもので、
蓄えは十分あったようでございやすが、丁稚小僧をちょいとこのぉ
使いの途中を呼び止めやして聞いたところじゃぁ
売掛帳面がすべて消えていたようで、大番頭が蔵の中から家の隅々まで
探したけど見つからなかったようでございやす」
「うーむ こいつぁちょいと面白ぇ事になってきたぜ伊三次!」
平蔵は心のなかで少しばかり楽しくなっていた。
不謹慎ではあろう、だが悪どい金利で日銭を借りていた町家の者達が
救われたと思うと、ついつい相好が崩れかけてしまうのである。
「へへへへっ!悪銭身につかずたぁよく言ったもんだぜあははははは」
それからひと月あまり時が去り、ようやく正月気分も抜けようとした矢先の
江戸の町に瓦版が大声で叫びまわった。
「さぁさぁお立ち会い ええっどうだい、あの八丁堀富島町の大店田嶋屋が
夜逃げをしたってぇ話だ、詳しい話はこの中に書いてあらぁ、
さぁ買った買った!」
その瓦版を忠吾が掴んで清水御門前の火付盗賊改方役宅に飛び込んできた。
「おおお おかしら これこれこれっ!」
「おいおい忠吾そのように慌てずとも、わしは逃げたりはせぬ、
なっ 落ち着け 落ち着いて話せ!」
「おかしら それどころではござりませぬ、あの田嶋屋が
一家揃って夜逃げしたそうにございます」
「何だと!んんんっ で、死人は出ておらぬのだな?」
「はい 番頭が主の忠左衛門に朝の挨拶に伺ったら、
家人が誰一人おらず、もぬけの殻であったそうにございます。
蔵を開けましたら主だった品物はほとんど消えており、
と言ってもすでに金策のためにめぼしいものは売り払っておりましたので、
残されたものといえば金にはならないものばかりであったとか・・・・・」
気の毒なのは奉公人たちでございますよ、まぁ何処かに家屋敷を身売りでもすれば
なんとか奉公人の行く末程度はなんとかなりましょうが、
何しろあの広さ・・・・・・」
「うむ それも又難儀なことだのう、それにしても夜逃げとは又・・・・・・
左程に売掛帳が堪えたのであるか、気の毒とばかりも言ってはおれぬなぁ、
何としても盗人を捉えねばこのわしも備前守様に面目が立たぬ」
老中の平蔵叱責の大合唱を一人で押しとどめてくれている事を1日たりとて
忘れた日はない平蔵であった。
そんな折、事件はおかしな方向に流れ始めた。
本所は相生町の煙草屋の主人元を正せば箕火の喜之助の配下で初鹿野の音松の
盗人宿の番人をつとめ、大滝の五郎蔵の父親代わりでもあり、
今は五郎蔵とおまさ夫婦の父親代わりで3人一緒に暮らしている男、
舟形の宗平が時折足を運ぶ相生町一ノ橋を渡ったところにある弁天様の茶店で
のんびり茶をすすっていた所に
「舟形の盗っつアンじゃぁねえですか?」
っと、小男が寄ってきて
「誰だいお前ぃさんは?」
と聞き返したら、尻を見せてね
「ほれ お忘れでござんすか?」
と腰につけた瓢(ひょうたん)を見せた。
「あっ!千成の・・・・・・」
「へぇ九助でござんすよ、
それにしてもこんな所で舟形のとっつあんに出会うとは」
「それでお前さん、今もおつとめを?」
「へぇ 盗っつあんも、もしかしたらご存知かもしれやせんが
八鹿の治助親分の下でちょいちょい声をかけてもらいやして・・・・・」
「はじかみの治助・・・・・あのお方は上方辺りまでと聞いていたがねぇ」
「へぇそいつがね、」ひょんなことからこのお江戸でおつとめをすることに
なっちまって、とっつあんはお聞きじゃぁございやせんか?
八丁堀富島町の廻船問屋田嶋屋・・・・・・」
「ああ 聞いてるよ、とかくの噂があったがいまは夜逃げしたとかで、
その後のお店は何軒かの店が買い取って、奉公人もそれぞれの店で引き取られて、
まぁなんとか酷い目にはあわなくてすんだようだけどね」
「それそれ その田嶋屋を破ったのが八鹿のお頭だぜ」
「何だって!・・・・・・」
宗平は肝をつぶさんばかりに驚いた。
あれほど長谷川平蔵が血眼になって探索したにもか関わらず、
チリひとつ掴めないまま迷宮入りになった事件である。
「あれはねぇ 元々は田嶋屋が自分の評判を盛り返そうと打った芝居が
始まりなのさ」
「芝居だって!」
宗平は又もやびっくりの話しである。
「そうそう そう言うこった!
田嶋屋はあくどく稼いでいるために世間様が気になる、
そこで蔵を破られて千両箱が二ツ消えたと奉行所に届け出たってぇ寸法でさぁ、
そうすりゃぁ2千両黙って懐に入ぇるじゃぁござんせんか」
「なんてぇ野郎でぃ」
宗平は呆れ返った表情でせんなりの九助を見た。
「でもよ どうしてそんなことをお前ぇが知っているんだい?」
その先が知りたくて舟形の宗平思わず立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなよ舟形のとっつあん、ここからが面白ェところだからよ」
九助はニヤニヤ笑いながら話を続けた。
「実はねぇ三番番頭があっしの、こっち!」
と言って壺を振る真似をしてみせた。
「そのだち公の名は松助、当然本名じゃぁござんセんよ、
あんなお店は勝手に名前をつけちまうからよ、
で野郎その日はついてねぇようで、有り金すっからかんに巻き上げられちまってね、
やけ酒をおいらが振る舞ったってぇところから二幕目が開くってぇことよ、
へへへへへ」
九助は愉快そうに鼻でせせら笑いながら話を続けた。
「そいつが田嶋屋忠左衛門から言い渡されて嘘の盗賊話を奉行所に届けた
張本人何でさぁ」
まぁそん時ぁ野郎もまさかつくり話だなんて想っても見なかったそうでやんすがね、
ところがどっこい、壁に耳ありってぇ話しでさぁ、
野郎が聞いちまったってことですよ、
で主を稲荷橋たもとのお稲荷さんまで呼び出して、事の次第を聞いちまったことを
話し、ゆすりにかかったぇ訳でさぁ、それで俺に
「もうじき九助さんにもお礼が出来る儲け話が出来たって」
耳打ちしてくれたもんで・・・・・・
ところがそのすぐ後で野郎の死体が豊海橋に流れていたのを船番所の小役人が
見つけて奉行所に届け出たことから判っちまったんでさぁ」
何しろあれ以後ぷっつりと野郎のつなぎもねぇし居所も探りを入れても
みんな知らねぇ風で・・・・・
こいつは少々危なくなってきたと思いやしてね、
上方も少々おつとめが厳しくなりかけていたもんで、
一度は花のお江戸で一仕事、そのあと奥州路へ・・・・
とまぁこんな調子で
千住の宿近くに百姓屋を買い取ってしばらくはお江戸見物と洒落こんで
おりなさった八鹿の親分に・・・・・、
ところが親分はそんな汚ねぇ話がでぇ嫌ぇという性分。
判るだろうとっつあん、盗みなんざぁ盗られたほうが二~三日は気づかないくらい
綺麗につとめて、ある日気がついてびっくりってぇのが本道のおつとめさ」
「それでお前ェ達が破ったてぇわけだな」
宗平は興奮して再び立ち上がった。
「まぁまぁ落ち着きなって!
そん時お頭がついでに売掛帳をかっさらってきなすった。
こいつぁひょっとすると面白ぇ事になるぜってお頭が話してくれたんだよ、
そしたらほれ田嶋屋が夜逃げに追い込まれちまったじゃぁねぇか、なっ?」
「それで八鹿の治助お頭は今どこに居なさるんで?」
「そいつを聞いてどうなさるつもりで?舟形のとっつあん!」
「俺だって箕火のお頭の下に居た宗平だぜ、何かの時ぁお前ぇさん・・・・・・」
「判ったわかったよとっつあん、今お頭は奥州への旅支度だと想うぜ、
この数日の間にゃぁお出かけなさると読んだがねぇ」
「で? お前ぇさんは一緒に行かねぇのかい九助どん?」
「おいらかい 俺ぁこのお江戸でお頭のお帰りを待つ役目さ、
なぁに二~三年もすりゃぁ奥州から引き上げ来きなさるだろうからよ、
そん時まで盗人宿をあずかっておくってえ役目よ。
まぁそれまでの食い扶持はしっかりお頭から頂いているからなぁへへへへへへ」
と笑った。
まぁこれが舟形の宗平から平蔵が聞いた一部始終である。
「急ぎ手空きの者を集め千住まで出張る用意をしろ!
忠吾そちは南町奉行所に急ぎ走りこのことを告げて我らに助成する様に申し伝えよ、
急げ!」
明け方早く九助の言葉を頼りに千住旅籠の一角にある百姓屋の前に
火付盗賊改方および捕り方なぞ総勢30名が取り囲んだ。
おっとり刀で南町奉行所の同心や捕り方が応援に駆けつけ、
廻りはもう蟻の這い出る隙間もないほどに固められた。
ゆっくりと陽がさしかかって来、風もなく穏やかな1日が始まろうとしていた。
「はじかみの治助!出ませい!火付盗賊改方長谷川平蔵である!」
と呼ばわった。
ガタガタと激しい音とともにバラバラと旅支度途中の男どもが転がるように
出てきた。
その一軍のなかから
「火付盗賊改方だと!」
そう言って、ずいと前に出てきた少し白髪交じりではあるが精悍な顔つきの男が
「お前さんかいお江戸の鬼と呼ばれるお方は・・・・」
と平蔵の足先から頭の天辺まで舐めるように見あげて
「さすが鬼と呼ばれるだけの事はある、恐れいりやした、
皆!おとなしくお縄を頂戴しろ」
と控える子分どもに言い聞かせた。
「うむ 聞きしに勝る面構えに、又子分どももよく従い闇将軍と呼ばれるだけの
ことはある」
平蔵はこの八鹿の治助の肝の座った態度が大いに気に入った。
翌日の取り調べにも包み隠さず語り、
「最後に一つだけお願いがございやす」
と両手をついて頭を下げた。
「なんだ 申してみよ!」
「あっしはいかようになろうとも悔いはございやせん、
しかしせめてこいつらの方はなんとか獄門だけは逃れさせてやりてぇので
ございやす」
と平蔵の眼をじっと見据えて嘆願した。
平蔵は、はじかの治助が白状したこれまでの行状したためを眺めながら、
「なぁ治助、確かにお前ぇ達ぁ人に手をかけてもおらぬようだし、
盗人の3箇条かえ?そいつをきっちり守っていたと思える、
だがなぁ盗っ人は大きかろうが小さかろうが関係はねぇ!
それが罪ってぇ重さなんだよ、死ぬも地獄生きるはなお地獄、
まさにこの世は生き地獄、
そいつを今からじっくりとそれぞれの身体で味わいながら生きてゆく亊になろうよ、
だがな生きてりゃぁいつかは極楽が見えてくると俺は思いてぇ、
なぁに2~3年もすりゃぁ又江戸の土を踏めるだろうぜ」
「長谷川様 ありがとうございます、ありがとうございますこいつらにも
待っている者もおりますれば、この後命がけでこれまでの罪の償いを済ませ
帰ぇしてやりてぇのでございます、ありがとうございます」
「ところで治助!どうやって金蔵から金を運びだしたんだえ?」
「そいつでございますよ長谷川様、最初のやつは田嶋屋の嘘から出たもんで
ございますがね、次のやつは確かにあっし共が手を下しやした。
店の見取り図は九助が番頭をたらしこみやして凡そ判っておりやした、
そこで船宿が閉まるのを見越して3組に分かれ、それぞれが小舟を盗んで川を下り、
霊岸橋のちょいと先に隠し、そこから陸に上がってすぐに田嶋屋の蔵が
3ツ並んでいる最初のやつ、こいつが本命でございましてね、
店に近ぇ方から常に出し入れする商品を置くと考えやした。
だとすればお宝は最後のところということになりやしょうか、
その辺りも番頭の口からそれとなく探っておきやしたものでございますからね。
船ハシゴを塀にかけて20人ほど乗り込みやした。
何しろ頑丈な錠前が掛けてあるんで安心していたのでございましょう、
誰一人見張るものもなく、この錠前外しの十助が上方でもならした腕前でさぁ、
あっという間にご開帳と・・・・
でね、どうしてもあくどいやり口が気に食わなっかったものですからそのぉ
ちょいと売掛帳を失敬したのでございますよ」
「おうおう そいつのことだ、そいつは今どこにあるんだえ?」
「はははははっ
今頃は大川の鯉の腹ん中にでも入ぇっちまってますかねぇ長谷川様、はははははっ」
「な~るほどなぁ いやぁ聞きしに勝る盗っ人だのうお前ぇは」
平蔵は呆れてものも言えない風である。
「ところでなぁ治助、お前ぇ俺をすけてはくれぬか?」
「あっしにお上の狗(いぬ)になれと・・・・・・」
「ああそうだ、殺すにゃぁおしい、お前ぇの知恵がほしい、それにな、
お前ぇたぁ旧知の仲であろう舟形の宗平や五郎蔵がお前ぇの命乞いを願い出てなぁ」
「ご冗談を!」
「いや冗談ではない、宗平も五郎蔵も今や俺の仕事をすけてくれておる、
俺にゃぁなくてはならねぇ眼や鼻よ」
げぇっ!治助はまさか舟形の宗平や五郎蔵がお上の狗担っているとは、
この話はにわかには信じられない様子であったが、
「舟形のおやじさんや五郎蔵さんにはそれなりのわけもあったのでございましょう、
ですがあっしがお上の狗に?そいつばかりは御免を被らさせていただきやす、
喩え外道であれ、盗っ人には盗っ人の・・・・・」
「義理があると申すのだな」
「その通りでさぁ、あっしも八鹿の治助と仲間内では呼ばれる二つ名の盗っ人、
その義理を裏切る事ぁ出来やせん、思い切り良くこの素っ首すっぱりと
落としていただきとうございやす」
「成る程肝も据わっておる、いや実に惜しい、しばらく牢内にてあたまをひやせ!」
こうして八鹿の治助は半月を火付盗賊改方の牢内で取り調べのために勾留された。
その間何度も牢内を見舞い、気心もしれてきたが、こと密偵の話になると
「あっしにはこの世に何も未練なんぞはございやせん、どうぞすっぱり洗い流して
あの世にまいらせておくんなさい」
と、どうしても落ちない。
そこで平蔵はやむをえないと、八鹿の治助を解き放つ作戦に出た。
お取り調べの最中
「おい治助、お前を放免致す、好きなところへ行くが良い、いかような生き方も
出来よう、ただひとつ二度と再び俺の手に落ちるなよ、
その時はその素っ首その場でなきものと想え、
貴様の身は牢内にてご獄死と奉行所に届けておいた、酒井!其奴を解き放て」
あまりの急な展開に目のくらむ思いで治助は聞いていた。
「真っ事あっしはお解き放ちに・・・・・」
「その通り お解き放ちだ、さっさと出てゆけ」
と酒井祐助に裏の枝折り戸まで連れてゆかれ放免された。
治助はしばらくその戸口に佇んでいたが、戸は閉じられたまま何の変化もない。
何度も何度も後を振り向きながら治助は朝靄煙る大川の方へ走り去った。
「おかしら、あれでよろしいので?」
筆頭与力の佐嶋忠介が、いぶっかて平蔵の顔を見た。
「うむ まぁ見てろ、俺とあいつの我慢比べだ、どっちが先にケツを割るか、
あはははははは」
平蔵は愉快げにその先を眺めている様子であった。
「のう佐嶋、八鹿(はじかみ)とはどのようなものか存じておるか・・・・・」
「はぁ 山椒のことだとは聞いておりますが・・・・・」
「その通りよ、こいつぁ刺があって中々人も獣もよりつかねぇ、
だがな香りは優しくこころを慰めてくれる、治助はそんなところから
そう呼ばれるようになったんだろうぜ」
「はあ~ 成る程そのような魅力のあるやつでございましたなぁ」
それから何度か江戸市中で八鹿の治助の顔を見かけたという報告は平
蔵の元に寄せられていたが、平蔵の動きは全くなかった。
治助が放免されて一月が流れた・・・・・・・
「おかしら、治助が裏に参っておりますがいかが致しましょうや?」
と与力の小林金弥が取り次いできた。
「おうおう 鍋に入ぇったか!よし通せ」
平蔵は相好を崩していそいそと中庭へ出向いた。
しばらくして枝折り戸を潜って八鹿の治助がよろめくように入ってきた。
「おい治助なんてぇざまだ、えっ 干物みてぇになっちまって、
何でまだこのお江戸にいるんだえ、なんぞ未練でも出て参ったか?」
と、平蔵ヘラヘラ笑いながら治助の顔を覗き込むように眺めた。
「長谷川様あなたと言うお方はほんに恐ろしいお方でございますなぁ、
この一月、あっしぁどこにいてもどんなに潜り込んでも何処かに長谷川様の眼が
在るんじゃぁ無かろうかとそりゃぁ毎日が地獄のように恐ろしくて、
生きた心地がございやせんでした。
何度此処を離れようといたしやしたか、けどね、そのたんびに何かが背中に
へばりついたような心地で、動くこともままならねぇ、
恐ろしい恐ろしい・・・・・・
そんな毎日から、あっしはもう逃れたいのでございやす。
長谷川様というお方は、仏の裏に鬼が棲んでおられる
恐ろしいお方でございますねぇ」
こうして、八鹿の治助は平蔵の密偵に加わった。
その後平蔵の在る所この治助の姿も又影のように付き添っていた。
盗みの手口、仕掛けの工夫、盗みの狙い目など盗みに関する様々な助言が
この治助からあったことは言うまでもあるまい、
まさに闇将軍と呼ばれる八鹿の治助の面目躍如というところであった。
絵図つき 「時代劇を10倍楽しむ講座」 http://jidaigeki3960.sblo.jp/
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